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神の摂理 53

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53 しかし、このことはより十分に理解されるために、説明しなければなりません。
神性は神性以外に目を向けることができません。神性自体から創造されたもの以外の他のところに目を向けることができません。
このようであることは、だれも、本質的に自分自身から以外に、他の者に目を向けることができないことから明らかです。他の者を愛する者は、本質的に自分自身の愛から彼に目を向け、賢明である者は、本質的に自分自身の知恵から他の者に目を向けます。
確かに、彼を愛するか、愛さないことができます、さらに、他の者が賢明であるか、賢明でないか見ることができます。しかし、このことを自分自身の中の愛と知恵から見ます。それゆえ、自分自身が他の者を愛するように彼が自分を愛すれば愛するほど、あるいは他の者が自分自身のように賢明であればあるほど、それだけ自分を彼に結合させます、このように一つとなるからです。
[2]本質的に神性も同様です。本質的に神性は、人間から、霊そして天使たちのように他の者から、それ自体に目を向けることができないからです。なぜなら、神性それ自体からのものは彼らに何もないからです。神性が何もない他の者から神性に目を向けることは、神性がないものから神性に目を向けることになってしまい、これは可能ではありません。
ここから、主は、すべてのものが主に関係するように、彼らからでなく、しかし、主から、人間・霊・天使たちと結合しています。
なぜなら、ある者にあるすべての善とすべての真理は、彼からでなく、主からあり、それどころか、主からでないなら、決して主の名前を、またはイエスとキリストそのものの名前を言うことができないことがよく知られているからです。
[3]そこでここから、神性と同一である「無限なもの」と「永遠なもの」は、有限なものの中ですべての無限なものに目を向けること、またそれらのもとの知恵と愛の受け入れの段階にしたがってそれ自体をそれらに結合することがいえます。
一言でいえば、主はご自分のもの以外の中に人間と天使のもとに住まいを持ち、住むこと、また彼らのプロプリウムは悪であるので、この中に住むことができないこと、また善であるにしても、それでも有限であり、本質的にまたそれ自体から「無限なもの」を収容できるものではないことがいえます。
これらから、有限なものが「無限なもの」に目を向けることは決して可能ではなく、しかし、「無限なる者」が有限のものの中でそれ自体から「無限なもの」に目を向けることは可能であることが明らかです。