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神の摂理 257

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257 (4)単に自然的な人間は、キリスト教が受け入れられている多くの王国の中に、神的な力を自分自身に要求し、神々として崇拝されることを欲する者がいること、また、死んだ人間に祈ることから、神的な摂理に反して確信する
彼らは確かに、「神的な力を自分自身に要求しない、神々として崇拝されることを欲しない」と言います。しかしそれでも、「天界を開け、閉ざすこと、罪を許し、保つ。それゆえ、人間を救い、断罪することができる。このことが神性そのものである」と言います。というのは、神的な摂理は、改心とここからの救い以外の何らかのものを目的として持たないから。これはそれぞれの者のもとのその絶え間のない働きです。そして、救いは人間が主の戒めにしたがって生きる時、その方の神性の承認によって、その方が行なわれるという信任によらないなら行なわれることができません。
[2]このことが「黙示録」の中に述べられているバビロンであり、預言書にもたびたび述べられているバベルであることを、だれが見ることができませんか?さらにまたこれが「イザヤ書」第14章の明けの明星(魔王)であることは、その章の4節と22節から明らかであり、それらの中に次の言葉があります――

あなたは、バビロンの王について、このあざけりの歌を語る(4節)。
その後、わたしはバビロンから名前と残りの者を切り離す(22節)。

ここから、そこのバビロンが明けの明星(魔王)であることが明らかであり、それについて言われています、

どのようにして、あなたは天から落ちたのか、明けの明星(魔王)、暁の子よ。……しかしそれでも、あなたは心の中で言った、「私は天にのぼろう。私は神の星々の上に私の王座を上げ、私は北の側面の中の集会の山の中に座る。私は雲の高みの上にのぼろう。私は最高者に似た者になろう」(12-14節)。

死んだ人間に祈り、そして助けをもたらすように祈願することは、よく知られています。
それらの祈りがトレント公会議の教令で確認された「教皇の勅書」に祈らなければならないことが公然と言われ、確定されています。それで〔これを〕祈ることが言われます。
それでも、神だけに祈るべきであり、他の死んだ人間に祈ってはならないことを、だれが知りませんか?
[3]しかし、今、なぜ主がこのようなことを許しておられるのか述べます。
救いの目的のために許されたことは、否定されることができません。というのは、主なしに何の救いもないことが知られているから。このようであるので、みことばから主が宣べ伝えられ、そのことによって「キリスト教会」が設立されることが必要でした。しかし、このことは、そのことを熱意から行なう指導者によらないなら行なわれることができませんでした。〔このことは〕自己愛の火からある熱意のような熱の中にいた者にしか存在しません。
最初、この火は彼らを、主を宣べ伝えることへ、みことばを教えることへとかき立てました。「 明けの明星(魔王)、暁の子よ」と言われている(12節)のは、この彼らの初期の状態からです。
しかし、みことばと教会の聖なるものによって支配することができることを彼らが見たように、自己愛が、その愛から最初、主を宣べ伝えることへと、かき立てられたのですが、内なるものから突発し、ついに自分自身をその頂点にまで上げ、主の神的な力のすべての何も残さないで、自分自身に移しました。
[4]このことは主の神的な摂理によって抑えられることができませんでした。なぜなら、もし抑えられるなら、彼らは主を神と宣べ伝えず、そしてみことばを聖なるものとせず、そして自分たち自身をソッツィーニ教徒あるいはアリウス主義の信奉者とし、このように全教会は滅びたでしょう。教会は、指導者たちがどんな種類であっても、それでもその権威の下にいる人々のもとに残っています。というのは、その宗教からのすべての者もまた、主に近づき、そして悪を罪として避け、救われるからです。そのために、彼らからもまた霊界の中に多くの天界の社会があります。
そしてまた、彼らの間に、このような支配のくびきに服従せず、みことばを聖なるものと見なす国民があるように備えられています。このすぐれた国民はフランスの国民です。
しかし、何が起こったでしょうか?
[5]自己愛が支配を主の王座にまでも高めた時、その方を遠ざけ、自分自身を上に置き、明けの明星(魔王)であるその愛は、みことばと教会のすべてのものを冒涜することしかできませんでした――このことが生じないように、主はご自分の神的な摂理によって慮られ、ご自分への崇拝をやめ、死んだ人間を祈り、彫像に祈願し、彼らの骨に口づけし、彼らの墓に身をひれ伏して、みことばを読むことを禁じ、聖なる礼拝を一般の人々から理解されないミサの中に位置づけ、銀貨のために救いを売るようにされました。それで、彼らがこれらのことを行なわなかったなら、みことばと教会の聖なるものは冒涜されたでしょう――なぜなら、これまでで示されたように、聖なるものを知っている者以外に、他の者は聖なるものを冒涜しないからです。
[6]そこで、最も聖なる聖餐を冒涜しないように、主の神的な摂理から、それらを分け、パンを会衆に与え、自分たち自身はブドウ酒を飲むようにされました。というのは、聖餐の中でブドウ酒は聖なる真理を、パンは聖なる善を意味するから。しかし、分けられるとき、ブドウ酒は冒涜された真理を、そしてパンは不純化された善を意味します。そして加えて、それを形体的なものと物質的なものにし、このことを宗教の主要なものとして取り入れました。
それら個々のものに心を向け、ある主の照らされた心の中で熟考する者は、教会の聖なるものを守ろうとし、火事から救い出されたい者をあたかもひったくるかのように救い出し、どれほど多くても救われることができるすべての者を救おうとされる神的な摂理の驚くべきものを見ることができます。