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神の摂理 144

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144「理解力の盲目の状態」の中にいる者もまた改心することができないこと。
これらの者もまた、真理を、またここから生活を知りません、なぜなら、理解力がそれらを教え、そして意志がそれらを行なうからです。理解力が教えることを意志が行なうとき、彼に、真理にしたがったいのち(生活)が生じます。
けれども、理解力が盲目であるとき、意志もまた閉じ込められ、その理性にしたがって自由から、理解力の中で虚偽であると確信された悪以外に何も行動しません。
無知に加えて、さらにまた理解力は、盲目の信仰を教え、なおまた虚偽を教える宗教によって盲目にされます。なぜなら、真理が理解力を開くように、このように虚偽はそれを閉ざし――上部を閉ざし、しかし、その下部を開き、下だけを開かれた理解力は、真理を見ることができないで、単に何でも欲するものを、特に虚偽を確信するからです。
理解力はまた悪の欲望によって閉ざされ、意志がそれらの中にあるかぎり、〔意志は〕理解力をそれらを確信させるために働きます。悪の欲望が確信されればされるほど、それだけ意志は善の情愛の中にいること、それらから真理を見ること、このように改心することができません。
[2]例えば――
姦淫の欲望の中にいる者は、その愛の快さの中にある彼の意志は、〔次のように〕言って、その理解力を姦淫を確信させるために働かせます。
姦淫とは何か?その中に何か悪があるのか?同様のものが夫とその妻の間にあるのではないか?姦淫からも等しく子が生まれることができないか?女は多くの者を害なしに許すことができないか?霊的なものはこれと何が共通するのか?
その時、意志の娼婦である理解力はこのように考え、そして、次のことを見ることができないほどに、意志の麻痺から愚かになります――結婚愛は霊的で天的な愛そのものであり、それは主と教会の愛の映像であり、さらにまたそこから導かれるものであること、このように本質的に聖なるもの、貞潔そのもの、純粋また無垢であるもの、形の中に人間の愛をつくるものです、なぜなら、配偶者同士(夫婦)は自分たちを互いに最内部から愛し、またこのように自分たち自身を愛の中に形作ることができるからです――姦淫はこの形を、またそれとともに主の映像を破壊するものです、また、姦淫者が自分のいのちを、夫のいのちと、その〔夫の〕妻の中に混ぜることは、精子の中に人間のいのちがあるので、恐ろしいことです。
[3]これは冒涜的であるので、それゆえ、地獄は姦淫と呼ばれ、逆に天界は結婚と呼ばれます。さらにまた、姦淫の愛は最低の地獄と、しかし、結婚の愛は最内部の天界と交通しています。
両性の生殖器官もまた、最内部の天界の社会と対応します。これらは、意志が悪の欲望の中にあるとき、どれほど理解力は盲目であるか、また理解力の盲目の状態の中で、だれも改心されることができないことが知られるために提示されました。