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神の摂理 86

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86 人間に、善い者と同様に悪い者に、推理力と自主性があるので、善い者と同様に悪い者に、真理を理解し、善を行なうことができます。しかし、悪い者は自由から理性にしたがって行なうことができるのではありません、けれども、善い者はできます。悪い者は悪の愛の快さの中にいるけれども、善い者は善の愛の快さの中にいるからです。
それゆえ、悪い者が理解する真理、行なう善は彼に自分のものとされません、しかし、善い人間に自分のものとされます。自分のものであるかのように自分のものとしないなら、改心と再生は存在しません。というのは、悪い者のもとで悪は虚偽とともに中心にあり、善は真理とともに周辺にあるようなものであるから。しかし、善い者のもとで善は真理とともに中心にあり、悪は虚偽とともに周辺にあります――中心にある両方の場所で、中心の火からの熱のように、また中心の凍結からの寒さのように、周辺にまでそれは広がります。
このように悪い者のもとの周辺の善は中心の悪から汚され、善い者のもとの周辺の悪は中心の善から和らげられます――悪は再生した者を断罪しない、そして善は再生しない者を救わないことがその理由です。