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神の摂理 220

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220 (4)人間のもとの一時的なものと永遠なものの結合が主の神的な摂理である――
しかし、これらは前もって順序正しく整えられ、そしてそれらにしたがって説明され、示されないなら、理解力の最初の知覚の中に落ち込むことができないので、それゆえ、ここに次の順序で示すことにします――

(1)人間が死によって自然的なものと一時的なものを捨て、そして霊的なものと永遠なものをまとうのは、神的な摂理からである。
(2)主はご自分の神的な摂理によって、役立ちにしたがって、ご自分を霊的なものによって自然的なものに、そして永遠なものによって一時的なものを結合される。
(3)主は、ご自分を対応によって役立ちに、このように人間による外観の確信にしたがって結合される。
(4)このような一時的なものと永遠なものの結合が神的な摂理である。

しかし、これらを説明によって明るい光の中に送り出します。
[2]第一――人間が死によって自然的なものと一時的なものを捨て、そして霊的なものと永遠なものをまとうのは、神的な摂理からである
自然的なものと一時的なものは最外部のものと最後のものであり、それらの中に人間は最初に入り、そのことは生まれたとき生じますが、その理由は、その後、内的なものと上なるものの中に導き入れられることができるためです。というのは、最外部のものと最後のものは容器であり、これらは自然界の中にあるから。
ここから、天使と霊はだれも直接に創造されません、しかし、人間に生まれたすべての者は、このように導き入れられます。ここから、彼らに最外部のものと最後のものがあり、それらは本質的に固定したものと不変のものです。それらの内部で、またそれらから、内的なものは結びつきの中に保たれることができます。
[3]しかし、人間は最初に自然の粗悪なものを着て、それらから彼の身体があります。しかし、これらを死によって脱ぎ捨て、そして霊的なものに最も近いものである自然の純粋なものを保持し、それらがその時、彼の容器です。
加えて、最外部のものまたは最終的なものの中に内的なものまたは上なるもののすべてのものが、前にその箇所に示されているように、同時に存在します。主のすべての働きは、最初と最後のものから同時であるので、このように完全です。
しかし、自然の最外部と最終的なものは、人間の心がそれへと形作られている霊的なものと永遠なものを、それらが本質的に存在するように受け入れることができず、それでも人間は霊的になり、そして永遠に生きるように生まれているので、それゆえ、人間はそれらを脱ぎ捨て、霊的なものと天的なものに一致し、調和し、そしてそれらに容器として仕える内的な自然的なものだけを保持します。このことは一時的なものと自然的な最外部のものを捨てることによって生じます、それは身体の死です。
[4]第二――主はご自分の神的な摂理によって、役立ちにしたがって、ご自分を霊的なものによって自然的なものに、そして永遠なものによって一時的なものを結合される
自然的なものと一時的なものは、自然に固有なものであるだけでなく、しかしまた、自然界の中の人間に固有なものです。
後者と前者を人間は死によって脱ぎ捨て、そしてそれらに対応する霊的なものと永遠なものを着ます。
役立ちにしたがってこれらのものを着ることは、先行するものの中で多く示されています。
自然に固有のものである自然的なものは、一般に時間と空間に、また特に地上に見られるものに関係し、これらを人間は死後に残し、そしてそれらに代わって霊的なものを受け取ります。それらは外面にまたは外観に関して似ています、しかし、内面と本質そのものに関しては似ていません。それらの事柄についてもまた前に扱われました。
[5]自然界の中の人間に固有なものである一時的なものは、一般に地位と富に、また特にそれぞれの人間に必要不可欠なものである食物・衣服・住まいに関係します。
これらもまた、死によって捨てられ、残され、そして外面または外観に関して似ていますが、しかしながら、内面と本質に関して似ていないようなものが着せられ、受け取られます。
これらすべてのものは、その内面と本質を世の中の一時的な役立ちから得ています。
役立ちは仁愛の善と呼ばれる善です。
これらから、主はご自分の神的な摂理によって、役立ちにしたがって、自然的なものと一時的なものに霊的なものと永遠なものを結合されることを明らかにすることができます。
[6]第三――主は、ご自分を対応によって役立ちに、このように人間による外観の確信にしたがって結合される
しかし、これらは対応とは何か、また外観とは何か、まだ明確な概念を得ていない者に、不明瞭なものとしか見られないので、それゆえ、それらを例によって明らかにし、説明しなければなりません。
みことばのすべてのものは、霊的なものと天的なものの対応そのものであり、対応であるので、外観でもあります――すなわち、みことばのすべてのものは神的な愛の神的な善と神的な知恵の神的な真理であり、それらは本質的に裸です、しかし、みことばの文字どおりの意味に包まれています――それゆえ、外観は衣服を着た人間のように見え、その衣服は彼の愛と知恵の状態に対応しています。
それらから、もし人間が外観を確信するなら、衣服が人間であると確信することと似ていることが明らかです。ここから、外観は欺きとなります。
人間が真理を探究し、それを外観の中に見るなら、異なることはありません。
[7]そこで、すべての役立ちは、すなわち、人間が隣人に行なう仁愛の真理と善は、それらは外観かあるいはみことばの中の真理そのものにしたがって行なわれますが、それらが確信された自分自身のもとの外観にしたがって行なわれるなら、欺きの中にいます、しかし、真理にしたがって行なわれるなら、それらは行なうのが当然かのように行なわれます。
これらから、対応によって、また人間によって確信された外観によって、主が役立ちにご自分を結合することによって何が意味されるか明らかにすることができます。
[8]第四――このような一時的なものと永遠なものの結合が神的な摂理である
これらのことが光の中で理解力に見られるために、二つの例によって説明します。一つは地位と名誉に関するもの、もう一つは富と財産に関するものです。
二つとも外なる形の中で自然的で一時的です。けれども、内なる形の中で霊的では永遠なものです。
地位はそれらの名誉とともに、人間が、それらの中の人物に関して、またそれらの中の国家と役立ちに関して自分自身を眺める時、自然的なもの、一時的なものです。というのは、その時、人間は自分自身で内的に、国家は自分のためのものであり、自分は国家のためのものではない、としか考えることができないからです。
王国とそこにすべての人間は自分のためのものであり、自分は王国とその人間のためのものでないと考える王のようです。
[9]しかし、同じ地位がそれらの名誉とともに、人間が、人物に関して国家と役立ちのためのもの、またこれらを自分自身のためのものでなく自分自身を眺める時、霊的でまた永遠なものです。
もし後者を行なうなら、その時、人間は真理の中とその地位とその名誉の本質の中にいます。けれども、前者を行なうなら、その時、対応と外観の中にいます。それらをもし自分自身のもとで確信するなら、欺きの中にいて、主とは、虚偽とそこからの悪の中にいる者のようにしか結合しません、なぜなら、欺きは悪が結合している虚偽であるからです。
確かに役立ちと善を行ないましたが、しかし、自分自身からであって主からではなく、このように主に代わってその場所に自分自身を置きました。
[10]富と財産も同様であって、それらもまた自然的で一時的であり、なおまた霊的で永遠なものです。
富と財産は、それらだけをまたそれらから自分自身を眺め、これら二つのものの中に自分のすべての心地よさと快さを眺める者のもとで自然的で一時的です。しかし、同じものが、それらの中に役立ちの善を、またそれらの中に内なる心地よさと快さを眺める者のもとで霊的で永遠なものです。これらの者のもとで外なる心地よさと快さもまた霊的なものになり、そして一時的なものは永遠なものになります――それゆえ、これらの者は、死後、天界の中にいます、またそこの宮殿の中の備品は金また宝石から輝いています。それでも、それらを、役立ちである内なるものから輝き、そして透明となっている外なるものとしか見ません、それらから彼らに心地よさと快さそのものがあり、それらは本質的に天界の幸せと幸福です。
富と財産をそれらのために、また自分自身のためにだけ、このように外なるもののために眺め、同時に内なるもののために、このように外観にしたがって眺め、それらの本質にしたがって眺めなかった者には反対の運命があります――彼らはそれらを捨てる時、そのことは死ぬ時に生じますが、それらの内なるものをまといます。それらは霊的なものではないので、地獄のものでしかありえません。なぜなら、一つのものかまたはもう一つのものが内在し、両方とも同時であることはできないからです。ここから、彼らには富の代わりに貧困、財産の代わりに惨めさがあります。
[11]役立ちによって食物・衣服・住まいに関係する自分自身と自分のもののための生活の必需品だけが意味されるだけでなく、祖国の善・社会の善・仲間への善もまた意味されます。
商業は、商業が目的の愛であり、そして金銭への愛が仕える手段であるとき、商人が欺瞞と悪のたくらみを罪として避け、追う払うかぎり、このような善です。
目的の愛が金銭であり、そして商業の愛が仕える手段の愛であるときは異なります。なぜなら、これが貪欲であり、それは悪の根であるからです(それについては、ルカ12:15、それについてのたとえ話は16-21節参照)。