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信仰について 31

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31 真理と善の認識は、信仰に先行し、ある者には信仰に属すように見えます、しかしそれでも、そうではありません。信念を抱き、信じているとつぶやいても、それだからといって、信じているのではありません。それらの認識は信仰に属すものでもありません、というのは、それらはそうであるという単なる思考に属すものであり、真理の内なる承認に属すものではないからです。真理である、との信仰は、その真理の存在が知られない間、内なる承認から遠く離れた確信の部類のものです。
けれども、仁愛が植え付けられるとすぐに、その時、それらの認識は信仰に属すものとなります、しかしその信仰の中に仁愛が存在するかぎりそうなります。
仁愛が知覚される前の最初の状態では、信仰が最初の位置に、仁愛が次の位置にくるかのように見えます。しかし仁愛が知覚されるときの第二の状態では、仁愛が最初の位置に、信仰は次の位置にきます。
最初の状態は改心と呼ばれ、第二の状態は再生と呼ばれます。
人間がこの再生の状態の中にいるとき、彼のもとで日ごとに知恵は成長し、日ごとに善は真理を増し加え、実を結ばせます。
その時、人間は、実をもたらし、実の中に種を置き、そこから新しい木、ついには庭園となる木のようです。
その時、真の人間となり、死後は天使となります。その天使の中の仁愛が生活をつくり、信仰はその性質にしたがって美しい形となります。しかし、その時、信仰はもはや信仰と呼ばれないで知性と呼ばれます。
これらのことから、すべての信仰は仁愛からのものであり、その信仰自体からは何もないこと、さらにまた、仁愛が信仰を生み、信仰が仁愛を生むのではないことを明らかにすることができます ―― 真理の認識は、先行するものであり、穀倉の中の貯蔵容器のようなものであって、食物をほしがって、ここから穀物を引き出さないなら、人間を養育しません。