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神の摂理 83

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83 再び生まれないなら、だれも神の王国にやって来ることができないことの理由は、人間は両親による遺伝からすべての種類の悪の中に生まれていて、能力によって、その悪の除去によって霊的になることができるとき、また霊的にならないなら、天界の中にやって来ることができないからです。自然的なものから霊的になることは、再び生まれること、すなわち、再生することです。
けれども、どのように人間が再生するか知られるために、次の三つのものが考慮されなければなりません――(罪を宣告されて)有罪の状態である彼の第一の状態がどんなものか、改心の状態である彼の第二の状態がどんなものか、再生の状態である彼の第三の状態がどんなものかです。
[2]人間の有罪の状態である第一の状態は、それぞれの人間に両親による遺伝からです、というのは人間はここから自己愛と世俗愛の中に、泉のようにこれらからすべての種類の愛の中に生まれているからです。それらの愛の快さはそれらから導かれ、快さは、悪の中にいることを知らないようにします。というのは、すべての愛の快さは善のようにしか感じないからです。それゆえまた、人間が再生しないなら、すべてにまさって自分自身と世を愛することは善そのものです、すべての者を支配すること、他の者の富のすべてを所有することは、最高の善であるとしか知りません。
さらにまたここから、すべての悪があります。なぜなら、だれも、愛から、自分だけしか眺めず、他の者を眺めないからです。他の者を愛から眺めるなら、悪魔が悪魔を〔眺める〕ように、そして一つとして行動する時の泥棒が泥棒を〔眺める〕ように眺めます。
[3]それらの愛を、そしてそれらから湧き出る愛を、自分自身のもとでそれらの快さから確信した者は、自然的なものにとどまり、身体的な感覚のものになります。そして、彼の霊であるプロプリウム(固有もの)の思考の中で狂います。しかしそれでも、世の中にいる時、人間であるので、理性的にまた賢明に話し、行動することができ、ここから彼らに推理力と自主性があります、しかし、それもまた自己と世の愛から行ないます。
これらの者は、死後、霊になるとき、自分の霊の中で世の中で持ったもの以外に、何らかの快さを持つことができません。その快さは地獄の愛の快さであり、それは不快・苦痛・恐ろしいものに変わり、それらはみことばの中で地獄の責め苦と火によって意味されます。
これらから、人間の第一の状態は有罪の状態であることまた、再生しない者はその中にいることが明らかです。
[4]人間の改心の状態である第二の状態は、人間が天界についてそこに楽しさから、このように神について、そこから彼に天界の楽しさを考え始めるときです。
しかし、このことを最初に自己愛の快さから考え、彼にとって天界の楽しさはその快さです。しかし、その愛の快さがここからわき出る悪の快さと一つとなって支配しているかぎり、天界へやって来ることは、祈りを注ぎ出し、説教を聞き、聖餐に出席し、貧しい者に与え、乏しい者を助け、〔礼拝者の〕宿泊所に寄付して貢献すること、また他の同様のこととしか理解することができません。
この状態の中で人間は、宗教の教えが救う、それは信仰のものと呼ばれるものあるいは信仰と仁愛のものと呼ばれるものであり、それらについて単に考えることであるとしか知りません。
それらを考えることが救うことであり、悪について、それらの中に快さがあることを何も考えないのでそれ以外に理解しません、また、それらの快さが残るかぎり、悪もまた残ります。それらの快さは、それらの欲望からであり、その欲望は絶えずその悪をしたい気にさせ、また何らかの恐怖が抑えない時、その悪をもまた生み出します。
[5]悪がその愛の欲望の中に、そこから快さの中にとどまるかぎり、単なる外的なものの中でないなら、何らかの信仰・仁愛・敬虔・礼拝はなく、それは世の前に存在するように見えますが、しかしそれでも、存在しません。
飲むことのできない不潔な泉から流れ出る水に例えることができます。
人間が、天界や神について宗教から考え、罪としての悪について何も考えないようなものであるかぎり、〔彼は〕依然として第一の状態の中にいます――しかし、罪が存在することを、さらにあれやこれやが罪であること、少しでもそれを自分自身のもとに調べ、それらを欲しないことを考え始める時、第二の状態、すなわち、改心の状態の中にやって来ます。
[6]人間の再生の状態である第三の状態は前の状態に続き、含まれます。
それは、人間が罪として悪から離れるとき始まり、それを避けるかのように進行し、そしてそれらに対して戦うようにして完成します。その時、主からのように勝利し、再生します。
再生する者のもとで、いのちの秩序が逆転され、自然的なものから霊的なものになります、なぜなら、霊的なものから分離した自然的なものは、秩序に反し、霊的なものは秩序にしたがっているからです。それゆえ、再生した人間は仁愛から行動し、仁愛のものであるものを自分の信仰のものにします。
しかしそれでも、真理の中にいないなら、さらに霊的になることはありません。なぜなら、すべての人間は真理によって、それにしたがった生活によって再生するからです、というのは、真理によって生活を知り、生活によってその真理を行なうからです。このように善と真理が結合し、それはその中に天界がある霊的な結合です。
〔初版に84番はありません〕