主について50
50 (4) 「霊」が主について言われているところに、その方の神的いのちが、そのように主ご自身が意味される
このことは、これらから明らかです——
父が遣わされた者は神のことばを話す。神はその方に霊を量って与えられない。父は子を愛し、すべてのものをその方の手に与えられた(ヨハネ3・34、35)。
エッサイの幹から若枝が出た……その方の上にエホバの霊が、知恵と知性の霊、助言と力の霊が休む(イザヤ11・1、2)。
わたしは彼の上にわたしの霊を与えた、彼は国々に審判をもたらす(イザヤ42・1)。
狭い流れのようにやって来る、エホバの霊はその中にしるしを持ち込む。その時、シオンにあがない主がやって来る(イザヤ59・19、20)。
主エホビの霊がわたしの上に〔ある〕……エホバはわたしに、貧しい者に良い知らせ(福音)をもたらすために油を注がれた(イザヤ61・1。ルカ4・18)。
イエスは、自分の霊で彼らがそのように自分たちの間で考えていたことを知って……(マルコ2・8)。
イエスは霊で小躍りして喜び、言われた……(ルカ10・21)。
イエスは自分の霊で乱れて(ヨハネ13・21)。
イエスは自分の霊で嘆息して(マルコ8・12)。
[2]エホバご自身すなわち主としての霊——
神は霊である(ヨハネ4・24)。
だれがエホバの霊を導いたのか、あるいは、だれがその方の助言の男なのか?(イザヤ40・13)。
エホバの霊はモーセの手によって彼らを導いた(イザヤ63・12)。
私はあなたの霊から、どこへ立ち去るのか、私は……どこへ飛び去るのか?(詩篇139・7)。
エホバは言われた、「力によってではない、しかしわたしの霊によって彼は行なう」(ゼカリヤ4・6)。
彼らはその方の霊なる霊を怒らせた。そこから、彼らに向きを変え、敵と〔なられた〕(イザヤ63・10。詩篇106・33)。
わたしの霊は永久に人間を責めない、肉であるからである(創世記6・3)。
わたしは永久に争わない……わたしの前に霊は弱るからである(イザヤ57・16)。
聖霊に逆らう冒涜は赦されない。しかし人の子に逆らうことばを言った者は赦される(マタイ12・31、 32。マルコ3・28―30。ルカ12・10)。
「聖霊に逆らう冒涜」は主の神性に対する冒涜です——「人の子に逆らうことば」は、その意味を異なって解釈しているみことばに対する何らかのものです。というのは、前に示されたように、「人の子」は、みことばに関する主であるからです。