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最後の審判 70

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70 このような社会またはこのような天界が存在を許されたことには多くの理由があります。
おもなものは、外なる神聖さによって、外なる誠実さと公正によって、最も低い天界の中にいる単純で善良な者と結合されていたこと、またその者は依然として霊たちの世界の中にいて、まだ天界の中に導き入れられなかったことです。なぜなら、霊界の中にすべての者の伝達があり、ここから似た者との結合があるからです。そして、最も低い天界と霊たちの世界の中にいる善良で単純な者は、特に外なるものに目を向けますが、それでも内的に悪い者ではないからです。それゆえ、もし彼らから備えられた時より前に引き離されるなら、天界はその最後のものの中で傷つけられたでしょう。それでもなお、最後のものはその上にさらに高い天界がとどまるようなその土台です。
[2]最後の時まで存在が許されたことのその理由を、主はこれらのことばで教えられています

家長のしもべたちが近づいて、彼に言った……。「あなたは、ご自分の畑の中に善い種を蒔いたのではありませんか?それゆえ、毒麦はどこからですか?」……また彼らは言った、「それゆえ、あなたは私たちが出かけ、それらを集めることを欲しますか?」。
しかし、彼は言った、「いや、毒麦を集めながら、あなたがたはそれらと一緒に小麦を根こぎするかもしれない。そこで、収穫まで両方とも一緒に、生長させておきなさい。収穫の時に、私は収穫する者に言います、最初に毒麦を集めなさい、またそれらを焼くために束に結びなさい。しかし、小麦は穀物倉の中に集めなさい」。
善い種を蒔く者は人の子です。畑は世です。善い種は王国の息子、毒麦は悪い者の息子です。収穫は世代の完了です。それゆえ、毒麦が集められ、火で焼かれるように、この世代の完了の中でそのようになります」(マタイ13:27–30, 115)。

この世代の完了」は教会の最後の時です。「毒麦」は内的に悪い者、「小麦」は内的に善良な者です。
それらを集め、束に結ぶこと」は最後の審判です。
[3]似たことが同章の中に、すべての種類から集められた魚について、善いものは器の中に入れられるけれども、悪いものは外に投げ出された主のたとえによって意味され、それらについてもまた言われています、

世代の完了の中でこのようになります。天使たちが出てきて、悪い者を正しい者たちの真ん中から分離します(47–49番)。

魚にたとえられるのは、みことばの霊的な意味で「」によって善い者も悪い者も自然的な者と外なる者が意味されるからです。「正しい者」よって何が意味されるかは左の欄を見てください。


*1 みことばの中で「東」は、系列の中に人間のもとの真理と虚偽の配列を、そのように真理と善がある人間もまた意味する(4686, 4687, 5339, 5530, 7408, 10303番)。
「人の子」は、神的な真理に関する主である(1729, 1733, 2159, 2628, 2803, 2813, 3373, 3704, 7499, 8897, 9807番)。
「息子」は、善からの里の情愛である(489, 491, 533, 2623, 3373, 4257, 8649, 9807番)――そのように「王国の息子」は善からの真理の情愛の中の者、「悪い者の息子」は悪からの虚偽の情愛の中の者である。ここから、後者が「毒麦」また前者が「善い種」と言われる、なぜなら、「毒麦」によって悪からの虚偽が、「善い種」によって、善からの真理が意味されるからである。「畑の種」は、主から人間のもとに〔ある〕善からの真理である(1940, 3038, 3310, 3373, 10248, 10249番)。
「種」は、正反対の意味で悪からの虚偽である(10249番)。
「畑の種」もまた、みことばからの神的な真理による心の滋養物であり、「(種を)蒔くこと」は教えることである(6158, 9272番)。
「世代の完了」は教会の最後の時である(4535, 10622番)。
*2 みことばの霊的な意味の中で「魚」によって、自然的な人、すなわち、外なる人にある記憶知が意味され、ここから悪い者も善い者も、自然的な人、すなわち、外なる人を意味する(40, 991番)。
すべての種類の動物は、人間のもとにあるようなものに対応する(45, 46, 246, 714, 716, 719, 2179, 2180, 3519, 9280, 10609番)。
主の義と功績が帰せられる者は、みことばの中で「正しい者」と言われる。けれども、プロプリウムの義と自分の功績が帰せられる者は「不正な者」と言われる(9486, 5069, 9263番)。