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信仰について

まえがき◀︎目次▶︎002

(1)信仰は真理の内なる承認である

1 今日(こんにち)の信仰によって、教会が教えるので、また理解力の前に明らかでないので、そのようであると考えることしか意味されていません。というのは、「信じよ、疑うな」と言われるからです。もし、「私にはこのことがわからない」と答えるなら、「それだからこそ信じなければならない」と言われます。
それゆえ、今日の信仰は知られないものの信仰であり、盲目の信仰と呼ぶことができます――また、ある者から他の者への教令なので、歴史(史実)に基づく信仰です。
これが霊的な信仰ではないことを以下に示します。

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001◀︎目次▶︎003

2 信仰そのものは、真理であるのでそうであると承認することでしかありません。というのは、信仰そのものの中にいる者は、「これは真理だ、それで、私は信じる」と、このように考え、語るからです。というのは、信仰は真理に属し、真理は信仰に属すからです。
さらにまた、もし真理であることを理解しないなら、彼は、「私は真理であるかどうか知らない、それで、私は信じない――理解しないことを、どのようにして私は信じるのか?ことによると虚偽かもしれない」と言います。

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3 しかし霊的なものまたは神学的なものはだれにも理解することができない、と一般に言われています、超自然的なものであるからです。
しかし霊的な真理は、自然的な真理のように、等しく理解されることができます。明らかではないにしても、それでも、聞かれる時、真理か真理でないか把握されます。これは、真理に情愛を感じる者のもとで特にそうです。
このことを、私は多くの経験から知ることが許されました。
私は、無知な者・不明瞭な者・愚鈍な者と、そしてまた、虚偽の中にいた者・悪の中にいた者、教会の内に生まれて、神について、信仰と仁愛について何らかのことを聞いた者と語ることが許されました。また、彼らと知恵のアルカナ(秘義)を語りました。彼らはすべてを理解し、認めました――それでも、その時、彼らは人間のだれにもある理解力の光の中に、同時に、知性のある者であるという名誉欲の中にいました。
しかしこれらのことは霊たちとの交際の中で〔私に起こったことです〕。
このことから私は多くのことを確信しました。霊的なものは、聞かれ、読まれる時に、自然的なものと等しく理解されることができます。しかしほとんどの場合、人間が自分自身から考えている時ではありません。
霊的なことが把握される理由は、人間は知性に関して、天界の光の中に揚げられることができ、その光の中では、信仰の真理である霊的なものしか見られないからです―― というのは、天界の光は霊的な光であるからです。

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4 それでこのことから、真理への霊的な情愛の中にいる者に、真理の内なる承認があります。
なぜなら、天使はその情愛の中にいて、理解力は信仰の服従の下になければならないというその教義を完全に拒むからです。というのは、天使は、「真理であるかどうかわからないのに、信じることとは何ですか?」と言うからです。そしてもし、だれかが、「それでも信じなくてはならない」と言うなら、彼らは、「あなたは自分を、私が信じなくてはならない神であると思っているのですか?または、私のことを、真理なのかわからなくても、言われたことを信じるような狂人と思っているのですか?では、私が信じるようにしてみなさい」と答えます。そこで、その教条主義者は退きました。
天使の知恵はもっぱら、考えることを見てとり、理解することの中にあります。

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5 霊的な考えについて、ほとんどの者が何も知りませんが、その霊的な考えが真理への情愛の中にいる者へ流入して、聞き、読むことが、真理であるかないかを内的に語りかけます。
みことばを主からの照らしの中で読む者は、この考えの中にいます。
照らしの中にいることは、あれやこれやが真理であるという知覚の中にいること、そこから内なる承認の中にいることでしかありません。
これらが「主により教えられた」(イザヤ54・13、ヨハネ6・45)と呼ばれる者です ―― またその者について、「エレミヤ書」で次のように言われています、

見よ、日がやって来る……それについてわたしは約束する……新しい契約……これが約束である。……わたしはわたしの律法を彼らの真ん中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。……男はもはや自分の仲間に、また自分の兄弟に、「エホバを知れ」と言って、教えない。というのは、すべての者はわたしを知るからである(31・31、 33、34)。

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6 このことから信仰と真理は一つであることが明らかです。それゆえまた、私たちよりも、情愛から真理についての思考の中にいた古代人は、信仰の代わりに真理と言いました。
ここからもまた、ヘブル語で真理と信仰は同一の言葉であり、アムナーまたはアーメンと呼ばれます。

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7 「福音書」と「黙示録」で、主により信仰が言われているのは、預言者たちにより預言されたメシアは主である、ということをユダヤ人たちが真理であると信じなかったからです。真理が信じられないところでは信仰と言われます。
しかし、それでも信仰を持って主を信じることと、信仰を持ってだれかを信じることは別のものです ――その相違について以下に述べます。

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007◀︎目次▶︎009

8 真理から分離した信仰は、法王の支配とともに教会へ入り、教会を占有しました。その宗教を保護する主要なものは、真理についての無知であったからです。それゆえ、みことばを読むこともまた禁じられました ―― そうでなければ、法王が神として礼拝され、聖徒たちが祈られ、彼らの死体や骨や墓が聖なるものとして信じられ、ここから利益を得るための、それほどの偶像崇拝を導き入れることはできませんでした。
ここから、盲目の信仰がどれほど憎むべき虚偽を生み出すことができるか明らかです。

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008◀︎目次▶︎010

9 その後、盲目の信仰は改革主義の教会の多くの者のもとにも残りました。その理由は彼らが信仰を仁愛から分離してしまったからです。また分離する者は真理について無知の中にいることしかできません、彼らが信仰と名づけるものは真理の内なる承認から分離した思考のようなものです。
これらの者にとって、無知は〔彼らの〕教義を保護するものです。なぜなら、無知が支配し、神学上の事柄は〔理解力を〕超えているという信念が支配している間は、矛盾しないで話すこと、真理であることを信じること、自分たちでそれらを理解することができるからです。

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009◀︎目次▶︎011

10 主はトマスに言われました、

トマスよ、あなたはわたしを見たので、信じました。見ないで、信じる者は幸いです(ヨハネ20・29)。

このことによって、真理への内なる承認から分離した信仰でなく、トマスのように主を目で見なくても、それでもその方であることを信じる者が幸いであることが意味されます。というのは、このことは、みことばからの真理の光の中にあるからです。

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010◀︎目次▶︎012

11 (前の24~6番で言われたように)真理への内なる承認は信仰であるので、また信仰と真理は一つであるので、内なるもののない外なる承認は信仰ではなく、間違ったものの確信も信仰ではないといえます。
内なるもののない外なる承認は無知の信仰です。また、無知の信仰は単なる知識であり、記憶に属すものであって、それが確認されるなら信念となります―― その信仰や信念の中にいる者は、他の者がそう言ったから、あるいは態度を固めてから、真理であると考えます。またそれでも、虚偽は真理と等しく、時にはより強く、確信されることができます。
何かが真理であると態度を固めて考えることによって、他の者により言われたことを、それを真理であると考え、それを前もって調べることなく、単に確信することが意味されます。

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011◀︎目次▶︎013

12 もしだれかが、「信仰である真理の内なる承認をだれが持つことができるのか? 私はできない」と自分自身が考えるか、または他の者に言うなら、私はその者に、どのようにしてできるかを言いましょう――「悪を罪として避け、主に近づきなさい、そのとき、あなたは望むだけ多くの信仰を持つでしょう」。
悪を罪として避ける者が主の中にいることは、『新しいエルサレムのための生活の教え』の18~31番を、彼らが真理を愛し、それを見ることは、32~41番を、また彼らが信仰を持つことは、42~52番を見てください。

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012◀︎目次▶︎014

(2)信仰である真理の内なる承認は、仁愛にいる者のもとにしか存在しない

13 これまで、信仰が何か言いました ―― これから、仁愛が何か言います。
仁愛の最初の起源は善への情愛です。善は真理を愛するので、善への情愛は真理への情愛を生み、その真理への情愛を通して、信仰である真理の承認を生み出します。その連鎖の中で、これらによって、善(*)への情愛が存在するようになり、仁愛となります。
これは、仁愛が、善への情愛であるその起源から、真理の承認である信仰を通して、その目的へと進むことです。目的とは行動です。
これらから、善への情愛である愛がどのように、信仰を生み出すか明らかです。その信仰は、真理の内なる承認と同じものであり、この内なる承認によって仁愛を生みます、信仰を通してその仁愛は愛の行動と同じものです。

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013◀︎目次▶︎015

14 しかしさらに明らかにしましょう。善は役立ちでしかありません――それゆえ、仁愛はその最初の起源では役立ちへの情愛です。そして役立ちは手段を愛するので、それは手段への情愛を生み、その手段への情愛からそれらの思考を生み出します。その連鎖の中で、これらを通して、役立ちへの情愛が存在するようになり、仁愛となります。

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014◀︎目次▶︎016

15 その進むことは、あたかも意志のすべてのものが理解力を通して、身体の中の行動へ進むかのようです。
意志は、理解力なしにそれ自体からは何も生み出さず、理解力もまた、それ自体からでは意志なしに何も生み出しません。何かが存在するようになるためには〔この二つが〕結合して働きます。
または、同じことですが、意志のものである情愛は、理解力である思考によらないなら、それ自体からでは、何も生み出さず、その逆もそうであり、何かが存在するようになるためには〔この二つが〕結合して働きます。
熟考してみてください、思考から何らかの愛に属すものである情愛を取り去るなら、考えることができるでしょうか?または、情愛から思考を取り去るなら、何らかの事柄に情愛を感じることができるでしょうか?または、同じことですが、思考から情愛を取り去るなら、何かを話すことができるでしょうか?あるいは、情愛から思考または理解力を取り去るなら、あなたは何かを行なうことができるでしょうか?
仁愛と信仰についても同じことです。

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015◀︎目次▶︎017

16 これらは木との比較によって説明することができます。
木はその最初の始まりは種の中にあり、その中には実を生み出すコナトゥス(努力)があります。
この努力は熱により刺激されて、最初に根を、そして根から枝や葉とともに幹または茎を、そして最後に実を生み出します。このように、実を結ぶ努力は存在するようになります ―― このことから、実を生み出す努力は、存在するようになるまで、進むことのすべての中に絶えず存在することが明らかです。なぜなら、もしそれが終わるなら、生長する力は直ちに死んでしまうからです。
これらのことを〔人間に〕適用しましょう ――
木は人間です。手段を生み出す努力は、人間の場合、理解力の中の意志から存在します。枝や葉とともに幹または茎は、人間の場合、その意志の手段であり、信仰の真理と呼ばれます。木の中で実を結ぶ努力の最後の結果である実は、人間の場合、役立ちです。この役立ちの中に〔結果としての〕意志が存在します。
ここから、理解力を手段として役立ちを生み出す意志は、存在するようになるまで進むことのすべての中に不断に存在することを知ることができます。
意志と理解力について、またそれらの結合については、『新しいエルサレムのための生活の教え』の43番を見てください。

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016◀︎目次▶︎018

17 ここに述べたことから、仁愛は、善または役立ちの情愛であるかぎり、手段として、その手段によって存在するようになる信仰を生み出すこと、その結果として、仁愛と信仰は、役立ちを果たす中で、結合して働くことが明らかです。
さらにまた、善または役立ちは信仰をそれ自体からでは生み出されず、信仰は仁愛の手段であるので、仁愛から生み出されます。
そこで、木が実を生み出すように、信仰が善を生み出すとすることは誤りです。信仰がその木ではなく、人間が〔役立ちの実を生み出す〕木なのです。

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017◀︎目次▶︎019

18 知っておくべきことは、仁愛と信仰は、仁愛が意志に属し、信仰が理解力に属すので、意志と理解力のように一つのものとなること、同様に、仁愛と信仰は、情愛が意志に属し、思考が理解力に属すので、情愛と思考のように一つのものとなること、さらに同様に、仁愛と信仰は、善が意志のものである情愛に属し、真理が理解力のものである思考に属すので、善と真理のように一つのものとなることです。
一言でいえば、仁愛と信仰は本質と形のように一つのものとなっています。信仰の本質は仁愛であり、仁愛の形は信仰であるからです ――このことから、仁愛のない信仰は本質のない形のようなものであり、それは何ものでもないこと、また、信仰のない仁愛は形のない本質のようなものであり、それもまた何ものでもないことが明らかです。

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018◀︎目次▶︎020

19 仁愛と信仰は、人間のもとで完全に心収縮や心拡張と呼ばれる心臓の運動のように、また呼吸と呼ばれる肺の運動のように振る舞います――そしてまた、それらには、人間の意志また理解力との、したがって仁愛また信仰との完全な対応があります――それゆえまた、意志とその情愛は、みことばで「心臓」によって意味され、理解力とその思考は、みことばで「魂」によって、また「息」によって意味されます。それゆえ、「魂を送り出すこと」はもはや生きないことであり、「息を送り出す」はもはや呼吸しないことです。
これらのことから、信仰は仁愛なしに存在できず、仁愛も信仰なしに存在できないこと、また、仁愛のない信仰は、心臓なしの肺の呼吸のようであり、それは何らかの生きものの中に存在することはできず、自動人形の中にだけ存在できること、また、信仰のない仁愛は、肺のない心臓のようであり、そこからは何らかの生きているものが感じられないことがいえます――したがって、心臓が肺によって活動するように、仁愛は信仰によって役立ちを果たすことになります。
霊界では、ある者の信仰がどのようなものであるか呼吸だけから、その仁愛がどのようなものであるか心臓の鼓動から、だれにも知られるような、心臓と仁愛の間にまた肺と信仰の間に、そのような大きな類似が存在します―― というのは、天使と霊たちは人間と同じに、心臓の鼓動と肺の呼吸で生きているからです。ここから、彼らはこの世の人間と同様に、感じ、考え、行動し、話します。

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019◀︎目次▶︎021

20 仁愛は隣人に対する愛であるので、隣人とは何かもまた述べます。
自然的な意味で隣人は、集団としても個人としても、人間です。
集団としての人間は、教会・祖国・社会です。個人としての人間は、同郷の市民であり、みことばで「兄弟」や「仲間」と呼ばれます。
しかし、霊的な意味で隣人は善であり、役立ちは善であるので、霊的な意味で隣人は役立ちです。
役立ちが霊的な隣人であることを、だれもが認めるべきです。というのは、だれが人間を単に人物として愛するでしょうか?そうではなくて、彼の中にあるものから、彼の性質から、その人間を愛するのです ―― この愛される性質が、役立ちであり、善と呼ばれます。そこで、これが隣人です。
みことばは、その内部では霊的であり、それゆえ、役立ちや善を愛することが霊的な意味で隣人を愛することです。

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020◀︎目次▶︎022

21 しかし自分に向けられている隣人の中の善または役立ちからその隣人を愛することと、隣人に向けて自分自身の中の善または役立ちからその隣人を愛することは、別のものです。
自分に向けられている隣人の中の善または役立ちからその隣人を愛することは悪い者にもできます。しかし隣人に向けて自分自身の中の善または役立ちからその隣人を愛することは善い者でなければできません。なぜなら、後者は善から善を愛し、または役立ちの情愛から役立ちを愛するからです。
前者と後者の相違が、主により「マタイ」(第5章42~47節)に述べられています。
多くの者が、「彼が私を愛し、私に善を行なうので、私は彼を愛する」と言います。しかしそれでも、そのことだけから彼を愛することは、自分自身が善の中にいて、その善から彼の善を愛するのでないなら、内的に彼を愛することにはなりません。一方は仁愛の中にいます、もう一方は仁愛ではない友情の中にいます。
仁愛から隣人を愛する者は、自分自身を隣人の人物とではなく、彼の善と結合させ、隣人が善の中にいるかぎり、それだけ結合します。この者は霊的であり、霊的に隣人を愛します。しかし、単なる友情から他の者を愛する者は、自分自身をその人物と結合させ、そして同時に、彼の悪とも結合します。この者は、死後、悪の中いる人物からほとんど分離されることができません、けれども、これと別の者はできます。
仁愛はこのことを信仰によって果たします、信仰は真理であるからです。仁愛の中にいる人間は、真理によって、何が愛されるべきかを調べ、知ります。愛し、善を行ないながら、役立ちの性質を考慮しています。

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021◀︎目次▶︎023

22 主への愛はまさしく愛であり、隣人に対する愛は仁愛です。
人間が仁愛の中にいないなら、彼のもとに主への愛は存在しません。仁愛の中で主ご自身が人間と結合されます。
信仰は本質的に仁愛であるので、もし仁愛の中にいないなら、だれも主への信仰を持つことができないことがいえます。仁愛から信仰を通して結合があり、仁愛によって主が人間と結合され、信仰を通して人間が主と結合します。
結合が相互的であることは、『新しいエルサレムのための生活の教え』(102~107番)を見てください。

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022◀︎目次▶︎024

23 要約すれば、だれかが悪を罪として避ければ避けるほど、主へ目を向ければ向けるほど、それだけ仁愛の中に、したがって、それだけ信仰の中にいます。
だれかが悪を罪として避け、主へ目を向けるほど、それだけ仁愛の中にいることは、『新しいエルサレムのための生活の教え』67~73番、さらに74~91番に見られ、また、それだけ信仰を持つことは42~52番に、正しい意味で仁愛が何かは114番に見られます。

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023◀︎目次▶︎025

24 これまで述べたことのすべてから、救う信仰は真理の内なる承認であり、仁愛の中にいる者のもとにしか存在できないことが明らかです。

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024◀︎目次▶︎026

(3)真理と善の認識は、人間が仁愛の中にいる前に信仰に属すものではなく、
仁愛の信仰が形成されることのできる貯蔵庫である

25 人間には少年期の最初から知ることへの情愛があります。その情愛によって、自分に役立つであろう多くのことと役立たないであろう多くのことを学びます。
成長したとき、ある職業へ適用することから、職業に関する事柄を吸収します。その時、これが彼にとって役立ちとなり、その役立ちに情愛を感じます ―― このように、役立ちの情愛は始まり、手段への情愛を生み出し、その手段によって役立ちである自分の職業へ進みます。
この進むことは世のそれぞれの者にあります、それぞれの者は何らかの職業につき、手段を通して目的である役立ちによってその職業に向けて、結果である役立ちそのものへ向けて、進むからです。
けれども、この役立ちはその手段とともに、世での生活のためのものであるので、その情愛は自然的です。

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025◀︎目次▶︎027

26 しかしすべての人間は、世での生活のための役立ちに目を向けるだけでなく、天界での生活のための役立ちにもまた目を向けるべきです(というのは、世での生活の後、そこへやって来て、その後、そこで永遠に生きるからです)。それゆえ、だれもが、少年期から自分自身に天界の生活のためのものである真理と善の認識を、みことばから、または教会の教えから、または説教から取得し、それらを自然的な記憶の中に、多かれ少なかれ、知ろうとする生来の情愛にしたがって、またいろいろな刺激によって増やされた情愛にしたがって、蓄えます。

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026◀︎目次▶︎028

27 しかしすべてこれらの認識は、どれほど多くても、どんな種類のものであっても、仁愛の信仰を形成することのできる単なる貯蔵庫です。またこの信仰は、悪を罪として避けないなら、形成されません。
悪を罪として避けるなら、そのとき、それらの認識は信仰に属すものになり、そこに霊的ないのちが内在します ――けれども、悪を罪として避けないなら、それらの認識は認識でしかなく、信仰に属すものとならないで、そこに霊的ないのちは内在しません。

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027◀︎目次▶︎029

28 この貯蔵庫は、それらなしで信仰は形成されることができないので、最も必要です。真理と善の認識は信仰へ入り、信仰を形成するからです ――認識がないなら、信仰は存在するようになりません。認識がまったく空虚で無意味な信仰は存在しません。もし認識が少なければ、信仰はちっぽけで貧弱なものとなり、認識が多ければ、信仰はその量にしたがって、富み、満ち足りたものとなります。

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028◀︎目次▶︎030

29 しかし、信仰をつくるのは真理と善の本物の認識であって、虚偽の認識からではまったくつくられないことを知っておくべきです。というのは、前に述べたように(5~11番)、信仰は真理であり、虚偽は、真理と正反対のものであって、信仰を滅ぼすからです ―― 仁愛は虚偽そのものがあるところにも存在することができません、なぜなら(前の18番で述べたように)、善と真理が一つのものとなるように、仁愛と信仰は一つのものとなるからです。
ここからもまた、真理と善の本物の認識でなければ、信仰はつくられず、少ない認識は何らかの信仰をつくり、多くの認識は、その豊富さにしたがって、照らされた信仰をつくることがいえます。
仁愛からの信仰がどのようなものであるかによって、その者の知性もそのようなものとなります。

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029◀︎目次▶︎031

30 真理の内なる承認を持たず、それでも仁愛の信仰を持つ者もまた多く存在します。その者は、生活の中で主に目を向け、宗教から悪を避けたけれども、世での心配事や職業により、そしてまた教える者の真理の欠乏により、真理について考えることを妨げられた者です ―― しかし彼らはそれでも内的にすなわち霊の中では、真理への情愛の中にいるのでその承認の中にいます。それゆえ、死後、彼らは霊となって、天使によって教えられる時、真理を認め、楽しさとともにそれらを受け入れます。
けれども、生活の中で主に目を向けず、宗教から悪を避けなかった者は異なります。これらの者は内的にすなわち霊の中では、真理への何らかの情愛の中にいません、ここから、真理の何らかの承認の中にもいません。それゆえ、彼らは死後、霊となって、天使によって教えられる時、真理を認めようとはせず、それでそれらを受け入れません ―― というのは、生活での悪は真理を内的に憎みます、しかし、生活での善は内的に真理を愛するからです。

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030◀︎目次▶︎032

31 真理と善の認識は、信仰に先行し、ある者には信仰に属すように見えます、しかしそれでも、そうではありません。信念を抱き、信じているとつぶやいても、それだからといって、信じているのではありません。それらの認識は信仰に属すものでもありません、というのは、それらはそうであるという単なる思考に属すものであり、真理の内なる承認に属すものではないからです。真理である、との信仰は、その真理の存在が知られない間、内なる承認から遠く離れた確信の部類のものです。
けれども、仁愛が植え付けられるとすぐに、その時、それらの認識は信仰に属すものとなります、しかしその信仰の中に仁愛が存在するかぎりそうなります。
仁愛が知覚される前の最初の状態では、信仰が最初の位置に、仁愛が次の位置にくるかのように見えます。しかし仁愛が知覚されるときの第二の状態では、仁愛が最初の位置に、信仰は次の位置にきます。
最初の状態は改心と呼ばれ、第二の状態は再生と呼ばれます。
人間がこの再生の状態の中にいるとき、彼のもとで日ごとに知恵は成長し、日ごとに善は真理を増し加え、実を結ばせます。
その時、人間は、実をもたらし、実の中に種を置き、そこから新しい木、ついには庭園となる木のようです。
その時、真の人間となり、死後は天使となります。その天使の中の仁愛が生活をつくり、信仰はその性質にしたがって美しい形となります。しかし、その時、信仰はもはや信仰と呼ばれないで知性と呼ばれます。
これらのことから、すべての信仰は仁愛からのものであり、その信仰自体からは何もないこと、さらにまた、仁愛が信仰を生み、信仰が仁愛を生むのではないことを明らかにすることができます ―― 真理の認識は、先行するものであり、穀倉の中の貯蔵容器のようなものであって、食物をほしがって、ここから穀物を引き出さないなら、人間を養育しません。

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031◀︎目次▶︎033

32 信仰は仁愛からどのようにして形成されるかも述べます。
それぞれの人間には自然的な心と霊的な心があります。自然的な心は世のために、霊的な心は天界のためにあります。
人間は理解力に関して両方の心の中にいます。けれども、意志に関して、悪を罪として避け、退ける前に、そうではありません。
悪を罪として避け、退けるとき、霊的な心は意志に対してもまた開かれます。開かれると、霊的な心から自然的な心の中へ天界からの霊的な熱が流入します。その熱は本質では仁愛であり、自然的な心にある真理と善の認識を生かし、それらから信仰を形成します。
これらのことは、木に生じるように生じます。木は、太陽からの熱が流入し、光と結合する前に、春の時に生じるような生長力のある生命を受けません。
人間が活気づけられることと木の生長の間には相似性が満ちています。世の熱によって木の中で行なわれることが、天界の熱によって人間の中で行なわれます―― それゆえ、主により人間はしばしば木にたとえられています。

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032◀︎目次▶︎034

33 これらの簡潔な説明から、真理と善の認識は、人間が仁愛の中にいる前に信仰に属すものでなく、そこから仁愛の信仰が形成されることができる貯蔵庫であることを明らかにすることができます。
真理の認識は、再生された者のもとで真理となります。善の認識もまた真理となります、なぜなら、善の認識が理解力の中にあるからです、しかし、善への情愛は意志の中にあります。そして、理解力の中にあるものは真理と呼ばれ、意志の中にあるものは善と呼ばれます。

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033◀︎目次▶︎035

(4)キリスト教信仰の普遍的な考え

34 キリスト教信仰の普遍的な考えは次のものです――

エホバであられる永遠から存在される主は、地獄を征服し、ご自分の人間性を栄化されるために世に来られた。また、このことなしに人間はだれも救われることができなかった。また、その方を信じる者は救われる。

信仰について

034◀︎目次▶︎036

35 普遍的な考えと言われるのは、これは信仰の普遍的なものであり、信仰の普遍的なものは、すべてと個々のものの中に存在すべきものであるからです。

(1)神は一つの位格と本質であり、その中に31性があること、また主がその神であることが信仰の普遍的なものです。
(2)主が世に来られなかったなら、人間は救われることができなかったことが信仰の普遍的なものです。
(3)人間から地獄を遠ざけるために世に来られ、地獄に対する闘争に勝利することによって、それを遠ざけられたこと、このように地獄を征服され、それを秩序へ、ご自分の服従の下へ戻されたことが信仰の普遍的なものです。
(4)世でまとわれた人間性を栄化し、すなわち、もとの神性と結合し、こうしてご自分によって征服した地獄に秩序を取り戻し、永遠にご自分の服従の下に保つために世に来られたことが信仰の普遍的なものです。

この〔後半の〕二つとも試練によらないかぎり、その最後ものによらないかぎり行なわれることができませんでした。その最後のものは十字架の受難であり、それゆえ、主はその最後の試練を受けられました。
これらが主についてのキリスト教信仰の普遍的なものです。

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035◀︎目次▶︎037

36 人間の側からのキリスト教信仰の普遍的なものは、主を信じることです。なぜなら、その方を信じることによってその方との結合が生じ、それによって救いが生じるからです。
その方を信じることは、その方は救われると信頼することです―― よく生きる者でないなら、信頼することはできないので、それゆえ、よく生きることもまたその方を信じることによって意味されます。

信仰について

036◀︎目次▶︎038

37 キリスト教信仰の二つの普遍的なものについては〔別書でそれぞれ〕詳細に扱いました。第一のものである主についての考察は『主についての新しいエルサレムの教え』に、第二のものである人間についての考察は『新しいエルサレムのための生活の教え』にあります。それゆえ、ここでそれらのことをさらに取り扱う必要はありません。

信仰について

037◀︎目次▶︎039

(5)今日の信仰の普遍的な考え

38 今日(こんにち)の信仰の普遍的な考えは次のものです――

御父なる神は、ご自分の御子を人類のためのあがないとして〔世に〕送られた。そしてこの御子の功績ゆえに哀れまれ、そのことを信ずる者を救われる。(他書に、このことを信じ、それと同時に善をなす者を救われる)。

信仰について

038◀︎目次▶︎040

39 しかしその信仰がどんなものかさらにはっきりと知られるために、私はその信仰が規定するさまざまなものを順に示します。
今日の信仰の主張は――

(1)御父なる神と御子なる神は、ふたりであり、ふたりとも永遠からの神である。
(2)御子なる神は御父の意志から、人類のためにあがないをなすために世に来られた。そうでなければ人類は神の義により、それを報復的なものと呼ぶ者もいるが、永遠に滅んでしまった。
(3)律法を成就し、十字架の受難を通して、御子によるあがないがなされた。
(4)御子のこのことのゆえに、父は慈悲をもたれた。
(5)このことを信じる者に、御子の功績が転嫁される。
(6)この転嫁は瞬間になされ、それゆえ、前もってでなくとも、死の最期の時でもまたなされる。
(7)何らかの試練がある、その時、この信仰によって解放される。
(8)この信仰をもつ者に、特に信頼と信任がある。
(9)この者に、特に、義認、御子のゆえに御父の完全な恵み、すべての罪の赦し、こうして救いがある。
(10)教える者たちは、この者に、あからさまに意志を動かさないけれども、ひそかに働く善への努力があると主張する
あからさまな働きを主張する者もいる――両者とも、その働きは聖霊によるとしている。
(11)功績的な善でないなら、だれも自分から善を行なうことができない、また律法のくびきの下にいない、このことを自分自身に確認し、善を行なうことを放棄し、悪の生活や善の生活について考えない者が極めて多い。というのは、信仰だけがすべてをなすので、善の働きは救わず、悪も断罪しない、と心の中で言っているからである。
(12)一般的に、理解されないけれども信仰に属すものがあると言って、理解力をこの信仰の服従の下にあるとする。

信仰について

039◀︎目次▶︎041

40 しかしこれらが真理であるかどうか一つずつ調べ、熟考することは省きます。前述したことから、特に、『新しいエルサレムの教え 主について』と『新しいエルサレムのための生活の教え』の中で、みことばから証明され、同時に理性的に確信したことから、はっきりと明らかです。

信仰について

040◀︎目次▶︎042

41  しかし、それでも仁愛から分離した信仰がどんなものか、またそれから分離しない信仰がどんなものか知られるために、私が天界の天使から聞いたことを伝えます。
その天使は、改革派の多くの者と話し、彼らの信仰がどのようなものか聞き、仁愛から分離した信仰の中にいた者と何を話し、また分離しなかった信仰の中にいた他の者と何を話したか、そして両者から聞いたこと、彼らに質問したことと彼らが答えたことについて語りました。
それらは例証となるので、その会話をここに引用します。

信仰について

041◀︎目次▶︎043

42 天使が、「仁愛から分離した信仰の中にいた者と次のような会話をした」と言いました。

「友よ、あなたは何者ですか?」――「私は改革派のキリスト教徒です」。
「あなたの教えとそこからの宗教は何ですか?」 ――「信仰です」と答えた。
「あなたの信仰とは何ですか?」――「私の信仰は〝父なる神が人類のためにあがないとして御子を送られ、そしてこのことを信じる者は救われること〟です」。
その時、質問して言いました。「あなたは救いについて他に何を知っていますか?」――「救いはその信仰だけによります」と答えた。
さらに、「あがないについて、あなたは何を知っていますか?」――「十字架の受難によってなされたことです、御子の功績がその信仰を通して転嫁されます」と答えた。
さらに、「再生について、あなたは何を知っていますか?」――「その信仰によって生じます」、と答えた。
「悔い改めと罪の許しについて、あなたは何を知っていますか?」――「その信仰によって生じます」と答えた。
「愛と仁愛について、あなたの知っていることを言ってください」――「それらはその信仰です」と答えた。
「善の働きについて、あなたの知っていることを言ってください」――「それらはその信仰の中にあります」と答えた。
「みことばの中のすべての戒めについて、あなたは何と考えているか言ってください」――「それらはその信仰の中にあります」と答えた。
その時、「それでは、あなたのすべきことは何もありません」――「何を私は行なうべきなのですか?善である善を私から行なうことはできません」。
「あなたは自分から、信仰を持つことができるのですか?」――「私からはできません」。
「その時、どのようにして信仰を持つことができるのですか?」――「このことを、私は詮索しません。私は信仰を持っています」。
最後に、「救いについて、あなたはほかに何かを知っているはずです」――「その信仰だけによって救われるとき、ほかに何を〔知るべきですか〕?」。
しかしその時、天使は、「あなたは1本調子の笛を吹くかのように答えています。私には信仰しか聞こえません。あなたが信仰を知っているとしても、他のことを知らないなら、あなたは何も知っていません。去りなさい、そして仲間に会いなさい」と言いました。

彼は立ち去り、草の生えていない荒地で仲間と会いました。〔彼が〕「なぜこのようなことになったのか」と質問したとき、〔仲間から〕「自分たちに何も教会がないからである」と言われました。

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042◀︎目次▶︎044

43 天使は、仁愛から分離していない信仰の中にいた者と次のような会話をしました――

「友よ、あなたは何者ですか?」――「私は改革派のキリスト教徒です」。
「あなたの教えとそこからの宗教は何ですか?」 ――「信仰と仁愛です」。
「それらは二つですね」――「分離されることはできません」。
「信仰とは何ですか?」――「みことばに教えられていることを信じることです」。
「仁愛とは何ですか?」――「みことばに教えられていることを行なうことです」。
「あなたはそれらをただ信じただけですか、それともまた、あなたは行ないもしましたか?」――「私は行ないもしました」。
その時、天界の天使は彼を見つめ、言いました、「私の友よ、私とともに来て、私たちとともに住みなさい」。

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043◀︎目次▶︎045

(6)仁愛から分離した信仰はどんなものか

44 仁愛から分離した信仰がどんなものであるか知られるために、私はそれを裸のままに示します。次のようなものです――

人類に対して怒られた御父なる神は、人類をご自分のもとから追い払われ、義から、永遠の断罪によって復讐することを決心された――そして御子へ、「降りよ、律法を成就せよ、そして人類に定められた断罪をおまえに引き受けよ。その時、おそらく、わたしは哀れむであろう」と言われた。
それゆえ、降り、律法を成就され、ご自分を十字架に掛けて苦しめ、残酷に殺された――その行為をもって、御父へ戻られ、「わたしは人類の断罪を引き受けた。今や、慈悲深くあられよ」と言われた。
しかし、その答えは、「わたしは彼らに対してはできない、しかし十字架の上のおまえを、その時のおまえの血を見た、わたしは慈悲の念を引き起された。しかし、それでも、わたしは彼らを赦さない、しかしおまえの功績を彼らに転嫁する、けれども、このことを認めない他の者には転嫁しない」であった。
これが救われることのできる信仰でなくてはならない。

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044◀︎目次▶︎046

45 以上が裸のままのその信仰です。
何らかの照らされた理性をもつ者で、だれがこの中に神的本質そのものに反する背理を見いださないでしょうか?
例えば、愛そのもの、慈悲そのものであられる神が、怒りから、人間を復讐して断罪し、地獄へと呪うことをおできになったこと――なおまた御子が断罪を負われたこと、また御子の十字架上の受難とその血を見ることによって、哀れみへとつき動かされたことです。
何らかの照らされた理性をもつ者で、神が自分と同等の神へ、「わたしは彼らを赦さない、しかしおまえの功績を彼らに転嫁する」と言うこと、そのようにまた、「今や、望むように生活させよう、彼らにこのことを信じさせよう、そうすれば救われるだろうから」と言うことなどできなかったことを、だれがわからないでしょうか?他の多くのことも同じです。

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045◀︎目次▶︎047

46 しかしこれらのことがわからなかった理由は、盲目の信仰を導き入れ、それらによって目を閉ざし、耳をふさいでしまったからです。
目を閉ざし、耳をふさいで、すなわち、何らの理解力から考えないようにさせて、永遠のいのちについて何らかの考えを刻みつけられた者に何でもあなたが欲することを言ってみなさい、彼らは信じるでしょう――それどころか、神は怒り、復讐を切望することができ、神はだれかに永遠の断罪を負わせることができ、神は御子の血によって哀れみへと動かされることを欲していること、そしてこれを功績として、人間に転嫁し、彼に属すものとすること、そしてただそのように考えることだけで救われること、そのようにまた、ある神が本質ではひとつである他の神とこのような約束をすること、またその神にそれを負わせることができたこと、その他にも同じようなことを、あなたが言うにしても、彼らは信じるでしょう。
しかし目を開け、耳を開いて、すなわち、それらについて理解力から考えなさい、するとあなたは、それらが真理そのものと一致しないことを知るでしょう。

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046◀︎目次▶︎048

47 目を閉ざし、耳をふさいで、何らかの理解力から考えないようにしなさい。あなたは、神がご自分の力のすべてを人間に、神として地上で存在するようにと明け渡された、という信仰を導き出すことができるのではないでしょうか?
あなたは、死んだ人間に加護を祈らなくてはならない、被り物を取り、ひざまずいて、彼らの像、また彼らの死骸、彼らの骨、彼らの墓も聖なるものであり、崇められるべきものである、という信仰を導き出すことができるのではないでしょうか?
しかし目を開け、耳を開いて、すなわち、それらについて何らかの理解力から、あなたが考えるなら、あなたは人間の理性が忌み嫌わなくてはならない憎むべきものを見るのではありませんか?

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48 このようなもの、また同じような他のものが、宗教によって理解力が閉ざされている人間により受け入れられる時、礼拝が行なわれる神殿は、見るものが何であるかわからない、地下の洞窟かまたはほら穴にたとえることができませんか?そして、その宗教は窓がない家の中に住むことに、またその礼拝での声は、言葉ではなく音にたとえることができませんか?
天界の天使は、このような人間と話すことができません、一方はもう一方の話しを理解しないからです。

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048◀︎目次▶︎050

(7) 仁愛から分離した信仰の中にいる者は、みことばの中で、ペリシテ人によって表象される

49 みことばの中では、国民や民族、さらに人物や場所のすべての名前によって、教会の事柄が意味され、教会そのものは、イスラエルとユダによって意味されます、彼らのもとに設立されたからです。また彼らのまわりの国民や民族によっていろいろな宗教的信念が意味され、善良な国民によって〔教会と〕一致する宗教的信念が、邪悪な国民によって〔教会と〕一致しない宗教的信念が意味されます。
二つの宗教的信念があり、それへとすべての教会が時の経過とともに堕落してゆきます。その一つは教会の善を不純化するもの、もう一つは教会の真理を虚偽化するものです。
教会の善を不純化する宗教的信念は、その起源を支配することへの愛から得ています。教会の真理を虚偽化するもう一つの宗教的信念は、その起源を自己知性の高慢から得ています。
支配することへの愛から起源を得ている宗教的信念は、みことばの中で、バビロンによって意味されます。自己知性の高慢から起源を得ている宗教的信念は、みことばの中で、ペリシテによって意味されます。
今日、だれがバビロンからの者であるか知られています。しかしだれがペリシテからの者であるか知られていません。
信仰の中にいて仁愛の中にいない者がペリシテからの者です。

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50  ペリシテからの者が信仰の中にいて仁愛の中にいない者であることは、みことば中で彼らについて述べられているいろいろなことから、アブラハムやイサクのしもべと彼らの争いから(そのことについては「創世記」第21章、第26章)、と同じくイスラエルの子らと彼らの戦争から(そのことについては「士師記」、それと「サムエル記」と「列王記」の中にあります)、それらを霊的な意味で理解するとき、明らかにすることができます。というのは、みことばの中に述べられたすべての戦争は、霊的な意味で、霊的な戦争を含み、意味するからです。そして仁愛から分離した信仰であるこの宗教的信念は、絶えず教会を乗っ取ろうと欲したので、それゆえ、ペリシテ人はカナンの地に留まり、イスラエル民族をたびたび攻撃したのです。

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51 ペリシテ人は仁愛から分離した信仰の中にいる者を表象したので、それゆえ「無割礼の者」と呼ばれました。「無割礼の者」によって、霊的な愛のない者が、ここから自然的な愛だけの中にいる者が意味されます。霊的な愛とは仁愛です。
これらの者が「無割礼の者」と言われる理由は、「割礼を受けた者」によって霊的な愛の中にいる者が意味されるからです。
(ペリシテ人が「無割礼の者」と言われることは、「サムエル記Ⅰ」17・26、36、「サムエル記Ⅱ」1・20、その他に見られます)

信仰について

051◀︎目次▶︎053

52 仁愛から分離した信仰の中にいる者がペリシテ人によって表象されたことは、イスラエル民族との彼らの戦争からだけでなく、彼らについて、みことばに記録されている他の多くのことからも明らかにすることができます。例えば、彼らの像ダゴンついて、痔とネズミについて、彼らは自分たちの像のある神殿の中に〔契約の〕箱を置いたために、痔に打たれ、ネズミに悩まされました、またその時に起こった他のことからです(それらについて、「サムエル記Ⅰ」第5、第6章)。同じく、ダビデにより殺されたペリシテ人であったゴリヤテについてからも(そのことについて「サムエル記Ⅰ」第17章)。
というのは、彼らの像ダゴンは、上方は人間、下方は魚のようであって、そのことによって、彼らの宗教が表象されたからです。その宗教は信仰から霊的なもののようでした、けれども仁愛がないことから単なる霊的なものでした――彼らが打たれた「痔」によって、彼らの愛の不潔さが意味されました。彼らが悩まされた「ネズミ」によって、真理の虚偽化による教会の荒廃が意味されました。また、ダビデにより殺されたゴリヤテによって、彼らの自己知性の高慢さが表象されました。

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052◀︎目次▶︎054

53 仁愛から分離した信仰の中にいる者が、ペリシテ人によって表象されたことは、彼らについて扱われている預言書のみことばからも明らかです。例えば次のものからです――

「エレミヤ書」に、

ペリシテ人に対して……見よ、北から上ってくる水を、それは氾濫する流れとなり、地とそれに満ちるものに、都とその中に住む者に氾濫する。それで人間は叫び、地に住む者すべては泣きわめく。……エホバはペリシテ人を破滅させる(47・1、2、4)。

「北から上ってくる水」は地獄からの虚偽です。それが「氾濫する流れになり、地とそれに満ちるものに氾濫する」は、それらによって教会のすべてのものが荒廃することを意味します。「都とその中の住民」は、その教えのすべてが荒廃することを意味します。「それで人は叫び、地に住む者すべては泣きわめく」は、教会の中のすべての真理と善が欠乏することを意味します。「エホバはペリシテ人を破滅させる」は、彼らの滅亡を意味します。

「イザヤ書」に、

喜ぶな、ペリシテの全土よ……おまえを打つ枝(棒)が折られたことを。なぜなら、蛇の根からまむしが出て、その実は飛びかける火蛇となるからだ(14・29)。

「喜ぶな、ペリシテの全土よ」は、仁愛から分離した信仰の中にいる者が今なお残ることをうれしがらないように、を意味します――「蛇の根からまむしが出る」は、自己知性の高慢から彼らのもとにあるすべての真理が破壊されることを意味します。「その実は飛びかける火蛇」は、教会の真理と善に対抗する悪の虚偽からの誤った推論を意味します。

信仰について

053◀︎目次▶︎055

54 割礼によって、単なる自然的な愛のものである悪からの清めが表象されたことは、次のことから明らかです――

(あなたがたの心に)割礼を行なえ、そしてあなたがたの心の包皮を取り除け……わたしの怒りが……あなたがたの行ないの悪意のために、吹き出ないように(エレミヤ4・4)。
あなたがたの心の包皮に割礼を行なえ、あなたがたのうなじはもはや固くてはならない(申命記10・16)。

「心に割礼を行なうこと」または「心の包皮に割礼を行なうこと」は、自分を悪から清めることです。
ここから逆に、「割礼を受けていない」または「包皮をつけた」によって、単なる自然的な愛の悪から清められていない者が、したがって仁愛の中にいない者が意味されます――「包皮をつけた」によって心の汚れが意味されるので、次のように言われています、

だれも心に包皮をつけた者、肉に包皮をつけた者は、聖所に入ってはならない(エゼキエル44・9)。
だれも包皮をつけた者は、過越のいけにえを食べてはならない(出エジプト12・48)。
そして断罪されたこと(エゼキエル28・10、31・18、32・19)。

信仰について

054◀︎目次▶︎056

(8)仁愛から分離した信仰の中にいる者は、「黙示録」の中の「竜」によって意味される

55 すべての教会は、時の経過とともに二つの全般的な悪い宗教的信念へ変わることを前述しました。一つは、支配することへの愛から、もう一つは自己知性の高慢さから変わります。前者の宗教的信念は、みことばの中で「バビロン」によって、そして後者は「ペリシテ」によって意味され、記述されています。
さて、「黙示録」の中では、教会の状態について、特にその最後がどのようなものであるかが扱われているので、それゆえ、これらの二つの悪い宗教的信念についても、一般的にまた特別に、そこに扱われています。
「バビロン」によって意味される宗教的信念は、第17、18、19章に記述されており、それは「緋色の獣の上に座っている淫婦」です。そして「ペリシテ」によって意味される宗教的信念は、第12、13章に記述されており、そこの「竜」さらに「海からの獣」そして「地から上ってくる獣」です。
この宗教的信念が「竜とその二つの獣」によって意味されることは、今まで知られることができませんでした――その理由は、みことばの霊的な意味が開かれておらず、それゆえ、「黙示録」が理解されなかったからです。特に、キリスト教界に、仁愛から分離した信仰についての宗教的信念が、だれもそれを見ることができないほど、それほどに強まったからです――というのは、すべての悪い宗教的信念は目を盲目にするからです。

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055◀︎目次▶︎057

56 仁愛から分離した信仰の宗教的信念が「黙示録」の中の「竜」と「二つのその獣」によって意味され、記述されていることは、天界から私に言われただけでなく、天界の下にある霊たちの世界でも示されました。
私は、分離した信仰の中にいた者が天に向かって尾を伸ばした大きな竜のように集まっているのを見ました。このような他の者も、別々に、竜のように現われているのを見ました――なぜなら、その世界では、霊的なものと自然的なものとの対応から、このようなものが出現するからです――それゆえ、この者は、天界の天使により、竜の追随者とも呼ばれます。
しかし彼らには多くの種類の者がいます。彼らのある者は竜の頭を、ある者はその身体を、またある者はその尾を構成しています。
その尾を構成する者は、みことばの真理のすべてを虚偽化する者です。それゆえ、「黙示録」の中で竜について、「その尾は天の星の三分の一を引き下ろした」と言われます。「天の星」によって、真理の認識が、「三分の一」によって、すべてが意味されます。

信仰について

056◀︎目次▶︎058

57 さて、「黙示録」の中で「竜」によって仁愛から分離した信仰の中にいる者が意味され、このことは、みことばの霊的な意味についての認識がないことから閉ざされて、今まで知られていなかったので、それゆえ、竜について第12章で言われていることについて、ここに全般的な解説を述べます。

信仰について

057◀︎目次▶︎059

58 竜について、「黙示録」の第12章に次のことが言われています――

また、大きなしるしが天に見られた。女が太陽に取り囲まれ、その足の下に月、その頭の上に十二の星の冠があった。みごもっていて、産もうとして叫び、生むことの苦痛があった。また、別のしるしが天に見られた、見よ、大きな赤い竜。七つの頭、七つの角、その頭の上に七つの王冠を持っていた。その尾は天の星の三分の一を引き寄せ、地に投げた。竜は産もうとする女の前に立った、産んだ後、その子を食い尽くすために。女は男の子を産んだ、その者はすべての国民を鉄の杖で牧するはずである。その子は神のもとへ、その方の王座へ取り上げられた。女は荒野へ逃げた、そこには彼女を千二百六十日養うために、神により備えられた場所があった。さて、天に戦いが起こった、ミカエルと彼の天使たちは竜と戦い、竜とその使いらも戦った。勝たなかった。彼らの場所はもはや天に見つからない。……
竜は、地に投げ出されたのを見たとき、子を産んだ女を追いかけた。女に大きなワシの二つの翼が与えられた、荒野に、自分の場所に飛んで行き、蛇の前から逃れて、そこで一時間、数時間、半時間養われるためである。蛇は女の後ろでその口から水をまるで川のように出す、彼女を川により、のみ込もうとするためである。地は女を助け、その口を開いて、竜がその口から出した川をのみ込んだ。竜は女に対して怒った、そして、彼女の種の残りの者と、神の命令を守って、イエス・キリストの証しを持っている者と戦おうとして立ち去った(1~8、13~17節)。

信仰について

058◀︎目次▶︎060

59 それらの解説は次のものです――
「大きなしるしが天に見られた」は、将来の教会について、その教えが受け入れられることとその者により攻撃されることについての、主からの啓示を意味し、「太陽に取り囲まれた女、その足の下に月」は、愛と信仰の中にある主からの教会を意味し、「その頭の上に十二の星の冠」は、神的真理からの彼らのもとの知恵と知性を意味します。
「みごもっていて」は、教えの誕生を意味し、「産もうとして叫んだ、生むことの苦痛」は、仁愛から分離している信仰の中にいる者による抵抗を意味します。
「別のしるしが天に見られた」は、再び啓示されることを意味し、「見よ、大きな赤い竜」は、仁愛から分離した信仰を意味し、それは単なる自然的な愛から「赤い」と言われます。「七つの頭を持って」は、みことばからの虚偽の理解力を意味し、「十の角」は、多くの者による受け入れからの力を意味し、「その頭の上に七つの王冠」は、虚偽化されたみことばの真理を意味します。
「その尾は天の星の三分の一を引っ張った、それらを地に投げ出した」は、真理のすべての認識の破壊を意味し、「竜は産もうとする女の前に立った、産んだ後、その子を食い尽くすために」は、教会が起こるときの彼らの憎しみとその教えを破壊しようとする意図を意味します。
「男の子を産んだ」は、教えを意味し、「その者はすべての国民を鉄の杖で牧するはずである」は、霊的なものからの自然的な真理の力から納得させるものを意味し、「その子は神のもとへ、その方の王座へ取り上げられた」は、天界から主によるその保護を意味します。
「(女は)荒野へ逃げた」は、少数の者の間の教会を意味し、「そこに神により備えられた場所を持った」は、その間に多くの者の間に備えられるようなその教会の状態を意味し、「そこで、彼女を千二百六十日養うために」は、その状態に増大するまでを意味します。
「さて、天に戦いが起こった、ミカエルと彼の天使たちは竜と戦う、竜とその使いらも戦った」は、主と仁愛の生活についての教会の教えの中にいる者に対する、仁愛から分離した信仰の中にいる者がもつ意見の衝突と闘争を意味します。
「勝たなかった」は、屈服したことを意味し、「彼らの場所はもはや天に見つからない」は、彼らが投げ落とされたことを意味します。
「竜は、地に投げ出されたのを見たとき、子を産んだ女を追いかけた」は、仁愛から分離した信仰の中にいる者により、教会がその教えのために攻撃されることを意味します。
「女に大きなワシの二つの翼が与えられた、荒野に、自分の場所に飛んで行き」は、〔教会が〕今なお少数の者の間にあるときの慎重さを意味し、「どこかで養われる、一時間、数時間、半時間、蛇の顔から〔逃れて〕」は、教会がその状態に増大するまでを意味します。
「蛇は女の後ろでその口から水をまるで川のように投げ出す、彼女を川により、のみ込もうとするために」は、教会を破壊するための、虚偽からの彼らの誤った大量の推論を意味します。
「地は女を助け、その口を開いて、竜がその口から出した川をのみ込んだ」は、誤った推論が、虚偽からだったので、それ自体から倒れたことを意味します。
「竜は女に対して怒った、そして立ち去った、彼女の種の残りの者と戦いをなすこと」は、彼らの固執する憎しみを意味し、「神の命令を守って、イエス・キリストの証しを持っている者」は、仁愛の生活を送り、主に信頼する者を意味します。

信仰について

059◀︎目次▶︎061

60 「黙示録」の次の第13章では、竜の二つの獣について扱われています。一つは海から上ってきたことが見られ、もう一つは地から上ってきたことが見られました。前者については1節から10節までに、後者については11節から18節までに扱われています。それらが竜の獣であることは、そこの2、4、11節から明らかです。
最初の獣によって、自然的な人から確信された、仁愛から分離した信仰が意味されます。もう一つの獣によって、みことばから確信された、仁愛から分離した信仰が意味され、それは真理の虚偽化です。
しかしそれらを解説することは、その議論を繰り広げたなら長たらしい証明を含むことになるので省き、ここでは最後の節だけにします、

知性のある者は獣の数字を数えよ。というのは、人間の数字であり、その数字は六百六十六であるから(18節)。

「知性のある者は獣の数字を数えよ」は、照らしの中にいる者は、みことばからの信仰のこの確信の性質を調べよ、を意味します。「というのは、人間の数字である」は、それがプロプリウム(自己固有のもの)からの知性の性質であることを意味します。「その数は六百六十六でである」は、みことばのすべての真理の虚偽化を意味します。

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060◀︎目次▶︎062

061 (9)仁愛から分離した信仰の中にいる者は、「ダニエル書」と「マタイ福音書」の「雄ヤギ」によって意味される

61 「ダニエル書」(第8章)の「雄ヤギ」によって、「マタイ福音書」(第25章)の「ヤギ」によって、仁愛から分離した信仰の中にいる者が意味されることは、そこに「雄ヒツジ」と「ヒツジ」が対置されていることから明らかにすることができます。「雄ヒツジ」と「ヒツジ」によって、仁愛の中にいる者が意味されます――というのは、みことばの中で、主は羊飼い、教会は羊の囲い、教会の人間は一般的に羊の群れ、特には羊と呼ばれるからです――「ヒツジ」は仁愛の中にいる者であるので、それゆえ、「雄ヤギ」は仁愛の中にいない者です。

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061◀︎目次▶︎063

62 仁愛から分離した信仰の中にいる者が、「雄ヤギ」によって意味されることを示します。

(1)霊界での経験から。
(2)彼らに起こった最後の審判によって。
(3)「ダニエル書」にある雄ヒツジとヤギとの間の闘争の記述から。
(4)最後に、彼らが仁愛を無視したこと、そのことについて「マタイ福音書」から。

信仰について

062◀︎目次▶︎064

63 (1) 仁愛から分離した信仰の中にいる者が、みことばの中で「雄ヤギ」によって意味されることは、霊界での経験から示される
霊界では自然界の中のすべてのものが見られます。家や宮殿が見られ、楽園や庭園、それとその中のすべて種類の木が見られます。畑や耕地、さらに平地や草地、牛の群れや羊の群れも見られます。すべてのものは、地球上にあるものと似ています。前者が霊的な起源からであり、後者が自然的な起源からであること以外に何の相違もありません。
それゆえ、自然的な起源からのものを見る人間と同じように、天使は霊的であるので、霊的な起源からのものを見ます。
[2] 霊界で見られるすべてのものは対応物です。というのは、天使と霊たちの情愛に対応するからです。
それゆえ、善と真理への情愛の中に、ここから知恵と知性の中にいる者は、対応する壮大な宮殿に住み、その周囲には木に満ちた楽園があり、そのまた周囲には畑や牛と羊の群れが伏せる平地があり、それらは外観です。
けれども、悪い情愛の中にいる者には正反対の対応物があります。彼らは、窓がなくそれでもそこには鬼火からのような光がある地獄の強制労働所に閉じ込められます、または荒地の中にいて、あばら屋に住んでいます。その周囲はすべて不毛の地であり、そこには彼らの悪に対応するヘビ・竜・フクロウ、その他多くのものがいます。
[3]天界と地獄の間に、霊たちの世界と呼ばれる中間の場所があります――ここへ、死後、すべての人間は直ちにやって来ます。そこには、地上の人間にあるような、相互の交際があります。そこには、対応するすべてのものも見られます。そこには、庭園・木立ち・樹木や潅木の森・花と緑の原も、また同時に、おとなしいものや獰猛なものなど、いろいろな種類の動物が、そのすべてのものが彼らの情愛の対応にしたがって見られます。
私はしばしばそこのヒツジと雄ヤギを、また彼らの間の闘争も見ましたが、その闘争は「ダニエル書」(第8章)に記述されているものに似ていました。
[4] 私は、前方にまた後方に曲がっている角をもつ雄ヤギがヒツジに激怒して突進するのを見ました。私は2つの角をもつ雄ヤギが、その角で激しくヒツジを突くのを見ました。それらはいったい何事かと私がよく見つめたとき、仁愛と信仰について彼らの間で口論している者たちを見ました。このことから、仁愛から分離した信仰が雄ヤギのように見られたこと、信仰が存在するもととなる仁愛がヒツジのように見られたことが明らかになりました。
これらのことを私はしばしば見たので、仁愛から分離した信仰の中にいる者が、みことばの中で「雄ヤギ」によって意味されることを確かな事実として知ることが与えられました。

信仰について

063◀︎目次▶︎065

64(2) 仁愛から分離した信仰の中にいる者が、みことばの中で「雄ヤギ」によって意味されることは、最後の審判から、彼らに起こったことから示される
最後の審判は、外なるものの中で道徳的であり、内なるものの中で霊的でない者またはほとんど霊的でない者にしか行なわれませんでした。外なるものと同じく内なるものでも悪であった者は、最後の審判のずっと以前に地獄に投げ込まれ、外なるものと同時に内なるもので霊的であった者は、最後の審判のずっと以前に天界に上げられており、審判は天界にいた者にも、地獄にいた者にも行なわれないで、天界と地獄の間の中間にいて、そこで自分たちに天界のようなものをつくっていた者に行なわれたからでした。
[2]最後の審判が他の者でなく彼らに起こったことは、小著『最後の審判』(59と70番)に見られます。またさらに小著『続・最後の審判について』では、改革派の者に起こったものが見られます。そのとき、改革派の者のうちで、教えだけでなく生活でもまた仁愛から分離した信仰の中にいた者は、地獄に投げ込まれました。そして、教えに関してだけその信仰の中にいましたが、それでも生活に関しては仁愛の中にいた者は天界に上げられました――これらから、主により「最後の審判」について語られているところ(「マタイ福音書」第25章)の「雄ヤギ」と「ヒツジ」によって、他のものが意味されていないことが明らかです。

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064◀︎目次▶︎066

65(3) 仁愛から分離した信仰の中にいる者が、みことばの中で「雄ヤギ」によって意味されることは、「ダニエル書」にある雄ヒツジとヤギとの間の闘争の記述から示される
「ダニエル書」の中にあるすべてのことは、聖書全体の中のすべてのように、霊的な意味では天界と教会の事柄について扱われています。このことは、例えば『新しいエルサレムの教え』(5~26番)に示されています――したがってまた、「ダニエル書」の中の雄羊と雄やぎの闘争(第8章)についても、そこにそれらのことが言われています。それらは次のものです――

幻の中で私は……二つの角をもった雄羊を見た、しかし長いほうは後から生えた。その角で東、西、南の方へ突いた。高ぶった。その後、私は雄やぎが、全地の面の上を、西から来るのを見た、それには目と目の間に角があった。そして、羊に強い怒りをもって突進し、その二つの角を折り、地に投げ出し、踏みにじった。しかし、雄やぎの大きな角は折れ、そしてその代わりに四つの角が生えた。そして、その一つの角から小さい角が出た。それは南に向かって、東に向かって、美観に向かって非常に大きくなった。天の軍勢にまでも向かい、軍勢を、星を、地に投げ落とし、それらを踏みにじった。実に、軍勢の「長」にまでのし上がり、それで「その方」から常供のささげ物は取り去られ、「その方」の聖所の住まいは投げ捨てられた。なぜなら、真理を地に投げ捨てたから。私はひとりの聖なる者が言うのを聞いた……。常供のささげ物や荒廃させる者のそむきの罪、聖所と軍勢を踏みにじることがあるという、この幻はいつまでか?すると言った、夕と朝まで。……その時、聖所は義とされる(8・2~14)。

信仰について

065◀︎目次▶︎067

66 この幻が教会の将来の状態を予言していることははっきりと明らかです。なぜなら「長から常供のささげ物が取り去られた」「その方の聖所の住まいが投げ捨てられた」こと、また「雄やぎが真理を地に投げ捨てた」ことが言われ、さらに「聖なる者が、常供のささげ物や荒廃させる者のそむきの罪、聖所と軍勢を踏みにじることがあるという、この幻はいつまでか?と言った」、そしてこれに「夕と朝まで、その時、聖所は義とされる」という答えがあったことが言われているから――というのは「夕」によって、新しいものが存在する時の教会の終わりが意味されるからです。
その章の後ろにある「メディアとペルシヤの王」によって、「雄羊」と似たことが、また「ギリシヤの王」によって「雄やぎ」と似たことが意味されます。なぜなら、みことばの中の王、国民や民衆、さらに人物や場所の名前は、天界と教会の物事を意味するからです。

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066◀︎目次▶︎068

67 それらの解説は次のものです――
その長いほうの角が後から生えてくる二つの角をもった「雄羊」は、仁愛から信仰の中にいる者を意味し、「角で東へ、西へと南の方へ突いた」ことは、悪と虚偽を追い散らすことを意味し、「高ぶった」ことは、増大を意味します。「雄やぎが西から全地の面の上を来る」は、仁愛から分離した信仰の中にいる者と彼らによる教会への侵入を意味します。「西」は自然的な人の悪です。「目と目の間に角をもった」は、プロプリウム(自己固有のもの)の知性を意味します。
「羊に強い怒りをもって突進した」は、仁愛とその信仰を猛烈に襲撃したことを意味し、「二つの角を折り、それを地に投げ出し、それを踏みにじった」は、仁愛と信仰とを完全に消散させたことを意味します。なぜなら、それらは一つとなっているので、一方を消散させる者はもう一方も消散させるからです。
「雄やぎの大きな角は折れた」ことは、自己知性からの外観がないことを意味し、「その代わりに四つの角が生えた」は、みことばの文字どおりの意味を適用して、確認することを意味します。
「その一つから小さい角が出た」は、だれも律法を成就することが、それと自分自身から善を行なうことができない論証を意味し、「その角は、南に向かって、東に向かって、美観に向かって大きくなった」は、そのことによって教会のすべてのものに反抗することを意味します。
「天の軍勢にまでも。軍勢を、星を、それらを踏みにじった」は、仁愛と信仰に属すものであった善と真理のすべての認識を、このように破壊したことを意味します。「軍勢の「君」にまでも自分を高めた、それで「その方」から常供のささげ物は取り去られ、「その方」の聖所の住まいは投げ捨てられた」ことは、主への礼拝とその方の教会のすべてのものがこのように荒らされたことを意味します。
真理を地に投げ捨てた」ことは、みことばの真理を虚偽化したことを意味します。
「夕と朝、その時、聖所は義とされる」によって、その教会の終わりと新しい教会の始まりが意味されます。

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067◀︎目次▶︎069

68(4)仁愛から分離した信仰の中にいる者が、みことばの中で「雄ヤギ」によって意味されることは、「マタイ福音書」で、彼らが仁愛を無視したことから示される
「マタイ福音書」(第25章31~46節)で「雄ヤギ」と「ヒツジ」によって意味されるものは、「ダニエル書」で「雄ヤギ」と「雄ヒツジ」によって意味されるものに他ならないことは、ヒツジに対して仁愛の働きが列挙され、「それらを行なった」と言われていること、また雄ヤギに対して同じ仁愛の働きが列挙され、「それらを行なわなかった」と言われ、このことゆえに断罪されたことから明らかです――というのは、仁愛から分離した信仰の中にいる者は、働きの中には救いや教会のものは何もないと否定して、働きを無視したからです。そしてこのように働きの中にある仁愛が退けられるとき、信仰は仁愛からのものであるので、信仰もまた崩れ去ります。
すべての悪い者が「雄ヤギ」によってそこに意味されていたなら、行なわなかった仁愛の働きでなく、行なった悪が、列挙されていたでしょう。
似た者が、「ゼカリヤ書」の「雄やぎ」によって意味されています、

羊飼いたちの上にわたしの怒りが燃え上がる、わたしは雄やぎを罰する(10・3)。

「エゼキエル書」に、

見よ、わたしは家畜と家畜の間を、雄羊と雄やぎの間をさばく。よい牧場をあなたがたは牧草地とする、それであなたがたに足りないのか?さらにまた牧草地の残りのものをあなたがたは足で踏みにじる。……あなたがたは角ですべての羊の弱いものを、追い散らすまで突いた。それゆえ、わたしはわたしの群れを救い、もはや餌食とならないようにする(34・17、18、21、22)。

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068◀︎目次▶︎070

(10)仁愛から分離した信仰は、教会とそのすべてのものを破壊する

69 仁愛は信仰のいのちであり、その霊魂であり、その本質であるので、仁愛から分離した信仰は信仰ではありません。仁愛がないので信仰のないところに、そこに教会はありません。
それゆえ、主は言われました、

人の子が来るとき、〔その方は〕地上に信仰を見つけるであろうか?(ルカ18・8)。

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069◀︎目次▶︎071

70 私は何度か、仁愛から分離した信仰を確信した者に、何らかの真理があるかどうか、そのことについて雄ヤギとヒツジの会話を聞きました。多くのものがあると言われたので、その論争が公判にまわされました。
その時、彼らは、「愛とは何か、仁愛とは何か、善とは何か、知っているか」と質問されました。それらは彼らが分離してしまったものなので、「知りません」としか答えることができませんでした。
「罪と何か、悔い改めとは何か、罪の赦しとは何か」と質問されました。信仰によって義とされた者は、「私たちに罪は許されているので、それで、もはや現われることはありません」と答えたので、「それらは真理ではない」と言われました。
「再生とは何か」と質問され、「洗礼であるかまたは信仰による罪の赦しである」と答え、彼らは「それは真理ではない」と言われました。
「霊的な人とは何か」と質問され、「私たちの告白する信仰によって義とされた者です」と答えました。しかし、彼らに、「それは真理ではない」と言われました。
あがないについて、御父と主との結合について、また神の単一性について質問され、真理ではない、と返答されました。他に多くのことがありました。
質問と応答の後、論争は裁決されました。それは、「仁愛から分離した信仰を確信した者は何も真理を持っていない」でした。

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070◀︎目次▶︎072

71 このようであることを、彼らは世で信じることができません。虚偽の中にいるので、虚偽が真理であるとしか知りません、自分たちの信仰に属すもの以外に多くのものを知ることは、それほど価値のあることではないと思っています。彼らの信仰は盲目の信仰なので理解力から分離しており、それで彼らは問うことをしません。このことは、みことばから照らされた理解力によって問うことでしかできないことです。それゆえ、彼らは、愛・悔い改め・罪の赦し・行なわれなくてはならない多くのことを見ても、それを信仰と考えて、そこにある真理を虚偽に変えてしまいます。

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071◀︎目次

72 まさにこのような者が、信仰のみの中にいて、教えや生活で確信してしまった者です。しかしたとえ信仰のみが救うことを聞き、信じたにしても、それでも悪を罪として避けた者ではありません。