神の摂理 286
286 さて、人間が自由から理性にしたがって、すなわち、自主性と推理力のこれらの二つの能力から行動できることが神的な摂理の法則であるので――そしてまた自分自身から行動するように人間に見え、ここから自分のものそのもののように見えることが神的な摂理の法則であり――なおまた、それらから導き出されるために悪が許されなくてはならないことも法則であるので――人間はそれらの能力を誤用することができ、自由から理性にしたがって好むどんなものでも証明することができることがいえます。というのは、理性の欲するどんなものでも、本質的に理性のものであっても、あるいは理性のものでなくても、行なうことができるからです。
それゆえ、ある者は、「真理とは何か?私は自分の欲するどんなものでも真理とすることができないか?世もまたそのように行なっていないか?」と言います。
また、このことをできる者は、そのことを誤った推論によって行ないます。
虚偽の最たるものを取り上げ、才気ある者に、「証明せよ」と言ってみなさい、証明するでしょう。
たとえば、「人間は獣である」ことを証明するよう、彼に言いなさい。あるいは、「霊魂はクモの巣の中のクモのようであり、糸によってクモの巣である身体を支配している」と言いなさい。あるいは、「宗教は単なる束縛であって何でもない」と言いなさい、すると、これらのどんなものでも真理に見えるようにまでも証明するでしょう。
〔彼にとって〕さらに容易なものが何かあるでしょうか? 〔なぜ、彼がそう思うのかと言えば〕盲目の信仰から、真理として取り上げられたものの何が外観か、何が虚偽か知らないからです。
[2]このことから、神的な摂理が理解力と意志の最も個々のものの中にある、すなわち、同じことですが、悪い者も善い者もそれぞれの人間のもとの思考と情愛の最も個々のものの中にある、という真理を人間は見ることができません。
特に、悪もまた主からであった〔と思う〕ことによって混乱します。しかし、それでも、少しの悪ですら主からではなく、自分自身から考え、意志し、話し、行なうことから、その外観を自分自身のもとで確信した人間からであることが、今や、続きの中で見られます。それらがはっきりと見られるために、次の順序で示します。
(1)神的な摂理は全般的な最も個々のものの中に、善い者のもとにだけでなく、悪い者のもとにもある。それでも、彼らの悪の中にはない。
(2)悪い者は絶えず自分自身を悪の中へ導き入れる、しかし、主は絶えず彼らを悪から導き出される。
(3)悪い者は、プロプリウムの知性がすべてであり、神的な摂理は何ものでもない、と信じているかぎり、主により悪から導き出され、善の中へ導かれることがまったくできない。
(4)主は地獄を正反対のものによって支配され、世にいる悪い者を内的なものに関して地獄で支配される、しかし、外的なものに関しては支配されない。