神の摂理 198
198 前に、人間のいのちの愛の何らかの情愛からでないなら、彼に何らかの思考が存在しないこと、思考は情愛の形以外の何ものでもないことが示されました。
そこで、人間が自分の思考を見て、情愛を見ることができないとき、というのは、これは感じるものであるからであり、また視覚の中にやって来ませんが、しかし、感覚の中にやって来る情愛からでなく、外観の中にある視覚から、プロプリウムの思慮分別がすべてのことを行なうと決め込んでしまうことがいえます。
というのは、情愛はそれ自体を単にそれについての思考のある快さと推論の心地よさによって明らかにするからです。その時、この心地よさと快さは、自己愛または世俗愛からプロプリウムの思慮分別の信念の中にいる者のもとで思考と一つになります。思考はその快さの中を、川の流れの中の船のように流れ、船長はその流れに注意を向けないで、〔自分が〕張る帆にだけ注意を向けます。