新しいエルサレムとその天界の教え 200
200 試練では主が人間のために闘われる
試練では主おひとりが人間のもとで闘われ、人間は自分自身からはまったく闘わない(1692, 8172, 8175, 8176, 8273番)。
人間は自分自身からは決して悪と虚偽に反対して闘うことはできない。それはすべての地獄に反対することであって、主おひとりを除いてだれも支配し、勝つことができないからである(1692番)。
地獄は人間に反対して闘い、主は人間のために闘われる(8159番)。
人間は真理と善から闘い、そのように自分のもとのそれら〔真理と善〕の知識と情愛から闘う。しかし、人間ではなく、主がそれらによって闘われる(1661番)。
試練の中の人間は、主は不在であると考える、なぜなら、祈りはその時、〔主は〕試練の外〔におられる〕かのように、聞かれないからである、しかしそれでも、主はその時、さらに臨在される(840番)。
試練の中で人間はあたかも自分自身から闘うかのように闘わなければならない、手を拱いて、直接の助けを期待してはならない。しかしそれでも〔助けは〕主からであることを信じなくてはならない(1712, 8179, 8969番)。
そうでなければ、人間は天界のプロプリウムを受けることができない(1937, 1947, 2882, 2883, 2891番)。
そのプロプリウムがどんなものか、それは人間のものではなく、人間のもとにある主のものである(1937, 1947, 2882, 2883, 2891, 8497番)。
もし人間が試練の後でもやはり、主が自分のために闘われて、征服されたことを信じないなら、試練は役立たず、善の何ものも生じさせない(8969番)。
働きに功績を置く者は、悪に対して闘うことができない、なぜなら、自分自身のプロプリウムから闘って、主が自分のために闘われることを許さないから(9978番)。
自分は試練によって天界に値すると信じる者は、ほとんど救われることができない(2273番)。
主は誘惑するのではなく、解放し、善を導き入れられる(2768番)。
試練は神性からのように見える、そのとき、それでも〔そうでは〕ない(4299番)。
「主の祈り」の中の「私たちを試練に導き入れないでください」は、どのように理解されるべきか(経験から、1875番)。
主は、人間が許可について抱くような考えにしたがって、試練を許すことを是認されるのではない(2768番)。
すべての試練に自由が存在する、それでもそのように見えない。しかし、その自由は主から人間のもとの内部にある。またそれゆえ、彼は闘い、征服して、征服されないことを欲するが、これらは自由なしに行なわれない(1937, 1947, 2881番)。
主は内なる人に刻まれている真理と善への情愛によってそのことを行なわれる、人間は〔これを〕知らない(5044番)。
なぜなら、すべての自由は情愛または愛に属し、その性質にしたがっているから(2870, 3158, 8987, 8990, 9585, 9591番)。