カテゴリー

神の摂理 211

210◀︎目次▶︎212

211 神的な摂理が、だれもその存在することをほとんど知らないようにも、ひそかに働くのは、人間が滅びないためです。
なぜなら、人間の意志であるそのプロプリウムは、決して神的な摂理と一つとなって働かないからです。人間のプロプリウムには、それ〔神的な摂理〕に対して生来の敵意があります。というのは、それは最初の両親を惑わせたからヘビであるからであり、そのことについて言われています、

わたしは、おまえと女の間に、また、おまえの子孫と女の子孫の間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏みにじる(創世記3:15)。

ヘビ」は、すべての種類の悪であり、その「」は自己愛であり、「 女の子孫」は主であり、置かれている「 敵意」は、人間のプロプリウムの愛と主の間にあり、このように人間のプロプリウムの思慮分別と主の神的な摂理の間にもまたあります。なぜなら、プロプリウムからの絶え間のない思慮分別が、頭を上げることの中にあり、絶え間ない神的な摂理が、押し下げることの中にあるからです。
[2]人間がこのことを感じるなら、神に対して怒り、いらいらし、そして滅びます。しかし、それを感じない時、人間に、また自分自身に対し、そしてまた運命に対して、怒り、いらいらすることができますが、それによって滅びることはありません。
主がご自分の神的な摂理によって常に人間を自由の中へ導き、そして自由は人間にとって自分のプロプリウムとしか見えないのは、ここからです――自由の中で自分自身を対立するものへと導くことは、圧迫し、抵抗する重い物を、ジャッキによって引き上げることのようです。重さと抵抗はその力によって感じられません――殺そうとする意図をもつ敵のもとにいて、その時、その者がそのことを知らず、友が彼を知られていない道を通って導き、その後、敵の意図をあばくようなものです。