最後の審判 38
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今日の教会はこのような状態です、すなわち、仁愛がないのでそこに信仰がないことです。また仁愛がないところに、そこに何らかの霊的な善もありません、なぜなら、その善はひとえに仁愛からであるからです――天界から、「ある者のもとに依然として善がある、しかし、それは霊的な善と言われることができず、自然的な善である。その理由は、神的な真理そのものはやみの中にあり、神的な真理が仁愛へ導くからである、というのは、仁愛を教え、仁愛を善への目的として眺めるから。ここから仁愛は、それらから真理があるような仁愛以外の他のものは存在することができない」と言われました――神的な真理は、それらから教会の教えがありますが、信仰だけに目を向けています、そのために、信仰の教えと呼ばれ、またいのち(生活)に目を向けています。真理は、信仰だけに目を向け、いのち(生活)に目を向けず、人間を霊的なものにつくることができません。いのち(生活)の外にあるかぎり、他の事柄のように、単に知られ、考えられる単に自然的なものです――ここから、今日、霊的な善は存在しないで、ある者のもとに単に自然的な善が存在します。
[2]さらに、すべての教会は、最初は霊的です、というのは、仁愛から始まるからです。しかし、時の経過とともに仁愛から信仰へ逸れ、その時、内なる教会から外なる教会になりました。外なる教会になる時、その終わりがあり、その時、すべてのものを知識と見なし、いのち(生活)の中にわずかなものを、もしかしたら何も見いださないからです――また人間が内なるものから外なるものになればなるほど、それだけ彼のもとで霊的な光は、神的な真理を真理そのものから、すなわち、天界の光から見ないまでも、暗黒の中に置かれます、というのは、天界の光は神的な真理であるのに、自然的な光だけからしか見ないから。自然的な光は、単独なとき、霊的な光から照らされていないとき、このようなものであり、神的な真理を夜の中のように見て、高位聖職者からこのようであると言われ、そして一般の集団に受け入れられたので、真理であるかどうか別の出所から知ることもありません――ここから、彼らの理解力は主から照らされることができません。なぜなら、自然的な光が理解力の中で輝けば輝くほど、それだけ霊的な光は暗くされるからです。
世俗的で物的で地的なものが、霊的で天的で神的なものよりも愛される時、自然的な光は理解力の中で輝きます。それだけ、人間もまた外なるものです。