霊魂と身体の交流 8
6これらの二つのもの、熱と光は、すなわち、愛と知恵は、神から人間の霊魂の中へ結合して流入する。また霊魂を通って心へ、その情愛と思考力の中へ、これらから身体の感覚・話すこと・行動の中へ流入する
8. これまで、鋭い才能のある者により伝えられてきた霊的な流入は、霊魂から身体へであって、霊魂の中への何らかの流入、また霊魂を通して身体の中への流入ではありませんでした。それでも、すべての愛の善とすべての信仰の真理は神から人間へ流入し、それらは人間からのものでは決してなく、神から流入するそれらのものは、最初にその霊魂へ、霊魂を通して理性的な心の中へ、それによって身体をつくり上げるものの中へ流入することが知られています。
もし、だれかこれと異なる霊的な流入を探すなら、その者は泉の流出口をふさいで、それでもそこに尽きない水を求めるような者です。または、木の発生を種からではなく、根からであるとするような者、または、派生したものをその源なしに調べるような者です。
[2]というのは、霊魂は本質的にいのちではなく、本質的ないのちであられる神からのいのちを受け入れるものであり、すべての流入はいのちからのもの、そのように、神からのものであるからです。それは次のことによって意味されます、
神エホバは人間の鼻の中へいのちの霊魂を吹き込まれた。人間は生きた霊魂となった(創世記 2・7)。
鼻の中へいのちの霊魂を吹き込むことは、善と真理の知覚を与えることを意味します。主はご自分についてもまた言われています、
父がご自分の中にいのちを持たれるように、そのように子にも、ご自分の中にいのちを持つことを与えられました(ヨハネ 5・26)。
ご自分の中のいのちとは、神です。霊魂のいのちとは、神から流入するいのちです。
[3]さて、すべての流入はいのちのものであり、この流入はその容器によって果たされ、人間の中の最内部または最初の容器はその霊魂なので、それゆえ、流入が正しく知覚されるためには、中間の位置からでなく、神から始められるべきです。もし中間の位置から始めるなら、流入の教えは、車輪のない馬車のように、または帆のない船のようになります。
そのようなので、それゆえ、前置きとして、神エホバがその真ん中におられる霊界の太陽について(5番)、また、愛と知恵の流入、そのように、いのちの流入について(6、7番)扱ったのです。
[4]霊魂を通して、いのちが神から人間の中に流入し、これによってその心の中に、すなわち、この情愛と思考の中に、これらから身体の感覚・話すこと・行動の中に流入することは、それらが連続的な順序の中で、いのちに属するものだからです。というのは、心は霊魂に従属し、身体は心に従属するからです。そして、心には二つのいのちがあります、一つは意志のいのち、もう一つは理解力のいのちです。その意志のいのちは愛からの善であり、その派生物は情愛と呼ばれます。そして、そこの理解力のいのちは知恵からの真理であり、その派生物は思考と呼ばれます。後者と前者によって心は生きます。けれども、身体のいのちは、感覚・話すこと・行動です。これらが霊魂から心を通していることは、その中にある順序から起こり、そしてこれは調べることなしに賢明な者の前に明らかです。
[5] 人間の霊魂は、上位の霊的な実体であるので、神から直接に流入を受け入れます。しかし、人間の心は、より低い霊的な実体であるので、神から間接に流入を霊界を通して受け入れます。また身体は自然的な実体であるので(これは物質と呼ばれます)、神から自然界を通して間接に受け入れます。
愛の善と知恵の真理は、結合して、すなわち、一つに結合して、神から人間の霊魂の中へ流入します。しかし、進行中に人間により分離されます。そして神により導かれる者のもとでわずかに結合されることは、続きの中に見られます。