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真のキリスト教

目 次

訳者まえがき
緒論――主のしもべ

*  *  *  *  *
普遍的なまた個々の形の中の新しい天界と新しい教会の信仰 1–3

第一章 神、創造主について

神の単一性について
(ⅰ)聖書全体は、ここからキリスト教界の中の教会の教えは、神が存在し、唯一であることを教えている 6
(ⅱ)神が存在し、唯一であるという神から人間の霊魂の中への普遍的な流入がある 8
(ⅲ)ここから、全世界の中に、宗教と健全な理性があって、神が唯一であることを認めない国民は存在しない 9, 10
(ⅳ)その唯一の神がどんなものであるであるか、国民や民族が多くの理由からいろいろな方向に分かれた、〔今も〕分かれている  11
(ⅴ)人間の理性は、もし欲するなら、神が存在すること、また唯一であることを、世の中の多くのものから知覚し、結論することができる 12
(ⅵ)神が唯一でなかったなら、全世界は創造され、保たれることができなかった 13
(ⅶ)神を認めない人間は、教会から追放され、断罪される 14
(ⅷ)唯一の神でなく、多くの神を認める人間のもとに、教会は何も密接に結合しない 15

神的なエッセ(存在)について、それはエホバである
(ⅰ)その唯一の神は、エッセから、ただひとり存在し、存在した、〔これからも〕存在するので、また最初と最後、初めと終わり、アルファとオメガであるので、そのことからエホバと呼ばれる 19
(ⅱ)その唯一の神は、実体そのものと形そのものであり、また天使と人間はその方からの実体と形である、また彼らがその方の中に、その方が彼らの中にいればいるほど、それだけその方の映像と似姿である 20
(ⅲ)神的なエッセ(存在)は、本的にエッセであり、同時に本的にエキシステレ(実存)である 21, 22
(ⅳ)本的に神的なエッセとエキシステレは、別の神性を生み出すことができない、それは本質的にエッセとエキシステレである。したがって、別の同一の本である神は存在できない 23
(ⅴ)古代に、そして今日もまた、神的なエッセが理解されていないことから神の複数性が存在するようになった 24

神の無限性、すなわち、無辺と永遠について
(ⅰ)神は、本的にエッセとエキシステレであり、全世界の中のすべてのものはその方から存在し、存在するようになるので、無限である 28
(ⅱ)神は、世が存在する前に、そのように時間と空間が出現する前に存在したので、無限である 29
(ⅲ)神は、世が造られた後、空間なしに空間の中に、時間なしに時間の中にいる 30
(ⅳ)神の無限性は、空間と比べて無辺と言われ、時間と比べて永遠を言われる。たとえこれらが考慮されても、それでもその方の無辺の中に空間に属すものは何もなく、またその方の永遠の中に時間に属すものは何もない 31
(ⅴ)照らされた理性は、世の中の多くのものから、創造主なる神の無限性を見ることができる 32
(ⅵ)すべての被造物は有限であり、「無限なる者」は、容器の中にあるかのように有限なものの中に、その映像の中にあるかのように人間の中に存在する 33, 34

神の本質について、それは神的な愛と神的な知恵である
(ⅰ)神は愛そのものと知恵そのものであり、これら二つのものがその方の本をつくる 37
(ⅱ)善は愛のものであり、真理は知恵のものであるので、神は善そのものと真理そのものである 38
(ⅲ)神は、愛そのものと知恵そのものであるので、いのちそのものであり、それは本的にいのちである 39, 40
(ⅳ)神の中の愛と知恵は一つのものとなっている  41, 42
(ⅴ)愛の本は、自分自身の外の他の者を愛し、彼らと一つであること、彼らを幸福にすることを自分自身から欲することである 43–45
(ⅵ)これらの神的な愛に属すものが全世界の創造の原因であった、またその維持の原因である 46, 47

神の全能・全知・遍在について
(ⅰ)全能・全知・遍在は、神的な愛からの神的な知恵に属すものである 50, 51
(ⅱ)神の全能・全知・遍在は、何が「秩序」か知られないなら、また神が秩序であり、創造と一緒に秩序を、全世界と同じくそのすべてと個々のものの中に導き入れたことが知られないなら、認められることができない 52–55
(ⅲ)神の全能は、全世界と同じくそのすべてと個々のものの中に、ご自分の秩序の法則にしたがって発出し、働く 56–58
(ⅳ)神は全知である。すなわち、秩序にしたがって生じ、また秩序に反して生じるすべてと個々のものを最小のものまでも、知覚し、見、知る 59–62
(ⅴ)神の遍在は、ご自分の秩序の最初のものから最後のものにまである 63, 64
(ⅵ)人間は神的な秩序の形に創造されている 65–67
(ⅶ)人間は神的な秩序にしたがって生きれば生きるほど、それだけ神的な全能から悪と虚偽に対する力の中に、それだけ神的な全知から善と真理について知恵の中に、それだけ神的な遍在から神の中にいる 68–70

全世界の創造について
理解力に前もって送り込まれた何らかの普遍的な思考を知覚の状態の中に取り入れてないなら、だれも全世界の創造について正しい観念を自分自身に得ることができない 75
全世界の創造が五つのメモラビリアによって述べられている 76–80

第二章 あがない主について

(ⅰ)神エホバは、人間をあがない、救うために降り、人間性をまとわれた 82–84
(ⅱ)神エホバは神的な真理として降られた、それはみことばである。それでも神的な善を分離されなかった 85–88
(ⅲ)神は人間性をご自分の神的な秩序にしたがってまとわれた 89–91
(ⅳ)神ご自身が世の中に送られた人間性は、神の子である 92–94
(ⅴ)主は、あがないの活動によってご自身を「義」とされた  95, 96
(ⅵ)主は、同じ活動によってご自身を父に、父ご自身がその方に結合された 97–100
(ⅶ)このように、神は人間に、一つの位格の中で人間神になられた 101–103
(ⅷ)結合への進行はその方の空にした状態であった、結合そのものはその方の栄化の状態である 104–106
(ⅸ)この後、救い主なる神、主を信じ、その方だけに近づく者でないなら、天界の中にキリスト教徒からはだれもやって来ない 107, 108
追加。主の来臨前の教会の状態について、その後のその状態について 109

あがないについて
(ⅰ)あがないそのものは、地獄の征服と天界の秩序づけであり、それによる新しい霊的な教会への準備であった  115–117
(ⅱ)そのあがないなしに、人間はだれも救われることが、天使も完全な状態の中にとどまることができなかった  118–120
(ⅲ)主は、このように人間だけでなく天使もまたあがなわれた 121, 122
(ⅳ)あがないは、純粋に神的な働きであった 123
(ⅴ)このあがないそのものは、主の受肉によってでしか行なわれることができなかった 124, 125
(ⅵ)十字架の受難は、主が最大の預言者として被られた最後の試練であった、またその方の人間性の栄化の手段であった、〔それでこれは〕あがないではない 126–131
(ⅶ)十字架の受難があがないそのものであったと信じられていることは、教会の根本的な誤りである。その誤りは、永遠からの三つの神的な位格についての誤りと一緒に、教会全体を、その中の何ら霊的な残りが生き残らないようにまでもゆがめた 132, 133

第三章 聖霊と神的な働きについて

(ⅰ)聖霊は神的な真理であり、そしてまた唯一の神から発出する神的な力と働きであり、その中に救い主なる神、主からの神的な三一性がある 139–141
(ⅱ)聖霊によって意味される神的な力と働きは、全般的に改心と再生、これらにしたがった更新、活性化、聖別と義認、またそれらにしたがった悪からの浄化と罪の許し、最後に救いである 142–145
(ⅲ)聖霊の派遣によって意味される神的なその力と働きは、特に聖職者のもとの照らしと教えである 146–148
(ⅳ)主はご自分を信じる者にその力を彼らの中で働かれる 149–151
(ⅴ)主は父によりご自身から働かれる、その逆ではない 153–155
(ⅵ)人間の霊はその心であり、どんなものでもその心から発出する 156, 157
追加。旧約のどこにも、預言者たちが聖霊から話したことが言われていない、しかし、神エホバからである。けれども、新約では異なる 158

神的な三一性について
(ⅰ)神的な三一性があり、それは父・子・聖霊である 164, 165
(ⅱ)それらの三つ、父・子・聖霊は、唯一の神の三つの本なものであり、人間のもとの霊魂・身体・活動のように、一つになっている 166–169
(ⅲ)世の創造の前に、この三一性はなかった。しかし、世の創造後に、神が受肉された時、神・あがない主・救い主である主イエス・キリストの中に、その時、備えられ、生じた 170, 171
(ⅳ)永遠からの、すなわち、世の創造の前の、神的な位格の三一性は、思考の観念における神々の三一性である。これは唯一の神の口先の告白によってでは破壊されることができない 172, 173
(ⅴ)三つの位格の三一性は、使徒教会の中で知られていなかった、しかし、ニカイア公会議から起こり、ここからローマカトリック教会の中へ、またこれから分離した教会の中へ導入された 174–176
(ⅵ)ニカイアと同時にアタナシウスの三一性から、三つの神々への信仰が起こり、それはキリスト教会全体をゆがめた 177, 178
(ⅶ)ここから、今までなかったまたこれからもないような荒涼の忌まわしいものと苦難があり、それを主は「ダニエル書」と「預言書」また「黙示録」の中で予言された 179–181
(ⅷ)なおまた、新しい天界と新しい教会が主により建てられないなら、肉はだれも救われない〔ことが予言された〕 182
(ⅸ)アタナシウス信条にしたがって、それぞれが個別に神である三つの位格の三一性から、神についての不合理なそして異な多くの概念が生じた、それらは幻想と怪物である  183, 184

第四章 聖書、すなわち、主のみことばについて

(1)聖書、すなわち、みことばは神的な真理そのものである 189–192
(2)みことばの中に、今まで知られていない霊的な意味がある 193
(ⅰ)霊的な意味とは何か 194
主から「天的な神性、「霊的な神性」「自然的な神性が発出している 195
(ⅱ)霊的な意味は、みことばのすべてと個々のものの中にある 196–198
主は世の中におられたとき、対応によって、そのように自然的にとともに霊的に話された 199
(ⅲ)霊的な意味から、みことばが神から霊感を受けており、すべての言葉の中に聖なるものがある 200
(ⅳ)霊的な意味は今まで知られていなかった、しかし、古代人のもとで知られていたこれらの者のもとの対応について  201–207
(ⅴ)みことばの霊的な意味は、今後、主からの本物の真理の中にいる者でないならだれにも与えられない 208
(ⅵ)霊的な意味から、みことばについて驚くべきもの 209
(3)みことばの文字どおりの意味は、その霊的な意味と天的な意味の土台・容器・支柱である 210–213
(4)みことばの文字どおりの意味の中の神的な真理は、その満ちたものの中に、その聖なるものの中に、その力の中にある 214–216
(ⅰ)みことばの文字どおりの意味の真理は、「黙示録」の中の「新しいエルサレム」の土台が構成された宝石によって、これは対応から意味される 217
(ⅱ)みことばの文字どおりの意味の中の善と真理は、アロンのエポデの中のウリムとトンミムに対応する 218
(ⅲ)みことばの文字どおりの意味の中にあるような最外部の中の真理と善は、エデンの園の宝石によって意味される。「エゼキエル書」に、その中にツロの王がいたと言われている 219
(ⅳ)同じものが、幕屋の幕・垂れ幕・柱によって表象された 220
(ⅴ)同じく、エルサレムの神殿の外なるものによって 221
(ⅵ)みことばは、主が変容されたとき、その栄光の中で表象された 222
(ⅶ)最外部の中のみことばの力は、ナジル人によって表象された 223
(ⅷ)みことばの言語に絶する力について 224
(5)教会の教えは、みことばの文字どおりの意味から汲み取られ、それによって確信されなければならない 225, 229, 230
(ⅰ)みことばは、教えなしに理解されない 226–228
(ⅱ)教えは、みことばの文字どおりの意味から汲み取られ、それによって確信されなければならない 229
(ⅲ)教えのものになるべき、みことばの文字どおりの意味の中の本物の真理は、主から照らされている者にしか見られない 231–233
(6)みことばの文字どおりの意味によって、主との結合と天使との交わりがある 234–239
(7)みことばは、すべての天界の中にあり、ここから天使の知恵がある 240–242
(8)みことばから教会があり、人間のもとで、みことばがどのように理解されるかによって、教会はそのようなものである 243–247
(9)ことばの個々のものの中に主と教会の結婚があり、ここから善と真理の結婚がある 248–253
(10)異端は、みことばの文字どおりの意味からつくり上げることができる、しかし、それらを確信することは有害である 254–260
みことばの中の多くのものは真理の外観であり、それらの中に本物の真理が隠れている 257
真理の外観を確信することによって、欺きが存在するようになる 258
みことばの文字どおりの意味は、内部に隠れている本物の真理のための保護である 260
みことばの文字どおりの意味は、ケルブによって表象され、みことばの中で意味されている 260
(11)主は世で、みことばのすべてを成就され、そのことによって、最後のものの中でもまた、みことば、すなわち、神的な真理となられた 261–263
(12)今日、世にあるみことばよりも前に、失われたみことばがあった 264–266
(13)みことばによって、教会の外にいて、みことばを持っていない者にも光がある 267–272
(14)みことばがないなら、だれも、神・天界と地獄・死後の生活を、まして主を知らない 273–276

第五章 十戒、その外なる意味と内なる意味

(1)十戒はイスラエル教会の中で神聖なものそのものであった。そこの箱の神聖さについて、その中に律法がある 283–286
(2)十戒は文字どおりの意味の中に信仰と生活の1般的な戒めを含んでいる。けれども、霊的また天的な意味の中に普遍的にすべてのものを含んでいる 287–290
(3)第一戒「わたしの顔の前にほかの神があってはならない」 291–296
(4)第二戒「あなたはあなたの神エホバの名前をみだりに唱えてはならない、エホバはご自分の名前をみだりに唱える者を無罪とはされない」 297–300
(5)第三戒「安息日を記憶せよ、あなたがそれを聖なるものとするために。六日間、働き、あなたのすべての働きを行なわなければならない。しかし、第七日はあなたの神、エホバの安息日である」 301–304
(6)第四戒「あなたの父とあなたの母を敬え。あなたの日が長くされるために、地の上であなたに善くあるために」 305–308
(7)第五戒「あなたは殺してはならない」 309–312
(8)第六戒「あなたは姦通してはならない」 313–316
(9)第七戒「あなたは盗んではならない」 317–320
(10)第八戒「あなたはあなたの隣人に対して虚偽の証拠で答えてはならない」 321–324
(11)第九と第十戒「あなたはあなたの隣人の家をほしがってはならない。あなたの隣人の妻・彼の奴隷・女奴隷・牛・ろばを、あなたの隣人のすべてのものをほしがってはならない」…………… 325–328
(12)十戒の十の戒めは、神への愛に属すものと隣人に対する愛に属すすべてのものを含んでいる 329–328

第六章 信仰について

序文――信仰は時間で最初のものである、しかし、仁愛は目的で最初のものである 336
(1)救う信仰は、主なる神、救い主イエス・キリストへの信仰である 337–339
見ることのできる神であり、その中に見ることのできない神がおられるからである 339
(2)信仰は、要するに、善く生きて正しく信じる者が、主により救われることである 340–342
その方への信仰の最初のものは、神の子であることの認知である 342
(3)人間が信仰を受け入れることは、主に近づくことによって、みことばからの真理を学び、それにしたがって生きることである 343–348
(ⅰ)信仰の存在(エッセ)・信仰の本(エッセンティア)・信仰の実在(エキステンティア)・信仰の状態・信仰の形について 344以降
(ⅱ)単に自然的な信仰について、これは信仰を装っている信念である 345–348
(4)真理の豊富さは、密接に結合した束の中のように、信仰を高め、完成させる 349–354
(ⅰ)信仰の真理は無限に増すことができるものである 350
(ⅱ)信仰の真理は、連鎖の中に、そのように束の中に整えられる 351
(ⅲ)真理の豊富さと首尾一貫性にしたがって、信仰は完成させられる 352, 353
(ⅳ)信仰の真理は、どれほど多数であっても、異なって見えても、主により一つのものにされる 354
(ⅴ)主はみことばであり、天地の神・すべての肉の神、ブドウ畑すなわち教会の神・信仰の神であり、光そのもの・真理・永遠のいのちであることが、みことばから示されている 354
(5)仁愛のない信仰は信仰ではなく、信仰のない仁愛は仁愛ではなく、両方とも主からでないなら生きていない 355–361
(ⅰ)人間は自分自身に信仰を得ることができる 356
(ⅱ)人間は自分自身に仁愛を得ることができる 357
(ⅲ)人間は自分自身に信仰と仁愛の生活もまた得ることができる 358
(ⅳ)それでもやはり、信仰の何も、仁愛の何も、両方のいのちの何も、人間になく、主だけからある 359
(ⅴ)自然的な信仰と霊的な信仰の相違。自然的な信仰の内部に主からの霊的な信仰がある 360, 361
(6)主・仁愛・信仰は、人間の中のいのち・意志・理解力のように一つとなっている。もし分割されるなら、真珠が粉へとつぶされるように、それぞれのものが滅びる 362–367
(ⅰ)主はご自分のすべての神的な愛とともに、すべての神的な知恵とともに、そのようにすべての神的ないのちとともに、すべての人間のもとに流入される 364
(ⅱ)それゆえ、主は信仰と仁愛のすべての本とともに、すべての人間のもとに流入される 365
(ⅲ)それらの主から流入するものは、人間にその形にしたがって受け入れられる 366
(ⅳ)けれども、主・仁愛・信仰を分割する人間は、受け入れる形ではなく、破壊する形である 367
(7)主は人間の中の仁愛と信仰であり、人間は主の中の仁愛と信仰である 368–372
(ⅰ)神との結合があり、それによって人間に救いと永遠のいのちがある 369
(ⅱ)父なる神との結合はありえない、しかし、主との結合、またその方を通して父なる神との結合がある 370
(ⅲ)主との結合は相互のものであり、それは人間が主の中に、主が人間の中にいることである 371
(ⅳ)主と人間のこの相互の結合は仁愛によって行なわれる 372
(8)仁愛と信仰は、善の働きの中で、一緒に存在する 373–377
(ⅰ)仁愛は善く意志することであり、善い働きは善く意志することから善く行なうことである 374
(ⅱ)仁愛と信仰は、活動の中で行なわれることができる時に確定され、それらの中で同時に存在しないなら、単なる想像上のはかない事柄である 375, 376
(ⅲ)仁愛のみは、ましてなおさら信仰のみは、善い働きを生まない、しかし、仁愛と信仰が一緒なら生む 377
(9)真の信仰・偽の信仰・偽善の信仰がある 378–381
キリスト教会はその揺籃期から分裂と異端により悩まされることと引き裂かれることが始まった、それらについて 378
(ⅰ)唯一の真の信仰は、救いの神、主イエス・キリストへの信仰であり、その方が神の子、天地の神、そして父とひとつであることを信じる者のもとにある 379
(ⅱ)にせの信仰は、唯一の真の信仰から逸れるすべての信仰であり、その信仰は、別のところから上り、主を神として見ないで、単なる人間として見る者のもとにある 380
(ⅲ)偽善的な信仰は決して信仰ではない 381
(10)悪い者のもとに何も信仰はない 382–384
(ⅰ)悪い者に何も信仰はない、悪は地獄のものであり、信仰は天界のものであるからである 383
(ⅱ)主とみことばを拒絶し、それでも道徳的に、そして理性的に生き、信仰についても、話し、教え、書く、キリスト教界のすべての者に何も信仰はない 384

第七章 仁愛、すなわち、隣人に対する愛、それと善い働きについて

(1)三つの普遍的な愛、天界への愛・世俗愛・自己愛がある 394–396
(ⅰ)意志と理解力について 397
(ⅱ)善と真理について 398
(ⅲ)愛全般について 399
(ⅳ)特に、自己愛と世俗愛について 400
(ⅴ)外なる人と内なる人について 401
(ⅵ)単に自然的で、感覚的な人について 402
(2)それらの三つの愛が正しく従属している時、人間は完成される。しかし、正しく従属していない時、彼は歪められ、逆さにされる 403–405
(3)個々の人間はすべて隣人である、しかし、彼の善のどんなものかにしたがって、愛されるべきである 406–411
(4)多くの人間から構成される大小の社会とそれらから構成される祖国は、愛されなければならない隣人である 412–414
(5)教会は、さらに高い段階で愛されなければならない隣人であり、主の王国は最も高い段階の隣人である 415, 416
(6)隣人を愛することは、本的に見れば、人物を愛することではなく、人物の中の善を愛することである 417–419
(7)仁愛と善い働きは、善く意志することと善く行なうことのように別々の二つのものである 420, 421
(8)職務・仕事・働きの中で、だれかとの何らかの交わりの中で、それぞれの者が公正にまた誠実に行なうことは、仁愛そのものである 422–424
(9)貧しい者に与え、困窮している者を助けることは仁愛の善行である、しかし、思慮分別をもって 425–428
(10)仁愛の義務に、公けのもの、家庭的なもの、私的なものがある 429–432
(11)仁愛の娯楽は、昼食・晩餐・社交である 433, 434
(12)仁愛の第一のものは悪を除くことであり、その第二のものは隣人に役立つ善を行なうことである 435–438
(13)すべての善は主からであることを信じている時、仁愛を実践する中で、人間は働きに功績を置いてはならない 439–442
(14)道徳的な生活は、同時に霊的である時、仁愛である 443–445
(15)人物と結ばれた愛の友情は、霊に関してどのようなものであっても、死後、有害である 446–449
(16)偽の仁愛・偽善的な仁愛・死んだ仁愛が存在する 450–453
(17)悪い者の間で愛の友情は、彼らの間で内部の憎しみである 454, 455
(18)神への愛と隣人への愛の結合について 456–458

第八章 選択の自由について

選択の自由について今日の教会の教訓と教義 463–465
(1)エデンの園の中に、二つの木が置かれたことは–―一つはいのちの木、もう一つは善悪の知識の木–―人間に霊的なものの中で選択の自由が与えられていることを意味する 466–469
(2)人間はいのちではない、神からのいのちの容器である 470–474
(3)人間は、世の中で生きる間、天界と地獄の真ん中に、そこの霊的な均衡の中に保たれる、それは選択の自由である 475–478
(4)それぞれの内なる人がその中にいる悪の許しから、人間に霊的なものの中で選択の自由があることがはっきりと明らかである 479–482
(5)霊的なものの中で選択の自由なしに、みことばは何も役立たず、したがって、何らかの教会もなかったであろう 483, 484
(6)霊的なものの中で選択の自由なしに、人間に自分自身を主と相互に結合させる何らかのものはなかったであろう、ここから転嫁はなく、予定だけがあり、それは忌まわしいものである 485
予定について忌まわしいものが公けにされる 486–488
(7)霊的なものの中で選択の自由なしに、神は悪の原因とされ、このように仁愛と信仰の転嫁は何もなかったであろう 489–492
(8)教会のすべての霊的なものは、それが自由に入って来て、自由から受け入れられるなら、とどまる。けれども、そうでないものはとどまらない 493–496
(9)人間の意志と理解力はこの選択の自由の中にある。しかし、霊界と自然界の両方の世界で悪を行なう
ことは、両方の何らかの社会が滅びるので、法則によって抑制されている 497–499
(10)人間に霊的なものの中で選択の自由がなかったなら、全地球上のすべての者は、一日のうちに、主を信じることへ引き寄せられることができた。しかし、このことは、選択の自由から人間により受け入れられないものはとどまらないという理由から、行なわれることができなかった 500–502
今日、奇跡が行なわれないのは、それが霊的なものの中で選択の自由を取り去り、強制するからである 501

第九章 悔い改めについて

(1)悔い改めは人間のもとの教会の最初のものである 510, 511
(2)痛悔は、それについて、今日、信仰に先立ち、福音の慰めが続くと言われるが、悔い改めではない 512–515
(3)罪人であることを口先だけで告白することは、悔い改めではない 516–519
(4)人間はすべての種類の悪に生まれている、それらが部分的にでも、悔い改めによって遠ざけられないなら、それらの中にとどまり、それらの中にとどまる者は救われることができない 520–524
律法を満たすこととは何か 523, 524
(5)罪を知り、自分自身のもとにある何らかの罪を調べることで、悔い改めが始まる 525–527
(6)実際の悔い改めは、自分自身を調べ、自分の罪を知り、認め、主に懇願し、新しい生活を始めることである 528–531
(7)真の悔い改めは、自分の生活での行為だけでなく、自分の意志の意図もまた調べることである 532–534
(8)自分自身を調べない、それでも、罪であるからと悪をやめる者もまた悔い改めを行なう――この悔い改めは、宗教から仁愛の働きを行なう者に生じる 535–537
(9)救い主なる神、主の前で告白し、その時、助けと悪に抵抗する力について、懇願しなければならない 538–560
(10)実際の悔い改めは、ときどきそれを行なった者には容易である、しかし、行なわなかった者には手に負えないものである 561–563
(11)決して悔い改めを行なわなかった、すなわち、自分自身の内側を見ず、注意深く調べなかった者は、最後に、何が断罪を免れない悪か、何が救いとなる善か、知らなくなる 564–566

第十章 改心と再生について

(1)人間は再び生まれないなら、このように新しいものから創造されないなら、神の国の中に入ることができない 572–575
(2)新しい再生産または創造は、主おひとりにより、二つの手段としての仁愛と信仰を通して、人間の協力とともに、行なわれる 576–578
(3)すべての者はあがなわれているので、それぞれの者が自分の状態にしたがって再生できる 579–582
(4)再生は、人間が妊娠し、子宮へ運ばれ、生まれ、育てられるように、〔これと〕類似して、行なわれる 583–586
植物界の雄雌の性について何らかのもの 585
(5)新しい再生の最初の活動は、改心と言われ、これは理解力のものであり、第二の活動は再生と言われ、これは意志とここからの理解力のものである 587–590
(6)最初に、内なる人が改心されなければならない、これによって、外なる人が、このように人間が再生される 591–595
(7)このことが生じる時、内なる人と外なる人の間で闘争が起こる、その時、勝利する方はもう一方を支配する 596–600
(8)再生した人間に新しい意志と新しい理解力がある 601–606
(9)再生した人間は天界の天使との交際の中に、再生されない人間は地獄の霊との交際の中にいる 607–610
(10)人間は再生すればするほど、それだけ罪が遠ざけられる、その遠ざかることが罪の赦しである 611–614
(11)再生は、霊的なものの中で選択の自由なしに存在することができない 615–617
(12)再生は、真理なしに存在することができない、真理によって信仰が形作られ、その信仰に仁愛が結合する 618–620

第十一章 転嫁について

(1)義とすることだけが述べられている今日の教会の信仰は、転嫁と一つとなっている 626, 627
(2)今日の信仰のものとなっている転嫁は、二重である。一つはキリストの功績の転嫁、もう一つはここからの救いの転嫁である 628–631
(3)あがない主キリストの功績と義を転嫁している信仰は、最初に、ニカイア公会議の教令から出現した。永遠からの三つの神的な位格についてのその信仰は、その時から現在まで、全キリスト教界により受け入れられた 632–635
(4)キリストの功績の転嫁の信仰は、先行した使徒教会の中で知られなかった。また、みことばのどこにも意味されていない 636–639
(5)キリストの功績と義の転嫁は不可能である 640–642
(6)転嫁が存在する、しかし、善と悪の転嫁である 643–646
(7)新しい教会の信仰と転嫁は、前の教会の信仰と転嫁と決して一緒であることができない。もし一緒であるなら、人間のもとのすべての教会が滅ぶような衝突と争いが生じる 647–649
(8)主はすべての人間に善を転嫁される、地獄はすべての人間に悪を転嫁する 650–653
(9)信仰は、それ自体を結合させるとき、決断となる。真の信仰が善と結合するなら、永遠のいのちのための決断となる、しかし、信仰が悪と結合するなら、永遠の死のための決断となる 654–657
(10)思考はだれにも転嫁されない、しかし、意志は転嫁される 658–660

第十二章 洗礼について

(1)みことばの霊的な意味についての知識なしに、二つの礼典である洗礼と聖餐が、何を含み、ひき起こすか、だれも知ることができない 667–669
(2)洗礼と呼ばれる洗いによって、霊的に洗うことが意味され、それは悪と虚偽からの浄化であり、したがって再生が意味される 670–673
(3)包皮の割礼によって心の割礼が表象されたので、割礼に代わりに洗礼が制定された。その目的は、すべてと個々のもので内なる教会を予表した外なる教会に、内なる教会が続くためである 674–676
(4)洗礼の第一の役立ちは、キリスト教会への導入であり、同時に、霊界のキリスト教徒の間に入ることである 677–680
(5)洗礼の第二の役立ちは、キリスト教徒が、主イエス・キリストを、あがない主と救い主と知り、認め、その方に従うことである 681–683
(6)洗礼の第三の役立ちは、最終的な役立ちであり、人間が再生することである 684–687
(7)ヨハネの洗礼によって、主エホバが世の中に降り、あがないをなし遂げることができるための、道が準備された688–691

第十三章 聖餐について

(1)自然的なものと霊的なものの対応について知らないなら、だれも聖餐の役立ちと成果を知ることができない 698–701
(2)対応の概念から、主の肉と血によって、同様に、パンとぶどう酒によって何が意味されるか知られる。すなわち、主の肉とパンによってその方の愛の神的な善、そしてまた仁愛のすべての善が意味される。また、主の血とぶどう酒によってその方の知恵の神的な真理、そしてまた信仰のすべての真理が意味され、なおまた、食することによって自分のものとすることが意味される 702–710
「肉」によって何が意味されるか、みことばから示されている 704, 705
「血」によって何が意味されるか、みことばから示されている 706
「パン」によって何が意味されるか、みことばから示されている 707
「ぶどう酒」によって何が意味されるか、みことばから示されている 708
(3)これらを理解することから、教会と天界のすべてのものが普遍的にまた特定的に、聖餐に含まれていることを把握することができる 711–715
(4)聖餐の中に主の全部があり、その方のあがないの全部がある 716–718
(5)聖餐に近づくのにふさわしい者のもとに、主は臨在され、彼らに天界を開かれる。ふさわしくない者のもとにもまた臨在されるが、彼らに天界を開かれない。したがって、洗礼が教会への導入であるように、聖餐は天界への導入である 719–721
(6)聖餐に近づくのにふさわしい者は、主への信仰と隣人に対する仁愛の中にいて、そのようにその者は再生されている 722–724
(7)聖餐に近づくのにふさわしい者は、主の中にいて、主は彼らの中におられる。したがって、聖餐によって主との結合が生じる 725–727
(8)聖餐は、近づくのにふさわしい者にとって、神の子であることの捺印としるしのようなものである 728–730

第十四章 世代の完了・主の来臨・新しい天界と新しい教会について

(1)世代の完了は、教会の最後の時または終わりである 753–756
(2)今日は、キリスト教会の最後の時であり、それは主により福音書と「黙示録」の中に予言され、述べられている 757–759
(3)キリスト教会のこの最後の時は、夜そのものであり、その中で前の教会は終わる 760–763
(4)この夜の後に朝が続く。それが主の来臨である 764–767
(5)主の来臨は、これまで多くの者が、みことばの霊的な意味を理解しないことから考えたような、目に見える天と住める地が滅ぼされ、新しい天と新しい地の創造されるためのその方の来臨ではない 768–771
(6)第二のものであるこの主の来臨は、悪い者が善い者から分離され、その方を信じた者、信じている者が救われるために、そして彼らから天使の新しい天界と地上に新しい教会が形成されるために生じる。そのことなしに、肉はだれも救われることができなかった(マタイ24:22) 772–775
(7)この第二の主の来臨は、人物の中ではなく、みことばの中であり、それはその方からのもの、その方である 776–778
(8)この第二の主の来臨は、人間によって生じる。ご本人が(in persona)ご自分をその者の前に示し、ご自分からみことばによって新しい教会の教えを教えるために、彼をご自分の霊で満たされた 779, 780
(9)これは「黙示録」の中の「新しい天」と「新しい地」によって、ここから降る「新しいエルサレム」によって意味される 781–785
(10)この新しい教会は、これまで地上に存在したすべての教会の冠である786–791

追加

(1)霊界について、それがどんなものか 792–795
(2)霊界のルターについて 796
(3)霊界のメランヒトンについて 797
(4)霊界のカルヴァンについて 798, 799
(5)霊界のオランダ人について 800–805
(6)霊界のイギリス人について 806–812
(7)霊界のドイツ人について 813–816
(8)霊界のローマカトリック教徒について 817–821
(9)霊界のローマカトリックの聖徒について 822–827
(10)霊界のイスラム教徒について 828–834
(11)霊界のアフリカ人について――そしてまた異教徒について何らかのもの 835–840
(12)霊界のユダヤ人について 841–845
あとがき