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神の摂理 16

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167)主は、何かが分割されていることを許されない。それゆえ、善と同時に真理の中になくてはならない、あるいは悪と同時に虚偽の中になくてはならない
主の神的な摂理は、特に、人間が善の中と同時に真理の中にいることを目的とし、働いています。というのは、このように人間は自分自身の善と自分自身の愛であり、そしてまた自分自身の真理と自分自身の知恵であるから。なぜなら、そのことによって人間は人間であり、その時、神の映像であるからです。
しかし、人間は、世の中に生きる時、善の中と同時に虚偽の中にいること、さらに悪の中と同時に真理の中に、それどころか、悪と同時に善の中に、このように二重のものの中にいることができ、この分裂はその映像を、こうして人間を破壊するので、それゆえ、主の神的な摂理は、ご自分のすべてと個々のものの中でこの分裂がないように目を向けられています。
また、悪と同時に善の中にいることよりも虚偽と同時に悪の中にいることのほうがさらに人間に益するので、それゆえ、望むことのようにではなく、目的である救いのために逆らうことができないことのように〔やむを得ず〕、主はそのことを許されます。
人間が悪の中と同時に真理の中にいることができ、主は目的である救いのために逆らうことができない〔やむを得ない〕ことの理由は、人間の理解力は知恵の光の中に高揚されることができ、彼の愛が下にとどまっていても、真理を見、あるいは聞く時、それを認めることができ、このように、人間は理解力で天界の中に、しかし、愛で地獄の中にいることができることです。そしてこのようであることは否定されることができません、人間に推理力と自主性である二つの能力は取り去られることができないからです。それらによって人間であり、獣から区別され、またひとえにそれらによって再生され、したがって救われることができます。なぜなら、それらによって人間は知恵にしたがって行動することができ、知恵のものでない愛にしたがって行動することができるからです。また上方の知恵から下の愛を、このように自分の生活(いのち)と教えの中の思考と情愛、したがって悪と虚偽を、さらに善と真理を見ることができます。
それらの思考と承認が自分自身の中に伴わないで、改心されることはできません。ここで述べられたこれらの二つの能力について、続くものの中で多くのことを述べます。
これが、人間が善と同時に真理の中に、さらに、悪と同時に虚偽の中に、またそれらを交替したものの中にいることができる理由です。