神の摂理 180
180(2)人間が明らかに神的な摂理を見るなら、その進行の秩序と進路へ自分自身を移動させ、そしてそれを曲げ、破壊する
このことが理性的な人間と自然的な人間の知覚の中に明瞭に生ずるために、例によって、次の順序で説明しなければなりません――
(1)外なるものは、すべての働きの中で一つとなるように、内なるものとそのような結びつきをもっている。
(2)人間はある種の外なるものの中にだけ、主とともにいる。同時に内なるものの中にいたなら、神的の秩序の進行のすべての秩序と進路を曲げ、破壊した。
しかし、言われたように、これを例によって説明します。
[2]第一――外なるものは、すべての働きの中で一つとなるように、内なるものとそのような結びつきをもっている
このことを、例によって、人間の身体の中にあるものによって、説明します。
全身とすべての部分の中に、外なるものと内なるものがあります。そこの外なるものは皮膚・膜・被膜と呼ばれます。内なるものは神経の繊維と血管から混成され、構成されたいろいろな形です。
取り囲む皮膜は、それ自体からの突起によって最内部にまで内的なすべてのものの中に入ります。そのように被覆である外なるものは、繊維と管からの有機体の形である内なるすべてのものと、それ自体を結合させます。
そのことから、外なるものが働くまたは働きかけられるように、内なるものもまた働くかまたは働きかけられることがいえます。というのは、すべてのものは絶え間なく束ねられているからです。
[3]身体の中の何らかの全般的な被覆だけを、例えば、肺の全般的な被膜、心臓と肺の被膜である胸膜を取り上げ、それを解剖学者の目で調べなさい。これをあなたが研究したことがないなら、解剖学者に助言を求めなさい。そのとき、あなたは聞きます。この全般的な被覆は、いろいろな曲がりくねりによって、その後、それ自体からの突起によって、細くまた細くと、肺の最内部に、気管支の最小の管の中まで、肺の始まりである小胞そのものの中へ入ります――その進行が、その後、気管を通って咽頭の中へ、舌へ向かうことは話しに出すまでもありません。
それらから最外部に、最内部との永続する連結物があることが明らかです。それゆえ、最外部のものが働くかまたは働きかけられるように、そのように最内部が働くかまたは働きかけられます――胸膜であるその最外部の被膜が、滲出液がたまるか炎症を起こすかあるいは潰瘍でいっぱいになるとき、肺が最内部から苦しむのは、これが理由です。もし欠陥が重くなるなら、肺のすべての活動は弱々しくなり、人間は死にます。
[4]全身の中の他のどこでも同様です――例えば、腹のすべての内臓の全般的な被覆である腹膜、さらにまた、それぞれのまわりの被覆、例えば、胃・肝臓・膵臓・脾臓・腸・腸間膜・腎臓でも、両性の生殖の器官でもそうです。
これらから何らかのものを取り上げ、あるいは自分自身で調べるか、またあるいはその知識の専門家に助言を求めなさい、するとあなたは聞くでしょう――例えば、肝臓を取り上げなさい、するとあなたは、腹膜とその内臓の被覆とに、また被覆によってその最内部のものとに連結物があることを見つけるでしょう。というのは、ここから絶え間ない突起があり、さらに内的なものに向けて挿入するものが、このように最内部へ連続するものがあり、ここからすべてのものを結びつけるからです。それはこのように、被覆が働くかまたは働きかけられるとき、全部の形が同様に働くかまたは働きかけられるからです。
他のものも同様です。
その理由は、全般的にまた個別的に、すなわち、全体にまた個々に、すべての形の中で、驚くべき結合によって、一つとして働くからです。
[5]意志と理解力の働きに関係する霊的な形の中で、そしてそれらの状態の変化と相違の中でも、自然的な形の中に、また運動と活動に関連するそれらの働きの中と同様に生ずることは、以下に見られます。
そこで、人間は、ある外なる働きの中で主と一つであり、その者に理性にしたがって行動する自主性が取り去られないので、主は、外なるものの中で人間と一つのようにしか内なるものの中で働くことができないことがいえます。
それゆえ、人間が悪を罪として避け、退けないなら、思考と意志の外なるものは、その時、同時にそれらの内なるものが害され、滅ぼされます。比べれば、胸膜が胸膜炎と呼ばれるその疾患からのようなものであり、それによって身体は死にます。
[6]第二――同時に内なるものの中にいたなら、神的な秩序の進行のすべての秩序と進路を曲げ、破壊した
このこともまた人間の身体からの例によって説明します。
人間が、繊維の中への両方の脳のすべての働きを、筋肉の中への繊維の働きを、また活動の中への筋肉の働きを、その知識から活動のすべてのものを制御することを知るなら、すべてのものを曲げ、破壊しませんか?
[7]人間が、どのように胃が消化し、内臓がまわりにその分を吸収し、血をつくり、またそれをいのちのすべての働きへ分配し、それらを食べ、飲むことのように、外的なものの中で制御することを知るなら、すべてのものを曲げ、破壊しませんか?
内なるものと一つのように見える外なるものを制御することができないとき、内なるものもまた制御するなら、その時、無限にあるものに何をするでしょうか?むしろぜいたくと不摂生がそれを滅ぼしませんか?
それゆえ、内なるものは、人間がその中に意志の何らかのものを入れ、自分自身の支配のもとに行なわないように、筋肉を除いて、完全に彼の意志から連れ出されています。その筋肉は外被となっていて、どのようにこれが働くか知られないで、活動することだけが知られています。
[8]他のものも同様です――例えば、人間が、見るために目の内的なものを、聞くために耳の内的なものを、味わうために舌の内的なものを、感じるために皮膚の内的なものを、収縮するように働くために心臓の内的なものを、呼吸するために肺の内的なものを、乳糜を配送するために腸間膜の内的なものを、分泌するために腎臓の内的なものを、子孫を産むために生殖器官の内的なものを、胎児をつくり上げるために子宮の内的なものなどを制御するなら、神的な摂理のこれらの秩序を無限の方法で曲げ、破壊しませんか?
人間は外なるものの中にいることが知られています。例えば、目で見、耳で聞き、舌で味わい、皮膚で感じ、肺で呼吸し、妻を妊娠させるなどです。
あなたは外なるものを知り、それを身体と心の健康のために制御することで、満足しませんか?
これができないとき、内なるものをもまた制御するなら、何が生じますか?
それで、これらから、人間が神的な摂理をはっきりと見るなら、その進行の秩序と進路へ自分自身を移動させて、それを曲げ、破壊することを明らかにすることができます。