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神の摂理 217

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217 そこで、これらの三つの小項目を個別に説明します。
第一に――名誉と富は祝福であり、呪いである
普段の経験から、敬虔な者も不信心な者も、あるいは正しい者も不正な者も、すなわち、善い者も悪い者も、地位と富の中にあることが証言されます。それでも、だれによっても、不信心な者と不正な者でなくては、すなわち、悪い者でなくては地獄にやって来ることはなく、そして敬虔な者と正しい者が、すなわち、善い者が天界にやって来ることは否定されることができません。
このことが真実であるので、地位と裕福は、すなわち、名誉と富は、祝福であるかあるいは呪いであり、善い者のもとで祝福であり、悪い者のもとで呪いであることがいえます。
ロンドンで1758年に出版された著作『天界と地獄』の中で、富める者も貧しい者も、位の高い者も劣る者も、天界の中に、そしてまた地獄の中にいることが示されています(357-365番)。そのことから、地位と富は、天界の中にいる者のもとで、世では祝福であったこと、地獄の中にいる者のもとで、世では呪いであったことが明らかです。
[2]けれども、祝福であることがどこからか、呪いであることがどこからか、だれでも、それらの事柄について何らかのものを理性から考えるだけで、知ることできます。すなわち、心をそれらの中に置かない者のもとで祝福であること、心をそれらの中に置く者のもとで呪いであることです。
心をそれらの中に置くことは、それらの中で自分自身を愛することであり、それらの中に置かないことは、それらの中で自分自身でなく、役立ちを愛することです。
これらの二つの愛の間の相違が何であり、どんなものかは、前に言われています(215番)――それらに、地位と富はある者を惑わし、ある者を惑わさないことを付言しなければなりません――人間の自己愛であるプロプリウムの愛を刺激する時、惑わし、それが悪魔と呼ばれる地獄の愛であることは、前にもまた言われています。しかし、その愛を刺激しない時、惑わしません。
[3]悪い者も善い者も名誉へ高められ、富へと進められるのは、悪い者は善い者と等しく、役立ちを行なうからです、しかし、悪い者は自分という人物の名誉と利益のために、善い者は事柄そのものの名誉と利益のためにです。これらの者は、事柄の名誉と利益を主要な理由として、そしてその人物の名誉と利益を手段となる理由として、それらに目を向けます。しかしながら、悪い者は人物の名誉と利益を主要な理由として、そして事柄の名誉と利益を手段となる理由として、それらに目を向けます。
しかし、人物は、彼の職務と名誉は、執り行なう事柄のためにあり、その逆ではないことを、だれが見ませんか?
裁判官は公正のために、行政長官は公共の事柄のために、王は王国のためにあり、逆ではないことを、だれが見ませんか?
それゆえ、さらにまた、地位と名誉の中のそれぞれの者は、王国の法律にしたがって、事柄の地位(尊厳)にしたがって、彼の職務の中にいます――主要なものと手段となるものの間のような相違がありませんか?
事柄の名誉を自分自身に、または自分という人物に帰する者は、霊界の中で、それが表象される時、足を上に頭を下にして、身体を逆さまにした人間のように見られます。
[4]第二に――名誉と富は、祝福である時、霊的であり、永遠である、しかし、呪いである時、一時的なものであり、はかないものである
天界の中に世の中のような地位と富があります。なぜなら、そこに統治があり、ここから管理と職務があり、そしてまた商業があり、ここから富、社会と集団があるからです。
全天界は二つの王国に分かれていて、それらの一つは天的な王国、もう一つの王国は霊的な王国と呼ばれます。それぞれの王国に大小の数えきれない社会があり、それらのすべてとそれらの中のすべては、愛の相違とそこからの知恵の相違にしたがって配列されています。天的な王国の社会は主への愛である天的な愛の相違に、霊的な王国の社会は隣人に対する愛である霊的な愛の相違にしたがっています。
このような社会があるので、それらの中にいるすべての者は、世で人間であったときここから自分自身のもとにあった愛を、霊的であるという相違とともに、保持します。地位と富そのものは、霊的な王国の中で霊的であり、そして天的な王国の中で天的です。したがって、他の者よりも愛と知恵がある者には他の者よりも地位と富があり、その者には地位と富が世の中で祝福であったのです。
[5]これらから、霊的な地位と富がどんなものであるか、行為に属し、人物に属さないことを明らかにすることができます。
確かに、そこの人物は、地上の王であるようなりっぱな称賛される地位にあります、しかし、それでも、地位そのものでなく、それらの中にある管理と機能の役立ちに目を向けています。
確かに、それぞれの者が自分の地位に名誉を受けます、しかし、彼ら自身は自分自身にそれらを帰さないで、役立ちそのものに帰しています。すべての役立ちは主からであるので、それらをそのもとである主に帰します――そこで、このようなものが霊的な地位と富であり、それらは永遠のものです。
[6]けれども、世の中の地位と富が呪いであった者には異なっています。役立ちではなく、地位と富を自分自身に帰したこれらの者は、役立ちが自分を支配するのでなく、自分が役立ちを支配することを欲したので、自分の名誉や自分の称賛に仕えるかぎり、その役立ちを役立ちと見なし、それゆえ、地獄の中にいて、そこでは軽蔑と悲惨の中にある卑しい奴隷です。それゆえ、それらの地位と富は滅びるので、一時的なもの、はかないものと呼ばれます。
後者と前者について、主は次のように教えられています、

あなたがたは宝を地上に蓄えてはなりません、そこでは、さびとウジがだめにし、盗賊が穴を掘り抜き、盗みます。けれども、あなたがたは宝を天に蓄えなさい、そこでは、さびもウジもだめにしないし、そこでは、盗賊は穴を掘り抜かず、盗みません。なぜなら、あなたがたの宝があるところに……あなたがたの心もまたあるからです(マタイ6:19-21)。

[7]第三に――呪いである名誉と富は、祝福である名誉と富と比較すれば、すべてと比べて何ものでもないようなもの、そして本質的に存在するものに比べて本質的に存在しないようなものである
滅びるすべてのものは、何ものでもなく、内部に本質的なものは何もありません。確かに外部では何らかのものであり、それどころか存続するかぎり、ある者たちに、多くのもののように、すべてのもののように見えますが、内部では本質的にそのようなものではありません。
表面のようなものであり、内部に何らかのものがなく、劇が終わる時まで王の衣服を着た舞台の役者のようです――しかし、永遠の中にとどまるものは本質的に永続する何らかのものであり、このようにすべてのものです。そしてまた存在することをやめないので「存在する」ものです。