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信仰について 54

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54 割礼によって、単なる自然的な愛のものである悪からの清めが表象されたことは、次のことから明らかです――

(あなたがたの心に)割礼を行なえ、そしてあなたがたの心の包皮を取り除け……わたしの怒りが……あなたがたの行ないの悪意のために、吹き出ないように(エレミヤ4・4)。
あなたがたの心の包皮に割礼を行なえ、あなたがたのうなじはもはや固くてはならない(申命記10・16)。

「心に割礼を行なうこと」または「心の包皮に割礼を行なうこと」は、自分を悪から清めることです。
ここから逆に、「割礼を受けていない」または「包皮をつけた」によって、単なる自然的な愛の悪から清められていない者が、したがって仁愛の中にいない者が意味されます――「包皮をつけた」によって心の汚れが意味されるので、次のように言われています、

だれも心に包皮をつけた者、肉に包皮をつけた者は、聖所に入ってはならない(エゼキエル44・9)。
だれも包皮をつけた者は、過越のいけにえを食べてはならない(出エジプト12・48)。
そして断罪されたこと(エゼキエル28・10、31・18、32・19)。