主について65
65 「黙示録」の中に「新しい天と新しい地」、またその後、「見よ、わたしはすべてのものを新しくする」と言われています。それらによって、今や主により設立される教会の中に、前の教会の中になかった新しい教えがあること以外に、他のものは意味されません。
それがなかったのは、もしあったなら、受け入れられなかったことが理由です。というのは、まだ最後の審判はなく、その前に地獄の力が天界の力にまさっていたからです。それゆえ、もし以前に主の口から与えられたなら、人間のもとに残りませんでした。今日もまた、主にだけ近づき、その方を天と地の神と認める者のもとにしか残りません(前の61番参照)。
それでも、以前に、同じこの教えが、みことばの中に与えられていました。しかし教会はその設立の後に間もなく、バビロンに変わり、また続いて他の者のもとで、ペリシテに変わり、それゆえ、その教えはみことばから見られることができませんでした。なぜなら、教会は、みことばを、その宗教の原理とその教えからしか見ないからです。
[2]この小著にある新しいものは、全般的に、これらです——
(1) 神は一つの位格(ペルソナ)と本質であり、その方は主であられる。
(2) 聖書全体はその方だけを扱っている。
(3) 〔その方は〕地獄を征服するために、そしてご自分の人間性を栄化するために世にやって来られた。
両方とも自分の中に許した試練によって行ない、十字架の受難であったそれらの最後のものによって完全に行ない、そのことによってあがない主と救い主となられた。 そのことによってその方おひとりに功績と義がある。
(4) 律法のすべてのものを成就されたが、それはみことばのすべてのものを成就されたことである。
(5) 十字架の受難によって罪を取り去らなかった、しかしそれを預言者のように引き受けられた。 すなわち、教会がどのようにみことばに悪を行なうかご自分によって表象されるために苦しまれた。
(6) 功績の転嫁は、それによって悔い改め後の罪の許しが意味されないなら何ものでもない。
これらがこの小著にあります。
これに続く、『聖書について』、『生活の教えについて』、『信仰について』、『神的愛と神的知恵について』の中に、新しいものがさらに見られます。