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神の摂理 167

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167 さて、天界の光について言われたので、地獄の光についてもまた何らかのものが言われなければなりません。
地獄の中の光にもまた三つの段階があります。
最も低い地獄の中の光は、炭火からの光のようです。中間の地獄の中の光は、炉の炎からの光のようです。最も上の地獄の中の光は、ろうそくからの光のようであり、ある者には月からの夜の光のようです。
これらの光は自然的ではなく、霊的です。なぜなら、自然的なすべての光は死んでいて、理解力を消滅させるものであるからです。そして、地獄の中にいる者に、前に示されたように、推理力と呼ばれる理解する能力がありますが、推理力そのものは霊的な光からのものであり、少しも自然的な光からではありません――彼らにとって推理力からのものである霊的な光は、日の光が夜の暗やみに変えられるように、地獄の光に変えられます。
しかしそれでも、霊界の中にいるすべての者は、天界の中にいる者も地獄の中にいる者も、人間が昼間にその光で見るように、このように明らかに自分の光の中で見ます。その理由は、すべての者の目の視覚は光の中にあるものからその光を受け入れるように形作られているからです。このように、天界の天使の目はその光を受け入れるように形作られています。地獄の霊の目の視覚は自分の光を受け入れるように形作られていて、たとえれば、フクロウとコウモリが、あたかも日中に他の鳥が見るように、夜と夕にそれほどに明らかに対象を見るようなものです――というのは、それらの目は自分の光を受け入れるように形作られているからです。
しかし、それらの光の間の相違は、一つの光からもう一つの光の中のもの眺める者には明瞭です。天界の天使が地獄を眺める時のように、そこには暗黒そのものしか見ません。地獄の霊が天界を眺めるとき、そこに暗黒しか見ません。
その理由は、天界の知恵は、地獄の中にいる者にとって暗黒のようであり、そして逆に、地獄の狂気は、天界の中にいる者にとって暗黒のようであるからです。
これらから、人間に理解力がどのようであるかによって、彼の光がこのようであることを明らかにすることができます。だれでも、死後、自分の光の中にやって来ます、他の光を見ないからです。霊界の中では、そこのすべての者は身体に関してもまた霊的であって、すべての者の目は自分の光から見るように形作られています。
それぞれの者のいのちの愛が自分自身に理解力をつくり、光もそのようなものです。というのは、愛はいのちの火であり、その火からいのちの光があるからです。