神の愛と知恵 220
220 全体、すなわち身体は、その活力を最終のものに、特に腕と手の中へ向けたので、それゆえ、みことばの中の「腕」と「手」によって活力が、そして「右手」によってすぐれた活力が意味されます。
活力へと向かう段階の進展と発揮はこのようであるので、それゆえ、手によって行なわれる活動だけから、また彼のすべての対応物から、人間のもとにいる天使は、理解力と意志に関して、なおまた仁愛と信仰に関して、したがって彼の心のものである内なるいのちに関して、そこから身体の中にある外なる生活に関して、彼がどんな人間であるかを知ります。
手による身体の活動だけから、天使にはこのように認知する力があることに、私はしばしば驚きましたが、それでも、ときどき生きた経験によって示され、聖職への叙階が手を置くことによってなされることはここからであり、手を触れることによって伝達が意味されること、また他にも同様のことが言われました。
これらから、仁愛と信仰のすべては、働きの中にあること、また働きのない仁愛と信仰は太陽のまわりの虹のようであり、それは消え、雲により追い散らされる、という結論が導かれます。
それゆえ、みことばの中では「働き」と「行なうこと」が言われ、人間の救いはそれらによることが、しばしば言われています。さらにまた、行なう者は賢い者と呼ばれ、行わない者は愚かな者と呼ばれています。
しかし、「働き」によって実際に行なわれる役立ちが意味されることを知らなければなりません。というのは、それらの中に、それらにしたがって、仁愛と信仰のすべてのものがあり——役立ちはその働きと対応し、その対応は霊的です——主体である実体と物質によって行われるからです。