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神の摂理 49

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49 私は、多くの者が、「ある者が内的に、自分自身の理性的なものの中で、何らかのものを空間と時間なしに、またそれが存在するだけでなく、しかしまたすべてであることを、またすべてのもとそのものであることを、どのように理解することができるのか?」とつぶやくことを知っています。
しかし、愛または何らかのその情愛が、または知恵または何らかのその知覚があるかどうか、それどころか思考が空間の中と時間の中にあるかどうか、内的に考えなさい。するとあなたは存在しないことを認めるでしょう。
神性が愛そのものと知恵そのものであるので、空間の中と時間の中に、神性の観念を、したがって「無限なもの」の観念もまた抱くことができないことがいえます。
例えば、思考が時間と空間の中にあるかどうか熟考し、十ないし十二時間の時間の経過を仮定してみなさい、〔すると〕このことははっきりと知覚されます。この時間の間隔は一時間または二時間として見られることができませんか?そして一日または二日としても見られることができませんか?
情愛の状態にしたがって見られ、その情愛から思考があります――もし情愛が喜ばしいものであるなら、その情愛の中で思考の時間が十ないし十二時間であるとは考えられません、ほとんど一または二時間です。これに反して、もし情愛が嘆かわしいものであるなら、その情愛の中で〔ずっと長い〕時間に思えます。
このことから、時間は情愛の状態にしたがった単なる外観であり、その情愛から思考があることが明らかです。
思考の中での距離の間隔も、あなたが歩くにしろ、あるいは旅行するにしろ、同様です。