カテゴリー

白い馬について 10

009◀︎目次▶︎011

10 みことばの内意は特に天使のためのもの、また人間のためのものでもある
内意とは何か、それがどんなものか、またどこからかを知るために、ここに簡単に述べておこう。天界では世と異なって考え、話す。天界では霊的に、世では自然的に考え、話す。それゆえ、人間がみことばを読むとき、人間のもとにいる天使は、人間がそれを自然的に知覚するとき、それを霊的に知覚する。ここから天使は内意の中にいるが、そのとき人間は外なる意味の中にいる。それでも〔その二つの意味は〕対応によって一つとなっている。天使は霊的に考えるだけでなく、霊的にもまた話す。その時、彼らは人間のもとにいる。みことばによる天使との結合については著作『天界と地獄』参照。そこに「天界の天使の知恵について」(265~275番)、「彼らの話し方について」(234~245番)、「人間と彼らの結合について」(291~302番)、「みことばによる結合について」(303~310番)扱われている。

天界の天使は、みことばを地上の人間とは異なって理解する。天使には内なるまたは霊的な意味がある、けれども、人間には外なるまたは自然的な意味がある(1887, 2395番)。
天使は、みことばの内意を知覚し、その外なる意味は知覚しない。私がみことばを読んでいたとき、天界から私とともに語った者たちとの経験から(1769~1772番)。
天使の観念と言葉は霊的である、けれども人間の観念と言葉は自然的である。それゆえ、天使のために存在する霊的な内意がある(経験からの説明、2333番)。
それでも、みことばの文字通りの意味は、天使の霊的な観念の手段として役立つ。比較すれば人間のもとで言葉が事柄の意味〔を伝える手段〕を与えるように(2143番)。
みことばの内意に属するものは天界の光のようなものへ、このように天使の知覚の中へ落ち込む(2618, 2619, 2629, 3086番)。
みことばから天使が知覚するものは、それゆえ、彼らに貴重である(2540, 2541, 2545, 2551番)。
天使は、みことばの文字通りの意味の一つの表現(言葉)も決して理解しない(64, 65, 1434, 1929番)。
彼らは、みことばの中の人物と場所の名前も知らない(1434, 1888, 4442, 4480番)。
名前は天界に入ることはできず、そこでは語られることもできない(1876, 1888番)。
みことばの中のすべての名前は事物を意味し、天界では事物の観念に変化する(768, 1888, 4310, 4442, 5225, 5287, 10329番)。
さらにまた、天使は人物から抽象して考える(6613, 8343, 8985, 9007番)。
みことばの内意はどれほど優雅なことか、たとえ名前だけあっても(みことばからの例から、1224, 1888, 2395番)。
連続する多くの名前もまた、内意では一つの事柄を表現する(5095番)。
みことばの中のすべての数字もまた事物を意味する(482, 487, 647, 648, 755, 813, 1963, 1988, 2075, 2252, 3252, 4264, 6175, 9488, 9659, 10217, 10253番)。
霊もまた、彼らの内なるものが天界の中へ開かれているに応じて、みことばを内意の中で知覚する(1771番)。
自然的なものであるみことばの文字通りの意味は、天使のもとで瞬間に霊的な意味に変えられる、対応が存在するからである(5648番)。
しかもこのことは〔天使が〕文字通りのまたは外なる意味を聞いたり、または知ったりすることがなくて〔生ずる〕(10215番)。
このように文字通りのまたは外なる意味は人間のもとにだけあって、〔それを〕越えて進まない(2015番)。

みことばには内意が、また最も内なるまたは最高の意味が存在する(そのことについて、9407, 10604, 10614, 10627番)。
霊的な天使、すなわち、主の霊的な王国の者は、みことばを内意で知覚し、天的な天使、すなわち、主の天的な王国の者は、みことばを最も内なる意味で知覚する(2157, 2275番)。

みことばは人間のために、また天使のために存在して、両者に適している(7381, 8862, 10322番)。
みことばは天と地を結合させるものである(2310, 2495, 9212, 9216, 9357番)。
人間と天界の結合は、みことばによって存在する(9396, 9400, 9401, 10452番)。
それゆえ、みことばは「契約」と呼ばれる(9396番)。
「契約」は結合を意味するからである(665, 666, 1023, 1038, 1864, 1996, 2003, 2021, 6804, 8767, 8778, 9396, 10632番)。
みことばは主から三つの天界を通って人間にまでも下ったので、みことばの中には内意がある(2310, 6597番)。
このようにそれは三つの天界の天使に、また人間にも〔適するようになった〕(7381, 8862番)。
ここから、みことばは神的なものである(2989, 4989番)。
聖なるものである(10276番)。
霊的なものである(4480番)。
みことばは神性により霊感を受けたものである(9094番)。
それは霊感である(9094番)。

再生した人間もまた、その内なる人は霊的な知覚を与えられ、開かれているので、実際にみことばの内意の中にいるが、それでも彼はそのことを知らない(10400番)。
しかし、みことばの霊的なものは自然的な観念の中に流入し、このように自然的に〔見える形で〕示されている。〔人間は〕世に生きている間は自然的なものの中で考えるからである(5614番)。
ここから照らされている者のもとで、真理の光は、その内なるものから、このように、内なるものを通して主からである(10691, 10694番)。
さらにまた、その方法によって聖なるものが、みことばに聖なるものを抱いている者のもとへ流入する(6789番)。
実際に再生した人間は、みことばの内意の中に、またその聖なるものの中にいるので、たとえそのことを知っていなくても、それゆえ死後、彼はその中へ入って、もはや文字通りの意味の中にはいない(3226, 3342, 3343番)。
人間の内なる観念は霊的である。しかし、人間は、世に生きているとき、霊的な観念に気づかない。彼の自然的な思考の中に内在しているからである。霊的な観念は自然的な思考に理性的な能力を与える(10236, 10240, 10551番)。
しかし、人間は死後、自分の霊的な観念の中に入って行く。その観念が彼の霊のプロプリウム(固有のもの)であるから。また、その時、それらから考えるだけでなく話す(2470, 2478, 2479, 10568, 10604番)。
ここから、再生した人間は、みことばの霊的な意味の中にいること、またそこから照らしの中にいることを知らない、と言われる。