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信仰について 68

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68(4)仁愛から分離した信仰の中にいる者が、みことばの中で「雄ヤギ」によって意味されることは、「マタイ福音書」で、彼らが仁愛を無視したことから示される
「マタイ福音書」(第25章31~46節)で「雄ヤギ」と「ヒツジ」によって意味されるものは、「ダニエル書」で「雄ヤギ」と「雄ヒツジ」によって意味されるものに他ならないことは、ヒツジに対して仁愛の働きが列挙され、「それらを行なった」と言われていること、また雄ヤギに対して同じ仁愛の働きが列挙され、「それらを行なわなかった」と言われ、このことゆえに断罪されたことから明らかです――というのは、仁愛から分離した信仰の中にいる者は、働きの中には救いや教会のものは何もないと否定して、働きを無視したからです。そしてこのように働きの中にある仁愛が退けられるとき、信仰は仁愛からのものであるので、信仰もまた崩れ去ります。
すべての悪い者が「雄ヤギ」によってそこに意味されていたなら、行なわなかった仁愛の働きでなく、行なった悪が、列挙されていたでしょう。
似た者が、「ゼカリヤ書」の「雄やぎ」によって意味されています、

羊飼いたちの上にわたしの怒りが燃え上がる、わたしは雄やぎを罰する(10・3)。

「エゼキエル書」に、

見よ、わたしは家畜と家畜の間を、雄羊と雄やぎの間をさばく。よい牧場をあなたがたは牧草地とする、それであなたがたに足りないのか?さらにまた牧草地の残りのものをあなたがたは足で踏みにじる。……あなたがたは角ですべての羊の弱いものを、追い散らすまで突いた。それゆえ、わたしはわたしの群れを救い、もはや餌食とならないようにする(34・17、18、21、22)。