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信仰について 64

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64(2) 仁愛から分離した信仰の中にいる者が、みことばの中で「雄ヤギ」によって意味されることは、最後の審判から、彼らに起こったことから示される
最後の審判は、外なるものの中で道徳的であり、内なるものの中で霊的でない者またはほとんど霊的でない者にしか行なわれませんでした。外なるものと同じく内なるものでも悪であった者は、最後の審判のずっと以前に地獄に投げ込まれ、外なるものと同時に内なるもので霊的であった者は、最後の審判のずっと以前に天界に上げられており、審判は天界にいた者にも、地獄にいた者にも行なわれないで、天界と地獄の間の中間にいて、そこで自分たちに天界のようなものをつくっていた者に行なわれたからでした。
[2]最後の審判が他の者でなく彼らに起こったことは、小著『最後の審判』(59と70番)に見られます。またさらに小著『続・最後の審判について』では、改革派の者に起こったものが見られます。そのとき、改革派の者のうちで、教えだけでなく生活でもまた仁愛から分離した信仰の中にいた者は、地獄に投げ込まれました。そして、教えに関してだけその信仰の中にいましたが、それでも生活に関しては仁愛の中にいた者は天界に上げられました――これらから、主により「最後の審判」について語られているところ(「マタイ福音書」第25章)の「雄ヤギ」と「ヒツジ」によって、他のものが意味されていないことが明らかです。