カテゴリー

白い馬について 11

010◀︎目次▶︎012

11  みことばの内的なまたは霊的な意味の中には無数のアルカナがある
みことばは内意の中に人間の把握を超える無数のものを含む(3085, 3086番)。
さらにまた、言葉にできないものと説明できないものを〔含む〕(1965番)。
それらは天使だけに示され、彼らにより理解される(167番)。
みことばの内意は天界のアルカナ(秘義)を含む、それは主と、天界と地上でのその方の王国とに関係する(1-4, 937番)。
そのアルカナは文字通りの意味には見られない(937, 1502, 2161番)。
預言者の書の中の多くのものは、ばらばらのように見えるが、内意では美しく連続的に結合している(7153, 9022番)。
その原語の中の一つの語も、一つの点〔一画〕でさえも、内意での中断なしに、みことばの文字通りの意味の中で欠くことはできない。それゆえ、主の神的な摂理から、みことばはすべての語までも、すべての一点までも、そのように完全に保たれた(7933番)。
みことばの個々のものに無数の事柄が内在する(6617, 8920番)。
またそれぞれの表現にも〔内在する〕(1869番)。
「主の祈り」の中に、またその個々のものの中に、無数のものが存在する(6619番)。
また十戒の戒めの中に〔存在する〕。それでもその外なる意味であるものは、啓示なしにどの民族にも知られているといったものである(8862, 8902番)。
原語では、みことばの文字の小さい角(一点)のそれぞれに聖なるものが存在することが、天界から示された。そのことは著作『天界と地獄』(260番)参照、そこに次の主のみことばが説明されている、

律法について、一画も小さな角も (一点一画)も滅びない(マタイ5:18)

みことばの中に、特にその預言者の書の中に、同じ事柄のような2つの表現がある。しかしその一つは善に、もう一つは真理に関係する(683, 707, 2516, 8339番)。
みことばの中の善と真理の中には驚くべき結合がある、その結合は内意を知っている者にだけ明らかである(10554番)。
このように、みことばの中に、またその個々のものに、神的な結婚と天界的な結婚が存在する(683, 793, 801, 2173, 2516, 2712, 5138, 7022番)。
神的な結婚は神的な善と神的な真理の結婚であり、このように主である、その中にだけ結婚が存在する(3004, 3005, 3009, 5138, 5194, 5502, 6343, 7945, 8339, 9263, 9314番)。
「イエス」によって神的な善が、「キリスト」によって神的な真理が、二つのものによって天界の中の神的な結婚が意味される。それは神的な善と神的な真理の結婚である(3004, 3005, 3009番)。
この結婚は、みことばの個々のものの中に、その内意の中にあり、このように主は神的な善と神的な真理に関して〔その中におられる〕(5502番)。
天界と教会の中には主からの善と真理の結婚があり、それは天界的な結婚と呼ばれる(2508, 2618, 2803, 3004, 3211, 3952, 6179番)。
このように、その観点からは、みことばはあたかも天界のようである(2173, 10126番)。
天界はその中の善と真理の結婚からみことばの中で結婚にたとえられる(2758, 3132, 4434, 4835番)。

内意は教会の純粋な教えそのものである(9025, 9430, 10400番)。
みことばを内意にしたがって理解する者は、教会の真の教えそのものを知る、内意はそれ〔教会の真の教え〕を含むから(9025, 9430, 10400番)。
みことばの内なるものはまた教会の内なるものである、礼拝の内なるものように(10460番)。
みことばは主への愛と隣人に対する仁愛の教えである(3419, 3420番)。

みことばは文字の中では雲のようなものであり、内意では栄光である(「創世記」第18章の序言、5922, 6343番。そこに「主は天の雲の中に栄光をもって来られる」ことが説明されている)。みことばの「雲」は文字通りの意味におけるみことばを、「栄光」は内意におけるみことばを意味する(「創世記」第18章の序言、4060, 4391, 5922, 6343, 6752, 8106, 8781, 9430, 10551, 10574番)。
文字通りの意味の中にあるものは、内意の中にあるものと比べるなら、磨かれた光学円筒の周りの粗雑な投影(映像)のようなものである。それでも、〔その投影の中心に〕その円筒が置かれると、その円柱〔面〕から人間の美しい映像が〔写し出される〕(1871番)。
来世では、みことばの文字通りの意味だけ欲し、認める者は、醜い老婆によって表象される。しかし〔文字通りの意味と〕同時に内意を〔認める者は〕美しく着飾った処女によって〔表象される〕(1774番)。
みことばは神的な真理であり、神的な真理は天界をつくるので、みことばはその全統一体として天界の映像である。また天界は一人の人間を表わすので、みことばはその観点からは人間の映像のようである(1871番)。
(天界は一つの統一体として一人の人間を表わすことは著作『天界と地獄』59~67番参照。主から発出する神的な真理は天界をつくることは、126-140, 200-212番)。
みことばは天使の前では美しくまた快く示される(1767, 1768番)。
文字通りの意味はあたかも身体のようであり、内意はあたかもその身体の霊魂のようである(8943番)。
ここから、みことばのいのちは内意からである(1405, 4857番)。
みことばは内意では純粋であるが、文字通りの意味ではそのように見えない(2362, 2395番)。
みことばの文字通りの意味の中にあるものは、内なるものからの聖なるものである(10126, 10728番)。

みことばの歴史的なものの中にもまた内意がある、しかしその内部に〔存在する〕(4989番)。
このように、みことばの歴史的ものはその預言的なものと等しく天界のアルカナ(秘義)を含む(755, 1659, 1709, 2310, 2333番)。
天使は歴史的なものを知覚しない、しかし霊的に〔知覚する〕(6884番)。
歴史的なものの中にある内的なアルカナは、預言的なものの中にあるものよりも人間に明らかではない、その理由(2176, 6597番)。

さらに、みことばの内意がどんなものか(1756, 1984, 2004, 2663, 3035, 7089, 10604, 10614番)。比較によって説明される(1873番)。