最後の審判 59
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(4)なぜ、最後の審判の日までそこに存在が許されたか
その理由は、神的な秩序から、存在が保たれることができるどれほど多くても、またこのことがもはや善良な者の間にいることができないまで、すべての者の存在が保たれるからです。そのために、存在が保たれるすべての者は外なるものの中で霊的な生活をまねすることができ、そしてそれをどんな種類であっても、内なるものの中で信仰と愛に関して道徳的な生活の中で、そこにあったかのように、示すことができます。なおまた、外なる聖なるものの中にいて、それでも何も内なるものがないものの中にいる者もまた存在が保たれました。
その国民からの多くの者はこのような者でした、というのは、大衆とともに敬虔に話し、信心深く主を崇拝し、宗教的信念を心に植え付け、天界と地獄について考えることへ導き、そして働きの説教によって、善の行なうことの中に保つことができたからです。ここから多くの者を善の生活へ、このように天界への道の中に導くことができました。そのために、多くの者もまたその宗教的信念から救われました、それでも、教える者からはわずかでした。
というのは、これらの者が、主により偽預言者によって意味される者であるから、
その者は羊の衣服でやって来るが、內部で貪欲な狼です(マタイ7:15)。
[2]「預言者」によって、みことばの内意で、真理を教える者とその真理によって善へ導く者が、そして、「偽預言者」によって、虚偽を教える者とそれによって惑わす者が意味されます。
さらにまた、律法学者とパリサイ人たちのような者であり、その者は主により次のことばで述べられています――
彼らはモーセの席に座っています……。彼らがあなたがたに、あなたがたが仕えるようにと言うすべてのことに、あなたがたは仕え、〔そのことを〕行ないなさい、しかし彼らの行ないしたがって行なってはなりません。彼らは言うが、行なわないからです。……自分たちのすべての行ないを、人々から見られるために行なっています。……人々から天界の王国を閉ざします、自分たちも入りません。……外見では長い祈りを唱えて、やもめの家を食い尽くしています。
あなたがたにわざわいあれ……偽善者たち。あなたがたは杯と皿の外の部分をきれいにするが、內部は強奪と不正で満ちています。……最初に杯と皿の内側をきれいにしなさい、外側もまたきれいであるために。……あなたがたは白くした墓に似ている、それらは外側で美しく見えるが、內部は死者の骨で満ちています……このように……あなたがたは外で正しい人に見えるが、内部は偽善と不正で満ちています(マタイ23.1–34)。
[3]存在もまた許されたことの理由は、それぞれの者が、死後、自分の宗教的信念を保持するからです。そのために、来世の中にやって来ると直ぐにその中に入れられます。これらの国民のもとの宗教的信念は、口と身振りで聖なる外観を装い、そしてまた、自分たちを通して救われることができるという信仰を刻みつけたような者により植え付けられました――ここからもまた、このような者は彼らから取り除かられ、自分たちの間に保たれました。
[4]おもな理由は、外なるものの中で霊的なものと似た生活を送り、内なるもののような敬虔で聖なるものをまねるそれらの者から、単純な者は教えられ、導かれることができ、すべての者は、一つの審判からもう一つの審判まで保たれることです。というのは、信仰と心で単純な者は、外なるものに向けて、目の前に見えるよりもさらに進んで見ないからです――ここから、キリスト教会の始まりの時から審判の日までいたすべての者が存在を許されました。
最後の審判が以前に二度起こったこと、また今や、三度目であることは、前に示されました。「最初の天」を構成したすべての者は、「黙示録」(20:5, 6)の中で、「第一の復活からはじき出された者」よって意味される者です。しかし、彼らは前に述べられたような者であったので、それゆえ、その天は破壊され、彼らは第二の復活から追い払われました。
[5]しかし、市民的な法によっても霊的な法によっても、自分自身が抑制の中に保たれるのに耐えた者だけが保たれたことを知らなければなりません、これらの者は社会の中で1緒にいることができたからです。それでも、それらの法律によって抑制の中に保たれることができなかった者は保たれませんでした。これらの者は最後の審判の日のはるかに以前に地獄の中へ投げ込まれました、なぜなら、社会はこれらの者から絶えず清められ、浄化されなければならないからです。
ここから、彼らは、その者は邪悪な生活を送り、大衆に悪を行なうように誘い、地獄の中にいる者のもとにあるようなおそるべき策略を身につけた者は(それらについて著作『天界と地獄』580番)、社会から追い払われ、またこのことは時々行なわれました。
[6]同じく、内的に善良な者であったもまた、内的に悪い者から汚されないように、社会から取り除かれます。なぜなら、善良である者は、内的なものを知覚し、それゆえ、外的なものには、内的なものに調和しないかぎり目を向けないからです――これらの者は、時々、審判以前に教育の場所に入れられ(それらについて著作『天界と地獄』512–520番参照)、ここから天界の中へと取り除かれます。というのは、それらの者から「新しい天」があり、その者が「第一の復活から」の者が意味されるからです。
これらは、ローマカトリック教徒の宗教的信念からであった者が、なぜこのように多く、最後の審判の日まで存在が許され、保たれたか、知られるために言われました―しかし、同じ事柄について多くバのものが、そこに過ぎ去った「前の天」について続く章の中で扱われます。