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神の摂理 56

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56 神的な摂理はすべてのものの中に、それ自体から無限なものそして永遠なものに目を向けることは、すべての創造されたものは「最初なる者」からであること、その者は「無限なる者」と「永遠なる者」であり、最後のものへ、また最後のものから「最初なる者」へ進み、それからすべてものが生ずることから明らかにすることができます(例えば、著作『神の愛と知恵』の「全世界の創造」について扱われている「部」〔第四部〕に示されています)。また、すべての進展の中に「最初なる者」があり、内部でそれからすべてのものが生ずるので、発出する神性、すなわち、神的な摂理は、すべてのものの中で、無限と永遠の何らかの映像を生ずるものに目を向けるといえます――これはすべてのものに目を向けます、しかし、知覚にあるものの中では明白であり、あるものの中では明白ではありません。
知覚に明白であるものは、すべての変化の中に、すべての結実と増加の中にその映像を示します。
[2]すべての変化の中の無限なものと永遠なものの映像は、何らかの他のものと同一のものは存在しないこと、永遠に存在することができないことの中に見られます。
このことは、最初の創造から人間の顔の中に、目に明らかです。それゆえ、彼らのアニムスからもまた明らかであり、それらの象徴が顔です。またさらに、情愛、知覚と思考から、なぜなら、これらからアニムスがあるからです。
ここから、全天界の中に同一の二人の天使は、または二人の霊は存在しないこと、それどころか、永遠に存在することもできません。
自然界と同じく霊界の両方の世界の中のすべての目に見える対象でも同様です。
これらから、変化の中に無限と永遠があることを明らかにすることができます。
[3]すべての結実と増加の中の無限なものと永遠なものの映像は、植物界の中の種に植え付けられた結実から、また動物界の中の、特に魚の部類の生殖から明らかです。もし能力にしたがって実が結ばれ、増されるなら、一世紀の内に地球の全空間を、それどころか全宇宙の全空間を満たします――そのことから、その能力の中にそれ自身の繁殖の努力が無限に隠れていることが明らかです。
結実と増加は創造の始めからあり、永遠にあるので、それ自体の繁殖の努力もまたあります。