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新しいエルサレムとその天界の教え 117

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117 みことばと教会の教えが、真理と真理にしたがった生活のためではなく、目的として利益、名誉、博学の名声のために信じられ、愛されるとき、信仰は説得的なものとなります。それゆえ、その信仰の中にいる者は、主と天界とを眺めないで、自分自身と世を眺めます。世で大きなことを志し、多くのものを欲望する者は、大きなことを志さず、多くのものを欲望しない者よりも、教会の教えが教えることは真理であるというさらに強い説得的なものの中にいます。その理由は教会の教えは前者にとっては単に自分自身の目的への手段であり、目的が欲望されればされるほど、それだけ手段は愛され、また信じられもするからです。しかし、ものごとは本質的にこのようなものです。彼らは自己と世を求める愛の火の中にいて、その火から語り、説き、行動すればするほど、それだけその説得的なものの中にいます。そしてその時、それがそうであるとしか知りません――けれども、その愛の火の中にいない時、ほとんど信じておらず、多くの者は信じていません。ここから、説得的な信仰は口先の信仰であって、心の信仰ではなく、このように本質的に信仰でないことが明らかです。