新しいエルサレムとその天界の教え 51
51 知識と認識について、それらによって内なる霊的な人が開かれる
外なるまたは自然的な人とその記憶の中にあるものは記憶知と呼ばれる。しかし〔それは〕内なるまたは霊的な人の中にあるものではない(3019, 3020, 3293, 3309, 4967, 9918, 9922番)。
記憶知は、外なるまたは自然的な人に属するので、相対的に仕えるものである。外なるまたは自然的な人は、世が天界に仕えるように、内なるまたは霊的な人に仕えるようにつくられているからである(5077, 5125, 5128, 5786, 5947, 10272, 10471番)。
世にある神的な秩序の法則は外なる人に刻まれているので、外なる人は相対的に世である。天界にある神的な秩序の法則は内なる人に刻まれているので、内なる人は相対的に天界である(4523, 4524, 5368, 6013, 6057, 9278, 9279, 9283, 9709, 10156, 10472番。また著作『天界と地獄』の中の51-58番)。
自然的なものに関係する記憶知がある。それらは市民的な状態と生活に属するもの、道徳的な状態と生活に属するもの、霊的な状態と生活に属するものである(5774, 5734番)。
しかし、区別のために、霊的な状態と生活に関わるものは、それらは特に教えの事柄であり、認識と呼ばれる(9945番)。
人間は知識と認識を教え込まれなくてはならない。それらによって考えること、その後、何が真理と善か理解すること、ついには賢明になること、すなわち、それらにしたがって生きることを学ぶからである(129, 1450, 1451, 1453, 1548, 1802番)。
記憶知と認識は、それらの上に人間の市民的と同様、道徳的な、また霊的な生活を積み重ねられ、基礎づけられる最初のものである。しかし、それらは生活(いのち)での役立ちを目的として学ばれなくてはならない(1489, 3310番)。
記憶知は内なる人への道を開き、そしてその後、それを役立ちにしたがって外なる人に結合する(1563, 1616番)。
理性的なものは知識と認識によって生まれる(1895, 1900, 3086番)。しかし、それは知識と認識そのものによってではなく、それらからの役立ちへの情愛によって、またその情愛にしたがって生まれる(1895番)。
もし人間が目的として善い役立ちを、特に永遠の生活(いのち)を眺める役立ちをもつなら、知識と認識によって内なる人が開かれ、連続的に完成される(3086番)。
その時、自然的な人間の中に存在する記憶知と認識は、天的また霊的な人からの霊的なものに出会い、適合するものを採用する(1495番)。
その時、天界的な生活(いのち)の役立ちは、自然的な人の中の記憶知と認識から、内なる人を通して、主により引き出され、精練され、高揚される(1895, 1896, 1900-1902, 5871, 5874, 5901番)。
また不適当で対立する記憶知はわきへ投げやられ、根絶される(5871, 5886, 5889番)。
内なる人の視覚は、その愛に属するもの以外に、外なる人の記憶知と認識から何も呼び出さない(9394番)。
記憶知と認識は束となって配列され、それによって導き入れられた愛にしたがって結合される(5881番)。
その時、愛に属するものは、内なる人の視野の下に、中心にあり、明るい。愛に属さないものはわきに置かれて暗い(6068, 6084番)。
人間のもとで記憶知と認識は彼の愛の中に連続的に植え付けられ、またその中に住む(6325番)。
人間は、もし主への愛と隣人に対する愛の中へ生まれたなら、すべての知識とそこからの知性の中へ生まれたであろう。しかし、彼は自己と世への愛の中へ生まれているので、完全な無知の中へ生まれている(6323, 6325番)。
知識、知性、知恵は、主への愛と隣人に対する愛の息子である(1226, 2049, 2116番)。
記憶知と認識は、外なるまたは自然的な人に属するので、世の光の中にある。けれども、愛と信仰のものとなって、このようにいのちを得た真理は、天界の光の中にある(5212番)。
それでも、このようにいのちを得た真理は、人間により自然的な観念を通して把握される(5510番)。
霊的なものは内なる人を通して外なる人の中の記憶知と認識の中へ流入する(1940, 8005番)。
記憶知と認識は容器であり、内なる人の、あたかも真理と善の器である(1469, 1496, 3068, 5489, 6004, 6023, 6052, 6071, 6077, 7770, 9922番)。
それゆえ、みことばでは「器」によって霊的な意味で記憶知と認識が意味される(3068, 3069, 3079, 9394, 9544, 9723, 9724番)。
記憶知はあたかも鏡のようなものである、その中に内なる人の真理と善が映像のように見られ、知覚される(5201番)。
〔内なる人の真理と善は〕そこにそれらの最後のものの中にいっしょに存在する(5373, 5874, 5886, 5901, 6004, 6023, 6052, 6071, 6077番)。
記憶知は、世の光の中にあるので、天界の光の中にあるものに比べると、からみ合っていて暗い。外なる人の中にあるものは内なる人の中にあるものと比べると、このようである(2831番)。
さらにまたみことばの中で「からみ合った」によって記憶知が意味される(2831番)――「雲の暗さ」によってもまた〔同じことが意味される〕(8443, 10551番)。
原理は、みことばからのものである教えの真理から引き出され、その真理が最初に認められなくてはならない。そしてその後、その真理を確かめるために記憶知と相談することが許される。このように〔真理は〕強化される(6047番)。
このように信仰の真理について肯定〔の状態〕にいる者には、記憶知によってそれらを知的に確かめることが許される。けれども、否定〔の状態〕にいる者には〔許され〕ない。先行する肯定がすべてのものを自分の側に引き寄せ、また先行する否定がすべてのものを自分の側に引き寄せるからである(2568, 2588, 3913, 4760, 6047番)。
肯定的な疑いと否定的な疑いがある。前者はある種の善い者のもとに、後者は悪い者のもとにある(2568番)。
信仰の真理から記憶知に入ることは秩序にしたがっている、しかし逆に、記憶知から信仰の真理に入ることは秩序に反している(10236番)。
流入は霊的であって、物質的または自然的ではないので、信仰の真理は霊的であり、記憶知は自然的であるので、このように信仰の真理が記憶知に流入する(3219, 5119, 5259, 5427, 5428, 5478, 6322, 9109, 9110番)。
本質的には否定である否定的な疑いの中にいて、記憶知によって説得される以前には信じないと言う者は、決して信じない(2094, 2832番)。
このことを行なう者は、教会と天界に属するものに関して気が狂う(128-130番)。
彼らは悪の虚偽に陥る(232, 233, 6047番)。来世では、彼らは霊的なものについて考えるとき、あたかも酔いどれのようになる(1072番)。
彼らがどのようであるかさらに多く(196番)。
もし霊的なものに逆の順序で入るなら、それは把握することができないことの説明例(233, 2094, 2196, 2203, 2209番)。
多くの学者は霊的なことでは単純な者よりも狂っている。なぜなら、彼らは否定的なものの中にいて、彼らに記憶知が豊富にあり、それらによって否定的なものを確信するからである(4760番)。
霊的ないのちについては何も理解できなかった学者の例(8629番)。
記憶知から信仰の真理に反して推論する者は、感覚の欺きから〔推論する〕ので、鋭く推論する、それ〔感覚の欺き〕は把握させ、説得させる〔ものである〕、ほとんど追い散らすことができないから(5700番)。
真理を何も知らない者、そしてまた悪の中にいる者は、信仰の真理と善について推論することはできるが、それでも決して照らされていない(4214番)。
単に教理を確信することは知的ではない、真理と等しく虚偽も確信されることができるから(1017, 2482, 2490, 4741, 5033, 6865, 7012, 7680, 7950, 8521, 8780番)。
教会の真理について、そのようであるか、そのようでないかと推論する者は、真理についてまったく暗さの中にいる、まだ霊的な光の中にいない(215, 1385, 3033, 3428番)。
神的な真理を入れることを許す記憶知がある、また許さないものがある(5213番)。
空虚な記憶知は滅ぼされなくてはならない(1489, 1492, 1499, 1500番)。
自己と世への愛を目的としてもち、それを確信し、主へと隣人に対する愛から引き離すものは空虚な記憶知である、このような記憶知は内なる人を閉ざし、その後、彼は天界からは何も受け入れることはできないほどにまでなるから(1563, 1600番)。
記憶知は賢明になる手段であり、また狂う手段である。それによって内なる人は開かれるかまたは閉ざされる。このように理性的なものは耕されるかあるいは滅ぼされる(4156, 8628, 9922番)。
死後、知識は無となる、しかし、人間は知識を通して理解力と生活(いのち)に吸収したものは〔無とならない〕(2480番)。
それでもすべての記憶知は死後も存続する、しかし休息してしまう(2476-2479, 2481-2486番)。
同じ記憶知が、悪い者のもとでは悪に適用されるので、虚偽となり、善い者のもとでは善に適用されるので、真理となる(6917番)。
悪い者のもとの記憶知からの真理は、その内部に悪があり、そこから虚偽化されているので、それが話される時、どれほど真理のように見えても、真理ではない。そしてその者のもとの知識はいのちがないので、決して知識と呼ばれるに値しない(10331番)。
賢明になること、理解すること、知ること、行なうことは別ものである。しかし、それでも霊的な生活(いのち)の中にいる者たちのもとでは、それらは秩序正しく続いて起り、また対応しており、行ないの中に、または働きの中に同時に存在する(10331番)。
さらにまた、知ること、認めること、信仰を持つことは別ものである(896番)。
霊たちにある知ろうとする欲望がどんなものであるか、その例(1973番)。
知識、理解、知恵は霊的な食物であるので、天使たちには、知ることと賢明になることとの無限の願望がある(3114, 4459, 4792, 4976, 5147, 5293, 5340, 5342, 5410, 5426, 5576, 558に, 5588, 5655, 6277, 8562, 9003番)。
古代人に主要な知識は対応の知識であった、しかし、それらは今日、忘れられている(3021, 3419, 4280, 4844, 4964, 4966, 6004, 7729, 10252番)。
対応の知識は、東洋人のもとに、またエジプトに存在した(5702, 6692, 7097, 7779, 9391, 10407番)。
彼らの象形文字はそこからである(6692, 7097番)。
古代人は対応の知識によって霊的なものの認識へ導き入れられた(4749, 4844, 4966番)。
みことばは純粋な対応によって書かれている。その内的なまたは霊的な意味はそこからである。対応の知識がなしにその存在は、またみことばの性質も知られることはできない(3131, 3472-3485, 8615, 10687番)。
対応の知識は他の知識にどれほど大きくまさるか(4280番)。