カテゴリー

生活の教え 2

001◀︎目次▶︎003

2 宗教は生活のものであること、また生活は善を行なうことであることは、みことばを読むすべての者が知り、読んでいるときに認めます。
みことばに、次のものがあります――

だれでも……これらの戒めの最小のものを破り、そのように人に教える者は、天の御国で最小の者と呼ばれます。しかし、行ない、教える者は、天の御国で偉大な者と呼ばれます。わたしは……あなたがたに言います、もしあなたがたの義が律法学者やパリサイ人よりも多くなかったなら、あなたがたは天の御国にはいりません(マタイ5・19、20)。
善い実を結ばない木はすべて、切り倒され、火に投げ込まれます。それゆえ、あなたがたは、実から、彼らを知ります(マタイ7・19、20)。
わたしに、「主よ、主よ」と言う者がすべて、天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいります(マタイ7・21)。
その日には、多くの者がわたしに言います。「主よ、主よ、あなたの名前によって私たちは預言したではありませんか……そしてあなたの名前において多くの力あるわざをしたではありませんか?」 しかし、その時、わたしは彼らに宣言します。「不法を行なう者ども、わたしから去れ」(マタイ7・22、23)。
わたしのことばを聞き、そしてそれを行なうすべての者を、わたしは、自分の家を岩の上に建てた賢い人に比べます。しかし、わたしのことばを聞いてそれを行なわないすべての者は、自分の家を砂の上に建てた愚かな人に比べられます(マタイ7・24、26)。
イエスは言われました、
種を蒔く者が種蒔きに出かけた。……ある種は固い道の上に……あるものは岩地の中に……あるものはいばらの中に……そしてあるものは善い地の中に落ちた。……善い地の中に蒔かれた者は、みことばを聞き、それに注意する者である。ここから、ある者は……百倍、ある者は……六十倍、そしてある者は……三十倍の実をもたらし、つくる。
イエスはこれらのことを言われたとき、「聞く耳を持つ者は聞け」と言って、叫ばれました(マタイ13・3―9、23)。
人の子はご自分の父の栄光として来ようとしています……その時、それぞれの者にその行為にしたがって報います(マタイ16・27)。
神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます(マタイ21・43)。
人の子がご自分の栄光として……やって来る時、栄光の王座の上に座ります。また右側の羊たちに言います、「来なさい、祝福された者たち……そして世の創造からあなたがたに備えられた御国を相続しなさい。なぜなら、あなたがたは、わたしが飢えたとき、わたしに食べるものを与え、わたしが渇いたとき、わたしに飲ませ、わたしがよそ者であったとき、わたしを迎え入れ、わたしが裸であったとき、わたしに着せ、わたしが病気であったとき、わたしを訪れ、わたしが牢にいたとき、わたしのところに来てくれたから」。その時、正しい者たちは答えました。「私たちは、いつ」このような「あなたを見ましたか?」……しかし、王は答えて、言います……「まことにあなたがたに言う、あなたがたが、わたしの兄弟の最も小さいひとりに行なったのは、わたしに行なったのである」。そして王は同じようなことを左にいる山羊に言います。彼らはこのようなことを行なわなかったので、王は言います、「のろわれた者よ、わたしから去れ、悪魔とその使いに用意された永遠の火の中へはいれ」(マタイ25・31―46)。
悔い改めにふさわしい実を結びなさい。……すでに……斧は木の根元に置かれています。それで、善い実を結ばない木はすべて、切り倒されて、火の中に投げ込まれます(ルカ3・8、9)。
イエスは言われました、
あなたがたは、わたしを、「主よ、主よ」と呼びながら、わたしの言うことを行なわないのは、何なのですか?わたしのところに来て、わたしの話を聞き、そしてそれを行なう者はすべて……岩の上に土台を据えて家を建てる人に似ています。……けれども、聞き、そして行なわない者は、土台のない土の上に家を建てる人に似ています(ルカ6・46―49)。
イエスは言われました、
わたしの母、わたしの兄弟とは、神のことばを聞き、それを行なう者です(ルカ8・21)。
その時、あなたがたは外に立ち、「主人さま……開けてください」と言って、戸をたたき始めるでしょう。しかし、(彼らに)答えて言うでしょう。「私はあなたがたを、あなたがたがどこからの者であるか知らない。……私から去りなさい、不法を行なうすべての者よ」(ルカ13・25―27)。
さばきとはこのことである。光が世に来た、しかし人々は光よりも暗やみを愛した、彼らの行ないが悪であったからである。悪を行なう者はすべて光を憎む……彼の行ないがあらわにされないように。けれども、真理を行なう者は、光にやって来る。彼の行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである(ヨハネ3・19―21)。

善を行なった者は、いのちへとよみがえり、悪を行なった者は、さばきへとよみがえります(ヨハネ5・29)。
私たちは……神が罪人の言うことは聞かれないで、だれかが神を礼拝し、そのみこころ行なうなら、その者の言うことを聞かれることを知っています(ヨハネ9・31)。

あなたがたがこれらのことを知り、それらを行なうなら、あなたがたは幸いです(ヨハネ13・17)。
わたしの戒めを持ち、それらを行なう者は、わたしを愛する者です。……わたしは彼を愛し、彼にわたし自身を現わします。(わたしは来て)彼のところに彼のもとに住まいをつくります。わたしを愛さない者は、わたしのことばを守りません(ヨハネ14・15、21―24)。
イエスは言われました、
わたしはぶどうの木……わたしの父はぶどう園の働き人です。わたしの中で実を結ばないすべての枝を、父は取り除きます。けれども、実を結ぶすべての枝は、もっと実を結ぶために刈り込まれます(ヨハネ 15・1、2)。
あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子とされることの中に、わたしの父の栄光があります(ヨハネ15・8)
わたしがあなたがたに命じることを何であれ、あなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。……わたしがあなたがたを選びました……あなたがたが実を結び、あなたがたの実が残るためです(ヨハネ15・14、16)。
主はヨハネに言われました、
エペソの教会の御使いに書け……「わたしはあなたの行ないを知っている……わたしはあなたに対して持っている、あなたが最初の仁愛から立ち去っていることである。……悔い改めよ、そして最初の行ないをなせ。けれどもそうでないなら……わたしはあなたの燭台をその場所から動かす」(黙示録2・1、2、4、5)。
スミルナの教会の御使いに書け……「わたしはあなたの行ないを知っている」(黙示録2・8、9)。
ペルガモの教会の御使いに書け、「わたしはあなたの行ないを知っている。悔い改めよ」(黙示録2・12、16)。
テアテラの教会の御使いに書け……「わたしはあなたの行ないと仁愛を……また、あなたの後の行ないが最初のものよりもさらに多いことを知っている」(黙示録2・18、19)。
サルデスの教会の御使いに書け……「わたしはあなたの行ないを知っている。あなたは生きているという名前を持つが、しかし死んでいる。……わたしはあなたの行ないが神の前に完全でないのを見た……悔い改めよ」(黙示録3・1―3)。
フィラデルフィアの教会の御使いに書け……「わたしはあなたの行ないを知っている」(黙示録3・7、8)。
ラオデキアの教会の御使いに書け……「わたしはあなたの行ないを知っている……悔い改めよ」(黙示録3・14、15、19)。
私は天から下る声を聞いた。「書け、『今から主にあって死ぬ死者は幸いである』」。……御霊は言った。「彼らはその労苦から休む、彼らの行ないは彼らについて行く」(黙示録14・13)。
書物が開かれた、それはいのちの書である。死者は、その書物に書かれたことにしたがって、彼らの行ないにしたがって、さばかれた(黙示録20・12、13)。
見よ、わたしはすぐに来る。それぞれの者に、その行ないにしたがって与えるために、わたしの報酬はわたしとともにある(黙示録22・12)。

同様に旧約聖書の中に――

彼らにその行ないにしたがって、その手の行為にしたがって報いよ(エレミヤ25・14)。
エホバ、「その目は人間のすべての道の上に開かれている。人それぞれにその道にしたがって、その行ないの実にしたがって与えるために」(エレミヤ32・19)。
わたしは彼らの道を訪れ、彼らの行ないにしたがって、わたしは報いる(ホセア4・9)。
エホバは……私たちの道と行ないにしたがって、私たちに行なわれる(ゼカリヤ1・6)。

そして、法令・命令・律法が行なわれなければならないとする多くの箇所に。例えば、

あなたがたはわたしの法令(おきて)を守らなければならない。人がそれを行なうなら、それによって生きる(レビ記18・5)。
あなたがたは、わたしのすべての法令(おきて)と、わたしの判決を守り、それらを行なわなければならない(レビ記19・37、20・8、22・31)。
戒めを行なうなら祝福があり、行なわないなら、呪いがある(レビ記26・4―46)。
イスラエルの子らは、自分の着物のすその上にふさ飾りをつけるよう命じられた。エホバのすべての戒めを思い出し、それらを行なうためである(民数記15・38、39)。

また他の多くの箇所に。
行ないが教会の人間をつくるものであり、それにしたがって救われることは、主はたとえの中でもまた教えられています。それらの多くのものは、善を行なう者が受け入れられ、悪を行なう者が拒絶されることを意味しています。
例えば、たとえの中に

ブドウ園の農夫(マタイ21・33―44)。
実を与えなかったイチジクの木(ルカ13・6―9)。
商売のもとでであったタラントとミナ(マタイ25・14―31、ルカ19・13―25)。
強盗により傷つけられた者の傷にほうたいをしたサマリア人(ルカ10・30―37)。
富んでいる者とラザロ(ルカ16・19―31)。
十人の娘(マタイ25・1―12)。