新しいエルサレムとその天界の教え 81
『天界の秘義』から
81 自己と世への愛
主への愛と、隣人に対する愛、すなわち、仁愛が天界をつくるように、自己愛と世俗愛が支配しているところでは、地獄をつくる。それゆえ、それらは対立している(2041, 3610, 4225, 4776, 6210, 7366, 7369, 7489, 7490, 8232, 8678, 10455, 10741–10743, 10745番)。
自己と世への愛からすべての悪が〔ある〕(1307, 1308, 1321, 1594, 1691, 3413, 7255, 7376, 7488, 7489, 8318, 9335, 9348, 10038, 10742番)。
自己と世への愛から他の者への軽蔑、憎悪、憎しみ、復讐、残酷、欺きが、このようにすべての悪とすべての悪意が〔ある〕(6667, 7372–7374, 9348, 10038, 10742番)。
これらの愛は、抑制がゆるめられるほど突進する。自己愛は神の御座へまでも(7375, 8678番)。
自己愛と世俗愛は人間の社会と天界の秩序を破壊する(2045, 2057番)。
人類はそれらの愛のために統治を始め、安全のために支配の下に置いた(7364, 10160, 10814番)。
それらの愛が支配するところで、愛の善と信仰の善は追い払われるか、あるいは窒息させられるか、あるいは歪曲させられる(2041, 7491, 7492, 7643, 8487, 10455, 10743番)。
これらの愛の中にいのちはなく、しかし、霊的な死がある(7494, 10731, 10741番)。
これらの愛がどんなものか、述べられている(1505, 2219, 2363, 2364, 2444, 4221, 4227, 4948, 4949, 5721, 7366–7377, 8678番)。
すべての欲求と欲望とは自己と世への愛に属する(1668, 8910番)。
自己と世への愛は手段として仕える、決して目的として〔仕え〕ない(7377, 7819, 7820番)。
人間は改心されるとき、これらの愛は、目的としてでなく手段として存在するために逆さにされる。このように頭のようにではなく、足の裏のようになる(8995, 9210番)。
自己と世への愛の中にいる者のもとに、内なるものはなく、内なるもののない外なるものがある。内なるものが天界へ向って閉ざされ、しかし外なるものが世へ向って開かれるからである(10396, 10400, 10409, 10411, 10422, 10429番)。
自己と世への愛の中にいる者は、何が仁愛か、何が良心か、何が天界のいのちか知らない(7490番)。
人間は自己と世への愛の中にいればいるほど、それだけ信仰の善と真理を受けない、それらは主から人間のもとに絶えず流入する (7491番)。
自己と世への愛の中にいる者は、内なる束縛でなく、外なる束縛にいる。それゆえ、外なるものが取り去られると、すべての邪悪の中へ突進する(10744–10746番)。
霊界の中のすべての者は愛にしたがって自分の向きを変えている。主への愛の中と隣人に対する愛の中にいる者は主へ〔向いている〕。しかし、自己愛の中に、また世俗愛の中にいる者は、主に後ろを〔向けている〕(10130, 10189, 10420, 10742番)。
自己愛の中にいる者の礼拝、どんなものか(1304, 1306–1308, 321, 322番)。
主は、自己愛と世俗愛に関係するプロプリウム(固有のもの)の愛によって悪い者を導くことにより、悪い者を通して世を支配される(6481, 6495番)。
善い者と同様に悪い者も、職務を果たすこと、役立ちと善を実践することができる、彼らは名誉と利益を報酬として眺め、そのため、それらを外なる形では同様に行動するからである(6481, 6495番)。
(地獄にいるすべての者が、自己と世への愛から悪とそこから虚偽の中にいることは著作『天界と地獄』551–565番〔参照〕)