神の摂理 195
195 さて、いのちの愛はそれ自体の快さを、その知恵はそれ自体の楽しさを持つので、〔そのことは〕すべての情愛も同様です、その情愛はその本質では、泉からの流れのように、または木からの枝のように、または心臓からの動脈のように、いのちの愛からの副次的な派生した愛です。それゆえ、どんな情愛にもそれ自体の快さがあり、ここから知覚にまた思考にその自体の楽しさがあります。
ここから、それらの快さと楽しさは人間のいのちをつくることがいえます。
快さと楽しさのない、いのちとは何ですか?
生命あるものではなく、生命のないものです――それら〔快さと楽しさ〕を減らしてみなさい、するとあなたは冷たく、または鈍くなります、またそれらを取り去ってみなさい、するとあなたは息が絶え、死にます――
[2]情愛の快さと知覚や思考の楽しさから、生命(いのち)の熱があります。
それぞれの情愛にそれ自体の快さがあり、ここから思考にそれ自体の楽しさがあるので、善と真理はここからであり、なおまた善と真理がその本質の中で何であるか明らかにすることができます。
それぞれの者にとって、善は彼の情愛に快いものであり、そして真理はここから彼の思考に楽しいものです――というのは、それぞれの者が、自分の意志の愛から快いものと感じるものを善と呼び、そこから自分の理解力の知恵から楽しさを知覚するものを真理と呼ぶからです。
二つとも、泉からの水のように、または心臓からの血のように、いのちの愛から流れ出ます――二つとも、ひとまとめにされて、人間の全部の心がその中にある波または大気のようです。
[3]これら二つの快さと楽しさは、心の中で霊的です、しかしながら、身体の中で自然的です。両方の場所で人間のいのちをつくります。
これらから、人間のもとで、善と呼ばれるものが何か、真理と呼ばれるものが何であるか――なおまた、人間のもとで、悪と呼ばれるものと虚偽と呼ばれるものが何であるか、すなわち、彼の情愛の快さを滅ぼすものが彼にとって悪であり、ここから彼の思考の楽しさを滅ぼすものが虚偽であり、悪はその快さから、虚偽はその楽しさから、善と真理と呼ばれ、信じられることができることが明らかです。
確かに善と真理は心の形の変化と相違の状態です、しかし、これらはもっぱらそれらの快さと楽しさによって知覚され、生きています。
これらは、情愛と思考がそれらのいのちの中で何であるか知られるために提示しました。