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最後の審判 37

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37 今日、教会内に、ほとんど何らかのものが言われることができないように、これほどに信仰がまれであることは、学問のある者も単純な者も、多くの者から明らかです、その者の霊が、死後、世の中でどんな信仰であったか調べられます。また、それぞれの者が、信仰は単に信じ、自分自身にそのようであることを確信させることであると思っていたこと、また、さらに学問のあった者は、信頼または信任から、主の受難とその方の執り成しによって救われると信じるだけのことであったこと、また、ある者が仁愛または愛がないなら信仰は何もないことをほとんど知らず、それどころか、何が隣人に対する仁愛かも知らるなかったこと、考えることと意志することの間のその相違も知らなかったことがわかりました。起彼らからの大部分の者は、「仁愛は重要ではない、しかし信仰だけが重要である」と言って、仁愛を後ろに投げ返しました。
彼らに、仁愛と信仰は、意志と理解力のように一つのものであること、また仁愛は意志の中に、信仰は理解力の中に住むこと、一つをもう一つから分離することは、意志と理解力を分離するようであることが言われたとき、彼らはこのことを理解しませんでした。
ここから、今日、ほとんど何らかの信仰が存在しないことが明らかです。
このこともまた彼らに生き生きと示されました――信仰を持っているという信念の中にいた者が、そこに純粋な信仰があった天使の社会へ連れて来られ、その時、自分たちに何も信仰がないという伝達が与えられたことを明らかに知覚しました。その後、多くの者の前でもまた告白しました。
さらにまた同じことが他の方法で、彼らの面前で、信仰を告白した者が、信じていたことを自分自身に思い、仁愛である信仰の生活を生きなかったことが示されました。彼らからのそれぞれの者は、自然界の中に生きたとき、信仰が何らかの思考の中にだけ、生活の外にだけあって、彼らの霊のいのち(生活)の中になかったので、自分たちに何も信仰がなかったことを告白しました。