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神の摂理 259

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259 (6)単に自然的な人間は、キリスト教世界の中に、例えば、クエーカー派、モラヴィア派、再洗礼派、その他のように多くの異端があったこと、また今でもあることから、神的な摂理に反して確信する
というのは、自分自身で、「神的な摂理が最も個々のものの中で普遍的であったなら、目的がすべての者の救いであるなら、一つの真の宗教として地球の全地の中に存在したであろう。それらは分裂しないし、まして一致することのない異端とはならないであろう」と考えることができるからです――しかし、あなたにできるなら、理性を用いなさい、深く考えなさい。最初に改心しないなら、人間は救われることができないのではありませんか?
というのは、自己と世の愛の中に生まれており、それらの愛は本質的に神への何らかの愛と隣人に対する何らかの愛ではないので、自分自身のためでないなら、すべての種類の悪の中にもまた生まれているからです。
愛または慈悲の何がそれらの愛の中にありますか?
他の者をだまし、中傷し、殺したいほどの憎しみを抱き、彼の妻と姦淫し、復讐の中で彼に残酷に振る舞う者は、すべての者のうちで自分が最高の者であること、他の者の財産を所有することを欲し、このように他の者を眺めるとき、自分自身に比べて他の者を卑しい者、価値のない者のように心に抱いていませんか?
このような者が救われるために、最初にそれらの悪から導き出され、こうして改心しなくてはならないのではありませんか?
このことは前の多くのところで示されている神的な摂理の多くの法則にしたがってでないなら、行なわれることができません。それらの法則の大部分は知られていませんが、それでも神的な知恵と同時に神的な愛に属するものであり、主はそれらに反して行なうことがおできになりません。なぜなら、それらに反して行なうことは、人間を滅ぼし、救わないことになるからです。
[2]提示された法則にざっと目を通し、それらをまとめれば、きっとあなたは見るでしょう。
そのとき、それらの法則にもまた、天界からの何らかの直接の流入ではなく、みことばや教えまた説教を通して間接的な流入にしたがっていることです。そして、みことばが神的なものであるようにと、対応そのものによってでしか書かれることができないこと、意見の衝突と異端が避けられず、これらの許しもまた神的な摂理の法則にしたがっていることがいえます――さらに多くのことがあります。教会そのものがその本質的なものとして理解力に属するものだけを、このように教えに属するものだけを受け入れるとき、それらは意志に属せず、このように生活に属さないものです。生活に属するものが教会の本質的なものでない時、人間は理解力からまさに暗やみの中にいて、盲目のようになり、その者はどこでもつまずき、穴に落ちます。
というのは、意志は理解力の中で見るのであって、理解力が意志の中で見るのではありません、すなわち、同じことですが、いのちとその愛が、理解力を思考・話すこと・行動することへ導き、逆ではないからです。もし逆なら、理解力は、悪の愛から、実に悪魔から、感覚によって起こるものを何であっても捕え、それを行なうことを意志に強いることができます。
これらから、意見の衝突と異端がどこからであるか見られることができます。
[3]しかし、それでも、それぞれの者が理解力に関してどんな異端の中にいても、それでも悪を罪として避け、虚偽の異端を自分自身のもとで確信しないかぎり、改心し、救われることができるよう備えられています。なぜなら、悪を罪として避けることによって意志が、また意志によって理解力が改心し、その時、初めて暗やみから光の中にやって来るからです。
教会の三つの本質的なものに、主の神性の承認・みことばの神聖さの承認・仁愛と呼ばれる生活があります。
仁愛である生活にしたがって、どのような生活したらよいか、みことばの知識からそれぞれの人間に信仰があり、主から改心と再生があります。
教会の本質的なものとしてこれら三つのものがあったなら、知的な意見の衝突は、教会を分裂させることはなく、ただ多様なものにしただけのことでしょう。それは、光が美しい対象物の中で変化し、いろいろな宝石が王の王冠の中の美をつくるようなものです。