カテゴリー

神の摂理 15

014◀︎目次▶︎016

15 善は真理から、そして真理は善から分離されることができ、分離されているとき、それでも善と真理であるように見えるのは、人間に自主性と呼ばれる行動する能力と、推理力と呼ばれる理解する能力があるからです。
これらの能力の悪用から、人間が内なるものの中でどんなものであっても、外なるものの中で他のものに見えることができます。それゆえ、悪い者が善を行なうことと真理を話すことが、すなわち、悪魔が光の天使を偽ることができます。
しかし、これらの事柄については、著作『神の愛と知恵』の中に見られ、それらは次のものです――
悪の起源は、推理力と自主性と呼ばれる人間に固有のものである能力の悪用からである(264-270番)。
それらの二つの能力は悪い者のもとと同じく善い者のもとにある(425番)。
愛は知恵または理解力との結婚なしに、すなわち、善は真理との結婚なしに、何らかのものを行なうことができない(401番)。
愛は、知恵または理解力との結合の中でないなら何も活動しない、知恵または理解力が相互に結合されるようにする(410-412番)。
知恵または理解力はそれ自体に与えられた能力から、愛により高揚され、天界からの光に属するものを受け、そしてそれらを知覚することができる(413番)。
愛は、その配偶者を愛するなら、その段階の中で、同様に高揚され、天界からの熱に属するものを知覚することができる(414、415番)。
そうでなければ、愛は、知恵または理解力をそれ自体と一つとして働くようにその高揚から引き戻す(416-418番)。
愛は、理解力と一緒に高揚されるなら、理解力の中で清められる(419-421番)。
理解力の中で知恵により清められた愛は、霊的に、天的になること、理解力の中で汚された愛は、自然的に、感覚的になる(422-424番)。
愛と知恵またそれらの結合は、仁愛と信仰またそれらの結合と同様である(427-430番)。
天界の中の仁愛とは何か(431番)。