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神の摂理 133

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133 しかし、奇跡の効果は、善い者と悪い者とで別です。
善い者は奇跡を望まないで、みことばの中にある奇跡を信じます。
奇跡について何らかのものを聞くなら、それらを自分たちの信仰を確信する重要でない論証のようにしか留意しません。なぜなら、彼らは、みことばから、したがって主から考え、奇跡から考えないからです。
けれども、悪い者は異なります――確かに、彼らは奇跡によって信仰へ、それどころか、礼拝へ、敬虔へと駆り立てられ、強制されますが、しかし、少しの間だけです。なぜなら、彼らの悪は閉ざされており、それらの欲望とそこからの快さは絶えず彼らの外的な礼拝と敬虔に働きかけ、そして自分の監獄から出て、突発するかのように、奇跡について考え、最後にはそれを技術上のごまかし、あるいは自然の産物とし、こうして自分の悪の中に戻るからです――礼拝後に自分の悪に戻る者は礼拝の善と真理を冒涜し、そして冒涜する者の運命は、死後、すべての者で最悪のものです。
これらの者が「マタイ福音書」で主のみことばにより意味されており、彼らの後の状態は前よりもさらに悪くなります(7:43-45)。
さらに、もし奇跡が、みことばの中の奇跡を信じない者のもとで行なわれたなら、このようなすべての者の視覚の前で絶えず行なわれたでしょう。
これらから、今日、奇跡が行なわれないことがどこからであるか、明らかにすることができます。