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神の摂理 136

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136 (3)だれもおどしや罰によって改心されない、それらは強制するから
外なるものは内なるものを強制することができないこと、しかし、内なるものは外なるものを強制することができることは、よく知られています――なおまた、内なるものはそれ自体を背けるように外なるものによる強制を拒絶することは、よく知られています。そしてまた、外なる快さは内なるものを、同意へ、愛へ誘うことは、よく知られています――さらにまた、強制された内なるものと自由な内なるものが存在することも、知られることができます。
しかし、これらすべてのことは、たとえ知られていても、それでも説明されるべきです。というのは、それらは聞かれる時、そのようであることが、真理であるからと直ちに知覚され、また、ここから肯定され、しかし、もし同時に理性によって確信されないなら、欺きからの論証によって弱められ、ついには否定されることのできる多くのものがあるからです。
それゆえ、今、知られているとして言われたそれらは、再び取り上げられ、理性的に確信されなければなりません。
[2]第一に、外なるものは内なるものを強制することができない、しかし、内なるものは外なるものを強制することができること――
信じることへ、また愛することへ、だれが強制されることができますか?
そのようであると考え、そのように強制されてないとき、信じることへと、さらに多く強制されることはできません。また、意志しないことを意志することへ、愛することへと、強制されることはさらにできません――さらにまた、信仰は思考に属し、愛は意志に属するものです。
しかし、内なるものは、国の法律、生活の習慣、教会の聖なるもの、それらに対して悪く語らないように、外なるものによって強制されることができます。このことへ内なるものは、おどしと罰によって強制されることができ、そしてまた強制され、また強制されるべきものです。
しかし、この内なるものは人間性に固有の内なるものではありません。しかし、人間が獣と共通に持つ内なるものであり、それもまた強制されることができます。
内なる人間性は、この動物の内なるものの上に住んでいます。
ここに意味されている内なる人間性は、強制されることができません。
[3]第二に、内なるものはそれ自体を背けるように外なるものによる強制を拒絶すること――
その理由は、内なるものは自由の中にいることを欲し、自由を愛するからです。というのは、前に示されているように、自由は人間の愛に、すなわち、いのちに属するものであるから。それゆえ、自由はそれ自体が強制されていることを感じる時、それ自体を、それ自体の中へのように引っ込め、それ自体を背かせ、強制を自分の敵のように眺めます。というのは、人間のいのちをつくる愛は、怒らせ、そして人間が、このように自分自身でないこと、したがって自分自身で生きていないことを考えるようにするからです。
人間の内なるものがこのようなものであることは、人間が理性にしたがって自由から行動するための主の神的な摂理の法則からです。
[4]これらから、人間を神の礼拝へと、おどしや罰によって強制することは有害であることが明らかです。
しかし、宗教へと強制されることを自分自身に許す者がいますし、許さない者がいます。
自分自身が宗教へと強制されることを許す者は、ローマカトリック教会のある国民に多くの者がいます。しかし、このことは、礼拝の中に内なるものが何もなく、しかし、すべてのものに外なるものがある彼らのもとに生じます。
自分自身が強制されることを許さない者は、イギリスの国民に多くの者がいます。このことから、内なるものが彼らの礼拝の中にあること、また外なるものの中に内なるものからのものがあることが生じます。
宗教に関するこれらの内的なものは霊的な光の中で、輝く雲のように見られます。しかし、宗教に関する前者の内的なものは天界の光の中で、黒ずんだ雲のように見られます。
この二つとも見られることは、霊界の中で与えられ、また見ようと欲する者は、死後にやって来る時、その世界の中で見られます。
さらに、強制された礼拝は悪を閉じ込め、それらはその時、灰の下の薪の中の火のように隠れていて、燃え上がって突発するまで、それらはそれ自体を絶えず燃やし、また広げます――しかし、強制しない自発的な礼拝は悪を閉じ込めません。それゆえ、それは直ちにパッと燃え出し、消される火のようです。
これらから、内なるものはそれ自体を背けるように強制を拒絶することが明らかです。
内なるものは外なるものを強制することができます、内なるものは主人のようであり、そして外なるものは召使いのようであるからです。
[5]第三に、外なる快さは内なるものを、同意へ、そしてまた愛へ誘うこと――
快さには、理解力の快さと意志の快さの2種類があります。意志の快さは知恵の快さ、理解力の快さは愛の快さでもあります。なぜなら、知恵は理解力に属し、愛は意志に属するからです。
さて、外なる快さである身体の快さとその感覚は理解力と意志に属する内なる快さと一つとして働くので、内なるものが外なるものによる強制を、それ自体を背けるようにまで拒否するように、そのように内なるものは外なるものの中の快さをそれ自体をそれらへ向けるようにまで好意をもって眺めることがいえます。このように同意が理解力の側から、また愛が意志の側から生じます。
[6]霊界のすべての幼児は、主からの快さと楽しさによって、天使の知恵の中に、それによって天界の愛の中に導き入れられます。最初に、家の中の美しいものによって、庭園の中の楽しいものによって――その後、彼らの心の内的なものを快楽で働きかける霊的な表象物によって、最後に、知恵の真理によって、またこのように愛の善によって――このように、絶えずその適切な順序による快さによってです。最初に理解力と知恵の愛の快さによって、最後に彼らのいのちの愛を生ずる意志の愛の快さによって、それらの下に快さによって入り、従属した他のものが保たれます。
[7]このことは、理解力と意志のすべてのものは外なるものによって形成されなくてはならないので、内なるものによって形成されるものに先んじて生じます。というのは、理解力と意志に属するすべてのものは最初に身体の感覚を通して、特に、視覚と聴覚を通して入るものによって形成されるから――しかし、理解力の最初のものと意志の最初のものが形成されるとき、思考力の内なるものはそれらを思考力の外なるもののように眺めます、それらと結合させるか、あるいはそれらから分離させます。快さがあるならそれらと結合し、ないならそれらから分離します。
[8]しかし、理解力の内なるものは意志の内なるものと結合しないこと、しかし、意志の内なるものは理解力の内なるものと結合すること、そして相互の結合であるようにすることは、よく知らなければなりません。しかし、このことは意志の内なるものにより生じ、理解力の内なるものによるのでは少しもありません。
ここから、人間は信仰のみによって改心することができません、しかし、自分自身に信仰をつくる意志の愛によって改心します。
[9]第四に、強制された内なるものと自由な内なるものが存在すること――
強制された内なるものは、内なるものが何もない単なる外なる礼拝の中にいる者のもとに存在します。というのは、彼らの内なるものは、強制される外なるものに向けて、それを考え、また意志するものであるから。
これらの者が、生きているまた死んでいる人間の礼拝の中に、ここから偶像の礼拝の中に、奇跡の信仰の中にいます。これらの者のもとには、同時に外なるものであるもの以外に何らかの内なるものは存在しません。
けれども、内なる礼拝の中にいる者のもとには、強制された内なるものが存在します。一つは恐れから、またもう一つは愛から――恐れから強制された内なるものは、地獄の責め苦とその火の恐怖からの礼拝の中にいる者のもとにあります。しかし、この内なるものは思考の内なるものではありません、それについて前に扱いましたが、しかし、思考に属するものであるのでこれは内なるものと呼ばれる思考の外なるものです――思考の内なるものは、それについて前に扱いましたが、何らかの恐れより強制されることができません。しかし、愛により、またその奪われることの恐れから強制されることができます。
純粋な意味の神への恐れは、これとほかなりません。
愛により、またその奪われることの恐れから強制されることは、自分自身を強制することです。自分自身を強制することは、自主性と推理力に反していないことは、以下に見られます。