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神の摂理 43

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43 地獄の自由と天界の自由があります。
悪を考えることと欲すること、市民と道徳の法律が制止しないかぎり、悪を話し、行なうことは地獄の自由からです。しかし、善を考えることと欲すること、機会が与えられるかぎり、善を話し、行なうことは天界の自由からです。
人間は、自由から考え、意志し、話し、行なうものは何でも、これを自分自身のもののように知覚します。なぜなら、それぞれの者に、彼の愛からすべての自由があるからです。それゆえ、悪の愛の中にいる者は、地獄の自由が自由そのものであるとしか知覚しません、しかし、善の愛の中にいる者は、天界の自由が自由そのものであると知覚します、したがって、両方の者にとって正反対のものが奴隷状態です。
しかしそれでも、本質的に対立する二つの自由が本質的に自由であることはできないので、一方またはもう一方が自由でないことは、だれにも否定することはできません。
他にも否定できないことは、善により導かれることがむしろ自由であり、悪により導かれることが奴隷状態であることです。なぜなら、善により導かれることは主により導かれること、悪により導かれることは悪魔により導かれることであるからです。
さて、自由から行なわれるすべてのものは自分自身のものであるように見えます、というのは、これは彼の愛のものであり、前に言われたように、自分自身の愛から行なうことは自由からであるからです。ここから、主との結合が、人間に自分は自由であり、ここから自由は自分自身のものである〔と思える〕ことを引き起こすといえます。主と密接に結合していればいるほどますます自由であり、ここからさらに〔自由は〕自分自身のものです。
自分自身のものであるように、自分自身に「さらに明瞭に」見えることは、神的な愛が自分自身のものであるものが他の者のものであることを欲するようなものであり、霊的な愛がことに神的な愛がすべての人間と天使たちにこのように欲するものであるからです――加えて、主は決してだれも強制されません。すべての者は、強制されたものを自分自身のもののように見ないし、自分自身のもののように見えないものは、彼の愛のものになることができません、こうして自分自身のもののように自分のものにされることができないからです。それゆえ、人間は主により絶えず自由の中に導かれ、自由の中で改心し、再生もします。
しかし、これらの事柄について多くのものは続くものの中で述べます。何らかのものが前にもまた見られます(4番)。