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霊魂と身体の交流 10

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8それゆえ、この太陽から発出するすべてのものは、本質的に見れば、死んだものである

10.  ほんのわずかでも身体の感覚の上方に高められている者なら、理解力の理性から、 本質的に見れば(*)、愛が生きていること、その火の外観がいのちであり、逆に、本質的に見れば、元素の火が相対的に死んだものであることを、したがって、霊界の太陽は、純粋な愛であるので、生きていること、自然界の太陽は、純粋な火であるので、死んでいることを、それらから発出するすべてものも同様であることを、だれが見ませんか?
[2]全世界(宇宙)の中ですべての結果を生む二つのものにいのちと自然があります、いのちが内なるものから自然を活動させる時、それらを秩序にしたがって生みます——自然が内なるものからいのちに活動を引き起す時は異なります、このことはそれ自体では死んだものである自然をいのちの上方や内部に置き、ここからもっぱら感覚の快楽と肉欲にふけり、霊魂の霊的なものや心の真に理性的なものを無価値なものとみなす者に生ずることです。
これらの者は、その逆転のために、死んでいる者と呼ばれます。世の中の自然主義(*)からのすべての無神論者、それと地獄の中のすべての悪魔はこのような者です。
[3]またさらに、みことばでも、「ダビデの書」にあるように〝死んでいる者〟と呼ばれています、
彼らはバアル・ペオルに付随し、死んでいる者のいけにえを食べた(詩篇 106・28)。
敵は私の魂を追い、世の死んでいる者のように私を暗やみに座らせた(詩篇 143・3)。
縛られた者たちのうめき声を聞くために、また死んでいる者の子たちを開けるために(詩篇 102・20)。
そして「黙示録」には、
わたしはあなたの働きを知っている。あなたは生きているという名前を持っているが、しかし死んでいる。目覚めていなさい、そして死にかけている残りの者たちを強固にしなさい(3・1、2)。
[4]「死んでいる者」と呼ばれるのは、霊的な「死」は断罪であり、彼らに断罪があるからです。彼らは、いのちが自然からであり、このようにこの光をいのちの光であると信じ、それによって、神について、また天界について、永遠のいのちについてのすべての観念を隠し、窒息させ、消してしまいます。そこからこれらの者は〝フクロウ〟のようです、それらの者は暗やみの中に光を、光の中に暗やみを、すなわち、虚偽を真理として、悪を善として見ます。また悪の快さが彼らに心の快さなので、彼らは「鳥と獣」に異なりません、それら〔鳥獣〕は死体をうまいものものとして食べ、墓からの悪臭を香油として感じます。
これらの者もまた、物質的あるいは自然的な流入以外の他の流入は見ません。それでも、霊的な流入を主張するなら、これは彼の観念の何かのものからではなく、教師の口から生じています。


「本質的に見れば」の直訳は
ここで「本質的に見れば」は意訳です。原文はin se spectatumであり、直訳すれば「それ自体で観察されれば」です。in seには文字どおりには「それ自体で」ですが「本質的に、根本的に」の意味があります。またspectoには「見る、眺める」以外に「観察する、考慮する」の意味があり、それでこの熟語としての意味になります。
自然主義は無神論であること
ここでの「自然主義」とは「神の代わりに自然を崇拝すること」であり、これは崇拝のように見えますが結局は無神論です。