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神の摂理 38

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38 悪の欲望の快さの中にいる人間は、善の情愛の快さについて何らかのものを知ることが決してできません、天使の天界はそれらの快さの中にあります。なぜなら、それらの快さは内なるものの中でまったく対立し、またここから、外なるものの中でもその内なるものは対立しているからです。しかしそれでも、表面そのものの中で、ほとんど異なっていません。
というのは、すべての愛はそれ自体の快さを持っており、悪の愛の欲望の中にいる者にもその快さがあるから。〔それらの悪の愛は〕姦淫し、復讐し、盗もう、残虐に振る舞おう、それどころか、最悪の者のもとでは、教会の聖なるものを冒涜しよう、神に対する毒〔悪口〕をべらべらしゃべろうとするような愛です。
それらの快さの泉は、自己愛からの支配しようとする愛です。
心の内的なものを包囲する欲望からのそれらの快さは、身体の中に流れ下り、そこで不潔なものを刺激し、それらは繊維をむずむずさせます。ここから、欲望にしたがった心の快さから、身体の快さが起こります。
[2]彼らの身体の繊維をむずむずさせる不潔なものが何か、どんなものであるか、それぞれの者に、死後、霊界で知ることが与えられます。一般に、死体・排泄物・糞・悪臭物・尿です。というのは、彼らの地獄はこのような不潔なもので満ちているから――それらが対応するものであることは、著作『神の愛と知恵』の中に見られます(422-424番)。
しかし、それらの不潔な快さは、地獄に入った後に、恐るべき性質に変わります。
今から続けられる天界の幸福について、それが何であるか、理解することができるように、これらが言われました。というのは、どんなものでもその反対のものから知られるからです。