神の摂理 318
318 しかし、どのように人間の状態が確信とここからの信念から変えられるか、ここに次の順序で述べます。
(1)確信されることができないものは何もなく、真理よりも虚偽が確信される。
(2)虚偽の確信からは真理は見られず、真理の確信から虚偽が見られる。
(3)何でも好むものを確信することができることは知性ではなく、単なる才気であり、最悪の者のもとにもまたありうる。
(4)意志の確信と同時にではなく理解力からの確信が存在すること、しかし、意志からのすべての確信は理解力の中にもまたある。
(5)意志と同時に理解力からの悪の確信は、プロプリウムの思慮分別がすべてであり、神的な摂理は何ものでもない、と人間が信じるようにすること。けれども、理解力だけからの確信なら、このことは行なわれない。
(6)意志と同時に理解力からのすべての確信は永久に残る。けれども、理解力だけから確信されるものは残らない。
[2]最初のものに関して、確信されることができないものは何もなく、虚偽が真理よりも確信される
無神論者により、神は全世界の創造主ではなく、自然が全世界の創造者であることが確信されるとき、確信されることができないものが何かありますか。宗教は単なる束縛であり、単純な者や大衆のためのものです。人間は獣のようなものであり、同じように死にます――姦淫と同様に、ひそかな盗み・ごまかし・欺きの策謀が許される、と確信されるとき、欺くことは知性、悪意は知恵でありませんか?
だれが自分の異端を確信しませんか?
キリスト教世界の中で支配している二つの異端のための本がその確信で満ちていませんか?
十もの異端を、さらにまた難解な異端をつくり、才気ある者に証明するように言いなさい、するとすべてのものを証明するでしょう。
その後、それらをあなたが確信したものだけから見るなら、あなたは虚偽を真理として見ませんか?
すべての虚偽は自然的な人間の中で外観とその欺きから輝いて見え、真理は霊的な人間の中でないなら輝かないので、虚偽は真理よりも確信されることができることが明らかです。
[3]すべての虚偽とすべての悪は、虚偽が真理のように、そして悪が善のように見られるようにまで、確信されることができることが知られるように、例として――光が暗やみであり、暗やみが光であることを証明してみます、
「何が本質的に光か?目の中にその状態にしたがって見られるものでないなら存在するのか?閉ざされた目に光とは何か?このような目がコウモリやフクロウにないのか?光を暗やみとして、暗やみを光として見ていないか?私は、同様に見ている者について聞いたことがある。地獄の者もまた、たとえ暗やみの中にいても、それでも互いに見ていることである。人間には真夜中の夢の中に光がないのか。このように暗やみは光であり、光は暗やみではないのか?」と言われることができませんか?
しかし、「これは何ですか?真理が真理であるように、光は光です。虚偽が虚偽であるように、暗やみは暗やみです」と答えることができます。
[4]さらに例を上げます――
カラスは白いことの証明です。
次のように言うことができませんか、「その黒さは単に陰である、それは実在しないのではないか?その羽は内部で白である、からだも同様である。それら〔内部〕からのものが実体である―–その黒さは陰であるので、それゆえ、カラスは老年になるとき白くなる。このようなカラスが見られる。白でないなら何が本質的に黒か?黒いガラスをすりつぶせ、するとあなたは、ちり(細かく分かれた物質)が白いことを見るであろう。それゆえ、あなたがカラスを黒いと呼ぶとき、あなたは陰から話し、実在するものから話していない」。
しかし、「これは何ですか?それなら、すべての鳥は白い、と言えるでしょう」と答えることができます。
これらは、たとえ健全な理性に反していても、真理とまったく正反対の虚偽、そして善とまったく正反対の悪が証明できることが見られるために示しました。
[5]第二――虚偽の確信からは真理は見られず、真理の確信から虚偽が見られる
すべての虚偽は暗やみの中に、すべての真理は光の中にあり、そして暗やみの中で何も見えません、それどころか手探りでないなら何も知られません、光の中では異なります。
それゆえ、みことばの中でもまた虚偽は暗やみと呼ばれており、ここから、虚偽の中にいる者は、「暗やみの中を、死の陰の中を歩く」と言われます。逆に、みことばで真理は光と呼ばれており、ここから真理の中にいる者は、「光の中を歩く」と言われ、光の子と呼ばれます。
[6]虚偽の確信で真理が見られず、真理の確信からは虚偽が見られることは、多くのことから明らかです――例えば、みことばが霊的な何らかの真理を教えないなら、だれがそれを見ますか?
光によって、その光の中にみことばがあり、照らされることを欲する者でないなら、追い散らされることのできなかった暗黒そのものだったのではありませんか?
教会の純粋な真理を許容しないなら、異端者のだれが自分の虚偽を見ることができますか、それ以前に彼はその虚偽を見ません。
私は、仁愛から分離した信仰を確信した者と話し、そして私は、「みことばの中に、愛と仁愛、働きと行為、戒めの遵守について、多くのものがある」のを見たかどうか、また「行なう者は祝福され、賢明であり、そして行なわない者は愚かである」ことについて質問しました。彼らは、「それらを読んでいる時、信仰であるとしか、また目を閉ざして通り過ぎたようにしか見なかった」と言いました。
[7]虚偽で確信した者は、壁の中に線条を見る者のようです、夕方の陰の中のとき、その線条を想像力の中で乗馬者または人間のように見ますが、その幻想の像は流入する日の光により消散させられます。
貞潔の霊的な清潔さの中にいる者でないなら、だれが姦淫の霊的な不潔さを感じることができますか?
隣人愛からの善の中にいる者でないなら、だれが復讐の残酷さを感じることができますか?
姦淫者、復讐を切望する者のだれが、彼らの快さを地獄のものと呼び、そして逆に結婚愛と隣人愛の快さを天界のものと呼ぶ者を、愚弄しません?等々。
[8]第三――何でも好むものを確信することができることは知性ではなく、単なる才気であり、最悪の者のもとにもまたありうる
最も巧みに証明する者が存在します。その者は何らかの真理を知らず、それでも真理と虚偽とを証明することができます。彼らのある者は、「真理とは何か?存在するのか?私が真理とするものが真理ではないのか?」と言います。
これらの者は世の中で知性ある者と信じられていますが、それでもなお、壁の石膏細工人でしかありません。
真理が真理であることを知覚し、このことを知覚したいろいろなものによって絶えず確信する者だけが知性のある者です。
この二者は、確信の光と真理の知覚の光の間を見分けられることができないので、ほとんど見分けられることができません、確信の光の中にいる者が真理の知覚の光の中にもまたいるとしか見られません、そのときそれでも愚かな光とほんものの光の間のような違いがあります。霊界の中の愚かな光は、流入するほんものの光を暗やみに変えるようなものです。
このような愚かな光が地獄の中の多くの者のもとにあり、その者はほんものの光の中に送り出される時、まったく何も見ません――これらから、何でも好むものを確信することができることは知性ではなく、単なる才気であり、最悪の者のもとにもまたありうることが明らかです。
[9]第四――意志の確信と同時にではなく理解力からの確信が存在する、しかし、意志からのすべての確信は理解力の中にもまたある
明らかにするために例を示します。
仁愛から分離した信仰を確認し、それでも仁愛の生活を送る者は、一般的に、その者は教えの虚偽を確信しますが、それでもなおそれにしたがって生きません。その者は理解力からの確信の中にいて、同時に意志からの確信の中にはいません――しかし、教えの虚偽を確信する者は、それにしたがって生き、彼らは意志からの確信の中に、同時に理解力からの確信の中にいます。
その理由は、理解力は意志の中に流入しないで、意志が理解力の中へ流入するからです。
これらからもまた悪からの虚偽が何であり、悪からでない虚偽が何であるか明らかです――悪からでない虚偽は善と結合されることができます、けれども悪からの虚偽は結合されることができません。その理由は、悪からでない虚偽は理解力の中の虚偽であって、意志の中になく、悪からの虚偽は意志の中の悪から理解力の中の虚偽であるからです。
[10]第五――意志と同時に理解力からの悪の確信は、プロプリウムの思慮分別がすべてであり、神的な摂理は何ものでもない、と人間が信じるようにする。けれども、理解力だけからの確信なら、このことは行なわれない
自分自身のもとに世の外観からプロプリウムの思慮分別を確信しますが、それでも神的な摂理を否定しない多くの者がいます。これらの者には理解力だけからの確信があります。しかし、同時に神的な摂理を否定する者には意志からの確信もまたあります。これらは特に、自然の崇拝者と同時に自分自身の崇拝者である者のもとでその信念と一緒になっています。
[11]第六――意志と同時に理解力からのすべての確信は永久に残る。けれども、理解力だけから確信されるものは残らない
というのは、理解力だけからのものは、人間の中になく、彼の外にあり、意志により受け入れられるものでないなら、思考の中にだけあり、決して人間に入らず、彼のものになることもないからです。というのは、意志により受け入れられるものは彼のいのちの愛のものになるからです。これが永久に残ることは、この次の箇所で述べます。