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神の摂理 104

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104 年齢の進んだそれぞれの人間に、思考の外なるものと内なるものが、したがって意志と思考力の外なるものと内なるものが、または人間の外なるものと内なるものと同じものである霊の外なるものと内なるものがあることは、他の者の話すことまたは行動からその者の思考と意図に留意するそれぞれの者に明らかであり、そしてまた、交わりの中にいるとき、またその者たちがいないときの自分自身にも明らかです。
というのは、だれもが外なる思考から他の者と親しげに話し、それでもなお内なる思考から敵であることができるから――だれもが隣人に対する愛について、神への愛について、外なる思考から、同時にその情愛から話し、そのときそれでもなおその内なる思考の中で隣人を無視し、神を恐れないことができます――さらにまた、だれもが市民の法律の公正について、道徳的な生活の美徳について、教えと霊的な生活であるものについて、外なる思考と同時に情愛から話し、それでもなお自分ひとりであるとき、内なる思考とその情愛から、市民の法律に反して、道徳的な生活に反して、教えと霊的な生活であるものに反して話すことができます。このようなことを、悪の欲望の中にいて、それでも〔その欲望が〕自分の中にないことを見られたい者は世の前に行ないます。
[2]大部分の者もまた、他の者が話すのを聞く時、彼ら自身が、話の中で考えるように考えているかどうか、信じられるかあるいはどうか、何を意図しているか、内的に本質的に考えます。
おべっか使いと偽善者に二重の思考があることは、よく知られています。内的な思考が明らかにされないように、自分自身で抑えること、用心することができるからであり、そしてある者は、内部にまた内部にそれを隠し、あたかも見えないように扉を閉めることができます。
人間に外的な思考と内的な思考が存在することは、その内的な思考から外的な思考を見ること、それについて熟考すること、そしてそれについて悪かあるいは悪でないか判断することができることから、はっきりと明らかです。
人間の心がこのようなものであることは、主から彼にある自主性と推理力と呼ばれる二つの能力に帰すべきです。それらからの思考の外なるものと内なるものが彼にないなら、自分のもとに何らかの悪を知覚し、見ること、改心されることができません。それどころか、話すこともできないで、ただ獣のように鳴くことしかできません。