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最後の審判 41

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41
 地上の主の教会がどんなものであるか、まして時の進行とともにどのように善から悪へ逸れたか、人間のだれかにより見られることは、彼が世の中で生きるかぎりできません――その理由は、人間が、世の中で生きる時、外なるものの中にいて、それらがその自然的な人間の前に明らかでないなら見ないからです。けれども、教会がその内なるものである霊的なものに関してどんなものであるか、世の中で見られません。しかし、天界の中で、明るい日の光の中のように、天使は霊的な思考の中に、そしてまた霊的な視覚の中にいるので、見られます。ここから天使は霊的なものしか見ません。さらに、前に示されたように、創造の最初から世の中に生まれたすべての人間はそこに一緒にいます、そしてまた、そこのすべての者は愛と信仰の善にしたがって社会の中に区別されています(著作『天界と地獄』(41–50番)参照)。ここから、教会の状態は、そしてまたその進行は、天界の中で天使の前に明ら。かです。
[2]さて、愛と信仰に関する教会の状態が「黙示録」の中に、その霊的な意味の中で述べられているので、それゆえ、ある者に天界から啓示されていないなら、同時に、みことばの内意、すなわち、霊的な意味を知ることが与えられていないなら、その者に、そこにすべてのものが連続して何が含まれているか知ることができません。
このことを私は断言できます、そこの個々のものは、それぞれのことばまでも、本的に霊的な意味を含んでいること、その意味の中に、教会のすべてのものが、その霊的な状態に関して、最初から終わりまで十分に述べられていること――それぞれのことばは、そこに霊的なものを意味するので、それゆえ、どのことばも、内意の中で事柄の連鎖がここから変化を被るので、欠けることができないことです。それゆえに、その書の終わりに言われています、

もし、だれかがこの預言の書のことばから取り去るなら、神は、いのちの書から、その聖なる都から、その「書」の中に書かれているものから、彼の分を取り去る(22:19)。

[3]旧約の「みことばの書」も同様です。
それらの中にもまた、それぞれの事柄は、それぞれのことばは、内意、すなわち、霊的な意味を含んでいます。そのために、そこに何らかのことばは取り去られることができません。
ここから、主の神的な摂理からそれらの書は、その書かれた時からイオタ(一点)までも完全に保存され、多くの者の苦労によって、そこに最も個々のものをの数を確かめました。このことは主により、イオタ(一点)・文字・ことば・事柄それぞれのものに、そこに内在する神聖さのために備えられました。