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白い馬について 7

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7  みことばは照らされている者以外には理解されない
人間の理性は、主によって照らされないなら、神的なものを、霊的なものでさえ理解することができない(2196, 2203, 2209, 2654番)。
このように照らされている者だけが、みことばを理解する(10323番)。
主は照らされている者に真理を理解させ、そしてみことばの中で互いに矛盾しているように見えるものを区別するようにさせられる(9382, 10659番)。
みことばは、文字通りの意味ではそれ自体と似ないで、ときどき互いに矛盾するように見える(9025番)。
それゆえ、〔文字通りの意味は〕照らされていない者により、どんな見解や異端でも確信されるまでに、またどんなものでも世と身体への愛を支持するまでに、説明され、ゆがめられることができる(4783, 10330, 10400番)。
真理と善への愛からみことばを読む者は、それ〔みことば〕から照らされる。けれども、しかし名声、利益、名誉から、このように自己への愛から〔読む者〕は〔照らされ〕ない(9382, 10548, 10549, 10551番)。
生活の善の中にいて、ここから真理への情愛の中にいる者は照らされる(8694番)。
内なるものが開かれている者は照らされる、そのようにその内なる人は天界の光の中へ高揚されることができる(10400, 10402, 10691, 10694番)。
照らされることは実際に開くことであり、そしてまた天界の光の中への高揚である(10330番)。
内なるものから、すなわち、内なるものを通して主から、聖なるものが、みことばを聖なるものとする者のもとに流入する、彼らは〔そのことを〕知らない(6789番)。
主により導かれる者は照らされ、みことばの中に真理を見る。けれども、自分自身により導かれる者は〔そうでは〕ない(10638番)。
真理を真理であるので愛する者は主により導かれる、彼らは神的な真理にしたがって生きることを愛する者である(10578, 10645, 10829番)。
みことばは人間のもとで彼の愛と真理の生活にしたがって生かされる(1776番)。
〔人間の〕プロプリウムの知性からのものは、人間にプロプリウムからは何も善がないので、それ自体の中にいのちをもたない(8941, 8944番)。
誤った教えを大いに確信した者は照らされることができない(10640番)。

照らされるものは理解力である(6608, 9300番)。
理解力は真理を受けるものである(6240, 6608, 10659番)。
教会のすべての教えについて、いろいろな観念(考え)があり、それら〔観念〕にしたがって物事が理解される(3310, 3825番)。
人間の観念は世に生きるかぎり自然的である。その時、自然的なものの中で考えるから。しかし、それでも真理のために真理の情愛の中にいる者たちのもとには霊的な観念がそれらの中に隠されている。また人間は、死後、その中にやって来る(3310, 5510, 6201, 10236, 10240, 10551番)。
どんな物事についても、観念(考え)なしに、知覚はない(3825番)。
信仰の事柄について、観念は来世で開かれ、そこ[来世]でどんなものであるか天使により見られる。また人間はその時、愛に属する情愛から発出かぎり、それらにしたがって、他の者と結ばれる(1869, 3310, 5510, 6200, 8885番)。
それゆえ、みことばは理性的な人間による以外には理解されない。なぜなら、何かをその事柄の観念なしに、また理性的な熟考もなしに信じることは、単に言葉を記憶から保持することであって、知覚と情愛とのすべてのいのちを奪われており、信じることではないから(2553番)。
照らされるものは、みことばの文字通りの意味である(3436, 9824, 9905, 10548番)。