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神の愛と知恵

まえがき◀︎目次▶︎002

第一部

愛は人間のいのちである

1 人間は愛があることを知っていますが、愛が何であるかを知りません。普段の会話から愛があることを知っています。例えば、彼は私を愛する、国王は臣民を愛し、臣民は国王を愛する、夫は妻を愛する、母は子供を愛し、その逆も、さらにあれやこれやの者が祖国を、仲間の市民、隣人を愛する、同様に、人物から抽象された事柄について、このことやあのことを愛する、と言われています。しかし、このように会話の中で愛は普通のことですが、それでも愛とは何か、ほとんど知りません。
愛について熟考する時、そのことについて何の観念も形成することができないので、「何もない」あるいは、「単に視覚、聴覚、触覚、また社交から流入し、このように感動させる何らかの存在である」と言います——いのちそのものであることを、全身の全般的ないのちだけでなく、個々のものすべてのいのちであることをまったく知りません。
 賢明な者はこのことを、「あなたが愛のものである情愛を取り去るなら、何かを考えることができますか? また、何かを行なうことができますか? 愛のものである情愛が冷たくなるほど、それだけ思考、会話、行動は冷たくなりませんか? 熱くなればなるほど、それだけそれらも熱くなりませんか?」と言われるとき、ここから知覚することができます。しかし、賢明な者は、これらのことを、愛が人間のいのちであるという知識からではなくて、このようなことが起こる経験から知覚しています。
 〔この1番の大部分が『結婚愛』34番に引用されています〕

神の愛と知恵

001◀︎目次▶︎003

2 だれも人間のいのちとは何か、それが愛であることを知らないなら、知りません。このことを知らないなら、ある者は人間のいのち(生活)とは、単に感じ、行動すること、別の者は考えることであると信じることができます。そのときそれでも、思考はいのちの最初の結果であり、感覚と行動はいのちの第二の結果です。思考はいのちの最初の結果であると言われますが、内的なさらにまた内的な思考が存在し、なおまた外的なさらにまた外的な思考が存在します。目的を知覚することである最内部の思考が、実際にいのちの最初の結果です——しかし、これらについては後で、いのちの段階についてのところで扱います。

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002◀︎目次▶︎004

3 人間のいのちである愛についての何らかの観念は、世の太陽の熱から抱くことができます。その熱が地のすべての植物に共通ないのちのようなものであることは、よく知られています。なぜなら、その熱から、春の時に起こることですが、土地からすべての種類の植物が生長し、葉で、その後、花、そして最後に果実で飾り、このように生きているかのようであるからです。しかし、秋と冬の時に、熱が去るとき、それらからいのちのしるしは裸にされ、衰えます。人間のもとの愛も同様です、なぜなら、熱と愛は互に対応するからです。それゆえ、愛もまた温かいものです。

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003◀︎目次▶︎005

神おひとりが、したがって主が、いのちそのものであるので、愛そのものであられ、天使と人間は、いのちを受け入れるものである

4 このことは『神の摂理』と『生活』についての論文の中で、多くの説明をします。ここではただ、「全世界の神である主は、創造されず、無限なものである。けれども、人間と天使は創造され、有限である」とだけ述べておきます。主は創造されず、無限なものであるので、エホバと呼ばれる「存在」そのものであり、いのちそのもの、または本質的に、いのちです——創造されないもの、無限なもの、存在そのもの、いのちそのものからは、神性は一つであり、分かつことができないので、だれも直接にではなく神性が内在することができるように形作られ、創造された有限なものから創造されなくてはなりません。 人間と天使はこのようなものであるので、いのちを受け入れるものです。
それゆえ、だれかが、「人間とは、いのちを受け入れるものではなく、いのちである」という思考に連れ去られることを許すなら、どうしても〔自分は〕神であるという思考から抜け出ることはできません。 人間〔自身〕がいのちであるように感じ、ここからそうであると信じることは、〔感覚の〕欺きからです。というのは、主要な原因と手段となる原因を一つのもののようにしか知覚しないからです。
主は、ご自分のうちにいのちがあることを「ヨハネ福音書」で教えられています、
……父がご自分のうちにいのちを持つように、子にもまた自分のうちにいのちを持つことを与えられた (2:26)。

そして「いのちそのもの」であられること (ヨハネ11:25, 14:6)。
それで、前述のこと (1, 2番) から明らかなように、いのちと愛は一つであるので、いのちそのものであられる主は愛そのものであられる、といえます。

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5 しかし、このことが理解されるためには、主は愛の本質そのもの、すなわち、神的な愛であられるので、天界の天使の前に太陽として見られること、その太陽から熱と光が発出し、そこから発出する熱はその本質では愛であり、そこから発出する光はその本質では知恵であること、天使はその霊的な熱と霊的な光を受け入れれば受け入れるほど、それだけ愛と知恵であること、自分自身からではなく、主から愛と知恵であることを完全に知らなくてはなりません。
その霊的な熱とその霊的な光は天使のもとに流入し、働きかけるだけでなく、人間のもとにも完全に受け入れるものとなるようにまで、流入し、働きかけ、彼らの主への愛と隣人に対する愛にしたがって、彼らは受け入れるものとなります。
その太陽そのものは、すなわち、神的な愛は、それ自体の熱と光によって、それ自体から直接に何かを創造することはできません。というのは、このようにしてそれはその本質において愛となってしまい、それは主そのものであるからです。しかし、熱と光そのものを受け入れることができるように形成された実体と物質から創造することができます。比べれば、世の太陽は熱と光によって直接に地球に発芽を生み出すことができませんが、土地の物質から、熱と光によって土地の物質に内在し、その土地の物質から植物を発芽させることができるようなものです。
主の神的な愛が霊界の中で太陽として見られること、そしてそれから霊的な熱と霊的な光が発出すること、そこから天使に愛と知恵があることは、著作『天界と地獄』に見られます(116―140番)。

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6 それゆえ、人間はいのちではなく、いのちの受け入れるものであるので、父による人間の受胎はいのちの受胎ではなく、子宮の中で、いのちの受け入れる単なる最初の最も純粋な形の受胎であり、原基または初期の段階の形に、いのちの受容の形の中で、その秩序と段階の中で、ふさわしいように連続的に実体と物質が加わる、といえます。

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神性は空間の中に存在しない

7 神性あるいは神は空間の中に存在しません、それでも世のそれぞれの人間のもとに、天界のぞれぞれの天使のもとに、天界の下のそれぞれの霊のもとに遍在します。
 このことは、単なる自然的な観念で理解することはできませんが、霊的な観念で理解できます。このことを自然的な観念が理解できないのは、その観念の中に空間が存在するからです。というのは、世の中にあって、目で見られるすべてと個々のものは空間の中にあるようなものから形成されているからです。そこの大小すべてのものは空間に、そこのすべての長さ、幅、高さは空間に属します。一言でいえば、そこのすべての量、形状、形は空間に属します。それゆえ、「神性は空間の中に存在しないで、どこでも存在する」と言われるとき、「単なる自然的な観念では理解されることができない」と言われます。
 しかしそれでも、人間はこのことを自然的な思考で、その中に何らかの霊的な光が入ることを許しさえばすれば理解することができます。それゆえ、最初に、霊的な観念とそこからの思考についていくつか述べておきます。
 霊的な観念は、空間からは何も得ないで、すべてを状態から得ています。状態とは、愛、いのち、知恵、情愛、そこから楽しさについて、全般的に、善と真理について言われます。これらについて、真に霊的な観念に空間と共通なものはありません。〔霊的な観念は〕上位のものであって、天が地を見るように〔自然的な観念からの〕空間の観念を下に見ています。
 しかし、天使と霊たちは世の人間と等しく目で見ており、またその対象は空間の中でないなら見られることができないので、それゆえ、霊と天使たちがいる霊界では、そこの空間は地上の空間と同様に見えます。しかしそれでも、空間ではなく、外観です。というのは、地上のように固定した不変のものではなく、移され、引き寄せられること、変えられ、変化されることができるからです。このように測定で定められることはできず、何らかの自然的な観念で理解されることができず、霊的な観念だけにより理解されることができます。空間の距離についての霊的な観念は善または真理の距離のようなものであり、その距離は親近感と類似の状態にしたがっています。

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8 これらから、「神性はどこにでも存在する、それでも空間の中にではない」ことを、人間は単なる自然的な観念から理解することができませんが、天使と霊たちはそのことをはっきりと理解すること、したがって、人間もまた自分の思考の中に何らかの霊的な光が入ることを許すなら、理解できることを明らかにすることができます。
 人間が理解することのできる理由は、身体ではなく霊が考え、このように彼の自然的なものでなく、彼の霊的なものが考えるからです。

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008◀︎目次▶︎010

9 けれども、多くの者は自然的なものを愛するので、このことを理解せず、それゆえ、自分の理解力の思考を霊的な光の中に上げることを欲しません。欲しない者は、神についても空間から考えることしかできません。神について空間から考えるとは、大自然の広がりから考えることです。
 このことをあらかじめ言っておかなくてはならないのは、神性が空間の中に存在しないという何らかの知識と知覚なしに、ここで扱われる愛と知恵である神的ないのちについて何も理解できず、またここから、これから扱われる神的な摂理、遍在、全知、全能、無限、永遠についてどんなこともほとんど理解されなくなるからです。

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10 霊界でも、自然界と等しく空間が見られ、したがって距離も見られる、と述べました。しかし、愛と知恵のもの、すなわち、善と真理のものである霊的な親近感にしたがった外観です。
 ここから、主は、天界の中のどこでも天使のもとにおられるけれども、それでも彼らの上方の高いところに太陽として見られます——愛と知恵の受け入れによりその方との親近感がひき起こされるので、それゆえ、強い親近感をもって受け入れる天使の天界は、親近感の薄い者の天界よりも、さらにその方の近くに見られます——このことからもまた、三つの天界があって、互いに区別され、天界のそれぞれの社会も同様です。なおまた、それらの下にある地獄は愛と知恵の拒絶にしたがって遠く離れています。 全地球の人間もまた同様であり、その者のうちに、またその者のもとに、主は現在されます。このことはひとえに、主は空間の中に存在されない、という理由によります。

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010◀︎目次▶︎012

神は人間そのものであられる

11 すべての天界の中に、「神は人間である」という観念以外の他の観念はありません。その理由は、天界は全体でもまた部分でも、形では人間のようであり、天使のもとにある神性が天界をつくり、思考は天界の形にしたがって進み、それゆえ、天使に神についてこれと異なって考えることは不可能であるからです。ここから、世にいながらも天界と結合しているすべての者は、自分自身の内部で、自分自身の霊の中にいるとき、神について同様に考えています。
神は人間であることから、すべての天使と霊たちは完全な形をした人間です。このことは天界の形によってなされ、その形は最大のものの中で、また最小のもの中でそれ自体に似ています(天界の形は全体でも、また部分でも人間のようであることは、著作『天界と地獄』59番から87番に見られます。また思考は天界の形にしたがって進むことは203、204番)。
人間は神の映像に、また似姿に、創造されていることは、「創世記」(1:26, 27)から知られます。なおまた、神は、アブラハムや他の者から人間として見られました。
古代人は、賢明な者から単純な者にまでも、神について人間としてしか考えませんでした。また最後に、アテネやローマのように、多くの神々を礼拝し始めたとき、すべての神を人間として礼拝しました。 これらのことは、前に出版された小著の中の次のものによって説明されます——
異邦人、特にアフリカ人は全世界創造のひとりの神を認め、礼拝し、神について人間であるという観念を抱いている。彼らは、「だれも神について他の観念を抱くことはできない」と言う。「多くの者が神について(全世界の)真ん中の雲のようなものであるという観念を抱いている」と聞くとき、彼らは、「〔その者たちは〕どこにいるのか」と尋ねる。「キリスト教徒たちの間にいる」と言うと、「ありえない」と否定する。しかし、すべての霊と天使たちは人間であることを知らないで、彼らにこのような観念があるのは、「神はみことばの中で〝霊〟と言われており、霊について雲の一部であるようにしか考えないからである」と答えられる。
しかしそれでも、その者たちの霊的な観念がその自然的な観念と似ているかどうか調べられ、主を天地の神として内的に認める者たちのもとでは似ていないことがわかった。
私は、キリスト教徒のある長老が、「神人間の観念をだれももつことができない」と言うのを聞いた。それから私は、彼が、いろいろな異邦人のもとへ、ひき続いてさらに内的な者のもとへ、彼らから彼らの天界へ、ついにキリスト教徒の天界へ運ばれるのを見た。どこででも、彼は、神についてその者たちの内的な知覚が自分に伝達され、彼らには、神は人間であるという観念しか存在しなかったこと、それは神人間の観念と同じであることに気づかされた〔『続 最後の審判』74番、参照〕。

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011◀︎目次▶︎013

12 キリスト教世界の大衆のもつ神についての観念は、アタナシウスの三一性の教義の中で神が「ペルソナ」〔位格、すなわち人格〕と呼ばれているので、人間としての神です——しかし、大衆よりも賢明である者は、神を目に見えないと表明しています。このことは、人間としての神がどのようにして天と地を創造し、なおまたご自分が臨在して全世界を満たすことができたか理解することができないので生じています。それらのことは、神が空間の中に存在しないことが知られないかぎり、理解されることができません。
 けれども、主だけに近づく者は、神性人間性を思い、このように神を人間として考えます。

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012◀︎目次▶︎014

13 神についての正しい観念をもつことがどれほど重要であるかは、神についての観念により宗教をもつすべての者のもとの思考の最内部がつくられることから明らかにすることができます。というのは、宗教と礼拝のすべてのものは神に目を向けるから——神は、宗教と礼拝のすべてのものの中に普遍的にまた個別的に存在するので、神についての正しい観念がないなら、天界との伝達は存在することができません。
 ここから、霊界の中のそれぞれの国民は人間としての神についての観念にしたがって場所を割り当てられます。というのは、この観念の中にだけ、主についての観念があるからです。
 死後の生活の状態は、その人間が主張した神についての観念にしたがっていることは、その正反対のものである神の否定が、キリスト教世界では主の神性の否定が、地獄をつくることからはっきりと明らかです。

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013◀︎目次▶︎015

神人間の中でエッセとエキシステレは区別のある一つのものである

14 エッセ(存在)のあるところに、エキシステレ(実存)があります。一方はもう一方なしに存在しません——なぜなら、エッセはエキシステレによって「存在する」、またそれなしに存在しないからです。
 このことを理性的な人間は、何らかのエッセが「存在するようになる」ことがなくて存在することができるかどうか、またエッセからでないならエキシステレが存在することができるかどうか考える時、理解します。一方はもう一方のものとまたもう一方なしに存在しないので、一つであり、区別のある一つのものである、といえます。
 愛と知恵のように区別される一つのものです——さらにまた愛はエッセであり、知恵はエキシステレです、というのは、愛は知恵の中でないなら存在せず、知恵も愛からでないなら存在しないからであり、それゆえ、愛が知恵の中にあるとき、存在するようになるからです。
 これらの二つのものは確かに思考で区別されることができるように一つですが、活動では区別されません——思考では区別されますが、活動では区別されることができないので、それゆえ、区別のある一つのものである、と言われます。
 神人間の中のエッセとエキシステレもまた霊魂と身体のように区別のある一つのものです——霊魂はその身体なしに存在しないし、身体もまたその霊魂なしに存在しません。
 神人間の神的な霊魂は神的なエッセによって意味されるものであり、神的な身体は神的なエキシステレによって意味されるものです。
 身体なしに霊魂が存在するようになり、考え、賢明であることができると考えることは〔感覚の〕欺きから生ずる誤りです。というのは、人間の霊魂は、世の中で持ってまわった物質的なぬけがらを捨てた後に、霊的な身体の中に存在するからです。

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014◀︎目次▶︎016

15 エッセは「存在するようになる」ことがなくては存在ではありません。形の中に存在する前には存在せず、形の中に存在しないなら、性質をもたず、性質をもたないなら、何ものでもないからです。
 エッセから「存在するようになる」ものは、エッセから存在するものによってエッセと一つとなります——ここから、一つのものの中に結合があり、ここから、一方は相互にまた交替にもう一方のものであり、なおまた一方はそれ自体の中にあるかのように、もう一方のすべての中のすべてです。

神の愛と知恵

015◀︎目次▶︎017

16 これらから、神は人間であり、そのことによって、神はご自身から存在するようになるのではなく、ご自分のうちに存在するようになられることを明らかにできます。
 ご自分のうちに存在する方とは、そこからすべてのものが存在する神です。

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016◀︎目次▶︎018

神人間の中で無限なものは区別のある一つのものである

17 神が無限であることはよく知られています、「無限なる者」と呼ばれるからです。それでも「無限なる者」と呼ばれるのは、無限であられるからです。
 その方の中にエッセとエキステレそのものが存在することだけから、無限であるのではなく、その方の中に無限があるからです——その方の中に無限がないなら、名目だけの無限です。その方の中の無限は、多くの無限とも、すべての無限とも言われることができません、「多く」も「すべて」も自然的な観念であるからです。なぜなら、多くの無限という自然的な観念は限定されたものであり、すべての無限という観念は確かに限定されませんが、その観念は全世界の中の限定されたものから得ているからです。
 それゆえ、人間には自然的な観念があるので、浄化や接近によって神の中の無限についての知覚に到達することができません。しかし、天使は、霊的な観念の中にいるので、浄化や接近で人間の段階以上に到達できますが、それでもやはり、そこに到達できません。

神の愛と知恵

017◀︎目次▶︎019

18 神が人間であることを信じる者はだれでも、神の中に無限なものがあることを、また人間であるので、その方に身体があり、また身体に属するすべてのもの、したがって、その方に、顔、胸、腹、腰、足があることを肯定することができます——なぜなら、それらがないなら人間ではないからです。また、その方にそれらのものがあるので、その方にはまた、目、耳、鼻、口、舌があります。なおまた人間の内部にあるもの、例えば、心臓、肺、またそれらに依存するものがあり、それらすべてが1諸となって、人間が人間であるようになっています。
創造された人間の中にそれらの多くのものが、またその構造の中で無数のものが見られます——神人間の中でそれらは無限であり、何も欠けていません。ここから、その方の無限は完全です。
神である創造されたのではない人間と創造された人間と比較すれば、神は人間であるので、世の人間はその方の像と似たものに創造された、とその方により言われています(創世記1:26, 27)。

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018◀︎目次▶︎020

19 神の中に無限なものがあることは、天界の中にいる天使には、その天界からさらにはっきりと明らかです。
無数の天使から成り立つ全天界は、その全体の形で人間に似ています。諸天界のそれぞれの社会は、大きいものも小さいものも、同様に人間に似ています。ここから、天使もまた人間です、というのは、天使は最小の形で天界であるから。このようであることは、著作『天界と地獄』の中に見られます(51―87番)。
天界は、天使が受け入れる神性から、全体で、部分で、また個々に、このような形の中にあります。なぜなら、天使は神性から受け入れば受け入れるほど、それだけ完全な形の人間であるからです。
ここから、「天使は神の中にいる、神は彼らの中におられる」と言われます。なおまた神は彼らのすべてです。天界の中にどれほど多くのものがあるか、述べられることはできません。
神性が天界をつくり、またここから言語に絶する多くのものが神性から存在するので、神である「人間」そのものの中に無限なものがあることが、きわめて明らかです。

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019◀︎目次▶︎021

20 このことが役立ちから、その対応から眺められる時、創造された「全世界」から同様のことを推論することができます——しかし、その前に説明すべきことがあり、そのあとでないなら理解されることはできません。

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020◀︎目次▶︎022

21 神人間の中に無限なものが、鏡の中に見られるように、天界の中に、天使や人間の中に存在するので、また(前の7―10番に示されたように)神人間は空間の中に存在しないので、どのように神が遍在し、全能で、すべてを備えることがおできになるか、そして、どのように「人間」としてすべてのものを創造し、「人間」としてご自分により創造されたものをその秩序の中に永遠に保つことがおできになるか、いくらか見て、理解することができます。

神の愛と知恵

021◀︎目次▶︎023

22 神人間の中で無限のものが区別のある一つのものであることもまた、〔神人間を〕鏡の中に〔映し出した〕人間からのように明らかにすることができます。
前に言われたように、人間の中に多くのものと無数のものがありますが、それでも、人間はそれらを一つのように感じます。自分の脳、心臓と肺、肝臓、脾臓、膵臓について感覚からは何も知りません、目、耳、舌、胃、生殖器の中の、また他のものの中の無数のものについても知りません。それらを感覚から知らないので、自分自身にとって一つのようです。その理由は、それらすべてのものは、一つも欠けることができないような形の中にあることです。というのは、(前の4―6番に、示されたように)神人間からいのちを受け入れる形であるからです。
すべてのものの秩序と関連から、このような形の中に、多くのものと無数のものではなく、一つのような感覚と、ここから考えがもたらされています。
これらから、人間の中で区別のある一つのもののようになっている多くのものと無数のものは、神である「人間」そのものの中では、それどころか最も区別のある〔しかも〕一つのものであることを結論することができます。

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022◀︎目次▶︎024

唯一の神人間が存在し、そこからすべてのものがある

23 人間の理性のすべてのものは、「神は唯一の全世界の創造者であられること」に結合され、いわばそこに集中しています——それゆえ、理性ある人間は、自分の理解力の全般的なものから、これと異なって考えないし、考えることもできません。
 健全な理性をもつ者に、「全世界の創造者がふたりいる」と言ってみなさい、おそらくその話し声が耳の中にあるだけで、そのことからあなたは強い反感を知るでしょう——そこから、人間の理性のすべてのものは、神は唯一であられることに結合し、そこに集中していることが明らかです。
 このようであることに、二つの理由があります。
 「第一」は、理性的に考える能力そのものは、本質的に眺められるとき、人間のものではなく、彼のもとの神のものであるからです。その能力に人間の理性は共通に一般に依存し、この共通のものがそのことを自分自身から見るかのようにしています。
 「第二」は、人間はその能力によって天界の光の中にいるか、あるいはそこから自分の思考の共通のものを得ており、天界の光の普遍的なものは、神は唯一であられることです。
 もし人間がその能力で、低い理解力をゆがめるなら、異なります。彼はその能力を授けられていても、〔彼の〕低いものをねじ曲げることによってそれを他のところへ向きを変えます。ここから、その理性は健全でなくなります。

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023◀︎目次▶︎025

24 すべての人間は、たとえ気づかなくても、集団について人間のように考えています。さらにまた、それゆえ、「国王は頭であり、臣民は身体である」と言われるとき、さらにあの者やこの者は共有の身体の中で、すなわち、王国の中で、このようであると言われるとき、すぐさま認めます。霊的な身体の場合も、市民としての身体の場合と同様です。霊的な身体は教会であり、その頭は神人間です。
 ここから、このことを知覚するとき、もし、全世界の創造者で維持者である唯一の神でなく、一つに代わって多くの神が考えられるとき、人間として見られる教会がどのようなものとなるか明らかです。知覚の中で、一つの身体の上に多くの頭があるように、人間のようではなく怪物のように見られます。
 「それらの頭に一つの本質があり、そしてその本質によってともに一つの頭をつくる」と言われるなら、ここからは結果として、一つの頭に多くの顔があるかあるいは多くの頭に一つの顔があるという考えしか生ずるはずがありません。この知覚の中で教会は醜いものとして示されます——それでも、一つの神が頭であり、教会が身体であるとき、人間の中でも生じるように、その身体自体からでなく、頭の指図から行動します。
 またここから、一つの王国の中に国王は一人でなくてはなりません。というのは、〔王国は〕多くの国王により引き離されますが、一人の国王により保たれることができるからです。

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024◀︎目次▶︎026

25 全地球へ広がった〔聖徒の〕交わりと呼ばれる教会も、 一つの頭の下の身体であるのと同様であったならよかったでしょう。
 頭がその指図のもとに身体を支配することは、よく知られています。というのは、頭の中に理解力と意志があり、身体は単に従順なものであるようにまでも、理解力と意志により働きかけられるからです。 身体は、頭の中の理解力と意志からでないなら、何も行なうことができず、教会の人間も、神からでないなら同様です。
 身体は、それ自体から動いているように見えます。例えば、動いている手足はそれ自体から動いているように、話している口と舌はそれ自体から動いているように見えます。そのときそれでも、それ自体からでは少しもなく、頭の中の意志の情愛とここからの理解力の思考から動いています。
 その時、一つの身体に多くの頭があり、それぞれの頭がその理解力とその意志から管理しているなら、身体が存続することができるか、考えてみなさい——それらの間に、一つの頭からのものであるような一致はありえません。
 教会の中のように、多くの天使から成り立つ天界の中もそのようです。すべてと個々の者が唯一の神に目を向けないなら、互いに離反し、天界は分解します。
 それゆえ、天界の天使が多くの神について考えるなら、彼は直ちに消えます。なぜなら、天界の最も外部の端に追い払われ、落ちるからです。

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025◀︎目次▶︎027

26 全天界と天界のすべてのものは唯一の神に関係するので、それゆえ、天使の話し方は、天界の調和から流れ出るある種の一致によって、一つの表現形式に終わり、唯一の神以外に考えることが彼らに不可能であることのしるしとなっています。というのは、話し方は思考からのものであるから。

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026◀︎目次▶︎028

27 正しい理性をもつ者で、だれが、神性が分割されないことを、なおまた、多くの無限なる者、創造されない者、全能なる者、そして神々が存在しないことを知覚しませんか? 
 理性をもたない他の者が、「唯一の同じ本質があるかぎり、多くの無限なる者、創造されない者、全能なる者、そして神々が存在可能である。それによって唯一の無限なる者、創造されない者、全能なる者、神が存在する」と言うなら、〔その〕唯一の同じ本質とは唯一の同じものではありませんか? 唯一の同じものは、多くのものに存在しません。
 「一つのものは他のものから存在する」と言うなら、その時、他のものから存在するそれは本質的に神ではありません。それでも、本質的に神は、その方からすべてのものが存在する神であられます(前の16番参照)。

神の愛と知恵

027◀︎目次▶︎029

神的な本質そのものは愛と知恵である

28 あなたが知られているどんなものでもすべてのものを集め、それらを心で、また何らかの霊の高揚の中で熟慮し、何がすべてのものの普遍的なものかを調べるなら、あなたは愛と知恵であること以外に何も結論することができません。というのは、それらは人間のすべてのいのち(生活)の二つの本質であるからです。彼の市民的なすべてのもの、道徳的なすべてのもの、霊的なすべてのものは、それら二つのものからであり、それら二つのものがなくては何ものでもありません。
 前に言われたように、大きな社会や小さな社会、王国や帝国、教会、さらにまた天使の天界である構成された「人間」のいのち(生活)も同様です。
 それらのものから愛と知恵を取り去り、それが何ものかどうか考えてみなさい、するとあなたは、その起源としてのそれらなしに、何ものでもないことに気づくでしょう。

神の愛と知恵

028◀︎目次▶︎030

29 神の本質そのものの中に愛と1諸に知恵があることは、だれからも否定されることはできません。というのは、すべての者をご自分の中の愛から愛したすべての者をご自分の中の知恵から導かれるからです。
秩序から眺めた創造された全世界もまた、あなたが全体としてすべてのものは愛と知恵そのものである、と言うようにも、愛からの知恵に満ちています。というのは、このような秩序の中に、連続的にまた同時に、一諸に取られて一つとなるようにして、無限のものが存在するからです。
保たれ、永続的に存在することができるのは、このことだけからです。

神の愛と知恵

029◀︎目次▶︎031

30 神的な本質そのものは愛と知恵であることから、人間に生活の〔ための〕二つの能力があります。それらの一つから理解力が、もう一つから意志があります。
 理解力の能力は、そのすべてのものを神からの知恵の流入から得ています。また意志の能力は、そのすべてのものを神からの愛の流入から得ています。これらの能力は、人間が賢明でなく、正しく愛さなくても、取り去られないで、閉じ込められるだけのことです。またそれらが閉じ込められるかぎり、理解力は理解力と呼ばれ、同様に意志も意志と呼ばれても、それでも本質からではありません——それゆえ、それらの能力が取り去られるなら、すべての人間性は失われます。それは考えること、考えることから話すこと、また意志すること、意志することから行動することです。
 ここから、人間のもとの神性は、賢明になる能力と愛する能力、すなわち、賢明になり、愛することができるというこれらの二つの能力の中に宿っていることが明らかです。
 人間の中に、たとえ賢明であり、愛することができなくでも、賢明になること愛することの可能性があることは、多くの経験から私によくわかっています、その経験はあなたも豊かにいろいろなところでしているでしょう。

神の愛と知恵

030◀︎目次▶︎032

31 神的な本質そのものは愛と知恵であることから、全世界のすべてのものは善と真理に関係しています。というのは、愛から発出するすべてのものは善と呼ばれ、知恵から発出するすべてのものは真理と呼ばれるからです。
 しかし、これらについては多くのことを後で述べます。

神の愛と知恵

031◀︎目次▶︎033

32 神的な本質そのものは愛と知恵であることから、全世界とその中のすべてのものは、生きているものも生きていないものも、熱と光から存続します。というのは、熱は愛に対応し、光は知恵に対応するから。さらにまた、それゆえ、霊的な熱は愛であり、霊的な光は知恵です。
 しかし、これらについてもまた多くのことを後で述べます。

神の愛と知恵

032◀︎目次▶︎034

33 神である本質そのものをつくる神的な愛と神的な知恵から、人間のもとの情愛と思考のすべてのものが生じます。神的な愛から情愛が、神的な知恵から思考が生じ、人間のすべてと個々のものは情愛と思考以外のものではありません。これら二つのものは、いのち(生活)のすべてのものの泉のようです。これらからいのちのすべての楽しさと快さがあります。楽しさは愛の情愛から、また快さはそこからの思考からです。
 そこで、人間は受け入れるものとして創造されているので、神を愛し、神への愛から賢明であればあるほど、すなわち、神からであるものに働きかけられ、それらの情愛から考えれば考えるほど、受け入れるものとなっており、ここから、創造者である神的な本質は神的な愛と神的な知恵である、といえます。

神の愛と知恵

033◀︎目次▶︎035

神的な愛は神的な知恵のものであり、神的な知恵は神的な愛のものである

34 神人間の中の神的なエッセと神的なエキシステレは区別のある一つのものであることは前に見られます(14―16番)
また、神的なエッセは神的な愛であり、神的なエキシステレは神的な知恵であるので、それゆえ、同様にこれらは区別のある一つのものです。
愛と知恵は二つの区別されたものであるので、区別のある一つのものと言われますが、愛は知恵のものであり、知恵は愛のものであるように結合したものです。なぜなら、愛は知恵の中に「存在する」、そして知恵は愛の中に「存在するようになる」からです——知恵は(前の15番に言われているように)そのエキシステレを愛から得ているので、ここからもまた神的な知恵はエッセです。
これらから、愛と知恵はひとまとまりにされた神的なエッセですが、しかし区別されて、愛は神的なエッセ、知恵は神的なエキシステレと呼ばれる、といえます。
神的な愛と神的な知恵について、天使の観念はこのようなものです。

神の愛と知恵

034◀︎目次▶︎036

35 神人間の中に、愛と知恵そして知恵と愛のこのような結合あるので、神的な本質は一つです。というのは、神的な本質は、神的な知恵のものであるので神的な愛であり、また神的な愛のものであるので神的な知恵であるから——それらの結合はこのようであるので、それゆえ、神的ないのちもまた一つです。 いのちは神的な本質です。神的な愛と神的な知恵は一つであり、その結合が相互的なものであるので、相互の結合は一つのものをつくります。
 しかし、相互の結合については、他のところで多くのことを述べます。

神の愛と知恵

035◀︎目次▶︎037

36 愛と知恵の結合は、すべての神的な働きの中にもまたあります。その結合からその働きの永続性が、それどころか永遠性があります。
 何らかの創造の働きの中に、愛の神的なものが知恵の神的なものよりも多いなら、または知恵の神的なものが愛の神的なものよりも多いなら、等しく内在するのでないなら存続しません。過剰なものは過ぎ去ってしまいます。

神の愛と知恵

036◀︎目次▶︎038

37 人間を改心させ、再生させ、また救うために、神的な摂理は、神的な愛と神的な知恵から等しく関与しています。知恵の神的なものよりも愛の神的なものが多いなら、または愛の神的なものよりも知恵の神的なものが多いなら、人間は改心し、再生し、救われることができません。
 神的な愛はすべての者を救うことを欲しますが、神的な知恵によらないなら救われることはできません。神的な知恵は、救いを行なうすべての法則であり、神的な愛と神的な知恵は一つであって結合して働くので、その愛はその法則を越えることはできないからです。

神の愛と知恵

037◀︎目次▶︎039

38 神的な愛と神的な知恵は、みことばの中で「公正(義)と審判(さばき)」によって、神的な愛は「公正」によって、また神的な知恵は「審判」によって意味されています——それゆえ、みことばの中で主について「公正(義)」と「審判(さばき)」と言われています。
例えば、「ダビデ」に、

義とさばきは、あなたの王座の支え(詩篇89:14)。

同書に、

エホバは、義を光のように……さばきを……真昼のように現わされる (詩篇37:6)。

「ホセア書」に、

わたしは、あなたにわたしを永遠に婚約させる……公正と審判の中で (2:19)。

「エレミヤ書」に、

わたしはダビデに正しい若枝を起こす。彼は王として支配し……地にさばきと公正を行なう (23:5)。

「イザヤ書」に、

ダビデの王座に、その王国の上に着く。さばきと公正のうちに、これを堅く立てるために (9:7)。

同書に、

エホバは高められる……地をさばきと公正で満たされたからである (33:5)。

「ダビデ」に、

私はあなたの公正なさばきを学ぶとき……日に七度、私はあなたを、あなたの公正なさばきについてほめたたえます (詩篇119:7, 164)。

同様のことが「ヨハネ福音書」に、「いのち」と「光」によって意味されます、

その方の中にいのちがあった。いのちは人間の光であった (1:4)。

「いのち」によって主の神的な愛が、また「光」によってその方の神的な知恵が意味されます。
さらにまた同様のことが「ヨハネ福音書」に、「いのち」と「霊」によって意味されます、

イエスは言われた、「わたしがあなたがたに話したことばは、霊といのちです」。(6:63)

神の愛と知恵

038◀︎目次▶︎040

39 人間の中で、愛と知恵は二つの分離したもののように見えますが、それでも本質的に区別された一つのものです。人間のもとで、愛がどのようなものであるかによって、知恵はそのようなものであり、知恵がどのようなものであるかによって愛はそのようなものであるからです。
 愛と一つとなっていない知恵は知恵のように見えますが、それでも知恵ではありません。そして、知恵と一つとなっていない愛は知恵の愛のように見えますが、それでも、その愛ではありません。というのは、一方はその本質とそのいのちを相互にもう一方から得るからです。
 知恵と愛が人間のもとで二つの分離したもののように見られるのは、彼のもとの理解する能力は天界の光の中に上げられることができますが、愛する能力は人間が理解したように行なわないかぎり上げられないからです。
 それゆえ、知恵の愛と一つとならないで知恵に見えるものは、知恵と一つではない愛の中に落ち込み、それは知恵のものである愛ではありえません、それどころか、狂気の愛です——というのは、人間は知恵から、あれこれと行なわなくてはならないことを知ることができますが、それでもそれを愛さないので、行なわないからです。しかし、人間はどれだけ愛から知恵のものであることを行なうかによって、それだけ神の映像です。

神の愛と知恵

039◀︎目次▶︎041

神的な愛と神的な知恵は、実体であり、形である

40 愛と知恵について普通の人間の観念は、薄い空気またはエーテルの中を飛んで流れるもの、または、そのような何らかのものから発散するもののようであり、ほとんどだれも、実際にまた事実上、「実体と形である」とは考えません。
 実体と形であると知る者でも、愛と知恵を主体の外の、主体から流れ出るもののように知覚しています。また主体の外のそれから流れ出るようなものを知覚しても、それでも飛んで流れるようなものを、愛と知恵は実体そのものであることを、その外で飛んで流れるように知覚されるものが単に本質的に実体の外観の状態であることを知らないで、さらにまた実体や形と呼んでいます。
 このことがこれまで知られなかったことには多くの理由があります。
 それらの理由の一つに、外観は、それらから人間が自分の理解力を形作る最初のものであって、原因を探し出さないなら、その外観を追い払うことができないことがあります。また原因が深く隠れているとき、長い間、理解力を霊的な光の中に保たないなら、原因を探し出すことができず、絶えず引き戻す自然的な光のために、その光の中に理解力を長く保つことができません。それでも、愛と知恵は現実のまた実際の実体と形であって、それらがは主体そのものをつくることが真理です。

神の愛と知恵

040◀︎目次▶︎042

41 しかし、このことは外観に反しているので、証明されないなら信頼に値しないように見られてしまい、このことは人間が自分の身体の感覚から知覚することができるようなものによってしか証明されることができません。それゆえ、それらによって証明します。
 人間に触覚、味覚、嗅覚、聴覚、視覚と呼ばれる五つの外なる感覚があります。
 触覚の主体は皮膚であり、人間はそれに囲まれています。皮膚の主体と形そのものは、接触したものを感じるようにします——触覚の感覚は、接触されるものの中になく、主体である皮膚の実体と形の中にあります。その感覚は単に接触したものから働きかけられたその状態です。
 味覚も同様です——この感覚は単に舌である実体と形が働きかけられた状態であり、舌が主体です。
 嗅覚も同様です——においは鼻と鼻の中にあるものに働きかけ、そしてにおいは、においを放つものに触れて、それらから働きかけられたものであることはよく知られています。
 聴覚も同様です——聴覚は音が始まる場所にあるように思えますが、聴覚は耳の中にあり、その実体と形が働きかけられたものです。聴覚が耳から隔たったものの中にあることは外観です。
 視覚も同様です——人間が隔たった対象をそこに視覚があるかのように見る時、それでもそれは主体である目の中にあり、同様に働きかけられたものです——距離は単に空間について中間のものから、あるいは対象の縮小とそこからのぼやけから結論づけられた判断からであって、その像は入射角にしたがって目の中の内部につくられています。
 ここから、視覚は目から対象へ出て行くものではなく、対象の像が目に入ってきて、その実体と形に働きかけることが明らかです——というのは、視覚は聴覚と同様であるから。聴覚も音を捕らえるために耳から出ないで、音が耳に入り、働きかけます。
 これらから、実体と形に働きかけることは、感覚を生じること、〔そしてそれは〕主体から分離したものではなく、単にその中に変化を生み、その時、実体は実体のまま、最初のように、またその後も残っていることを明らかにすることができます。
 ここから、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚は、その器官から何か飛んで流れるものではなく、その中に実体と形が見られる器官であり、それは働きかけられるとき感覚を生じる、といえます。

神の愛と知恵

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42 愛と知恵も同様であり、愛と知恵である実体と形であり、相違は外なる感覚器官のように目の前に現われないだけです——しかしそれでも、思考、知覚、情愛と呼ばれ、無からの飛びまた流れる存在でも、現実で実際の実体と形から抽象したものでもなく、主体であって、知恵と愛の実体と形が存在することを、だれも否定することはできません。
 というのは、脳の中に無数の実体と形があり、それらの中に理解力と意志に関係する内的な感覚が住んでいるからです。そこのすべての情愛、知覚、思考はその実体と形からの発散物ではなく、事実上、また実際に主体であって、それ自体から何も発しませんが、働きかけてやって来るものにしたがって、単に変化を受けるだけのことであり、このことは外なる感覚について前述したことから明らかにすることができます。
 働きかけてやって来るものについては、多くのことを後で述べます。

神の愛と知恵

042◀︎目次▶︎044

43 これらのことから、神的な愛と神的な知恵は本質的に実体と形であることを初めて知ることができます。というのは、エッセとエキシステレそのものであり、実体と形であるようなエッセとエキステレでないなら、単なる想像の所産であり、それは本質的に何ものでもないからです。

神の愛と知恵

043◀︎目次▶︎045

神的な愛と神的な知恵は、本質的に実体と形であり、したがって本質と唯一のものである

44 神的な愛と神的な知恵は実体と形であることは、すぐ前に説明しました。神的なエッセとエキシステレは本質的にエッセとエキシステレであることもまた、前に述べました。
 エッセとエキシステレを、それ自体からのものである、と言うことはできません、これは始まりを、そしてまた本質的にエッセとエキシステレでからのものを含むからです。しかし、エッセとエキシステレそのものは本質的に永遠からのものです。
 エッセとエキシステレそのものは本質的に創造されたものでもなく、すべての創造されたものは「創造されたのではないもの」からでないなら存在することはできません。創造されたものは、有限でもあり、有限なものは「無限なるもの」からでないなら、存在するようになることはできません。

神の愛と知恵

044◀︎目次▶︎046

45 本質的なエッセとエキシステレを何らかの思考により把握し、理解することのできる者は、「それ自体」と「唯一のもの」であるすべてのものを把握し、理解します。ひとり「存在する」ものは、それ自体と言われ、また、すべての何らかのものは「唯一のもの」と言われるものから存在します。
 それで、「それ自体」と「唯一のもの」は実体と形であるので、それはそれ自体と唯一のものの実体と形である、といえます。その実体と形そのものは、神的な愛と神的な知恵であるので、それ自体と唯一のものの愛であり、それ自体と唯一のものの知恵である、といえます。したがって、それ自体と唯一のものの「本質」、なおまたそれ自体と唯一のものの「いのち」であることになります、なぜなら、愛と知恵は「いのち」であるからです。

神の愛と知恵

045◀︎目次▶︎047

46 これらから、自然はそれ自体から存在すると言う者は、どれほど感覚的に、すなわち、身体の感覚から、また彼らの霊的なものにおける暗やみから考えているか、明らかにすることができます。
 彼らは目から考え、理解力から考えることができません。
 目からの思考は理解力を閉ざします、しかし、理解力からの思考は目を開きます。
 彼らはエッセとエキシステレについて本質的に、また、永遠、創造されたのではないもの、無限である何らかのものについて考えることができません。いのちについても、無へと分解してしまう飛び去りやすいものとしてでないなら、何らかのものを考えることができません。愛と知恵についてもこれと異ならず、自然のすべてのものは愛と知恵からのものであることをまったく考えることができません。
 自然のすべてのものが愛と知恵から存在することも、自然が役立ちから、その系列の中とその順序の中で眺められないなら、彼らから見られることができません、目の対象であるその役立ちの単なる形の何らかのものだけから眺めるなら、やはり見られることはできません。というのは、役立ちは生活からでないなら存在せず、それらの系列と順序は知恵と愛からのものであるからです。しかし、形は役立ちの容器です——それゆえ、もし形だけが眺められるなら、自然の中に、いのちの何らかのものは、まして愛と知恵の何らかのもの、したがって神の何らかのものは見られることができません。

神の愛と知恵

046◀︎目次▶︎048

神的な愛と神的な知恵は、それ自体から創造された他のものの中に存在し、存在するようになるしかありえない

47 愛の本質は、自分自身を愛することではなく、他の者を愛することであり、そしてその者と愛によって結合することです。さらにまた愛の本質は、他の者により愛されることです、というのは、このように結合されるからです。
 すべての愛の本質は結合の中にあります。それどころか、それは楽しさ、快さ、うれしさ、愉快、幸運の状態、至福、幸福と呼ばれる生活です。  
 愛は、自分自身が他の者のものであることの中にあり、その者の楽しさを自分自身の中の楽しさとして感じること、これが愛することです。しかし、自分自身の楽しさを他の者の中に感じ、その者の楽しさを自分自身の中に感じないことは愛することではありません。というのは、後者は自分自身を愛することですが、前者は隣人を愛することであるから。
 それら二種類の愛は、真っ向から正反対のものです——二つの愛とも確かに結合し、自分自身を愛すること、すなわち、他の者の中に自分自身を愛することは分離することに見えません。そのときそれでも、だれかが他の者を愛すれば愛するほど、それだけその後、彼に憎しみをもつように、そのように分離します——というのは、その結合はそれ自体から連続的に破られ、その時、愛は同程度の憎しみとなるからです。

神の愛と知恵

047◀︎目次▶︎049

48 愛の本質を熟視することのできる者で、だれがこのことをわかることができませんか? というのは、自分自身だけを愛し、自分以外の他の者から愛し返されることになるその者を愛さない、とは何でしょうか? このことは結合よりもむしろ分解です。
 愛の結合は相互関係からであり、相互関係は自分自身だけの中に存在しません——存在すると考えるなら、他の者の中の想像上の相互関係からです。
 これらから、神的な愛は、他の者を愛し、他の者により愛され、他の者の中に存在し、存在するようになるしかありえないことが明らかです。というのは、すべての愛で、このようであるとき、愛そのものの中で最大に、すなわち、無限に、存在するからです。

神の愛と知恵

048◀︎目次▶︎050

49 神については——無限なもの、すなわち、それ自体の中に本質と愛のいのちの何らかのもの、すなわち、神的な何らかのものがある者の中に、愛することと相互に愛されることは存在することができません。というのは、それらの中に無限である何らかのものが、すなわち、それ自体の中に本質と愛のいのちまたは神的な何らかのものがあるなら、その時、他の者から愛されないで、自分自身を愛するからです。というのは、無限、すなわち、神性は唯一であるからです。これが他の者の中にあるなら、〔他の者とは〕その方であり、そして自己愛そのものとなり、それは神の中にまったく存在することができません。というのは、これは神的な本質に完全に対立しているからです。
それゆえ、愛することと相互に愛されることは、本質的に神性が何もない他の者の中に存在します。 そのことが神性による被造物の中に存在することは、後で見られます。
しかし、存在するためには、無限の愛と一つとなっている無限の知恵が存在しなくてはなりません。すなわち、神的な知恵からの神的な愛と神的な愛からの神的な知恵が存在しなくてなりません(これについては前の34番から39番)

神の愛と知恵

049◀︎目次▶︎051

50 存在するまたは創造されたすべてのもの、なおまた神による存続と維持のすべてのもの、すなわち、創造された全世界の中の神のすべての働き、その知覚と認識は、このアルカナ(秘義)の知覚と認識によっています。そのことについては、続きの中で扱います。

神の愛と知恵

050◀︎目次▶︎052

51 しかし、あなたの観念を時間と空間とで混乱させないようにしてください。というのは、あなたが続きを読むとき、観念の中に時間と空間があるかぎり、あなたはそれらを理解しないからです——なぜなら、神性は時間と空間の中にないからです。このことは、この著作の続きの中に特に、永遠、無限、遍在についてのところで、はっきりと見られます。

神の愛と知恵

051◀︎目次▶︎053

全世界のすべてのものは、神人間の神的な愛と神的な知恵により創造された

52 全世界は、最大のものと最小のものの中に、そして最初のものと最後のものの中に、その映像の中に、神的な愛と神的な知恵があると言われることができるような神的な愛と神的な知恵に満ちています。このようであることは、全世界のすべてのものと人間のすべてのものとの対応からはっきりと明らかです。
 人間はある種の宇宙であると言われることができるような対応が、創造された全世界に存在しているすべてと個々のものと人間のすべてと個々のものとの間にあります。人間の情愛とそこからの思考に、動物界のすべてのものとの対応があります。人間の意志とそこからの理解力には、植物界のすべてのものとの対応があります。そして、彼の最外部の生活に鉱物界との対応があります。
 このような対応があることは、自然界にいる者には見えませんが、霊界では、留意する者なら、だれにも見えます。霊界の中にあるすべてのものは、自然界の中の三界にあるようなものであり、その自然界にある意志からの情愛と理解力からの思考、なおまた最外部の生活に対応するものです——情愛と思考は彼らの周囲に創造された全世界の中にあるようなものの外観で見えますが、小さな像の中に見えるという相違があります。
 これらから、天使にとって、創造された全世界は神人間を表象する映像であること、全世界の中で映像の中に現わされているものはその方の愛と知恵であることが、はっきりと明らかです。創造された全世界が神人間であるのではなく、それはその方からのものなのです。なぜなら、創造された全世界のどんなものでも本質的な実体と形ではなく、本質的ないのちでもなく、本質的な愛と知恵でもなく、それどころか人間は本質的に人間でもなく、すべては愛と知恵、そして本質的な形と実体であり、それは人間である神からのものであるからです。本質的に存在するもの、これは創造されず、無限です。けれども、その方からの存在するものは、それ自体に本質的に存在するものを何ももたないので、創造された有限のものであり、これがその方から存在し、存在するようになって、その方の映像を表象します。

神の愛と知恵

052◀︎目次▶︎054

53 エッセとエキシステレは、創造された有限なものについて、なおまた実体と形、そのようにまた生命、それどころか愛と知恵について言うことができますが、それらのすべては創造された有限なものです。言うことのできる理由は、それらの中に何らかの神性があるからではなく、それらが神性の中にあり、神性がそれらの中にあるからです——というのは、創造されたすべてのものは、本質的にいのちのない死んだものですが、その中に神性があり、また神性の中にそれらがあることによって、いのちを与えられ、生かされるからです。

神の愛と知恵

053◀︎目次▶︎055

54 神性は、一つの主体の中にあると他の主体の中にあるものと異なりませんが、創造されたある一つの主体は他の主体と比べて別ものです、なぜなら、同じ二つのものは存在せず、またここから別の容器であるからです。このことから、神性はその映像の中で異なって見られます。
 神が正反対のものの中に現在されることについては、続きの中で述べます。

神の愛と知恵

054◀︎目次▶︎056

創造された全世界のすべてのものは、神人間の神的な愛と神的な知恵を受け入れるものである

55 全世界のすべてと個々のものが神により創造されたことはよく知られています。ここから全世界は、そのすべてと個々のものとともに、みことばの中で「エホバの手の業」と呼ばれています。
 統一体としての世界は無から創造された、と言われ、無については、完全な無の観念が抱かれています。それでも、完全な無からは何も生じないし、生じることもできません。このことは不変の真理です。 それゆえ、神の映像であり、したがって神に満ちている全世界は、神により神の中でしか、創造されることができません。というのは、神はエッセそのものであり、存在するものはエッセからでなくてはならないから——存在しないものである無から存在するものを創造することは、完全に矛盾です。
 しかし、それでも、神から神の中で創造されたものは、その方からの延長ではありません。なぜなら、神は本質的にエッセであり、創造されたものの中に本質的な何らかのエッセはないからです。創造されたものの中に本質的に何らかのエッセがあるなら、それは神からの延長であり、神からの延長は神です。
 神から神の中で創造されたものについて天使の観念は、人間のもののようであり、その人間の観念とは、人間が自分のいのちから〔神から神の中で創造されたものを〕得たというものです、しかし、いのちのもとから引き出されたのです。
 〔この観念は〕人間のいのちに適合するようですが、それでも人間のいのちではありません。このことを天使は、彼らの天界の中に存在するようになっている多くのことから確信し、そこでは「自分たちは神の中に存在する、自分たちの中に神が存在するが、それでも自分たちの中に神のものを、エッセをもつこと(それは神であることである)は、まったくない」と言っています。
 そのことを確認する多くのことを、続きの中で提示します。ここでは、そのことは単に知識としておきます。

神の愛と知恵

055◀︎目次▶︎057

56 その起源から創造されたすべてものは、その性質において神を延長によってでなく、隣接によって受け入れるようなものです。延長によってでなく、隣接によって、結合の傾向が存在します。というのは、神により神の中で創造されたので、それに適合するから。そして、このように創造されているので、類似物であり、その結合によって鏡の中の神の映像のようです。

神の愛と知恵

056◀︎目次▶︎058

57 このことから、天使は自分自身から天使でなく、神人間との結合から天使です。またこの結合は、神的な善と神的な真理の受け入れにしたがっています。それらは神であり、その方から発出するように見えますが、それでもその方の中にあります——そして、受け入れは神的な真理である秩序の法則の適用にしたがっています。自分自身に、理性にしたがって考え、意志する自由から受け入れるのですが、あたかも彼らのものであるかのように、それらは主から彼らにあります。
 そのことによって、あたかも彼らからのように、彼らに神的な善と神的な真理が受け入れられ、それによって愛の相互関係があります。なぜなら、前に言われたように、愛は相互のものでないなら存在しないからです。
 地上の人間にも同様です。
 〔これまで〕言われたことから初めて、創造された全世界のすべてのものは神人間の神的な愛と神的な知恵を受け入れるものであることを知ることができます。

神の愛と知恵

057◀︎目次▶︎059

58 天使のようにでも人間のようにでもなく、人間の下の動物界にあるようなもの、それらの下の植物界、またそれらの下の鉱物界にあるような全世界の他のものもまた、神人間の神的な愛と神的な知恵を受け入れるものであることは、これまで理解できるようには説明されていません。というのは、前もって、いのちの段階について、いのちを受け入れるものの段階について、多くのことが言われなければならないからです。
 それらのものとの結合はそれらの役立ちにしたがっています。というのは、すべての善の役立ちは、神との同様の結合であり、この起源からしか得られるものでないからです。しかし、段階にしたがって異なっています。その結合は、降下する中で連続的に、理性が何もないので自由が何もないような、ここから外観からはいのちのが何もないようなものになります、しかし、それでも受け入れるものです。 受け入れるものであるので、反応でもあります。なぜなら、反応であることによって、容器であるからです。
 善でない役立ちとの結合については、悪の起源を示した後に述べます。

神の愛と知恵

058◀︎目次▶︎060

59 これらから、神性は創造された宇宙のすべてと個々のものの中にあること、またここから、みことばの中に言われているように、創造された宇宙はエホバの手の業であること、すなわち、神的な愛と神的な知恵の業であることを明らかにすることができます。なぜなら、これらが「エホバの手」によって意味されるからです。
 また、神性は創造された宇宙のすべてと個々のものの中にあるけれども、それでもそれらのエッセの中に本質的に神性は何もありません。というのは、創造された宇宙は神ではなく、神からのものであるから。また、神からのものであるので、鏡の中の人間の映像のように、その中にその方の映像があります。その中には確かに人間が見られますが、それでもその中に人間のものは何もありません。

神の愛と知恵

059◀︎目次▶︎061

60 霊界で、私は、私の周囲で多くの者が、「全世界のすべてと個々のものの中に神の驚くべきものを、また内的に見れば見るほどますます驚くべきものを見るので、それらの中に神性があることを確かに認めたい」と言って、話しているのを聞きました。しかしそれでも、創造された全世界のすべてと個々のものの中に神性が実際に内在することを聞いたとき、彼らは憤慨しました。これは、そのことを言ってはいても、信じていないしるしでした。
 それゆえ、彼らに、「次の能力だけからでも知ることができないか」と言われました。それは、それぞれの種子には、その植物を新しい種子までも生み出すような驚くべき能力が秩序の中に内在すること、それぞれの種子の中に無限と永遠の観念があることです。というのは、無限にまた永遠に、それ自体を増やし、結実させる努力がそれらの中にあるからです。
 なおまた、どんな最小の動物でも、その中には感覚器官、脳、心臓、肺、他のものが、動脈、静脈、繊維、筋肉とともに、またそれらからの活動とともにあり、それらの性質の中に、また他にも驚くべきものがあり、それらについて書かれた膨大な本が公表されています。
 これらすべての驚くべきものは神からです。しかし、それらが着ている形は地の物質からです。植物は、またその秩序の中で、人間はそれらの物質からのものです——それゆえ、人間について、土から創造され、地のちりであること、またいのちの息が吹き込まれたことが言われています(創世記2・7)。このことから、神性は人間にはなく、人間に添加されたものであることが明らかです。

神の愛と知恵

060◀︎目次▶︎062

創造されたすべてのものは、ある種の映像として人間を映し出している

61 このことは動物界のすべてと個々のものから、そして植物界のすべてと個々のものから、また鉱物界のすべてと個々のものから明らかにすることができます。
 「動物界のすべてと個々のものと人間との関係」は次のものから明らかです——
 すべての種類の動物に、動く四肢があり、感じる器官があり、それらを活動させる内蔵があり、これらは動物と人間と共通にあります。動物にはまた人間の自然的なものに類似した欲望や情愛があります——動物の情愛に対応する先天的な知識があり、それらのあるものには霊的に見えるようなものもあります。その霊的なものは、多かれ少なかれ、目の前に現われる地の獣、空の鳥、ハチ、カイコ、アリ、その他の動物にあります。ここから、単なる自然的な人間は、動物界の生物を話すことを除いて、人間に似ているとしてしまいます。
 「植物界のすべてと個々のものと人間との関係」は次のものから明らかです——
 種子から生じ、それから、適当な期間の中で連続的に発達い、植物に結婚に似たものがあり、その後、繁殖することです。それらの植物の霊魂は、役立ちであり、その役立ちの形であり、その他にも人間と関係する多くのものがあります。それらもまた、ある者により記述されています。
 「鉱物界のすべてと個々のものと人間との関係」は、前に言われたように、植物界のすべてと個々のものに関係する形を生み出すコナトゥス(努力)の中だけに見られ、またこうして役立ちを果たしています。というのは、最初に、種子が地のふところに落ち、地はそれを抱き、芽を出すようにと、豊かなものをあらゆる方向から与え、こうして〔植物を〕人間を表象する形とするから。このようなコナトゥスは、その乾いたところにもあり、そこの鉱物や金属からできた海底の珊瑚、鉱山の中の花〔のような結晶〕から明らかです。
 それ自体を成長させ、またこうして役立ちを果たすことへのコナトゥスは、神性からの被造物の最外部のものです。

神の愛と知恵

061◀︎目次▶︎063

62 それ自体を生み出す地の鉱物のコナトゥス(努力)があるように、それ自体を生かす植物のコナトゥスがあります。ここから、そのにおいを放つ発散物に対応するいろいろな種類の昆虫がいます——このことが世の太陽の熱からではなく、熱によって、受け入れるいのちにしたがっていることは、続きの中で見られます。

神の愛と知恵

062◀︎目次▶︎064

63 創造された全世界のすべてのものが人間と関係あることは、確かに提示されたものから知ることができますが、不明瞭にしか見ることができません。それでも、霊界では、それははっきりと見られます。
 そこにもまた〔動物、植物、鉱物の〕三つの界のすべてのものがあり、それらの真ん中に天使がいます。自分の周囲にそれらを見、そしてまた、それらが自分を表象するものであることも知っています。それどころか、彼の最内部が開かれる時、自分自身を認め、またそれらの中に自分の映像を、ほとんど鏡の中に見るかのように見ています。

神の愛と知恵

063◀︎目次▶︎065

64 これらから、また〔これに〕一致する他の多くのことから——それらをここに提示する時間はありませんが——確かな事実として、神が人間であること、創造された全世界はその方の映像であることを知ることができます。というのは、〔創造された全世界の〕個々のものが人間と関係あるように、すべてのものは、その方と全般的に関係があるからです。

神の愛と知恵

064◀︎目次▶︎066

創造されたすべてのものの役立ちは、最後のものから人間へ、また人間を通って、それらのもとである創造者なる神へ、段階によって上昇している

65 前に言われたように、鉱物界のすべてと個々のものは、「最後のもの」です。それらは、石、塩、油、鉱物、金属の実体からのいろいろな種類の物質であり、植物と動物のものから最小の粉末へと分解した変わることのない土でおおわれています。これらの中に、いのちからのもの、目的と始めのものも、すべての役立ちが隠れています。すべての役立ちの目的は、役立ちを生み出そうとするコナトゥス(努力)であり、始まりはそのコナトゥスからの活動する力です。これらは鉱物界のものです。
 植物界のすべてと個々のものは「中間のもの」です。それらはすべての種類の草や草木、すべての種類の作物や潅木、すべての種類の木です。これら植物の役立ちは、その不完全なものと同様に完全なものも、動物界のすべてと個々のもののためのものです。動物に食物を与え、楽しみを与え、またを生き生きとさせます。動物のからだにそれ自体の物質を食物として与え、味、におい、美で、その感覚に楽しみを与え、その情愛を生き生きとさせます。それらへのコナトゥスもまた植物のいのちから内在します。
 動物界のすべてと個々のものは「最初のもの」です。その最も低いのものは虫や昆虫、中間のものは鳥や獣と呼ばれ、そして最高のものは人間です。なぜなら、すべての界に、最も低いもの、中間のもの、最高のものがあるからです。最も低いものは中間のものに役立つために、中間のものは最高のものに役立つためにあります。
 このような秩序で、創造されたすべてのものの役立ちは、最後のものから(秩序で)最初のものである人間へと上昇します。

神の愛と知恵

065◀︎目次▶︎067

66 自然界に上昇の三つの段階があり、霊界に上昇の三つの段階があります。
 すべての動物はいのちを受け入れるものです。より完全な動物は自然界の三段階のいのちの受け入れるもの、完全さの少ない動物はその世界の二つの段階のいのちの受け入れるもの、不完全な動物は一つの段階を受け入れるものです——しかし、自然界の三つの段階のいのちだけでなく、霊界の三つの段階のいのちもまた受け入れるものは人間だけです。
 ここから、どの動物とも異なって、人間が自然の上方に高揚されることができます。自然の内部にある市民的なものや道徳的なものについて、そしてまた自然の上方にある霊的なものや天的なものについて分析的にまた理性的に考えることができます。それどころか、神を見るまでにも、知恵の中に高揚されることができます。
 しかし、六つの段階については、すべての役立ちがそれらの段階によってその秩序の中で創造された創造者である神にまで上昇しますが、そのところで扱います。
 ここの概要から、すべて創造されたものは、唯一のいのちである「最初の者」へと上昇し、すべての役立ちは、いのちを受け入れるそのものであって、またここから役立ちの形であることを知ることができます。

神の愛と知恵

066◀︎目次▶︎068

67 どのように人間が最も低い段階から最初の段階へ上昇するか、すなわち、高揚されるか、このことも簡単に述べておきます。
 人間は自然界の最も低い段階に生まれます。その後、知識によって第二の段階へのぼり、このように知識から理解力をつくり上げ、第三の段階へと高揚され、その時、理性的になります。
 霊界での上昇の三つの段階は、彼の中の自然的な三つの段階の上にあり、地的な身体を脱ぎ捨てる前には現われません——これを脱ぎ捨てるとき、霊的な最初の段階、その後、第二の段階、最後に、第三の段階が開かれますが、この最後の段階は第三の天界の天使になる者にだけ開かれ、これらの者は神を見る者です——第二の天界と最も低い天界の天使になる者には、第二の段階と最も低い段階が開かれることができます。
 人間のもとの霊的な段階のすべては、主からの神的な愛と神的な知恵を受け入れることにしたがって開かれます。その何らかのものを受け入れる者は、最初の、すなわち、最も低い霊的な段階にやって来ます。さらに受け入れる者は、第二の、すなわち、中間の霊的な段階に、多くのものを受け入れる者は、第三の、すなわち、最高の段階にやって来ます。しかし、それらを何も受け入れない者は自然的な段階の中にとどまります。考え、そこから話すこと、そして意志し、そこから行動することができることよりも多くのものを霊的な段階から得ることはなく、知性的でもありません。

神の愛と知恵

067◀︎目次▶︎069

68 人間の心のものである内的なものの高揚について、次のこともまた知らなければなりません。
 神によるすべての被造物に反作用が内在します。いのちだけが作用であり、いのちの作用によって反作用がひき起されます。
 この反作用は、働きかけられるとき存在するようになることから、被造物に存在するかのように見えます——このように、いのちは人間のものであるかのようにしか感じないので、人間の中にあるかのように見えます、それでもそのとき、人間は単にいのちを受け入れるものです。
 人間が自分自身の遺伝悪から神に対して反応するのは、この理由からです——しかし、人間のすべてのいのちは神からであり、生活のすべての善は神の作用から、また生活のすべての悪は人間の反作用からであることを信じるかぎり、反作用は作用となり、人間は自分自身からかのように神とともに行動します。
 すべてのものの均衡は、作用と同時に反作用から存在し、すべてのものは均衡の中になくてはなりません。
 人間が神へのぼるのは、自分自身による、ということを人間が信じてしまわないように、これらのことを述べました。人間は、主によって、のぼるのです。

神の愛と知恵

068◀︎目次▶︎070

神性は空間なしに全世界のすべての空間に満ちている

69 自然に固有な二つのもの、「空間」と「時間」があります。
 人間は自然界の中でこれらから自分の思考の観念を、ここから理解力を形成します。これらの観念の中にとどまり、心をそれらの上方に高揚させないなら、何らかの霊的なものや神性を決して知覚することができません。というのは、それらを空間と時間から得た観念で包んでしまい、またこのことを行なえば行なうほど、彼の理解力の光(ルーメン)は単なる自然的なものになるからです。
 霊的なものと神性について、ここから推論して考えることは、日中の光の中だけに見られるものを夜の暗黒から考えるようなものです。自然主義はここからです。
 しかし、心を空間と時間から得る思考の観念の上方に高揚させることを知る者は、暗黒から光(ルークス)の中へ移り、霊的なものと神性を味わい、ついにはそれらの中に、それらから存在するものを見ます。その時、その〔霊的な〕光(ルークス)から自然的な光(ルーメン)の暗黒を追い散らし、その欺きを真ん中から脇へ追放します。
 理解力のあるすべての人間は、自然に固有なものの上方にあるものを考えることができ、そしてまた実際に考えます。その時、神性は、遍在するので、空間の中に存在しないことを肯定し、認めます。そしてまた、前に示したことも肯定し、認めることができます——しかし、神的な遍在を否定し、すべてのものを自然に帰するなら、その時、たとえ高揚されることができても、そのことを欲しません。

神の愛と知恵

069◀︎目次▶︎071

70 これら二つの自然に固有のものは、述べたように、空間と時間であって、それらを、死んでから天使になるすべての者は脱ぎ捨てます。というのは、その時、霊的な光の中に入り、その光の中で思考の対象は真理であり、視覚の対象は自然界の中のものと似ていますが、その思考に対応するものであるからです。
 彼らの思考の対象は、述べたように真理であって、空間と時間からはまったく何も得ていません。天使の視覚の対象は空間と時間の中にあるように見えますが、それでもそれらから考えません。そこの時間と空間は、自然界の中のように固定したものではなく、彼らのいのちの状態にしたがって変化するものであることがその理由です。ここから、それらに代わって彼らの思考の観念の中には、いのちの状態があり、空間の代わりに愛の状態に関係するようなもの、時間の代わりに知恵の状態に関係するようなものがあります。
 ここから、霊的な思考とそこからの霊的な話し方もまた、すべては霊的である内的な事柄に関するもの以外に共通なものも何も持たないように、それほどに自然的な思考とそこからの話し方と相違しています——その相違については、他のところで多くのことを述べます。
 さて、天使の思考は、いのちの状態からであって、空間と時間からは何も得ていないので、彼らは、「神性が空間を満たしている」と言われるとき、このことを理解しないのは明らかです。空間とは何か、知らないからです。しかし、「空間のどんな観念もなしに、神性はすべてのものを満たす」と言われるとき、明確に理解します。

神の愛と知恵

070◀︎目次▶︎072

71 単に自然的な人間は霊的なものと神性について空間から、霊的な人間は空間なしに考えることを明らかにするために、次のことで説明します。
 単に自然的な人間は視覚の対象から自分自身に得た観念によって考えます。それらすべてのものの中に、長さ、広さ、高さから、またこれらによって角形あるいは円形の決定された形から得ている外見があります。地上の目に見えるものについて、それらのものは彼の思考の観念に明らかに内在し、また市民的なものや道徳的なものについてのような、目に見えないものについても彼の思考の観念に内在します。これらを彼は決して見ないけれども、それでもそれらは連続するものとして内在します。
 霊的な人間は、特に天界の天使は異なっています——その思考は、空間の長さ、広さ、高さの何らかのものから得ている外見や形と共通なものを何も持たず、いのちの状態から、物事の状態から得ています。ここから、空間の長さの代わりに、いのちの善から物事の善を考え、空間の広さの代わりに、いのちの真理から物事の真理を、また高さの代わりに、それらの段階を考えます。このように、霊的なものと自然的なものの間にある対応から考えます。その対応から、みことばの中で、「長さ」は物事の善を、「幅」は物事の真理を、また「高さ」はそれらの段階を意味します。
 これらから、天界の天使は、神的な遍在について、神性は空間なしにすべてを満たすことと以外には決して考えることができないことが明らかです。天使の考えることは真理であり、その理解力を照らす光は神的な知恵であるからです。

神の愛と知恵

071◀︎目次▶︎073

72 これが神についての基本的な考えです。なぜなら、その考えなしに、神人間により全世界の創造について、その方の摂理、全能、遍在、全知について言われたことを確かに理解することはできますが、それでも心に留められることはないからです。単なる自然的な人間は、それらを理解する時、それでも意志のものである自分の生活の愛の中に戻るので、その愛はそれらを追い散らし、思考を理性的と呼ばれる彼の光がある空間に沈めてしまいます。それらを否定すればするほど、それだけ理性的でなくなることを知ることもありません。
このようであることは、「神は人間である」という真理についての観念によって確信することができます。
前の11―13番とその後に書かれたことを注意深く読んでください。その時、あなたに、このようであることがわかります——しかし、思考を空間から得る自然的な光の中に戻すなら、あなたにそれらが背理として見えませんか? そしてもしあなたが多くのものを戻すなら、あなたは捨ててしまうでしょう。
これが、「神性が全世界のすべての空間を満たす」と言われ、「神人間が満たす」とは言われない理由です。なぜなら、もしこのように言われるなら、単なる自然的な光は支持しないからです——しかし、「神性が満たす」〔と言われる〕ことは、「神は遍在し、すべてのものを聞き、知られる」という神学者たちの話し方の形式と一致するので、支持されます。(この事柄について多くのものが前の7―10番に見られます)

神の愛と知恵

072◀︎目次▶︎074

神性は時間なしにすべての時間の中に存在する

73 神性は、空間なしにすべての空間の中に存在するように、時間なしにすべての時間の中に存在します。というのは、自然に固有な何らかのものは神性の属性とすることができず、空間と時間は自然に固有のものであるからです。
 自然の空間は測ることができ、同様に時間も計ることができます——時間は、日、週、月、年、世紀によって計られます。そして、日は時間によって、週と月は日によって、年は四季によって、世紀は年によって計られます。この測定は、世の太陽の公転と自転の外観からその性質を得ています。
 しかし、霊界では異なります。そこの生活は、時間の中で進行するのと同様に見えます。というのは、そこでは互いに世の人間のように生活し、このことは時間の外観なしに可能ではないから。しかし、そこの時間は、世でのように〔いろいろな〕期間に区別されません、なぜなら、彼らの太陽は東にあって変わらないからです。というのは、主の神的な愛であり、それは彼らに太陽として見えるからです。
 ここから、彼らに、日、週、月、年、世紀はなく、それらに代わって生活の状態があり、それらによって区別がなされます。それらは時間の中の区別と呼ばれることはできず、状態の中の区別です。
 ここから、天使は時間とは何か知らず、その名称が挙げられるとき、それに代わって状態を認めます。状態が時間を定めるとき、時間は単なる外観です、なぜなら、楽しい状態の時間を短く思え、不愉快な状態の時間は長く思えるからです。
 これらから、そこの時間は状態の性質でしかないことが明らかです。
 このことから、みことばの中で「時間」「日」「週」「月」「年」によって状態が、連続や統一体としてその進行が意味されます。時間が教会について述べられるとき、「朝」によってその最初の状態が、「真昼」によってその完全さが、「夕」によってその減退が、「夜」によってその終わりが意味されます。同様のことが、年の四季である春、夏、秋、冬によって意味されます。

神の愛と知恵

073◀︎目次▶︎075

74 これらから、時間は情愛からの思考と一つとなっていることを明らかにすることができます。というのは、人間の性質の状態は、ここからであるからです。
 霊界では、空間を通って進行するときの隔たりは時間の進行と一つとなっており、そのことは多くのことから説明することができます。というのは、そこの道は、情愛からの思考のものである願望にしたがって実際に短くされ、また逆に長くされるからです。
 ここから、〔時は〕時間の空間とも言われます。
 しかし、夢の中のように、思考が人間に固有な情愛と結合していないような時、時間はないように思えます。

神の愛と知恵

074◀︎目次▶︎076

75 そこで、自然界に固有のものである時間は、霊界では純粋な状態であり、天使と霊たちは有限であるので、そこで進行するように見えても、神の中に進行するものはないことを明らかにすることができます。前に示されたことにしたがって(17―22番)、神は無限であり、その方の中の無限は一つであるからです——これらから、神性は時間なしにすべての時間の中に存在する、といえます。

神の愛と知恵

075◀︎目次▶︎077

76 時間なしの神について知らず、また何らかの知覚から考えることができない者は、「永遠」を、時間〔として〕の永遠以外のものとして、まったく知覚することができません——永遠からの神ついて考えるとき、気が狂うしかありません。というのは、始まりから考え、始まりは時間に特有のものであるからです。
 彼の狂気は、「神はそれ自体から存在するようになる」と考えるときに生じ、そのことから、「自然はそれ自体に起源をもつ」という観念の中に真っ逆さまに落ち込みます——永遠について時間のないものである霊的なまたは天使的な観念によってでないなら、その観念から解かれることはできません。時間のないものであるとき、永遠と神性は同じであり、神性はそれ自体からではなく、本質的に神性です。
 天使は、「永遠からの神を確かに知覚することができる。しかし、永遠からの自然は少しも、ましてそれ自体からの自然は、また自然それ自体のうちにある自然はまったく知覚できない。なぜなら、それ自体で存在するものは、エッセそのものであり、それからすべてのものが存在するから、またエッセは本質的に、いのちそのものであり、それは神的な知恵の神的な愛と神的な愛の神的な知恵であるからである」と言っています。
 これが天使にとっての永遠であり、創造されたのではないものは、創造から、あるいは無限は有限から切り離されているように、時間から切り離されたものであり、それらの間に割合は決して存在しません。

神の愛と知恵

076◀︎目次▶︎078

神性は最大のものと最小のものの中で同じである

77 先行する二つの章から、神性は空間なしにすべての空間の中に存在し、時間なしにすべての時間の中に存在する、といえます——空間には、大きなものや最大のもの、また小さなものや最小のものがあります。そして前に述べたように、空間と時間は一つとなっているので、時間の長短も同様です。
 神性がそれらの中で同じであるのは、神性は時間や空間の中にあるすべてのもの、すなわち自然のすべてのもののように、多様性と可変性をもたず、不変で、変わらないからです。ここから、神性はどこでもまた常に同じです。

神の愛と知恵

077◀︎目次▶︎079

78 神性は、ある人間と他の人間の中で同じように見えません。例えば、賢明な者と単純な者の中で、老人と幼児の中では別のものであることです。
 しかし、このことは外観からの欺きです。別のものは人間であって、その中の神性は別のものではありません。
 人間は受け入れるものであり、受け入れるものまたは容器はさまざまです。
 賢明な人間は単純な人間よりも、神的な愛と神的な知恵を受け入れるのにふさわしく、したがって十分に受け入れます。賢明である老人は、幼児や少年よりも多く受け入れます。それでも、神性は、ある者と他の者の中で同じです。
 天界の天使は名状しがたい知恵の中にいますが、人間はそうではないので、神性は天界の天使と地上の人間のもとで異なっていると思うことは、同様に、外観からの欺きです。異なった外観は、神性を受容する性質にしたがって主体にあり、主にはありません。

神の愛と知恵

078◀︎目次▶︎080

79 神性は最大のものの中と最小のものの中で同じであることは、天界からとそこの天使から説明できます。全天界の中の神性と天使の中の神性は同じです。それゆえ、全天界もまたひとりの天使として見られることができます。
 教会とその教会の人間も同様です。神性が存在する最大のものは、全天界と同じく全教会です。最小のものは、天界の天使と教会の人間です。
 数回、私に天界の社会全体が一人の人間天使のように見えました。巨人として大きな人間のように、また幼児として小さな人間のように見えました——そしてこのことは、神性が最大のものの中と最小のものの中で同じであるからである、と言われました。

神の愛と知恵

079◀︎目次▶︎081

80 神性は、創造されて、生きていないすべての最大のものと最小のものの中でも同じです。というのは、それらの役立ちの善のすべてのものの中にあるからです。
 けれども、生きていません、いのちの形ではなく、役立ちの形であるからです。そして、形は役立ちの善良な性質にしたがってさまざまです。
 しかし、神性がどのようにそれらの中に存在するかは、続きの中で、創造についてのところで述べます。

神の愛と知恵

080◀︎目次▶︎082

81 空間を引き離し、真空を完全に否定しなさい、その時、神的な愛と神的な知恵について、空間が引き離され、真空が否定された本質そのものとして考えなさい。その後、空間から考えなさい、あなたは、神性が空間の最大のものと最小のものの中で同じであることを認めるはずです。というのは、空間から切り離された本質の中で大小は存在せず、同じであるから。

神の愛と知恵

081◀︎目次▶︎083

82 ここで、真空について述べておきます。
 私は、かつて天使がニュートンと真空について話して、「無としての真空は支持しない。自然的な世界の空間と空間の内部あるいは上方にあり、霊的である自分たちの世界で、〔私たちは〕等しく感じ、考え、働きかけられ、愛し、意志し、呼吸し、それどころか、話し、行動している。無は無であり、真空について何かを属性とすることはできないので、それらは決して無としての真空の中に存在することができない」と言っているのを聞きました。
 ニュートンは、「私は、神性が存在し、すべてのものを満たすことを知っている。また自分自身も、真空について無の観念に恐怖を感じる、これはすべてのものを破壊するからである」と言い——このことを気絶と呼んで、「真空について私と話す者は、無の観念を用心するように」とうながしました。心にあるものは無の中に何も現実化して存在することはないからです。

神の愛と知恵

082◀︎目次▶︎084

第二部

神的な愛と神的な知恵は、霊界の中で太陽として見られる

83 霊界と自然界の二つの世界があり、霊界は自然界から、自然界もまた霊界から何も得ず、完全に分離しており、ただ対応によって連結しています。
 このことを次の例で説明します。
 自然界の熱は霊界の仁愛の善に対応し、そして自然界の光は霊界の信仰の真理に対応します。熱と仁愛の善は、そして光と信仰の真理は完全に別ものであることを、だれが知らないでしょうか? ちょっとだけ見れば、それらは二つの完全に異なった別もののように見えます。仁愛の善は熱と、信仰の真理は光と、何を共有するのかと考えるとき、このように見えます——そのときそれでも、霊的な熱はその善であり、また霊的な光はその真理です。
 これらはこのように本質的に別ものであっても、それでも対応によって一つとなっています——みことばの中に、人間が「熱」と「光」を読む時、人間のもとにいる霊と天使たちは、「熱」の代わりに仁愛を、「光」の代わりに信仰を知覚するように、そのように一つとなっています。
 この例は霊界と自然界の、二つの世界が、互いに何も共有しないようにほどに共通なものを持たないように、このように別ものですが、それでも、対応によって連結し、それどころか結合するように創造されていることを知るために示しました。

神の愛と知恵

083◀︎目次▶︎085

84 これら二つの世界は、このように別ものであるので、自然界と比べて霊界は他の太陽の下にあることをはっきりと知ることができます。というのは、自然界のように、霊にも等しく熱と光があるから。しかし、そこの熱は霊的です、光も同様であり、霊的な熱は仁愛の善、霊的な光は信仰の真理です。
 さて、熱と光は太陽から以外の別のところから得ることができないので、霊界には自然界の太陽でない別の太陽があり、なおまたその霊界の太陽は、本質的にそれから霊的な熱と光が存在するようになるようなもの、また自然界の太陽は、本質的にそれから熱が存在するようになることができるようなものであることを明らかにすることができます。
 善と真理に関係するすべての霊的なものは、神的な愛と神的な知恵以外の別のところから発生することができません。というのは、すべての善は愛のものであり、すべての真理は知恵のものであるからです——すべて賢明な者は、別のところからでないことを知ることができます。

神の愛と知恵

084◀︎目次▶︎086

85 自然界の太陽以外に別の太陽があることは、これまで知られていませんでした。その理由は、何が霊的なものか、また自然界とは異なる霊界が別に存在し、こうしてそこに霊と天使たちがいることを知らないほどにまで、人間の霊的なものが、自然的なものに変わったからです。
 自然界の中にいる者のもとにある霊界は、それほどに隠されているので、それゆえ、主は、自然界の中のものを見るように、その世界の中のものを私が見、その後、その世界を記述するようにと、私の霊の視覚を開くことを喜ばれました。それは著作『天界と地獄』の中でなされ、その中の一つの章では、その世界の太陽について扱われています——というのは、自然界の太陽と同じ大きさに見え、そしてまた同じく火のようでしたが、さらに赤く輝いて、私に見られたからです。また、天使の全天界が、第三の天界の天使は常に、第二の天界の天使はしばしば、また第一または最も低い天界の天使は時々、その太陽の下にあることも、私がよく知るようにされました。
 彼らのもとのすべての熱とすべての光は、さらにその世界の中に見られるすべてのものは、その太陽から存在することが、続きの中で見られます。

神の愛と知恵

085◀︎目次▶︎087

86 その太陽は主ご自身ではなく、主からのものです。その世界で太陽として見えるものは神的な愛と神的な知恵から発出するものです——(「第一部」で示されたように)愛と知恵は主の中で一つであるので、その太陽は神的な愛である、と言われます。というのは、神的な知恵は神的な愛のものであり、このようにそれはまた愛であるからです。

神の愛と知恵

086◀︎目次▶︎088

87 その太陽が天使の目の前に火のように見えるのは、愛と火は互いに対応するからです。というのは、目で愛を見ることはできないので、愛の代わりにそれに対応する火を見るからです。
 というのは、天使には人間と等しく内なるものと外なるものがあるからであり、彼らの内なるものは、考え、賢明になり、そして意志し、愛することであり、彼らの外なるものは、感じ、見、話し、行動することです。彼らの外なるものはすべて、内なるものの対応物ですが、対応物は自然的ではなく霊的です。
 神的なものもまた、霊的なものにより、火のように感じられます。
 ここから、みことばの中で言われる「火」は愛を意味します。イスラエル教会の聖なる火は愛を意味しました——そのことから、神への祈りの中で、「天の火が、すなわち、神的な愛が心に火を点しますように」と言うことが習慣でした。

神の愛と知恵

087◀︎目次▶︎089

88 (前の83番に示されたように)このような相違が霊的なものと自然的なものの間にあるので、それゆえ、自然界の太陽からのもの、すなわち、その光と熱は、または地球の何らかの対象物で、霊界に移ることのできるものは少しもありません。
自然界の光は、霊界では暗黒であり、熱は死です。しかしそれでも、世の熱は天界の熱の流入によって生かされることができ、世の光は天界の光の流入によって照らされることができます。
その流入は対応によって行なわれ、連続(延長)によって行なわれることはできません。

神の愛と知恵

088◀︎目次▶︎090

神的な愛と神的な知恵から存在する太陽から熱と光が発出する

89 天使と霊たちがいる霊界に、人間がいる自然界のように、等しく熱と光があります。そしてまた、熱は熱として感じられ、光は光として見られます。
 しかしそれでも、霊界と自然界の熱と光は、前に言われたように、何も共通なものを持たないほどに異なっています。生きているものと死んでいるもののように、互いに異なっています。
 霊界の熱は本質的に生きていて、光も同じです——けれども、自然界の熱は本質的に死んでいて、光も同じです。というのは、霊界の熱と光は純粋な愛である太陽から発出し、そして、自然界の熱と光は純粋な火である太陽から発出するから。そして、愛は生きていて、神的な愛はいのちそのものであり、火は死んでいて、そして太陽の火は死そのものです。このように呼ばれることのできる理由は、それにはいのちがまったく何も内在しないからです。

神の愛と知恵

089◀︎目次▶︎091

90 天使は霊的であるので、霊的なもの以外の他の熱の中で、他の光の中でも、生きることができません。けれども、人間は自然的なものの中にある以外の他の熱と他の光の中で生きることができません。なぜなら、霊的なものは霊的なものに、また自然的なものは自然的なものに適合するからです。
 天使が自然的な熱と光から最も微細なものですらそれを得るなら、滅びます。というのは、まったく彼のいのちと適合しないから。
 それぞれの人間は、自分の心の内的なものに関して霊です。
 人間は死ぬとき、自然界から完全に出て行き、そのすべてのものを残し、自然のものは何もない世界に入ります。この世界の中で、自然から分離して生きます。連続による連結が、すなわち、純粋なものと粗雑なもののような連結が何もないようにして生きます。しかし、前のものと後ろのもののような連絡があり、それらの連絡は対応によってしか存在しません。
 ここから、霊的な熱は、自然的な熱の純粋なものではなく、霊的な光も自然的な光の純粋なものではなく、まったく別の本質からのものであることを明らかにすることができます。というのは、霊的な熱と光は、純粋な愛であり、いのちそのものである太陽から本質を得るから、自然的な熱と光は、純粋な火であり、前に言われたように、その中には絶対的に何のいのちもない太陽から本質を得るからです。

神の愛と知恵

090◀︎目次▶︎092

91 一つともう一つの世界の熱と光の間にこのような相違があるので、そこから、一つの世界の中にいる者がもう一つの世界にいる者を見ることができないことは、はっきりと明らかです。
 というのは、自然的な光から見る人間の目は自分の世界の実体からできており、天使の目も自分の世界の実体からできているから。このように、どちらの場所でもその光を受け入れるのに適するように形作られています。
 これらから、自分たちの目で見ないので、天使と霊たちが人間であることを自分の信念の中に入ることを許さない者は、どれほど大きい無知から考えているか知ることができます。

神の愛と知恵

091◀︎目次▶︎093

92 これまで、天使と霊たちが人間と比べて完全に他の光と他の熱の中にいることに無知でした。それどころか、他の光と他の熱が存在することに無知でした。
 というのは、人間は、自分の思考によって、自然の内的なものまたは純粋なものよりも高いところへ達しないからです。それゆえ、また多くの者は、「天使と霊たちの住まいはエーテルの中、またある者は星の中である、このように自然の中にあって、その上または外ではない」と想像しました——そのときそれでも、天使と霊たちは完全に自然の上または外に、他の太陽の下にある自分の世界の中にいます。
 また前に示されたように、その世界の中で空間は外観であるので、それゆえ、「エーテルの中に、星の中にも存在する」と言われることはできません。というのは、人間の霊の情愛と思考に結合して、人間と一つであり、人間は霊であり、霊から考え、意志するからです。それゆえ、霊界は人間のいるところにあり、遠く離れたものではまったくありません。
 一言でいえば、すべての人間は自分の心の内的なものに関して、その世界の中に、そこの霊と天使たちの真ん中にいて、その光から考え、その熱から愛するのです。

神の愛と知恵

092◀︎目次▶︎094

その太陽は神ではなく、神人間の神的な愛と神的な知恵から発出するものであり、その太陽からの熱と光も同様である

93 天使に明らかに見られ、彼らが熱と光を得ているその太陽によって、主ご自身が意味されるのではなく、その方から発出する最初のものである霊的な熱の最高のものが意味されます。霊的な熱の最高のものは、霊的な火であって、これは神的な愛と神的な知恵の最初の対応物です。
 ここから、その太陽は火に見え、そしてまた天使にとって火ですが、人間にとって火ではありません。人間にとって火である火は、霊的なものでなく自然的なものです。それらの間には、生きたものと死んだものの間のような相違があります。
 それゆえ、霊的な太陽は熱によって霊的なものを生かし、霊的なものを回復させます——けれども、自然的な太陽は確かに自然的な人間や自然的なものに対して同様ですが、それ自体からではなく、霊的な熱の流入によって副次的に働いています。

神の愛と知恵

093◀︎目次▶︎095

94 この霊的な火は、その中に光の起源もまたありますが、霊的な熱と光になり、それらは発出する〔それらの〕中で減少します。減少は段階によって行なわれますが、段階については後で述べます。
 これは古代人により、神の頭のまわりの赤い火の輪や輝く光の輪によって表象されました。今日でもまた、神が人間として絵画の中に示されるとき、その表象が一般的に行なわれています。

神の愛と知恵

094◀︎目次▶︎096

95 愛が熱を生み出し、知恵が光を生み出すことは、経験そのものから明らかです——人間は愛するとき熱くなり、知恵から考えるとき物事をいわば光の中で見ています。このことから、愛の最初に発出するものは熱であり、知恵の最初に発出するものは光であることが明らかです。
 対応でもあることも明らかです。なぜなら、熱は愛そのもの中ではなく、愛から意志の中に、ここから身体の中に存在するようになり、光は知恵の中にではなく、理解力の思考の中に、ここから話しの中に存在するようになるからです。
 それゆえ、愛と知恵は熱と光の本質といのちです——熱と光は発出されるものであり、発出されるものであるので、対応するものでもあります。

神の愛と知恵

095◀︎目次▶︎097

96 霊的な光が自然的な光から完全に分離していることは、自分の心の思考に注意するなら、だれでも知ることができます。というのは、心は考えるとき、その対象を光の中で見、霊的に考える者は、真理を見、これを夜中であっても日中と同じようによく見るからです。
 それゆえ、さらにまた光は理解力に属性づけられ、「見る」と言われます。なぜなら、他の者が話すことについて、時々、他の者に、そのようであることを「見る」と言うから、すなわち、理解するからです。
 理解力は霊的なものなので、このように見ることは自然的な光からではできません。というのは、自然的な光は定着しないで、太陽とともに去るからです。
 ここから、理解力は目から以外の他の光を享受していること、その光は他の起源からであることが明らかです。

神の愛と知恵

096◀︎目次▶︎098

97 だれでも、霊界の太陽は神そのものではないことを用心すべきです。神そのものは人間です。その方の愛と知恵から最初に発出するものは霊的な火であり、それは天使の前に太陽のように見えます——それゆえ、主ご自身が天使に「人物(ペルソナ)」で現われるとき、ご自分を人間として現わし、時には太陽の中に、時には太陽の外に現われます。

神の愛と知恵

097◀︎目次▶︎099

98 その対応から、みことばの中で主が「太陽」とだけでなく、「火」や「光」とも言われます。そして「太陽」によって神的な愛と神的な知恵を1諸にしたその方が、「火」によって神的な愛に関するその方が、また「光」によって神的な知恵に関するその方が意味されます。

神の愛と知恵

098◀︎目次▶︎100

霊的な熱と光は、太陽としての主からの発出により、神的な愛と神的な知恵そのものが一つとなっているように、一つとなっている

99 神的な愛と神的な知恵がどのように主の中で一つとなっているかは、「第一部」で述べました。
同様に熱と光もそれらから発出しているので一つとなっており、発出するものは、対応によって一つとなっています——というのは、熱は愛に、光は知恵に対応するからです。
ここから、神的な愛が神的な存在(エッセ)であり、神的な知恵が神的な実存(エキシステレ)であるように、霊的な熱は神的な存在から発出する神性であり、霊的な光は神的な実存から発出する神性であることがいえます。それゆえ、(前の34―39番のように)それらの結合によって神的な愛が神的な知恵のものであり、神的な知恵が神的な愛のものであるように、霊的な熱は霊的な光のものであり、霊的な光は霊的な熱のものです。このような結合があるので、熱と光は太陽としての主から発出するものの中で一つであることがいえます。
けれども、天使や人間により一つのものとして受け入れられないことは、続きの中で述べます。

神の愛と知恵

099◀︎目次▶︎101

100 太陽としての主から発出する熱と光は、卓越するものなので霊的なものと呼ばれ、一つであるので単数で霊的なものと呼ばれます——それゆえ、続きの中で、霊的なものが言われるとき、両方のものを1諸にしたものが意味されます。
 その霊的なものから、その世界の全部のものが霊的なものと呼ばれます。その世界のすべてのものは、その霊的なものを通してその起源を、またここから名称もまた得ています。
 その熱と光が霊的なものと言われるのは、神が霊と呼ばれるからであり、霊としての神は発出する霊です。
 神はご自分の本質そのものからエホバと呼ばれますが、その発出するものによって天界の天使と教会の人間は生き生きとされ、照らされます——それゆえ、生き生きとさせることと照らすこともまた、エホバの霊によって行なわれる、と言われます。

神の愛と知恵

100◀︎目次▶︎102

101 熱と光が、すなわち、太陽としての主から発出する霊的なものが一つとなっていることは、自然界の太陽から発出する熱と光から説明することができます。
 それらの二つもまた、その太陽から出てくる中で一つとなっています。地上では一つとなっていませんが、それは、太陽からでなく、地球からです——というのは、地球は毎日、軸のまわりを回転し、毎年、黄道にしたがって公転するから。ここから外観では、熱と光が一つとなっていません。というのは、夏の最中は熱が光よりも多く、冬の最中は光が熱よりも多いから。
 霊界も同様ですが、そこの地球は回転も公転もしません。しかし、天使は多かれ少なかれ自分自身を主へ向けています。多く向ける者は、熱を多く、光を少なく、受け入れます。主へ向けることの少ない者は、光を多く、熱を少なく、受け入れます。
 ここから、天使から存在する天界は、一つは天的と呼ばれ、もう一つは霊的と呼ばれる二つの王国に分離されます——天的な天使は熱を多く受け入れ、霊的な天使は光を多く受け入れます。
 彼らによる熱と光の受け入れにしたがって、彼らの住む地もまた、それにしたがって見えます。
 この対応は、地球の運動の代わりに天使の状態の変化を考慮さえすれば、完全なものです。

神の愛と知恵

101◀︎目次▶︎103

102 さらにまた、その太陽の熱と光を通して生ずるすべての霊的なものは、本質的に見られるとき同様に一つとなっています、しかし、それらが天使の情愛から発出されるものとして見られるとき、一つとならないことは、続きの中で述べます。
 天界の中で熱と光が一つとなっている時、いわば天使のもとに春があります——けれども、一つとなっていない時、夏かあるいは冬のようです。寒帯の冬季のようではなく、温帯の冬季のようです——というのは、同じ程度に愛と知恵の受け入れていることが、天使であることそのものであるからです。それゆえ、天使は、自分のもとの愛と知恵の結合にしたがって、天界の天使です。
 教会の人間も、自分のもとに愛と知恵が、すなわち、仁愛と信仰が、一つであるなら同様です。

神の愛と知恵

102◀︎目次▶︎104

霊界の太陽は、人間から見られる自然界の太陽のように、天使から遠く離れた中間の高さに見える

103 大部分の人々は、神について、「神は頭上の高いところにおられる」、また主について、「主は天界の中で天使の間におられる」という観念を、世からたずさえてきます。
 神について、「神は頭上の高いところにおられる」という観念をたずさえてくるのは、みことばの中で神が「至高者」と呼ばれ、「高いところに」住む、と言われているからです。それゆえ、祈願し、崇拝するとき、「最高のもの」によって最内部が意味されることを知らないで目と手を上へあげます。
 主について、「主は天界の中で天使の間におられる」という観念をたずさえてくるのは、主について、その方はまさしく全世界を支配される唯一の神であることを知らないで、他の人間についてのようにしか、またある者は天使についてのようにしか考えないからです。主が天界の天使の間におられるなら、全世界をご自分の注視の下に、またご自分の導きの下に置かれ、統治することがおできになりません。霊界の中にいる者の前で、太陽として輝かれないなら、天使に何らかの光が存在することはありえません。というのは、天使は霊的であるので、霊的な光以外の他の光は彼らの本質に適合しないからです。
 天界に、地上の光を計り知れないほどにまさる光が存在することは、後で段階についてのところで述べます。

神の愛と知恵

103◀︎目次▶︎105

104 そこで、天使に光と熱をもたらす太陽については、それは天使が住む地から上がったところ、およそ45度の中間の高さに見られ、人間から遠く離れた世の太陽のように、天使からもまた遠く離れて見えます。その太陽は、変わらずにその高さと距離に見られ、動くこともありません。 
 ここから、天使に日と年に区別された時間はなく、朝から真昼を経て夕方、夜へという何らかの日の進行もなく、春から夏を経て秋、冬へという年の進行もなく、永続する光と永続する春があります——それゆえ、前に述べたように、そこには時間の代わりに状態があります。

神の愛と知恵

104◀︎目次▶︎106

105 霊界の太陽が中間の高さに見えることには、特に次の理由があります。
 第一に、その太陽から発出する熱と光は、このようにその真ん中に、ここから等しい段階にあり、このようその正しい釣り合いの中にあります。なぜなら、太陽が天の中間の上または下にある時、地上で生じるように、太陽が中間の高さよりも上に見えるなら、熱が光よりも多く感じられ、下に見えるなら、光が熱よりも多く感じられるからです。上にある時、熱は光よりも増し、下にある時、光は熱よりも増えます。というのは、光は夏の時と冬の時に同じにとどまりますが、熱は太陽の高さの程度にしたがって増え、減るからです。
 第二の理由は、霊界の太陽が天使的な天界の上の中間の高さに見え、このように天使的な天界のすべてのものに永続する春があり、そのことから天使に平和の状態があるからです。この状態は地上の春の時に対応しています。
 第三の理由は、このように天使は自分の顔を主へ常に向け、その方を目で見ることができることです。というのは、天使は自分の身体を回転させたそのすべての中で、顔の前に東があり、このように主がおられるからです。このことは、その世界に特有です——その世界の太陽が中間の上または下に見えるなら、まして頭の上の天頂に見えるなら、生じません。

神の愛と知恵

105◀︎目次▶︎107

106 自然界の太陽が人間から遠く離れて見えるように、もし霊界の太陽が天使から遠く離れて見えないなら、天使の全天界、その下の地獄、またそれらの下の水陸の私たちの地球は、主の熟視、指導、遍在、全知、全能、摂理の下に存在しません——これと比べて、私たちの世界の太陽もそのように、地球から見えているような距離にないなら、熱と光によって地のすべてのものの中に現存して力強く存在し、このように霊界の太陽の補助の働きを果たすことはできません。

神の愛と知恵

106◀︎目次▶︎108

107 最も必要なことは、「一つは霊的な、もう一つは自然的な二つの太陽がある——霊的な太陽は霊界の中にいる者のために、自然的な太陽は自然界の中にいる者のためにある」と知ることです。
 このことを知らないなら、創造や人間について、それらについて扱われていることを何も正しく理解することができません。
 結果を見ることができても、同時に結果の原因を見ないなら、夜の中でのようにしか結果を見ることができません。

神の愛と知恵

107◀︎目次▶︎109

霊界の太陽と天使の間の距離は、彼らによる神的な愛と神的な知恵の受け入れにしたがった外観である

108 悪い者と単純な者とを支配する欺きはすべて、確信された外観から起こります。
 外観が外観にとどまるかぎり、それらは外観上の真理であって、だれもがそれらにしたがって考え、話すことができます。しかし、真理そのものとして受け入れられるとき、それは確信されるとき生じますが、そのとき、外観上の真理は虚偽や欺きとなります。
 例えば——毎日、太陽が地球のまわりを動き回り、毎年、黄道にしたがって進むことは外観です。このことが確信されないかぎり、外観上の真理であって、これにしたがって、だれもが考え、話すことができます。というのは、太陽は昇り、沈むこと、それによって、朝、昼、夕、夜があり、なおまた、今、太陽は黄道のまたは高さのその段階の中にあること、それによって、春、夏、秋、冬がある、と言うことができるからです。しかし、その外観が真理そのものであると確信するとき、確信する者は欺きから虚偽を考え、話します。
 他の無数の外観も、単に自然的なもの、市民的なもの、道徳的なものだけでなく、霊的なものの中の外観も同様です。

神の愛と知恵

108◀︎目次▶︎110

109 主の神的な愛と神的な知恵から発出する最初のものである霊界の太陽との距離も同様です。 距離は何も存在しないことが真理です。しかし、距離は天使が彼らの段階の中で神的な愛と神的な知恵を受け入れるのにしたがった外観です。
霊界の中の距離が外観であることは、前に示されたことから明らかです、それらは、例えば、7番から9番までの「神性は空間の中に存在しないこと」、69番から72番までの「神性は空間なしにすべての空間を満たすこと」です——空間がないなら、距離もありません。あるいは同じことですが、空間が外観なら、距離もまた外観です、なぜなら、距離は空間のものであるからです。

神の愛と知恵

109◀︎目次▶︎111

110 霊界の太陽が天使から隔たって見られるのは、彼らにより神的な愛と神的な知恵が熱と光の適当な段階の中で受け入れられるからです。というのは、天使は、創造された有限なものであるので、主を太陽の中にあるような熱と光の最初の段階の中で受け入れることができず、その時、完全に焼き尽くされるからです。それゆえ、主は彼らにより彼らの愛と知恵に対応する愛と熱の段階の中で受け入れられます。
 このことは次のことによって説明することができます——最も低い天界の天使は第三の天界の天使のもとへ上ることができません。というのは、もし上り、彼らの天界に入るなら、いわば失神状態の中へ落ち込み、彼のいのちは死と苦闘するからです。その理由は、彼の愛と知恵は、また同様に、彼の愛の熱と知恵の光は少ない段階の中にあるからです。もし天使が太陽に向かって、そこまで上り、その火の中に入るなら、その時、何が起こるでしょうか? 
 天使が主の受け入れる相違によって、天界もまた互いに分離して見えます。第三の天界と呼ばれる最も高い天界は、第二の天界の上に、またその第二の天界は第一の天界の上に見えます。天界が離れているのではなく、離れて見えるのです。というのは、主は、最も低い天界にいる者の者にも、第三の中にいる者のもとのように、等しく現在されるからです。距離の外観を生じるものは、天使である主体の中にあり、主の中にはありません。

神の愛と知恵

110◀︎目次▶︎112

111 自然的な観念からでは、このようであることをほとんど理解することができません、その観念の中に空間があるからです。しかし、霊的な観念からなら、その中に空間はないので、理解することができます。天使はこの観念の中にいます。
それでも、愛と知恵が、すなわち、同じものですが、神的な愛と神的な知恵である主が、空間を通って進むことはできず、それぞれの者のもとに受け入れにしたがって存在されることは、自然的な観念で理解することができます。主はすべての者のもとに現在されること(マタイ23:20)、また主を愛する者たちに住まいがつくられること(ヨハネ14:23)を、主ご自身が教えられています。

神の愛と知恵

111◀︎目次▶︎113

112 しかし、このことは天界と天使によって確証されることなので、すぐれた知恵に属するもののように見られます。しかしそれでも、人間のもとでも同様です。
 人間はその心の内的なものに関して、同じ太陽により温かくされ、照らされます。主から愛と知恵を受け入れるかぎり、その熱から温かくされ、その光から照らされます。
 天使と人間の間には、天使はその太陽だけの下にいるけれども、人間はその太陽だけの下でなく、世の太陽の下にもいる、という相違があります——というのは、人間の身体は、両方の太陽の下にないなら、存在するようになり、存続することができないからです。霊的である天使の身体は異なります。

神の愛と知恵

112◀︎目次▶︎114

天使は主の中にいる、主は彼らの中におられる   天使は受け入れるものなので、主おひとりが天界であられる

113 天界は「主の住まい」、また「神の御座」とも呼ばれ、ここから神は王が自分の王国にいるようにそこにおられる、と信じられています。
しかし、前の二つの章で示されたように、神は、すなわち、主は、天界の上の太陽の中に、また熱と光の中に現在されることによって天界の中におられます——主はその方法で天界の中におられるけれども、それでもご自分の中のようにそこにおられます。なぜなら(直前の108―112番に示されたように)、太陽と天界の間の距離は距離ではなく、距離の外観であるからです。それゆえ、その距離が単に外観であるとき、主ご自身が天界の中におられることがいえます。というのは、天界の天使の愛と知恵の中に、またすべての天使の愛と知恵の中におられ、天使は天界を構成するので、全天界の中におられるからです。

神の愛と知恵

113◀︎目次▶︎115

114 主は天界の中におられることだけでなく、しかしまた、天界そのものであることは、愛と知恵が天使をつくり、これら二つは天使のもとの主であるからです。ここから、主は天界であられることがいえます。というのは、天使は彼らのプロプリウム(固有のもの)から天使ではないから。彼らのプロプリウムは完全に人間のプロプリウムのようであり、それは悪です。これが天使のプロプリウムであるのは、すべての天使は人間であったからであり、そのプロプリウムは彼らに出生からこびりついています——単に遠ざけられるだけです。それが遠ざけられれば遠ざけられるほど、それだけ自分自身の中に愛と知恵を、すなわち、主を受け入れます。
 ほんの少し理解力を高めるなら、主は、天使のもとのご自分のものの中にしか、すなわち、愛と知恵であるご自分のプロプリウムの中にしか住むことがおできにならず、悪である天使のプロプリウムの中にはまったく住むことがおできにならないことを知ることができます。ここから、悪から遠ざかれば遠ざかるかほど、それだけ彼らの中に主がおられ、それだけ彼らは天使です。 
 天界の天使のものとは神的な愛と神的な知恵です。この神的なものは天使の中にあるとき天使のものと呼ばれます。ここから再び、天使は自分自身からでなく、主から天使であること、その結果として天界もまたそうであることが明らかです。

神の愛と知恵

114◀︎目次▶︎116

115 しかし、どのように主は天使の中におられ、天使は主の中にいるかは、結合がどのようなものであるか知られないなら、理解されることはできません。
 天使との主の結合、そして主との天使の結合です。それゆえ、結合は相互のものです。
 天使の側からの結合は、次のものです——天使は、人間と同様に、「自分自身からの愛と知恵の中にいる、 またここから彼の愛と知恵は自分自身のものである」としか知覚しません。このように知覚されないなら、何も結合はなく、こうして彼の中に主はいなくなり、彼もまた主の中にいません。愛と知恵とともに、主を自分自身のもののように知覚し、感じます、そのような天使や人間の中でないなら、主は存在することができません——このことによって主は知覚されるだけでなく、受け入れて保持され、愛し返されもします。それゆえ、そのことによって天使は賢明になり、知恵にとどまります。
 愛し、学び、吸収することを自分のもののように感じ、知覚しないなら、だれが主と隣人を愛しようと欲することができるでしょうか、まただれが賢明になろうと欲することができるでしょうか? そうでなければ、だれが自分自身のもとにそれを保持することができるでしょうか? 
 もし、そうでないなら、流入する愛と知恵は何らの座を持ちません、というのは、流れ抜け、作用しないから。このように天使は天使でなく、人間も人間でなくなります。それどころか、生命のないもののようになるしかありません。
 これらから、結合が存在するためには相互のものが存在することが必要であることを明らかにすることができます。

神の愛と知恵

115◀︎目次▶︎117

116 しかし、どのように天使が自分自身のもののように知覚し、感じ、このように受け入れ、保持し、それでもそのとき彼のものではない(なぜなら、前に述べたように、天使は自分自身から天使ではなく、主から彼のもとに存在するものから天使であるから)ことが行なわれるか、今から述べます。
事柄は本質的に次のようなものです。
それぞれの天使のもとに自由と推理力があります——これらの二つのものは、主からの愛と知恵を受け入れることができるようにと彼のもとにあります。
しかし、自由と同じく推理力の二つとも、彼のものではなく、彼のもとにある主のものです。
しかし、それら二つのものは彼のいのちに内部で、いのちと連結したものと言われることができるように内部で結合するので、それゆえ、それは彼のプロプリウム(固有のもの)のように見えます。
これらから、考え、意志し、そして話し、行動することができます。それらから考え、意志し、話し、行動するものは自分自身からのように見えます。
このことが相互のものをつくり、それによって結合があります。
しかしそれでも、天使が、愛と知恵が彼の中にあることを信じ、こうしてそれらを自分自身のもののように要求すればするほど、それだけ天使のものは彼の中になく、ここからそれだけ主との結合はありません。というのは、真理の中にいないから。真理は天界の光と一つになっているので、それだけ天界の中にいることもできません。というのは、そのことから、主から生きていることを否定し、自分自身から生きていること、したがって神的な本質が彼にあることを信じるからです。
これら自由と推理力の二つのものから、いのちが構成され、それらは天使のもの、人間のものと呼ばれます。これらから、主との結合のために天使に相互のものがありますが、相互のものはその性質から見られるとき、彼のものでなく、主のものであることを明らかにすることができます。
ここから、主のものを自分自身のもののように知覚し、感じるその相互のものを悪用するなら、このことはそれを専有することから生じますが、天使の状態から落ちることになります。
結合が相互のものであることは、主ご自身が「ヨハネ福音書」で教えられています(14:20-24, 15:4-6)。そして、人間との主の結合、また主との人間の結合は、主のみことばと呼ばれる主のものの中にあります(ヨハネ15:7)。

神の愛と知恵

116◀︎目次▶︎118

117 「アダムはこのような自由の中に、すなわち、自分自身から神を愛し、また賢明になることができる選択の自由の中にいた。その選択の自由は彼の子孫の中で失われた」という意見をもつ者がいます。しかし、これは誤りです——というのは、人間はいのちではなく、いのちの受け入れるものであるから(前の4―654―60番参照)。いのちを受け入れるものは、自分自身の何らかものから愛し、賢明であることはできません。
それゆえ、彼はまた、自分自身から賢明であり、愛することを欲したとき、知恵と愛から落下し、楽園から追い出されたのです。

神の愛と知恵

117◀︎目次▶︎119

118 さて、天使について言われたことは、天使から構成される天界についても同様のことが言われます。(前の77―82番に示されたように)神性は最大のものと最小のものの中で同じであるからです。
天使と天界について言われたことは、人間と教会についても同様のことが言われます——なぜなら、天界の天使と教会の人間は結合を通して一つとして働き、教会の人間もまた彼の心のものである内的なものに関して天使であるからです——しかし、教会の人間によって、その中に教会がある人間が意味されます。

神の愛と知恵

118◀︎目次▶︎120

霊界の東は、主が太陽として見られるところであり、ここから他の方位がある

119 霊界の太陽とその本質、その熱と光、そしてここから主の現在について述べました——そこで、霊界の方位についても述べます。
 その太陽と霊界について述べる理由は、神について、愛と知恵について述べるからです。それらについて起源そのものから述べないなら、原因からでなく結果から述べることになってしまいます——しかも、結果は結果以外の何も教えず、また結果だけが調べられるとき、原因を何もあからさまにしませんが、原因は結果をあからさまにします。原因から結果を知ることは賢明なことです。しかし、結果から原因を探求することは、そのとき探求する者が原因と呼ぶ欺きが生じるので、賢明なことではなく、これは知恵を愚鈍にすることです。
 というのは、原因は前のもの、結果は後のものであるから。前のものから後のものなら、見ることができますが、後のものから前のものを見ることはできません。これが秩序です。
 すべての原因は霊界にあるので、ここで最初に霊界を述べ、その後、見られるすべてのものが結果である自然界について述べるのは、この理由からです。

神の愛と知恵

119◀︎目次▶︎121

120 さて、ここで霊界の方位について述べます。
 霊界にも自然界と同様に方位がありますが、そこの方位は、その世界そのもののように霊的であり、自然界の方位は、その世界そのもののように自然的です。それゆえ、共通のものが何もないほどに相違しています。
 両方の世界に、東、西、南、北と呼ばれる四つの方位があります。
 自然界の四つの方位は、正午の太陽の位置から定められ、一定です。その真向かいに北があり、一つの側に東、もう一つの側に西があり、それぞれの場所でのそれらの方位はそこの正午から決定されます。というのは、正午の太陽の位置はどこでも常に同じであり、したがって固定しているからです。
 霊界では異なります——そこの方位はそこの太陽から決定されます。その太陽の見える場所は変わらず、見える場所に東があります。それゆえ、その世界の方位は自然界のように正午〔の太陽の位置〕からではなく、東からであり、その真向かいに西、一つの側に南、もう一つの側に北があります。
 しかし、そこのそれらの方位は太陽からではなく、その世界の住民である天使と霊たちから決まることは、続きの中で見られます

神の愛と知恵

120◀︎目次▶︎122

121 それらの方位は、太陽としての主である起源から霊的なものであるので、それゆえ、それらの方位にしたがっている天使と霊たちのすべて住居もまた霊的です。霊的であるのは、主からの愛と知恵の受け入れにしたがって住んでいるからです。
 上位の愛の段階にいる者は東に、より低い愛の段階にいる者は西に、上位の知恵の段階にいる者は南に、低い知恵の段階にいる者は北に住んでいます。
 ここから、みことばの中で「東」によって最高の意味で主が、関連する意味でその方への愛が、「西」によって減少しているその方への愛が、「南」によって光の中の知恵が、「北」によって陰の中の知恵が意味されます——または、相対的に彼らの状態に似たものについて述べられます。

神の愛と知恵

121◀︎目次▶︎123

122 東は、それにより霊界のすべての方位が決められ、「東」によって最高の意味で主と神的な愛が意味されるので、すべてのものが存在する源は主とその方への愛であることが明らかです。だれかがその愛の中にいなければいないほど、それだけその方から遠く離れて、西に、あるいは南に、あるいは北に、愛の受け入れにしたがった距離に応じて、そこに住んでいます。

神の愛と知恵

122◀︎目次▶︎124

123 太陽としての主は変わることなく東におられるので、それゆえ、古代人は礼拝で崇拝中に顔を東に向けました、彼らのもとで礼拝のすべては霊的なものを表象するものでした。そして、すべての礼拝の中で似たことを行なうようにと、その神殿もまた東へ向けました——このことから、今日の教会もまた同様に〔東向きに〕建築されています。

神の愛と知恵

123◀︎目次▶︎125

霊界の方位は太陽としての主からではなく、天使による受け入れにしたがっている

124 天使は互いに分かれて、ある者は東に、ある者は西に、ある者は南に、ある者は北の方位に住んでいること、また東の方位に住んでいる者は、愛のより高い段階の中に、西に住んでいる者は愛の低い段階の中に、南に住んでいる者は知恵の光の中に、北に住んでいる者は知恵の陰の中にいることを述べました。
それらの住居の相違は、太陽としての主からのように見えますが、そのときそれでも天使からです。
主は愛と知恵の高い段階や低い段階の中におられません、すなわち、太陽としてのその方は、ある者のもとに他の者のもとよりも熱と光の高い段階や低い段階の中におられません、というのは、どこでも同一であられるからです——しかし、ある者と他の者に、同じような段階で受け入れられるのではありません。このことにより、互いに自分自身が多かれ少なかれ、離れて、また方位にしたがって変化して見えます。
そのことから、霊界の中の方位は、愛と知恵を、またここから太陽としての主から熱と知恵をいろいろと受け入れるものでしかないことがいえます。このようであることは、前に論証した霊界の中の距離が外観であること(108―112番)から明らかです。

神の愛と知恵

124◀︎目次▶︎126

125 方位は天使による愛と知恵のいろいろな受け入れであるので、それらの外観が存在するようになる変化について述べます。
前の章で示されたように〔113―118番〕、主は天使の中におられ、天使は主の中にいますが、太陽としての主は彼の外におられるように見えるので、主は彼を太陽から見られ、彼は主を太陽の中に、まったく鏡の中に像を見るようにも見えます。
それゆえ、もしその外観から話すなら、その時、次のようなものとなります。主は顔と顔を向かい合わせてそれぞれの者を見、また眺められますが、逆に天使はそのように主を見ません——主から主への愛の中にいる者は、その方をまっすぐ前方に見るので、それゆえ、彼らは東と西にいます——けれども、多くの知恵の中にいる者は、主を斜め右側に、少ない知恵の中にいる者は、斜め左側に見ます。それゆえ、後者と前者は北と南にいます。
これらの者が斜めに見るのは、前に述べたように、愛と知恵は主から一つのもののように発出しますが、天使により一つのように受け入れられず、また愛に比べて多い知恵は、知恵のようなものに見えますが、それでも、知恵が多過ぎるものに愛からのいのちは内在しないので、知恵ではないからです。
これらから、天使の住居が霊界の方位にしたがって見えるのは受け入れの相違にしたがっていることが明らかです。

神の愛と知恵

125◀︎目次▶︎127

126 愛と知恵をさまざまなに受け入れることが霊界の中の方位をつくることは、天使が彼のもとの愛の増大と減少にしたがって方位を変えることから明らかにすることができます。このことから、方位は、太陽としての主からではなく、受け入れにしたがって天使から定まることが明らかです。
 人間も、その霊に関して同様です。彼は自然界のどんな方位の中にいても、霊に関して霊界のある方位の中にいます。なぜなら、前に述べたように、霊界の方位は自然界の方位と共通なものをもたないからです——身体に関して人間は自然界の方位の中にいます、けれでも、霊に関して霊界の方位の中にいます。

神の愛と知恵

126◀︎目次▶︎128

127 天使と人間のもとで、愛と知恵が一つとなるように、その身体のすべてのものの中に対があります。
 目、耳、鼻は対であり、手、腰、足は対です。脳は二つの半球に、心臓は二つの小室に、肺は二つの葉に分かれ、残りの他のものも同様です。
 このように天使と人間に右と左があります。その右の部分すべては知恵のもととなる愛に、左の部分はすべて愛からの知恵に関係します——あるいは同じことですが、右の部分はすべて真理のもととなる善に、左の部分はすべて善からの真理に関係します。
 愛と知恵が、すなわち、善と真理が一つとして働くように、そして一つのものとして主に向かうように、これらの対が天使と人間にあります。
 しかし、これら事柄について、多くのことは続きの中で述べます。

神の愛と知恵

127◀︎目次▶︎129

128 これらから、「主は意のままに天界を与えられる、すなわち、意のままにある者がある者よりも賢明であり、愛があるように与えられる」という信念をもつ者は、どんな欺きの中に、またここから虚偽の中にいるか、知ることができます。そのときそれでも、主は、ある者とある者が等しく賢明であり、救われるようにと望まれています。というのは、あらゆる手段を備えられるから——だれもがそれを受け入れ、それにしたがって生き、そのように賢明であり、救われるようにと。というのは、主はある者とある者とに同じあられるから——しかし、天使と人間たちである受け入れる者が、受け入れと生活の異なることから異なるのです。
 このようであることは、ここで方位について、またそれらにしたがった天使の住居について言われたことから明らかにすることができます。すなわち、その相違は、主からではなく、受け入れる者からです。

神の愛と知恵

128◀︎目次▶︎130

天使は自分の顔を常に太陽としての主へ向けている
このように、右に南、左に北、背後に西がある

129 天使とまた太陽としての主へ彼らが向くことについてここで言われるすべてのことは、霊に関して人間についてもまた理解されなければなりません。なぜなら、人間はその心に関して霊であり、愛と知恵の中にいるなら、天使であるからです——それゆえ、死後もまた、自然界から引き寄せた自分の外なるものを脱ぐ時、霊または天使となります。
天使は常に顔を太陽のある東へ、このように主へ向けるので、主からの愛と知恵の中にいる人間についても、神を見る、神へ目を向ける、目の前に神をもつ、と言われ、それらのことによって天使のように生きることが意味されます。
世でこのように言われるのは、実際にそのことが天界にも人間の霊の中にも存在するからです。
祈る時、どんな方向に顔を向けていても、だれが自分自身の前に神を見ないでしょうか?

神の愛と知恵

129◀︎目次▶︎131

130 天使が自分の顔を常に太陽としての主に向けているのは、天使が主の中にいるから、主が彼らの中におられ、主は内的に彼らの情愛と思考を導かれ、またその情愛と思考を常にご自分に向けられるからです。それゆえ、太陽としての主が見える東へしか目を向けることができません。
ここから、天使が自分自身を主へ向けるのではなく、主が彼らをご自分に向けられることが明らかです——というのは、天使が主について内的に考えるとき、その方について自分自身の中にいるとしか考えないからです。内的な思考そのものは距離を生みませんが、目の視覚と一つとして働く外的な思考は距離を生みます。その理由は、外的な思考は空間の中にありますが、内的な思考は空間の中にないからです。距離は、霊界の中のように、空間の中にありませんが、それでも空間の外観の中にあります。
しかし、これらは神について空間から考える者にはほとんど理解されません。というのは、神はどこにでも存在しますが、それでも空間の中に存在されないからです——このように天使の内にも外にも存在されます。ここから、天使は神を、すなわち、主を自分自身の内と外とに見ることができます。愛と知恵から考えるとき自分自身の内に、愛と知恵について考えるとき自分自身の外に見ます。
しかし、これらについては特に『主の遍在、全知、全能について』の論文の中で述べます。
すべての者は、「神はご自分を人間に注ぎ込まれ、人間の中におられる、もはやご自身の中にはおられない」という憎むべき異端に陥らないよう自戒すべきです。そのときそれでも、神は人間の内と同じく外のどこにでも存在されます。というのは、(前の7―1069―72番に示されたように)空間なしにすべての空間の中に存在されるから。なぜなら、神が人間の中におられるなら、分けることができるだけでなく、空間に閉じ込められてしまい、それどころか、人間はそのとき自分自身が神であると考えることができるからです。
この異端は、霊界の中では悪臭を放つ死体のように、忌まわしいものです。

神の愛と知恵

130◀︎目次▶︎132

131 天使は、彼らが身体をあらゆる方向に転換する中で自分自身の前に太陽としての主を見るように、そのように主へと方向転換しています。天使は周囲へまた周囲へと向きを変え、そのことによって彼の周囲にあるいろいろなものを見ることができますが、それでも太陽としての主を自分の顔の前に常に見ています。このことは不思議に思えますが、それでも真理です。
 このように太陽としての主を見ることが私にもまた与えられました。私は私の顔前にその方を見ています。また多年の間、私が世のどんな方向に向いても、私はその方を同じように見てきました。

神の愛と知恵

131◀︎目次▶︎133

132 太陽としての主は、したがって東は、天界のすべての天使の顔前にあるので、その結果、彼らの右に南、左に北、背後に西があり、彼らが身体をあらゆる方向に回転してもこのようです。なぜなら、前に述べたように、霊界の中のすべての方位は東により決定されるからです。それゆえ、東が目の前にある者は、方位そのものの中に、それどころか、彼ら自身が方位を決定しています。なぜなら、(前の124―128番に示されたように)方位は太陽としての主からではなく、天使による受け入れにしたがっているからです。

神の愛と知恵

132◀︎目次▶︎134

133 さて、天界は天使からであり、天使はこのようなものであるので、その結果、全天界はそれ自体を主へ向け、天界はその回転によって主からひとりの人間として、あたかも主の視野の中にあるかのように支配されます。
天界が主の視野の中でひとりの人間のようであることは、著作『天界と地獄』(59―87番)に見られます。ここからもまた天界の方位があります。

神の愛と知恵

133◀︎目次▶︎135

134 方位は、天使にも全天界にも、いわば刻み込まれているようなものであるので、それゆえ、天使は、世の人間とは違って、どこへ行っても自分の家と住む場所を知っています。
 人間が自分自身の中の方位から家と住む場所を知らない理由は、空間から、このように自然界の方位から考えるからであり、それらは霊界の方位と共通なものをもちません。
 しかしそれでも、多くの経験からよく知られているように、鳥や獣に、このような知識が内在しています、というのは、それら動物にみずから自分の家と住む場所を知ることが植え付けられているから。これはこのようなものが霊界の中にある証拠です。なぜなら、自然界の中に生ずるすべてのものは結果であり、霊界の中に生じるすべてのものはそれらの結果の原因であるからです——霊的なものを原因にもたない自然的なものが生じることはありません。

神の愛と知恵

134◀︎目次▶︎136

天使の心も身体も、内的なすべてのものは、太陽としての主へ向いている

135 天使に理解力と意志があり、顔と身体があります。そしてまた、理解力と意志の内的なものがあり、それで顔と身体の内的なものもあります。
 理解力と意志の内的なものは、彼らの情愛と思考の内的なものに属するものです。顔の内的なものは脳です。そして、身体の内的なものは内臓であり、それらの主要なものは心臓と肺です。
 一言でいえば、天使には地上の人間にあるすべてと個々のものがあります。それらから天使は人間なのです。
 内的なもののない外的な形は人間をつくりませんが、内的なものと一つである外的な形が、それどころかそれらが人間をつくります。そうでなければ、内部にいのちの形がないので、単なる人間の像となってしまい、それらの中にいのちはありません。

神の愛と知恵

135◀︎目次▶︎137

136 意志と理解力が身体を意のままに支配することはよく知られています。というのは、理解力が考えることを口が話し、意志が欲することを身体が行なうから。そのことから、身体は理解力と意志の対応する形であること、また理解力と意志についても形が言われるので、身体の形は理解力と意志の形に対応することが明らかですが、それらの形がどのようなものであるかは、ここで述べることではありません——さらにまた、その両方に無数のものがあり、そして両方の無数のものは互いに対応するので一つとして働きます。
 ここから、心は、すなわち意志と理解力は、身体を意のままに、自分自身そのもののように完全に支配します。
 これらから、心の内的なものは身体の内的なものと、心の外的なものは身体の外的なものと一つとして働くことがいえます。
 心の内的なものについては後で、同じく、そのとき身体の内的なものについて、特に、いのちの段階についてのところで述べます。

神の愛と知恵

136◀︎目次▶︎138

137 心の内的なものは身体の内的なものと一つとなっているので、心の内的なものが太陽としての主へ向くとき、身体の内的なものもまた向くこと、心と同様に身体の両方の外的なものは、それらの内的なものによっているので、それらもまた同様に向くといえます。というのは、内なるものから行なうことを外なるものが行なうから、なぜなら、全般的なものは、それを存在させる個々のものからそのすべてのものを得ているからです。
 これらから、天使が顔と身体を太陽としての主へ向けているので、〔その原因である〕彼の心と身体の内的なすべてのものもまたそこへ向けていることが明らかです。人間も、彼が常に目の前に主をもつなら同様であり、愛と知恵の中にいるならそこへ向けています。そのとき、その方にただ目と顔だけで目を向けるのではなく、精神(mens)と心(cor)のすべてで、すなわち意志と理解力のすべてで、同じく身体のすべてで向けています。

神の愛と知恵

137◀︎目次▶︎139

138 主へとその向きを変えることは実際の方向転換であり、ある種の高揚です——というのは、天界の熱と光の中に上げられ、そのことは内的なものが開かれることによって生じるから。それが開かれるとき、愛と知恵が心の内的なものの中へ、そして天界の熱と光が身体の中へ流入します。ここから高揚があり、それはもやから大気の中へ、または大気からエーテルの中へのようです——そして愛と知恵はその熱と光とともに人間のもとの主であり、前に述べたように、主は人間をご自分に向けられます。
 愛と知恵の中にいない者のもとでは反対であり、愛と知恵に反している者のもとではさらにそうです——彼らの心の内的なものも身体の内的なものも閉ざされていて、閉ざされているとき、外的なものは主に逆らって反応します、なぜなら、彼らにこのような性質が内在するからです。
 ここから、彼らは主を後ろにして向きを変えます。後ろへ向きを変えることは、地獄へ向けることです。

神の愛と知恵

138◀︎目次▶︎140

139 この実際に主へ向きを変えることは、愛と同時に知恵からです。愛だけからでなく、また知恵だけからでもありません。愛だけではエキシステレ(実在)のないエッセ(存在)のようです、というのは、愛は知恵の中に存在するようになるから。また愛のない知恵はエッセのないエキシステレのようです、というのは、知恵は愛から存在するようになるからです。
 確かに知恵のない愛は存在しますが、その愛は人間にあるものであり、主にはありません。そしてまた、愛のない知恵も存在します、しかし、その知恵は確かに主からものですが、それ自体の中に主はおられません。というのは、冬の光のようであり、それは確かに太陽からですが、それでも太陽の本質である熱は、その中にないからです。

神の愛と知恵

139◀︎目次▶︎141

それぞれの霊は、どのようなものであっても、同様に自分の支配愛へ向いている

140 霊とは何かまた天使とは何かを最初に述べます。
 すべての人間は、死後、最初に天界と地獄の中間にある霊たちの世界にやって来て、そこで自分の時を、すなわち、自分の生活にしたがって天界あるいは地獄へと準備される状態を過ごします。その世界にとどまる間、彼は霊と呼ばれます。その世界から天界に上げられた者は天使と呼ばれます、けれども、地獄に投げ落とされた者はサタンまたは悪魔と呼ばれます。それらの者が霊たちの世界の中にいる間、天界へ準備されている者は天使的な霊と呼ばれ、地獄へ準備されている者は地獄的な霊と呼ばれます——その間、天使的な霊は天界と、地獄的な霊は地獄と結合しています。
 霊たちの世界にいるすべての霊は人間に接合しています。人間は自分の心の内的なものに関して同様に天界と地獄の中にいて、生活にしたがって、その霊によって天界または地獄と共になっています。
 「霊たちの世界」と「霊界」は別ものであることを知っておくべきです。霊たちの世界は、今、それについて述べているものです。しかし、霊界はこの世界と天界と地獄の全体です。

神の愛と知恵

140◀︎目次▶︎142

141 さらにまた、愛について述べておきます、天使や霊たちが自分の愛から自分の愛へと方向転換することについて扱うからです。天界全体は愛の相違のすべてにしたがって社会に分かれています。地獄も同様であり、霊たちの世界も同様です——天界は天界的な愛の相違にしたがって、けれども、地獄は地獄的な愛の相違にしたがって、しかしながら、霊たちの世界は天界的な愛と同様に地獄的な愛の相違にしたがって社会に分かれています。
 二つの愛があり、それは残りのすべての愛の頭です、すなわち、その愛に残りのすべての愛が関係します——すべての天界的な愛が関係して、その頭となる愛は主への愛です。また、すべての地獄的な愛が関係して、その頭となる愛は自己愛からの支配的な愛です。それら二つの愛は真っ向から互いに対立しています。

神の愛と知恵

141◀︎目次▶︎143

142 主への愛と自己愛からの支配的な愛であるそれら二つの愛は、互いに完全に対立しており、また前章に示されたように、主への愛にいる者は太陽としての主へ向かうので、自己愛からの支配的な愛の中にいるすべての者は、主から後ろ向きに向きを変えることを明らかにすることができます。
 主への愛の中にいる者がこのように対立するものから向きを変えるのは、彼らは主により導かれることよりも愛するものはなく、主おひとりに支配されるよう欲するからです。しかし、自己愛からの支配的な愛の中にいる者は、自分自身により導かれることよりも愛するものはなく、また自分自身により支配されるよう欲します。
 自己愛からの支配的な愛と言われるのは、役立ちを果たそうとする愛からの支配的な愛が存在するからであり、その愛は隣人に対する愛と一つになっているので霊的な愛です。けれども、この愛は支配的な愛と呼ばれることはできず、役立ちを果たそうとする愛です。

神の愛と知恵

142◀︎目次▶︎144

143 それぞれの霊は、どんな種類であっても、自分の支配愛へ向かいます。(「第一部」1―3番に示されたように)愛はそれぞれの者のいのち(生活)であるからです。またいのち(生活)は、四肢、器官、内臓と呼ばれるその容器を、そのように人間の全部を、自分と似た愛の中にある社会へ向けます、したがってそこに自分の愛があります。

神の愛と知恵

143◀︎目次▶︎145

144 自己愛からの支配的な愛は、主への愛とまったく対立しているので、それゆえ、その支配的な愛の中にいる霊は、顔を主から後ろへ向け、ここから目はその世界の西に向けられています。このように身体に関しても反対方向にあるので、彼らの背後に東があり、右に北があり、西に南があります——主に憎しみを抱くので、彼らの背後に東があり、欺きとそこからの虚偽を愛するので、右に北があり、知恵の光を軽蔑して拒むので、左に南があります。周囲から周囲へと向けることもできますが、自分の周囲に見えるすべてのものは自分の愛に似たものに見えます。
 彼らはすべて自然的、感覚的です。自分だけが生きていると思い、他の者をいわば像として見ています——自分をすべての者にまさって賢明であると信じますが、それでも狂っているような者もいます。

神の愛と知恵

144◀︎目次▶︎146

145 自然界の中のように霊界の中に舗装された道が見えます。あるものは天界へ、あるものは地獄へ導きます。しかし、地獄へ導く道は、天界に行く者に見えません、天界へ導く道もまた地獄へ行く者に見えません。このような道は無数にあります。というのは、それらは天界のそれぞれの社会へ、また地獄のそれぞれの社会へ向かうから。それぞれの霊は自分の愛の社会へ導く道へ入り、他のものへ導く道は見ません——ここから、それぞれの霊は、自分の支配愛へ向けて、さらにまた前進します。

神の愛と知恵

145◀︎目次▶︎147

太陽としての主から発出する神的な愛と神的な知恵は、天界の熱と光をつくり、発出する神性であり、聖霊である

146 『新しいエルサレムの教え主について』の中に、神は一つの位格と本質であり、その中に三一性があること、神は主であること、なおまた、その方の三一性は父、子、聖霊と呼ばれること、そしてその方からの神性は父、神的人間性は子、発出する神性は聖霊と呼ばれることが示されています。
 発出する神性と言われますが、それでも、発出すると言われるのはどこからなのか、だれも知りません。知られていないのは、主が天使たちの前に太陽として見られ、その太陽から、本質では神的な愛である熱が、なおまた本質では神的な知恵である光が発出することに今まで無知であったからです。これらの無知があるかぎり、発出する神性はそれ自体によって神的であるとしか知ることができません。それゆえ、「アタナシウスの三一性の教え」の中にもまた、父の位格、子の位格、また聖霊の位格があり、それらは別ものである、と言われています。
 けれども、今や、主は太陽として見られることが知られるとき、聖霊と呼ばれる発出する神性について正しい観念をもつことができます。それは、主と一つであり、太陽からの熱と光のようにその方から発出するものです——さらにまたこのことが、天使が愛と知恵の中にいればいるほど、それだけ神的な熱と神的な光の中にいる理由です。
 主が霊界の中に太陽として見られ、神性そのものがこのように発出することの知識なしに、発出することによって何が意味されるのか、〔聖霊の働きとは〕父と子のものであるそれらを伝達することだけなのか、または照らすことと教えることだけなのか、〔と思ってしまう〕ように、決してだれも知ることができません——それでも、神は一つであり、またその方が遍在されることも知られているとき、このように聖霊をそれ自体によって神性として認め、神と呼び、そして〔父や子と〕区別することは、照らされた理性のすることではありません。

神の愛と知恵

146◀︎目次▶︎148

147 神が空間の中におられず、そのことによって遍在されること、なおまた神性はどこでも同一ですが、その方のいろいろな外観がいろいろな受け入れから天使と人間たちの中にあることは前に示しました。
 さて、太陽としての主から発出する神性は光と熱の中にあるので、光と熱は最初に世で大気と呼ばれる普遍的に受け入れるものの中に流入します。その大気は雲を受け入れるものでもあります。人間または天使のもとの理解力である内的なものが、発出する神性を受け入れるとき、このような雲によってまわりをおおわれていることを明らかにすることができます。
 雲によって霊的な雲が意味され、それは思考であり、それが真理からのものであるなら、神的な知恵と調和しますが、虚偽からのものなら、調和しません。それゆえまた、霊界の中で、真理からの思考は視覚に見える形で示されるとき輝く雲のように見え、虚偽からの思考は黒い雲のように見えます。
 これらから、発出する神性は確かにすべての人間の中にありますが、彼らにより多様におおわれていることを明らかにすることができます。

神の愛と知恵

147◀︎目次▶︎149

148 神性そのものは霊的な熱と光によって天使と人間の中に現在するので、それゆえ、それらについて、神的な知恵の中と神的な善の中にいる者が、それらに働きかけられ、それらから、それについて、情愛から考える時、「神によって熱くなっている」と言われます。これは時々、説教者が熱意から語る時のように、知覚と感覚にもまた生じます。
 同じ者について、「神から照らされている」とも言われます。主は、ご自分の発出する神性によって、霊的な熱で意志を燃え立たせられるだけでなく、霊的な光で理解力もまた照らされるからです。

神の愛と知恵

148◀︎目次▶︎150

149 聖霊は主と同一であり、真理そのものであり、そこから人間に照らしがあることは、みことばの次の箇所から明らかです——

 イエスは言われた、「真理の御霊が来る時、あなたがたをすべての真理へ導く。御霊は自分自身のものから語るのではなく、聞いたどんなものでも、語る」(ヨハネ16:13)。
 御霊はわたしを栄化する。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるから(ヨハネ16:14, 15)。
 御霊は弟子たちのもとに、彼らの中にいる(ヨハネ14:17, 15:26)。
 イエスは言われた、「わたしがあなたがたに話すものは、霊であり、いのちである」(ヨハネ6:63)。

これらから、主から発出する真理そのものが聖霊と言われることが明らかであり、それは光の中にあるので、照らします。

神の愛と知恵

149◀︎目次▶︎151

150 聖霊にあるとされている照らしは、確かに主から人間の中にありますが、それでも霊と天使たちを仲介として行なわれます。しかし、それらの仲介がどんなものであるか、今はただ、天使と霊たちは、人間と同様に主から照らされているので、だれも自分自身から人間を照らすことはできない、としか述べることができません。彼らもまた同様に照らされているので、すべての照らしは主だけからであることがいえます——天使または霊たちを仲介として行なわれるのは、主おひとりからの照らしを他の者よりも多く受けているような天使や霊たちの真ん中に置かれる時、人間は照らしの中にいるからです。

神の愛と知恵

150◀︎目次▶︎152

主は、神的な愛と神的な知恵が最初に発出するものである太陽によって、全世界とそのすべてのものを創造された

151 主によって父や創造者と呼ばれる永遠からの神、すなわち、エホバが意味され、『新しいエルサレムの教え主について』の中に示されているように、その方と一つであるからです——それゆえ、続きの中で、そこに創造についてもまた扱いますが、〔そこでは〕主と呼ぶことにします。

神の愛と知恵

151◀︎目次▶︎153

152 全世界の中のすべてのものは神的な愛からと神的な知恵から創造されたことは、第一部で十分に示しました(特に52、53番)。今や、このことは神的な愛と神的な知恵の最初に発出するものである太陽を媒介としてであることを示します。
原因から結果を、またその後、原因から結果を、その秩序と連続の中で見ることのできる者はだれも、太陽が創造の最初のものではない、とそのように否定することができません、というのは、その世界にあるすべてのものは太陽から存在し続けるから。また太陽から存在し続けるので、それから存在するようにもなります。一方はもう一方を証しします。というのは、すべてのものは存在するように置かれたので、太陽の注視の下にあるから。そして太陽の下に保たれることは絶えず置くことです。それゆえまた、存続は絶え間ない存在である、と言われます。さらにまた、何かが大気を通しての太陽の流入からまったく遠ざけられるなら、これはすぐさま消滅します。というのは、大気は、純粋でさらにまた純粋であるほど、太陽から活動的にされた力の中にあって、すべてのものを結びつきの中に保つからです。
さて、全世界とそのすべてのものの存続は太陽からであるので、太陽は創造の最初のものであり、それからすべてのものが存続することが明らかです。太陽から、と言われますが、主により太陽を通して、という意味です、なぜなら、太陽もまた主により創造されたからです。

神の愛と知恵

152◀︎目次▶︎154

153 二つの太陽が存在し、それらによってすべてのものが主により創造されました。霊界の太陽と自然界の太陽です。すべてのものは霊界の太陽によって主により創造されました、けれども、自然界の太陽によってではありません、なぜなら、この太陽はその太陽のはるか下にあって、中間の距離にあり、その上には霊界が、その下には自然界があるからです。自然界の太陽は、補助の働きをなすように創造されました。その働きについては、続きの中で述べます。

神の愛と知恵

153◀︎目次▶︎155

154 全世界とそのすべてのものが霊界の太陽を媒介として主により創造されたことは、前に示したように(52―82番)、その太陽は神的な愛と神的な知恵から最初に発出しているものであり、神的な愛と神的な知恵からすべてのものが存在するからです。
すべての被造物の中に、最大のものにも最小のものにも、三つもの、目的・原因・結果があります。これらの三つのものがその中にない被造物は存在しません。これらの三つのものは最大のものの中に、すなわち、全世界の中に次の秩序で存在するようになっています。神的な愛と神的な知恵から最初に発出しているものである太陽の中にすべてのものの目的があります。霊界にすべてのものの原因があります。自然界にすべてのものの結果があります——けれども、これらの三つのものが最初のものの中と最後のものの中にどのように存在しているか、続きの中で述べます。
さて、これらの三つのものがない被造物は存在しないので、全世界とそのすべてのものは、主により、そこにすべてのものの目的がある太陽によって創造された、といえます。

神の愛と知恵

154◀︎目次▶︎156

155 思考から空間と時間が遠ざけられないなら、創造そのものを理解力の中に引き寄せることはできません。しかし、それらが遠ざけられるなら、理解することができます。あなたにできるなら、またはできるかぎり、遠ざけなさい、そして空間と時間から切り離された観念の中に保ちなさい、そのとき、あなたは空間の最大のものと空間の最小のものが何ら異ならないことを知覚するでしょう。またその時、あなたは、全世界の創造と全世界の中の個々のものの創造について、これは同じであり、被造物の中の多様性は、神人間の中に無限のものがあり、ここからその方から発出する最初のものである太陽の中に数え切れないものがあることから存在するようになり、これらの数え切れないものが創造された全世界の中に像のように存在するようになるという観念しか抱くことができないでしょう。
ここから、あるものと同一である他のものはどこにも存在することができず、また、すべてのものの変化があり、自然界の中では空間とともに、霊界の中では空間の外観の中に、目の前に一つのものが示されます——そして変化は、全般的なものであり、また個々のものです。
これらは「第一部」で示されたことです——例えば、
神人間の中で無限のものは区別された一つのものである(17-22番)。
全世界の中のすべてのものは神的な愛と神的な知恵により創造された(52, 53番)。
創造された全世界のすべてのものは神人間の神的な愛と神的な知恵の受け入れるものである(54-60番)。
神性は空間の中に存在しない(7-10番)。
神性は空間なしにすべての空間を満たす(69-72番)。
神性は最大のものの中と最小のものの中で同一である(77-82番)。

神の愛と知恵

155◀︎目次▶︎157

156 全世界とそのすべてのものの創造は、空間から空間へ、時間から時間へ、このように前進し、連続して行なわれた、と言われることはできませんが、永遠から、また無限から行なわれたと言えます。時間の永遠からでないのは、これが存在しないからであり、時間のものでない「永遠」からであるのは、これが神性と同一のものであるからです。空間の無限からでもないのは、これもまた存在しないからであり、空間のものでない「無限」からであるのは、それもまた神性と同一のものであるからです。
 これらが自然的な光の中にある思考の観念を超えていることは私にわかっています、しかし、霊的な光の中にある思考の観念は越えていません、というのは、これらの中に空間と時間に属するものは何もないから——それどころか、自然的な光の中にある観念をも完全に超えていません。なぜなら、空間の無限は存在しない、と言われるとき、このことをだれもが理性から肯定するからです。永遠も同様です、というのは、これは時間の無限であるから。
 「永遠の中で」と言われるなら、このことは時間から理解されます。けれども、「永遠から」と言われるなら、時間の観念が遠ざけられないなら、このことは理解されません。

神の愛と知恵

156◀︎目次▶︎158

自然界の太陽は、純粋な火であり、ここから死んでおり、自然は、その太陽から起源を導いているので、死んだものである

157 創造そのものは、少しも自然界の太陽に帰せられることはできず、すべてのものは霊界の太陽に帰せられます。自然界の太陽は完全に死んだものですが、霊界の太陽は生きているからです。というのは、神的な愛と神的な知恵から発出する最初のものであるから。死んだものは、それ自体からは何も働かず、働きかけられます——それゆえ、それ〔自然界の太陽〕に創造の何らかのものを帰することは、職人がつくる製品を、職人の手によって働かされる道具に帰するようなものとなります。
 自然界の太陽は純粋な火であって、それからは、いのちのすべてのものが切り離されています。しかし、霊界の太陽はその中に神的ないのちが存在する火です。自然界の太陽の火について、また霊界の太陽の火について、天使の観念は次のものです——
 神的ないのちは、霊界の太陽の火には内部に、しかし自然界の太陽の火には外部に存在する。
 このことから、自然界の太陽はそれ自体からではなく、霊界の太陽から発出する生きている力によって実行していることを知ることができる。それゆえ、霊界の太陽の生きている力が抑えられるかまたは取り去られるなら、自然界の太陽は崩壊する。
 ここから、太陽礼拝はすべての神礼拝で最低である、というのは、〔その礼拝は〕太陽そのもののようにまったく死んでいるから。それゆえ、その礼拝はみことばの中で「忌まわしいもの」と呼ばれる。

神の愛と知恵

157◀︎目次▶︎159

158 自然界の太陽は純粋な火であり、ここからそれは死んだものであるので、それゆえ、そこから発出する熱もまた死んだもの、同様にそこから発出する光も死んだものです——同じく、エーテルや空気と呼ばれる大気は、その内部にその太陽の熱と光を受け入れ、伝えますが、死んだものです。これらは死んだものであるので、下にあって地と呼ばれる地のすべてと個々のものもまた死んだものです。
 しかし、それでも、そのすべてと個々のものは、霊界の太陽から発出し、流れ出る霊的なもので囲まれています。それらにより囲まれていないなら、地は活動することも、また植物である役立ちの形を、動物であるいのちの形も生み出すことも、人間が存在するようになり、存続するための物質を供給することもできません。

神の愛と知恵

158◀︎目次▶︎160

159 さて、自然はその太陽から始まり、またすべてのものは自然的と呼ばれるものから存在するようになり、存続するので、自然はそのすべてと個々のものとともに死んだものであることがいえます。 自然は人間と動物の中で生きているように見えますが、それは付随し、活動させるいのちからです。

神の愛と知恵

159◀︎目次▶︎161

160 地をつくる自然の最も低いものは死んだものであり、それは、霊界の中のように、情愛と思考の状態にしたがって変化するものや多様なものではなく、不変で固定したものであるので、それゆえ、そこに空間があり、空間の距離があります。このようなものであるのは、創造はそこに終わり、そこに止まるからです。ここから、空間は自然に特有のものであることが明らかです。空間は、霊界の中のように、いのちの状態にしたがった空間の外観がそこにないので、それはまた死んだものと呼ぶことができます。

神の愛と知恵

160◀︎目次▶︎162

161 同様に時間も一定で、不変のものであるので、それもまた自然に特有のものです、なぜなら、一日の時間は変わらずに24時間であり、一年の時間は変わることなく365日と四分の一であるからです。これらの時の変化を生む光と影、そして暑さと寒さの状態そのものは、変わることなく繰り返します。毎日繰り返す状態は、朝、昼、夕、夜であり、毎年繰り返す状態は、春、夏、秋、冬です。年の状態もまた日の状態を一定して変化させています。
すべてのこれらの状態もまた、霊界の中のように、いのちの状態ではないので、死んだものです。なぜなら、霊界の中に不変の光と不変の熱があり、そして光と熱は天使のもとの知恵の状態と愛の状態に対応し、このことからこれらの状態は生きているからです。

神の愛と知恵

161◀︎目次▶︎163

162 これらから、すべてのものを自然に帰する者の愚かさを知ることができます。
 自然を選んで確信した者は、もはや心を自然の上に高揚させることを欲しないような状態を自分自身に導き入れ、それゆえ、彼らの心は上方を閉ざされ、下方に開かれ、このように自然的で感覚的になり、その人間は霊的に死んだものとなります。その時、身体の感覚から、あるいは世から感覚を通して吸収したようなものからしか考えないので、さらにまた心で神を否定します。
 その時、天界との結合が壊され、地獄との結合が行なわれるので、思考し、意志する能力だけが残されます。推理力から思考する能力と自由から意志する能力の二つの能力は、主によりそれぞれの人間にあり、取り去られません。それら二つの能力は、天使にあるのと等しく悪魔にもあります。悪魔はそれらを狂うことと悪を行なうことに適用しますが、天使は賢くなることと善を行なうことに適用します。

神の愛と知恵

162◀︎目次▶︎164

一つは生き、もう一つは死んでいる二つの太陽なしに、創造は存在しない

163 全世界は全般的に、霊的と自然的な二つの世界に分かれています。霊界には天使と霊たちがいます。自然界には人間がいます。二つのそれらの世界は外見に関してまったく似ていて、区別することができないようにも似ています、しかし、内面に関してはまったく似ていません。霊界にいる人間そのものは、述べられたように天使と霊たちと呼ばれますが、霊的です。霊的であるので、霊的に考え、霊的に話します——しかし、自然界の中にいる人間は自然的です、それゆえ、自然的に考え、自然的に話します。そして、霊的な思考や話しに自然的な思考や話しと共通するものは何もありません。
 このことから、霊的なまた自然的なこれら二つの世界は、何も同じようなものが存在できないほどにも、完全に互いの間は分かれていることが明らかです。

神の愛と知恵

163◀︎目次▶︎165

164 それで、二つのそれらの世界はこのように分かれているので、一つはそれからすべての霊的なものが存在し、もう一つはそれからすべての自然的なものが存在する二つの太陽があることが必要です——霊的なものはすべてその起源において生きており、自然的なものはすべてその起源から死んだものであり、そして太陽がそれらの起源であるので、一つの太陽は生きており、もう一つの太陽は死んだものであること——なおまた死んだ太陽自体は主により生きた太陽を通して創造されたことがいえます。

神の愛と知恵

164◀︎目次▶︎166

165 死んだ太陽が創造されたのは、最後のものの中に固定した一定で不変なすべてのものがあり、そしてここからそれらが永続し、持続して存在するようになるようにとの理由のためです——創造はこのように基礎づけられるしかありません。
 水陸から成る地球の中に、その上に、その周囲に、このような土台と支柱のようなものがあります、なぜなら、すべてのものがその中に終わり、またその上に休む最後の働きであるからです。さらにまた、続きの中で述べられるように、創造の目的である結果が生み出される子宮のようなものです。

神の愛と知恵

165◀︎目次▶︎167

166 すべてのものは主により生きている太陽によって創造され、死んだ太陽によっては何も創造されないことは、生きているものは死んだものをそれ自体に従順なものへとしむけ、それを目的である役立ちに向けて形作りますが、その逆ではないことから明らかにすることができます。
 「すべてのものは自然からである、いのちもまた自然から存在する」と考えることは理性を奪われた者にしかできません。彼はいのちとは何か知りません。自然はいのちを何ものにも配置することはできません、というのは、自然は本質的に不活発なものであるから。死んだものが生きているものに、すなわち、死んだ力が生きている力に、あるいは同じことですが、自然的なものが霊的なものに働くことは、まったく秩序に反しています、それゆえ、そのように考えることは健全な理性の光に反しています。
 確かに、死んだものが、すなわち、自然的なものが、多くの方法で外なる偶発的なものにより曲げられ、変えられることができます、しかしそれでも、いのちに働きかけることはできません。いのちが、ひき起された形の変化にしたがって自然の中へ働きかけるのです。このことは霊魂の霊的な働きの中への物質的な流入と同じであり、それはありえないので、存在しないことがよく知られています。

神の愛と知恵

166◀︎目次▶︎168

創造の目的は、すべてのものが創造者に戻り、結合されるようにと、最後のものの中で存在するようになることである

167 最初に目的についていくつか述べます。
 秩序の中で続く三つのものがあり、それらは最初の目的、中間の目的、最後の目的と呼ばれます。さらにまた目的・原因・結果と呼ばれます。
 それらの三つのものは、何らかのものであるために、すべてのものの中で共に存在しなくてなりません。なぜなら、最初の目的は中間の目的と同時に最後の目的なしに存在しません、すなわち、同じことですが、原因と結果なしに、ただ目的だけが存在することはないからです。同じく、原因からのものである目的なしに、またその中にあることになる結果なしに、原因だけも存在しません。同じく、原因とその目的なしに結果だけも存在しません。このようであることは、結果なしの目的が、すなわち、結果から分離した目的が何らかのものを存在するようにするものではなく、それゆえ、言葉としての存在でしかないことが考えられるなら、理解することができます。なぜなら、目的が実際に目的であるためには、終結しなければならず、終結は結果の中にあり、その中ではじめて目的であるので目的と呼ばれるからです。
 働きかける力またはある効果をひき起すものはそれ自体から存在するように見えますが、これは結果の中に存在することからの外観であり、結果から分離されるなら、一瞬のうちに消滅します。
 これらから、それら三つの目的・原因・結果は、何らかのものであるために、そのすべてのものの中に存在しなくてはならないことが明らかです。

神の愛と知恵

167◀︎目次▶︎169

168 さらに、目的は原因の中のすべてのもの、そしてまた結果の中のすべてのものであることを知らなければなりません——ここから、目的・原因・結果は、最初の目的、中間の目的、最後の目的と言われます。
 しかし、目的が原因の中のすべてのものであるために、目的からの何らかのものがなくてはならず、その原因の中になければなりません。そして結果の中のすべてであるために、原因を通して目的からの何らかのものがなくてはならず、その結果の中になければなりません——というのは、目的はただそれ自体の中だけに存在することはできず、その目的から存在するようになる何らかのものの中になくてはならず、それに目的自体のすべてのものに関して内在し、また働きかけて、存続するまでに、遂行することができるからです。
 最後の目的は最後のものの中に存続し、結果と呼ばれます。

神の愛と知恵

168◀︎目次▶︎170

169 創造された全世界の中に、その最大のものの中も最小のものの中にも、三つのもの、すなわち、目的・原因・結果があります。それらの三つのものが最大のものと最小のものの中にあることは、永遠からの主である創造者なる神の中に、それらの三つのものがあるからです。
しかし、無限なる者であり、(前の17―22番に示されたように)無限なる者の中の無限は区別された一つのものであるので、それゆえ、その方の中のそれらの三つのものもまた、その方の無限の中の三つものであり、区別された一つのものです。
ここから、その方のエッセ(存在)から創造され、また役立ちに関してその方の像として見られる全世界には、その方のすべてと個々のものの中にそれらの三つのものがあります。

神の愛と知恵

169◀︎目次▶︎171

170 全世界の目的、すなわち、創造のすべてのものの目的は、創造された全世界と永遠の創造者の結合があることです。それは主体がないなら存在しません。その主体の中に、神性そのものはそれ自体の中にあるかのように存在することができ、したがってその中に住み、とどまることができます。その主体は、その方の住まいと住居であるように、自分自身からのようにその方の愛と知恵を受け入れるものでなくてはなりません、このようにその主体はそれ自身を自分自身からかのように創造者へ高揚させられ、それ自身をその方と結合させられます。この相互のものなしに結合は存在しません。それらの主体とは人間であり、自分自身を自分自身からのように高揚させ、結合させることができます。
人間がこのような主体であること、また自分自身からのように神性を受け入れるものであることは、前にたびたび示しました。その結合によって、主はご自分で創造されたすべての働きの中に、現在されます——なぜなら、すべての被造物は最終的に人間のためのものであるからです。それゆえ、創造されたもののすべてのものの役立ちは、前に示されたように(65―68番)、段階を通して最後のものから人間へ、また人間を通して根源であられる創造者なる神へと上昇します。

神の愛と知恵

170◀︎目次▶︎172

171 創造は、目的・原因・結果の三つのものであるを通して、この最後の目的〔創造された全世界と永遠の創造者の結合〕へ絶えず進みます。すぐ前で述べたように創造者なる主の中にそれらの三つがあり、神性は空間なしのすべての空間に存在し(69―72番)、最大のものと最小のもの中で同じであるからです(77―82番)——そのことから、創造された全世界は最後の目的へと全般的に前進する中で、相対的に中間の目的であることが明らかです。というのは、創造者なる主により絶えず地球から役立ちの形が適切な順序で人間にまで上げられ、人間は身体に関してもまた地球から存在するからです——その後、人間は主からの愛と知恵を受け入れることによって高揚されます。そして、愛と知恵を受け入れるようにと、すべての手段が備えられています。そして、人間はただ欲するだけで、受け入れることができるようなものにつくられています。
そこで、述べられたことから、創造の目的は最後のものの中に存在するようになること、それはすべてのものが創造者へ戻り、そして結合があるためにである、と知ることができるますが、それでもなお全般的にでしかありません。

神の愛と知恵

171◀︎目次▶︎173

172 それらの三つのものである目的・原因・結果が被造物であるすべてと個々のものの中にあることは、最後の目的と呼ばれる結果のすべてが創造者なる主である「最初の者」から、その方と人間の結合である最後の目的まで、連続的な系列の中で、新たに最初の目的となることからもまた明らかにすることができます。
 最後の目的のすべてが新たに最初の目的となることは、効果をひき起すものが何もないような、そのように無活動で死んだものが存在しないことから明らかです。
 砂からでさえ、何かを生み出すための、このように何らかの効果をひき起すための助けとなるようなものが発散しています。

神の愛と知恵

172◀︎目次▶︎174

第三部

霊界に、自然界のように大気、水、地がある
しかし、前者は霊的である、けれども後者は自然的である

173 霊界のすべてと個々のものは霊的ですが、自然界のすべてと個々のものは自然的であるという相違があるだけで、霊界と自然界が似ていることは、前に言い、また著作『天界と地獄』で示しました。
これらの二つの世界は似ており、それゆえ、両方に大気、水と土があり、それらは全般的なものであって、それらによって、またそれらから、すべてと個々のものが無限の多様性をもって存在するようになります。

神の愛と知恵

173◀︎目次▶︎175

174 エーテルや空気と呼ばれる大気については、霊的と自然的の両方の世界の大気は、霊界では霊的であり、自然界では自然的であるという相違だけで、似ています。
 主の神的な愛と神的な知恵の発出する最初のものである太陽から存在するようになるので〔霊界の大気は〕霊的であり、主からそれ自体の中に愛である神的な火と知恵である神的な光を受け入れ、その両方のものを天使がいる天界へ伝え、またそこの最大のものにと最小のものに太陽の現在をもたらしています。
 霊的な大気は、太陽から生まれて、部分に分かれた実体、すなわち、最小の形です。また個々に太陽を受け入れているので、ここから太陽の火はこのように多くの実体または形に分割され、それらによりあたかも包まれ、そして包み込むことによって和らげられ、最後には天界の中の天使そして天界の下の霊たちの愛に釣り合った熱となります——太陽の光も同様です。
 自然界の大気も霊的な大気と似ていて、自然界の太陽から生まれた、部分に分かれた実体と最小の形であり、それらもまた個々に太陽を受け入れ、その火をそれ自体の中にたくわえ、そしてそれを和らげ、そして人間がいる地へ熱として伝えます。光もまた同様です。

神の愛と知恵

174◀︎目次▶︎176

175 霊的な大気と自然的な大気の間には相違があり、霊的な大気は神的な火と神的な光を、このように愛また知恵を受け入れるものです、というのは、それらを内部に、それ自体の中に保つからです——けれども、自然的な大気は神的な火と神的な光を受け入れるものではなく、前に示されたように本質的に死んだものである〔自然界の〕太陽自体の火と光の受け入れるものです。それゆえ、内部に、その中に、霊界の太陽からの何らかのものはありませんが、それでも、霊界の太陽から存在する霊的な大気により囲まれています。
 霊的な大気と自然的な大気の間にこの相違があることは天使的な知恵によります。

神の愛と知恵

175◀︎目次▶︎177

176 自然界と等しく霊界の中に大気があることは、天使と霊たちが自然界の人間と等しく呼吸し、なおまた等しく話し、そしてまた聞くことは次のことから明らかにすることができます。呼吸は、話すことや聞くことと同様に、空気と呼ばれる最も低い大気によって行なわれることから——なおまた、天使と霊たちが自然界の人間と等しく見ることは、視覚は空気よりも純粋な大気によらないなら存在しないことから——なおまた、天使と霊たちは自然界の人間と等しく、考え、情愛を感じ、そして思考と情愛はさらに純粋な大気によってでないなら存在しないことから——最後に、天使と霊たちの身体のすべては、外なるものも内なるものも、外なるものは空気の大気により、そして内なるものはエーテルの大気により、結びつきを保つことからです。
 これらの大気から、周囲から働く圧力と作用がないなら、内的と外的な身体の形が崩壊することは明らかです。
 天使は霊的であり、彼らの身体のすべてと個々のものは、大気によって形と秩序の結びつきを保つので、それらの大気は霊的であることがいえます。主の神的な愛と神的な知恵から発出する最初のものである霊的な太陽から生ずるので、霊的です。

神の愛と知恵

176◀︎目次▶︎178

177 自然界のように、霊界にもまた水があり、そしてまた地もあり、相違は霊界の水と地が霊的であることは、前に言われ、また著作『天界と地獄』の中に示してあります。それらは霊的であるので、霊的な太陽の熱と光を通して、ここからの大気によって、活動させられ、変えられます。これは、自然界の水と地が、その世界の太陽の熱と光を通して、その大気によって活動し、変えられるのとまったく似ています。

神の愛と知恵

177◀︎目次▶︎179

178 ここに大気、水、地が述べられていますが、それらの三つのものが全般的なものであるからであり、それらによって、またそれらから、すべてと個々のものが無限の多様性をもって存在するようになります。
 大気は活動的な力であり、水は〔能動と受動の〕中間の力であり、地は受動的な力であり、それらからすべての結果が存在するようになります。
 これらの三つのものがその連続する中で、このような力であることは、もっぱら太陽としての主から発出するいのちからであり、それがまた活動的であるようにするからです。

神の愛と知恵

178◀︎目次▶︎180

愛と知恵の段階があり、ここから熱と光の段階が、なおまた大気の段階がある

179 段階があることが、なおまた何であり、どんなものか知られないなら、創造されたすべての事柄の中に、このようにすべての形の中に段階があるので、続く事柄を理解することができません。それゆえ『天使的な知恵』〔本書〕のこの部分で段階について扱います。
 愛と知恵に段階があることは、三つの天界の天使から、はっきりと明らかにすることができます。第三の天界の天使は、愛と知恵で第二の天界の天使よりもまさっており、それで1諸にいることができません。愛と知恵の段階により、彼らは区別され、分離されます。ここから、低い天界の天使は、高い天界の天使のところへ上ることができません。彼らに上ることが許されても、その時、〔高い天界の〕天使を見ないし、彼らのもとにある何らかのものも見ません。
 彼らを見ないことの理由は、彼らの愛と知恵がより高い段階の中にあり、その段階は〔彼らの〕知覚を越えているからです——というのは、愛そのものと知恵そのものであられる神は人間であられるので、それぞれの天使は自分自身の愛と自分自身の知恵であり、知恵と一つである愛は人間の形の中に存在するからです。
 最も低い天界の天使が第三の天界の天使〔のもと〕に上るのを見ることが私に何回か与えられました。彼らがその場所にどうにかして行ったとき、私は、「だれも見えない」という彼らの不満を聞きました、それでも彼らの真ん中にいたのです。
 その後、彼らは、自分たちの目に見えなかったことは〔高い天界の〕愛と知恵が自分たちに知覚されることのできないものであったからであり、愛と知恵が天使を人間として見せることを教えられました。

神の愛と知恵

179◀︎目次▶︎181

180 愛と知恵の段階が存在することは、人間の愛と知恵と比べたときの天使の愛と知恵から、さらにはっきりと明らかです。
 天使の知恵は、比べれば言語に絶するものであることは、よく知られています。さらにまた、自然的な愛の中にいる人間にとって、理解できないものであることは、続きの中で見られます。
 言語に絶するものであり、理解できないものに見えることの理由は、高い段階の中にあるからです。

神の愛と知恵

180◀︎目次▶︎182

181 愛と知恵の段階があるので、熱と光の段階もまたあります。
 熱と光によって、天界の天使にあるような、人間の心のものである内的なものに関するような、霊的な熱と光が意味されます。なぜなら、人間に愛の熱に似たもの、また知恵の光に似たものがあり、それらは天使のものであるからです。
 天界の中では、天使たちの愛がどのようで、どれほど大きいかによって、彼らの熱もそのようであり、それほど大きいものとなっています。知恵に関して光も同様です——その理由は、前に示されたように、彼らのもとの愛は熱の中に、知恵は光の中にあるからです。
 地上の人間のもとでも同様ですが、それでも、天使はその熱を感じ、その光を見ています、けれども、人間は感じも、見もしないという相違があります。その理由は、人間は自然的な熱と光の中にいて、その間、ある種の愛の楽しさによる以外には霊的な熱を感じないし、真理の知覚による以外には霊的な光を見ないからです。
 それで、人間は、自然的な熱と光の中にいるとき、自分のもとの霊的な熱と光について何も知らず、このことは霊界からの知覚による以外に知られることはできないので、それゆえ、天使と彼らの天界がそれらの中にある熱と光について、特にここで述べます。
 この事柄に照らしが与えられるのは、ここでしかありません。

神の愛と知恵

181◀︎目次▶︎183

182 しかし、霊的な熱の段階は経験から述べることができません。霊的な熱が対応するものは愛であり、したがって思考の観念に落ち込まないからです。しかし、霊的な光の段階は述べることができます。光は思考のものであるのでその観念に落ち込むからです。
 それでも、光の段階から霊的な熱の段階が理解されることができます、というのは、同じ種類の段階の中にあるからです。
 そこで、天使がその中にいる霊的な光について、これを私の目で見ることが与えられました。
 高い天界の天使のもとの光は、雪の白光りによってでは決して述べることができないほどに、白く輝き、世の太陽の輝きによってでは決して述べることができないほどに、赤みがあります。
 一言でいえば、その光は地上の真昼の光に千倍もまさっています。
 しかし、低い天界の天使のもとの光は比較によっていくらか述べることができます、しかし、それでも私たちの世の最高の光にまさっています。
 高い天界の天使のもとの光は述べることができません、その理由は、彼らの光が彼らの知恵と一つとなっているからです。彼らの知恵は人間の知恵と比べて言語に絶するものであり、光もまたそのようです。
 これらのわずかなものから、光の段階が存在することを明らかにすることができます。知恵と愛は同様の段階の中にあるので、熱の段階も同様に存在することになります。

神の愛と知恵

182◀︎目次▶︎184

183 大気は、熱と光を受け入れ、容器として役立つものであるので、光と熱の段階と同数の、また愛と知恵の段階と同数の段階が大気にもある、といえます。
多くの大気があり、それらは互いに段階によって分かれていることが、霊界での多くの経験から、特に次のことから、私に明らかとなりました。低い天界の天使は高い天使の領域の中で呼吸することができず、生物が空気からエーテルの中に上げられるとき、あるいは生物が水から空気の中に上げられるときのように、あえいで呼吸しているように見えます。さらにまた、天界の下の霊たちが雲の中にいるように見えます。
多くの大気があり、それらが段階によって互いに分かれていることは、前に見られます(176番)。

神の愛と知恵

183◀︎目次▶︎185

二種類の段階、高さの段階と幅の段階がある

184 段階の知識は事柄の原因を明らかにするための、また原因に入るための鍵のようなものです。 その知識なしに、原因の何らかものをほとんど知ることができません。というのは、その知識なしに、両方の世界の対象と主体は、目で見られるようなもの以外の何ものも、それらに内在しないようにも単純なものに見えるから。そのときそれでも、その目で見られるようなものは、内に隠れているものに比べれば、何千ものものに対する一つ、それどころか何万ものものに対する一つのようなものです。
 明らかとなっていない内的なものは、段階が知られないなら、決して明らかとなることができません。というのは、段階によって、連続した段階によってでなく、分離した段階によって、外的なものは内的なものへ、またこれを通して最内部へと進むからです。
 連続の段階は、より重いものから軽いものへ、あるいは、より濃いものから希薄なものへの減少または低下の段階と呼ばれます。あるいはむしろ、より軽いものから重いものへ、あるいは、より希薄なものから濃いものへ増大または増加の段階であり、ちょうど光が影へ、または熱が冷たさへ向かうようなものです。
 しかし、分離の段階はまったく別ものであり、前のもの・後のもの・最後のもの、また目的・原因・結果のようなものです。これらの段階は、前のものはそれ自体によって存在し、後のものはそれ自体によって、最後のものはそれ自体によって存在しますが、それでも、ひとまとめにされて一つをつくるので、分離の段階と呼ばれます。
 太陽から地球にまで最高のものから最低のものまでこのような段階に分離された大気が存在します、すなわち、それらはエーテルと空気と呼ばれるものです。また、単純なもの、それらから集まったもの、そして再びこれらの集まったものからひとまとめにされて合成されたものと呼ばれるものが存在します。
 後者の段階は、区別して存在するようになっているので分離しており、高さの段階と理解されます。けれども、前者の段階は、連続的に増大するので連続しており、幅の段階と理解されます。

神の愛と知恵

184◀︎目次▶︎186

185 霊界と自然界の中に存在するようになるすべてと個々のものは、分離した段階と同時に連続した段階から、あるいは、高さの段階と幅の段階から共存しています。
 分離した段階から構成される次元は、高さと呼ばれます。連続した段階から構成される次元(広がり)は、幅と呼ばれます——目の視覚に対するそれらの位置の相対的な名称は変わりません。
 これらの段階の知識がないなら、三つの天界の間の相違について、そこの天使の愛と知恵の間の相違についても、彼らがいる熱と光の間の相違についても、それらを囲み、含む大気の間の相違についても、何も知ることはできません。
 なおまたこれらの段階の知識がないなら、人間の心のものである内的な能力の相違について、したがって、改心と再生に関するそれらの状態についても、何も知ることはできません。天使のもとと同様に人間のもとの身体のものである外的な能力の相違についても、何も知ることはできず、霊的なものと自然的なものの間の相違についても、ここから対応についてもまったく知ることはできません——それどころか、人間と獣の間のいのちの相違についても、また完全な獣と不完全な獣の間の相違についても、植物界の形の間、鉱物界の物質の間の相違についても、まったく何も知ることができません。
 これらから、これらの段階を知らない者は、何らかの判断から原因を知ることができないことを明らかにすることができます。単に結果を見て、それらから原因を判断し、そのことは多くの場合、結果によって連続するものからの推理から行なわれます——そのときそれでも、連続的なものによってではなく、分離的なものによって、原因から結果が生じるのです。というのは、原因と結果は別ものであるから。その相違は、前のものと後のものの間、または形作るものと形作られるものの間のようです。

神の愛と知恵

185◀︎目次▶︎187

186 分離した段階が何であり、どんなものであるか、連続した段階とのそれらの相違がどのようかであるか、さらによりよいものが理解されるように、例として天使の天界をあげます。
 三つの天界があり、それらは高さの段階によって分離しているので、ある天界は他の天界の下にあります。それらの間では、主から天界を通って秩序正しく最も低い天界にまで行なわれる流入による以外に伝達はなく、また逆にも伝達しません。
 しかし、それぞれの天界は、高さの段階によってでなく、幅の段階によって、それ自体によって分離しています。真ん中に、すなわち、中心にいる者は、知恵の光の中にいます、しかし、周辺から辺境にまで、そこにいる者は知恵の陰の中にいます——このように、知恵は光が陰へと減少するように無知にまでも減少し、このことは連続によって行なわれます。
 人間のもとでも同様です——彼らの心のものである内的なものは、天使の天界と同数のそれだけの数の段階に分かれており、それらの段階のあるものは他のものの上にあります。それゆえ、人間の心のものである内的なものは、分離の段階によって、すなわち、高さの段階によって分離しています。
 ここから、人間はその知恵の段階にしたがって、最低の段階の中に、さらにより上の段階の中に、そしてまた最高の段階の中にも、いることができます。最低の段階の中にだけいるとき、上の段階は閉ざされており、主から知恵を受け入れるに応じて開かれます。さらにまた人間のもとには天界の中のように、連続の段階、すなわち幅の段階があります。
 人間が天界に似ているのは、彼が主からの愛の中と知恵の中にいるかぎり、その心の内的なものに関して最小の形の天界であるからです。人間がその心の内的なものに関して最小の形の天界であることは、著作『天界と地獄』(51―58番)に見られます。

神の愛と知恵

186◀︎目次▶︎188

187 これらのわずかなものから、分離の段階または高さの段階について何かを知らない者は、人間の状態について何らかのものを、その改心と再生に関して、それらは主からの愛と知恵の受け入れることによって、またその時、彼の心の内的な段階が秩序正しく開かれることによって行なわれることを知ることができず、主から天界を通しての流入について、秩序の中で創造されたその秩序について何らかのものも知ることができないことを明らかにすることができます。というのは、だれかが、それらについて分離の段階または高さの段階からでなく、連続の段階または幅の段階から考えるなら、その時、だれもそれらについて結果からしか見ることができず、原因からは何も見ないからです。結果だけから見ることは、〔感覚や外観からの〕欺きから見ることであり、ここから誤りが次から次へと続きます。それらは推論を通して、ついに憎むべき虚偽が真理と言われるようにまで増大します。

神の愛と知恵

187◀︎目次▶︎189

188 これまで分離の段階または高さの段階について何が知られてきたか、私は知りません。連続の段階、すなわち、幅の段階についてだけが知られています。それでも、両方の種類の段階の知識なしに、何らかの原因は真理の中でよく知られるようになることはできません。
 それゆえ、「この部」の全部でそれらについて扱います——なぜなら、原因が明らかにされ、それらから結果が見られ、このように暗やみが追い散らされることがこの小著の目的であるからです。教会の人間は、神、主について、また一般的に霊的なものと呼ばれる神性についてその暗やみの中にいます。
 私は次のことを話しに出すことができます。
 天使は、「地球上の暗やみのために、どこにもほとんど光を見ない。人間は欺きを捕え、それらを確信し、そのことによって虚偽にまた虚偽を増し加えている。それら確信するために虚偽からと虚偽化した真理から推論によって、原因について暗やみの中にいるために、また真理について無知のために、追い散らされることができないようなものを見つけ出している」と言って、悲しみの中にいます。
 「仁愛から分離した信仰について、その信仰によっての義認について確信している。そのうえ、なおまた、神について、天使と霊たちについての観念について、何が愛と知恵か無知である」と、このことを最大に嘆いています。

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188◀︎目次▶︎190

高さの段階は同質であり、目的・原因・結果のように、あるものは他のものから連続している

189 幅の段階または連続の段階は、光が影へ、熱が冷たさへ、硬さが柔らかさへ、濃いものが薄いものへ、厚いものが薄いものへ、その他、そのような段階であり、これらの段階は感覚と目に見える経験からよく知られています。高さの段階または分離の段階はこのようには知られていません、それゆえ、これらについて「この部」で特に扱います、なぜなら、分離の段階の知識なしに、原因は知られることができないからです。
 目的・原因・結果が、前のもの・後のもの・最後のもののように順序で続くこと、なおまた目的は原因を生み、原因を通して目的が存在するようになるために結果を生むことは、それらについて他の多くのことから確かによく知られています——しかしながら、それらを知っても、適用を通して、存在するものへと生かすことがないなら、単に観念的なことを知ることです。形而上学からの分析である思考の中にある間を除いて、それらは〔心に〕長くとどまりません。
 ここから、分離の段階を通して、目的・原因・結果と進むにしても、世の中で知れらないなら、やはりそれらの段階についてほとんど知られません。
 というのは、単なる観念的な知識は、ある種の空気のようであり、飛び去ってしまうからです——しかし、観念的なものが世の中のものに適用されるなら、それは、地上で目で見られるもの、記憶の中にとどまるようになります。

神の愛と知恵

189◀︎目次▶︎191

190 世に存在するすべてのものは、それらについて三つの次元(広がり)が属性づけられ、高さのまたは分離した段階から構成された合成されたものと呼ばれます。
 しかし、例で説明します。
 目からの経験から、人間の身体の中のそれぞれの筋肉は最小の繊維から構成され、これらの合成された小束が運動繊維と呼ばれる大きな繊維となり、これらの束が合成されたものとなって存在し、筋肉と呼ばれることはよく知られています。
 神経も同様です——最小の繊維から糸のように見える大きなものが織り交ぜられ、これらを集めたものから神経が織り交ぜられます。他の織り交ぜられたもの、結び付けられたもの、集められたものも同様であり、それらに器官や内臓があります。というのは、これらは、同様の段階を通していろいろに形成された繊維と管から合成されたものであるからです。
 植物界のすべてと個々のもの、鉱物界のすべてと個々のものも同様です——木の中に、三重の秩序の中で、糸の織り交ぜられたものがあります。金属と石の中にも、三重の秩序の中で、部分からの塊となったものがあります。
 これらから、分離した段階がどんなものであるか、すなわち、一つのものからもう一つのもの、またもう一つものを通して第三のものが存在し、それが合成されたものと呼ばれること、また、それぞれの段階は他のものから分離していることが明らかです。

神の愛と知恵

190◀︎目次▶︎192

191 これらから目に見えないものにも結論することができます。これらと同様のものであるからです。例えば、脳の中の思考と情愛の容器と住まいである有機的な実体、大気、熱と光、また愛と知恵です。というのは、大気は熱と光の容器であり、熱と光は愛と知恵の容器であるから。それゆえ、大気に段階があり、さらにまた同様に熱と光、また同様に愛と知恵に段階があります——というのは、前者に存在する以外の関係は後者にもないからです。

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191◀︎目次▶︎193

192 それぞれの段階が同質であることは、すなわち、同じ性質と本質であることは、今、述べられたことから明らかです。
 運動筋肉の繊維の最小のもの、大きいもの、最大のものは同質です。神経線維の最小のもの、大きいもの、最大のものは同質です。木の糸繊維は最小のものからその合成されたものまで同質です。同様に、各種類の石と金属の部分は同質です。思考と情愛の容器と住まいである有機的な実体は、それは脳であって、最も単純なものから全般的な集まりまで同質です。大気は純粋なエーテルから空気まで同質です。大気の段階にしたがった系列の中で熱と光の段階は同質です。ここから、愛と知恵の段階もまた同質です。
 同じ性質と本質でないものは、異質なものであって、同質なものと調和しません。したがって、異質なものと分離した段階を共有することはできず、単に同じ性質と本質である同質のものと分離した段階を共有します。

神の愛と知恵

192◀︎目次▶︎194

193 これらのものは、順序正しく、目的・原因・結果のようなものであることが明らかです。なぜなら、最小のものである最初のものは、中間のものによってその原因を、最後のものによってその結果をなし遂げるからです。

神の愛と知恵

193◀︎目次▶︎195

194 それぞれの段階は、他のものから固有の被いによって分離され、すべての段階は共に全般的な被いによって分離していること——全般的な被いは、順序正しく、内的なものや最内部のものと共になっていることを知らなければなりません。
 ここから、すべての結合と調和する活動があります。

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194◀︎目次▶︎196

最初の段階は、続く段階のすべてのものの中のすべてのものである

195 この〔見出しの〕理由は、それぞれの主体とそれぞれの物の段階が同質であるからです。そして最初の段階から生まれているので、同質です——なぜなら、それらの形成は、第一の段階は束ねられたものまたは塊状集積のものによって、要するに、集まりによって、第二の段階を、これによって第三の段階を生むようなものであるからです。そしてそれぞれの段階を他の段階から〔周囲を〕取り巻く被いによって分離します。
 ここから、最初の段階は続くものの中で主要なものともっぱら支配するものであることが明らかです。それゆえ、最初の段階は続く段階のすべてのもの中のすべてのものです。

神の愛と知恵

195◀︎目次▶︎197

196 段階は互いにこのようなものである、と言われますが、その段階の中での実体がこのようなものであることを意味します。
 段階によって話すことは観念的に話すことであって、それは普遍的であり、その種類の段階の中のそれぞれの主体または物事にそのように適用されます。

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196◀︎目次▶︎198

197 〔このことは〕前の章の中に列挙されているすべてのことに適用されることができます。例えば、筋肉、神経、植物界と鉱物界の両方の物質と部分、人間の中の思考と情愛の対象である有機的な主体、大気、熱と光、愛と知恵に適用できます。
 すべてのものの中で、最初のものがひとえに続くものの中で支配しています、それどころか、それらの中で唯一のものです。それらの中で唯一のものであるので、それらの中のすべてです。
 このようであることは、よく知られている次のものからもまた明らかです、すなわち、目的は原因のすべてであり、原因を通して結果のすべてであることです。それゆえ、目的・原因・結果は、最初の目的・中間の目的・最後の目的と言われます。なおまた、原因の原因は原因となった原因です。原因の中に本質的なものは目的以外になく、運動の中に本質的なものは努力以外にありません——なおまた、唯一の実体であるものは本質的な実体です。

神の愛と知恵

197◀︎目次▶︎199

198 これらから、神性は、本質的に実体です、すなわち唯一の単独のものであり、それから創造されたすべてと個々のものが存在することがはっきりと見られます。このように、神は、「第一部」に示されているものにしたがって、全世界の中のすべてのすべてです——例えば、
神的な愛と神的な知恵は実体と形であること(40―43番)、
神的な愛と神的な知恵は本質的に実体と形であること、そのように本質と唯一のものであること(44―46番)、
全世界のすべてのものは神的な愛と神的な知恵により創造されたこと(52―60番)、
ここから、創造された全世界はその方の映像であること(61―65番)、
〔また「第二部」には〕主だけが天使のいる天界であられること(113―118番)です。

神の愛と知恵

198◀︎目次▶︎200

すべての完全性は、段階とともに、段階にしたがって、増大し、のぼる

199 幅の段階と高さの段階の二種類の段階があることは前に示しました(184―188番)。幅の段階は、光が陰へ、または、知恵が無知へ向かうようなものです。
後者の段階については、上昇する、または、下降すると言われます、なぜなら、高さの段階であるから。前者の段階については、増大する、または、減少すると言われます、なぜなら、幅の段階であるから。
前者と後者は、何も共通なものがないほどに大きく相違しています。それゆえ、区別して知覚されるべきであり、決して混同されてはなりません。

神の愛と知恵

199◀︎目次▶︎201

200 すべての完全性は段階とともに、段階にしたがって増大し、上昇することは、すべての属性はその主体に従い、完全性と不完全性は一般的な属性であるからです。というのは、いのち・力・形について属性づけられるからです。
 「いのちの完全性」は愛と知恵の完全性です。意志と理解力はそれら〔愛と知恵〕の容器であるので、いのちの完全性もまた意志と理解力の完全性であり、ここから情愛と思考の完全性です。霊的な熱は愛の容器であり、霊的な光は知恵の容器であるので、これらの完全性もまた、いのちの完全性に結び付けられることができます。
 「力の完全性」は、いのちによって活動させられ、動かされるすべてのものの完全性ですが、それでも、それらの中にいのちはありません。大気はこのような力の実現化されたものです。そしてまた人間のもとの、なおまたすべての種類の動物のもとの内的また外的な有機的な物質もまたこのような力です。というのは、自然界の中のすべてのものはこのような力であり、それらはそこの太陽から間接的にまた直接的に活動を定められるからです。
 「形の完全性」は力の完全性と一つとなっています、なぜなら、力がどんなものであるかによって形もそのようなものであるからです。そのとき、形は実体です、けれども、力はそれらの活動であるという単なる相違があります。それゆえ、完全性の似た段階が両方にあります。
 力と同時ではない形もまた段階にしたがって完全です。

神の愛と知恵

200◀︎目次▶︎202

201 いのち・力・形の完全性について、幅の段階あるいは連続した段階にしたがって増大または減少します、それらの段階は世の中でよく知られているので、述べないでおきますが、いのち・力・形の完全性について、高さの段階あるいは分離した段階にしたがって上昇するかまたは下降します、それらの段階は世の中でよく知られていないので、述べます。しかし、これらの段階にしたがって、どのように完全性が上昇し、下降するかは、自然界の中の目に見えるものにより知ることはほとんどできませんが、霊界の中の目に見えるものによりはっきりと知ることができます。
 自然界の中の目に見えるものだけからでも、内部が眺められれば眺められるほどますます驚くべきものが出てくることが明らかにされます——例えば 例として、目、耳、舌、筋肉、心臓、肺、肝臓、膵臓、腎臓、他の内臓の中に、なおまた種子、果実、花の中に、そしてまた金属、鉱物、石の中に見られるものです。これらやそれらの中に、内部が眺められれば眺められるほどますます驚くべきものが出てくることがよく知られています——しかしながら、それらから、それらの内部の完全性が高さ段階のまたは分離した段階にしたがっていることは、よく知られるようにはほとんどなっていません。そのことはこれらの段階についての無知で隠されています。しかし、同じ段階が霊界の中でははっきりと現われるので、というのは、その世界の全部ものは、最高のものから最低のものまで、その中に区別され、分離して存在するからであり、それゆえ、このことから、それらの知識を取り入れることができます——それで、それらから、力と形の完全性について、それらは自然界の中でも同様の段階の中にある、と結論することができます。

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201◀︎目次▶︎203

202 霊界の中に高さの段階にしたがって秩序づけられた三つの天界があります。最も高い天界の中の天使は、中間の天界の天使にまさるすべての完全性の中にいます。中間の天界の中の天使は、最も低い天界の天使にまさるすべての完全性の中にいます。完全性の段階は、最も低い天界の天使が中間の天界の天使の完全性の最初の敷居に上がることはできず、これらの者もまた最も高い天界の天使の完全性の最初の敷居に上がることはできないようなものです。このことは背理に見えますが、それでも真理です。理由は、分離した段階にしたがって交わっており、連続した段階にしたがっていないからです。
 私は経験によって、高い天界と低い天界の天使の間に、情愛と思考、またここからの話しに、何も共通なものがないといった相違があること、また伝達はただ対応を通して行なわれ、それらは主の直接の流入によって、また最も高い天界を通して最も低い天界の中への間接的な流入によって、すべての天界の中に存在するようになっていることを知りました。これらの相違は、このようなものなので、自然的な言葉で表現すること、したがって述べることができません。というのは、天使の思考は霊的であるので、自然的な観念の中に落ち込まないからです。ただ彼らの言葉、声、書かれたものによって、彼ら自身により表現され、述べられることができ、人間によってはできません。これらから、天界の中では言語に絶するものが聞かれ、見られる、と言われるのです。
 これらの相違は、次のことによって、いくらか理解されることができます——最も高い、すなわち、第三の天界の天使の思考は目的の思考であり、中間の、すなわち、第二の天界の天使の思考は原因の思考であり、そして最も低い、すなわち、第一の天界の天使の思考は結果の思考であることです。
 目的から考えることと目的について考えることは別であること、さらに、原因から考えることと原因について考えることは別であること、そのようにまた、結果から考えることと結果について考えることは別であることを知らなければなりません。
 低い天界の天使は原因や目的について考えますが、高い天界の天使は原因や目的から考える原因や目的から考え、このことは高い知恵に属します、原因や目的について考えることは低い知恵に属します。目的から考えることは知恵に、原因から考えることは理解力に、結果から考えることは知識に属します。
 これらから、すべての完全性は段階とともにまたそれらにしたがって上昇し、下降することが明らかです。

神の愛と知恵

202◀︎目次▶︎204

203 人間の意志と理解力に属する内的なものは、段階に関して天界と似ているので、というのは、人間はその心のもの内的なものに関して最小の形の中の天界であるから、それゆえ、その完全性もまた似ています。しかし、それらの完全性は人間が世の中に生きるかぎり、だれにも見られません、というのは、その時、最も低い段階の中にいて、最も低い段階から高い段階を知ることはできないから。しかし、死後、知られます——なぜなら、その時、人間は彼の愛と知恵に対応する段階の中にやって来るから、というのも、その時、天使になり、自分の自然的な人間にとって言語に絶するもの考え、話すからです。というのは、その時、彼の心のすべてのものは単一の関係の中になく、三重の関係の中に高揚されているからです。
 高さの段階は三重の関係の中にありますが、幅の段階は単一の関係の中にあります。しかし、その高さの段階の中に、世で真理の中にいて、それらを生活に適用させた者以外は上昇しませんし、高揚されません。

神の愛と知恵

203◀︎目次▶︎205

204 前のものは後のものよりも完全性が少ないように、すなわち、合成されたものよりも単純なもののほうは完全性が少ないように見えますが、それでも、前のものから後のものが、すなわち、単純なものから合成されたものが存在するので、それらのもののほうがさらに完全です。理由は、前のもの、すなわち、単純なものはありのままであり、いのちの欠けている実体や物質で隠されることが少なく、さらに神的なもののようであるからです。それゆえ、主のおられる霊界の太陽のさらに近くにあります。というのは、完全性そのものは主の中あり、またここからその方の神的な愛と神的な知恵の最初の発出するものである太陽の中にあるから。ここから、それらの中にあるものは最も近くのものから、このようにして順に最も低いものにまで続き、遠くにあるほど、さらに不完全です。
 このような卓越した完全性が前のものと単純なものの中になかったなら、人間は、どんな動物も、種から存在するようになり、またその後、存続することはできませんでした。木や潅木の種も、成長し、繁殖することはできません——というのは、前のものはすべて前のものであればあるほど、また単純なものはすべて単純であればあるほど、さらに完全であるので、危害に損なわれないからです。

神の愛と知恵

204◀︎目次▶︎206

連続的な秩序の中で最初の段階は最高の段階となり、第三の段階は最も低い段階となる。しかし、同時的な秩序の中で最初の段階は最内部となり、第三の段階は最外部となる

205 連続的な秩序と同時的な秩序があります。
 連続的な秩序は、これらの段階の最高のものから最低のものまで、すなわち、頂上から底辺までです。天使の天界はこの秩序の中にあります。そこの第三の天界は最も高いもの、第二の天界は中間のもの、そして第一の天界は最も低いものです。それらの位置は、それら自身の間でこのようなものです。
 そこの天使のもとの愛と知恵、なおまた熱と光、そのようにまた霊的な大気の状態は、同様の連続的な秩序の中にあります。そこの形と力のすべての完全性は同様の秩序の中にあります。
 高さの段階、すなわち、分離した段階が連続的な秩序の中にある時、それらは三つの段階に分割された柱に例えられることができ、それらによって上り、下ることが行なわれます。その上の階には最も完全なものと最も美しいものがあります。中間の階には、完全さと美しさで劣ったものがあります。けれども、最も低い階には、完全さと美しさでさらに劣ったものがあります。
 しかしながら、同様の段階から構成される同時的な秩序の外観は異なっています。
 この中に連続的な秩序の最も高いものが、それらは言われたように、最も完全なものと美しいものが最内部の中にあり、より低いものは中間部の中に、最も低いものは周囲部の中にあります。
 それらはこれらの三つの段階から構成された固体の中にあるようです。その真ん中に、すなわち、中心に最も微細な部分があり、その周囲に微細さで劣る部分が、また周辺となっている最外部に、それは劣る部分から合成された部分であり、したがってさらに粗雑な部分があります。
 これは平面の中に沈みこんだ柱のようです。その最も高いものが最内部となり、中間のものが中間部、そして最も低いものが最外部となっています。

神の愛と知恵

205◀︎目次▶︎207

206 連続的な秩序の最も高いものは同時的な秩序の最内部となり、そして最も低いものが最外部となるので、それゆえ、みことばの中で「上のもの」によって内なるものが、「下のもの」によって外なるものが意味されます。「上方へ」と「下方へ」によっても、さらに「高い」と「深い」によっても同様です。

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206◀︎目次▶︎208

207 すべての最終的なものの中には同時的な秩序における分離の段階があります。
 すべての筋肉の中の運動の繊維、すべての神経の中の繊維、さらにすべての内臓と器官の中の繊維と小管は、このような秩序の中にあります。それらの内部に最も単純なものが存在し、それらは最も完全です。最外部はそれらから合成されたものです。
 それらの段階の同じ秩序が、すべての種の中に、すべての果実の中にも、さらにまたすべての金属と石の中にあります。これらの部分はそれらから全体ができているといったものです。
 最内部・中間部・最外部の部分は、それらの段階の中にあります。というのは、連続的な合成物、すなわち、単純なものから結び付けられ、集積されたものであり、単純なものはそれらの実体と物質の最初のものであるからです。

神の愛と知恵

207◀︎目次▶︎209

208 一言でいえば、すべての最終的なものの中に、したがって、すべての結果の中に、このような段階があります——なぜなら、すべての最終的なものは前のものから、またそれらはその最初のものから構成され、そして、すべての結果は原因から、原因は目的から構成され、また(前に論証されたように)目的は原因のすべてであり、原因は結果のすべてであり、そして、目的は最内部を、原因は中間部を、また結果は最終的なもの(最外部)をつくるからです。
愛と知恵、熱と光、さらに人間のもとの情愛と思考の有機体の形の段階も同様であることは、続きの中で見られます。
連続的な秩序と同時的な秩序の中のこれらの段階の系列について、『新しいエルサレムの教え 聖書について』の中でもまた扱われており(38番、その他の箇所)、みことばのすべてと個々のものの中に同様の段階が存在することが示されています。

神の愛と知恵

208◀︎目次▶︎210

最後の段階は、前の段階の合成物、容器、基礎である

209 「この部」で述べられている段階の教えは、これまで、二つの世界の中に存在するいろいろなものによって説明されました。例えば、天使がいる天界の段階によって、彼らのものと熱と光の段階によって、大気の段階によって、人間の身体の中の、さらにまた動物界と鉱物界の中のいろいろなものによってです。
しかし、その教えはさらに拡張されます——それは単に自然的なものだけでなく、市民的なもの、道徳的なもの、霊的なもの、またそれらのすべてと個々のものにまで拡張されます。
段階の教えがこのようなものにまでも拡張されることの理由は二つあります。
「第一」は、何らかのものを属性づけることのできるすべてのものの中に、目的・原因・結果と呼ばれる三重の実在があり、それら三つのものは互いに高さの段階にしたがっているからです。
「第二」は、すべての市民的なもの、道徳的なもの、霊的なものは実体から抽象された何らかのものではなく、実体であるからです。なぜなら、(前の40―43番に示されたように)愛と知恵は抽象的なものではなく、実体であるように、市民的なもの、道徳的なもの、霊的なものと呼ばれる同様なすべてのものは、そのようなものであるからです。
これらは確かに実体から抽象されて考えることができますが、それでも、本質的に抽象的なものではありません。例として、情愛と思考、仁愛と信仰、意志と理解力があります、というのは愛や知恵と同様であるから。すなわち、これらは実体である主体なしに存在できず、主体の状態または実体の状態であるからです。それらが変化すること、それらが変化を見せることは、続きの中で見られます。
実体によって形もまた意味されます、なぜなら、形なしの実体は存在しないからです。

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209◀︎目次▶︎211

210 意志と理解力、また情愛と思考、さらに仁愛と信仰について、それらの主体である実体から抽象して考えることができ、考えたことから、これらのものは実体の状態、すなわち、形の状態であるという正しい観念が滅ぶようになりました——まったく感覚と活動のようであり、それらは感覚と運動の器官から抽象されたものではありません。それらから抽象または分離したものは、想像の所産でしかありません。というのは、目のない視覚、耳のない聴覚、舌のない味覚などのようなものであるからです。

神の愛と知恵

210◀︎目次▶︎212

211 市民的な、道徳的な、また霊的なすべてのものは、自然的なものと同様に連続した段階によってだけでなく、分離した段階によってもまた進みます。分離した段階の進行は、原因への目的の進行、結果への原因の進行のようであるので、私は、最終的な段階は前の段階の合成物、容器、基礎であるという現在の主題を前述のことによって、すなわち、愛と知恵、意志と理解力、情愛と思考、そして仁愛と信仰に属するものよって説明し、証明します。

神の愛と知恵

211◀︎目次▶︎213

212 最終的な段階は前の段階の合成物、容器、基礎であることは目的と原因の結果への進行からはっきりと明らかです。
 結果が原因と目的の合成物、容器、基礎であることは、照らされた理性により理解されることができます。しかし、目的はそのすべてのものとともに、また原因はそのすべてのものとともに、実際に結果の中にあること、そして結果はそれらの完全な合成物であることは、そのようにはっきりと理解することはできません。
 このようであることは、「この部」の中で言われたことから、特に、あるものは他のものから三重の系列の中にあること、また結果はその最終的なものの中の目的でしかないことから明らかにすることができます。最終的なものは合成物なので、最終的なものは容器であり、基礎でもあるということになります。

神の愛と知恵

212◀︎目次▶︎214

213 愛と知恵については——愛は目的であり、知恵は手段となる原因であり、役立ちは結果であり、役立ちは知恵と愛の合成物、容器、基礎です。そして役立ちは、愛のすべてと知恵のすべてが実際に内在するような合成物とそのような容器であり、それらが同時に存在するものです。
しかし、前に言われ、示されていることにしたがって(189―194番の章の中に)、愛と知恵のすべてのものは、同質で、調和するものであって、役立ちに内在することを十分に知らなければなりません。

神の愛と知恵

213◀︎目次▶︎215

214 情愛・思考・行為もまた同様の段階の系列の中にあります。すべての情愛は愛に、思考は知恵に、行為は役立ちに関係するからです。
 仁愛・信仰・善の働きも同様の段階の系列の中にあります。なぜなら、仁愛は情愛のもの、信仰は思考のもの、また善の働きは行為のものであるからです。
 意志・理解力・実践もまた同様の段階の系列の中にあります。なぜなら、意志は愛のもの、ここから情愛のもの、理解力は知恵のもの、ここから信仰のもの、実践は役立ちのもの、ここから働きのものであるからです。
 そこで、知恵と愛のすべてのものは役立ちに内在するように、思考と情愛のすべてのものは行為に内在し、信仰と仁愛のすべてのものは善の働きに内在します、等々。しかし、すべてのものは、同質、すなわち、調和しています。

神の愛と知恵

214◀︎目次▶︎216

215 それぞれの系列の最終的なものである役立ち、行動、働き、実践が前のものすべての合成物と容器であることは、まだ知られていません。
 役立ち、行動、働き、実践の中には、運動の中にあるものようなもの以外に多くのものが内在するようには見えませんが、それでも、前のものすべてがそれらに実際に、多く、何も欠けたものがないようにも内在します——それらの中に、ぶどう酒がその容器の中に、家具がその家の中にあるように含まれています。
 これらが見られないのは、単に外的に眺められ、外的には単なる行動と運動に見られるからです。
 動く腕と手の場合のようであり、そのどんな運動にも千の運動神経が共同して作用していること、千の運動神経にその運動神経を刺激する千の思考と情愛が対応していることに気づきません。それらは内部で働き、身体の何らかの感覚に見られないからです。
 意志からの思考を通してでないなら、身体の中でまたは身体を通して何も行なわれないことはよく知られています。意志と思考の二つとも働いているので、そのすべてと個々のものが行動に内在しないことはありえず、分離されることもありえません。
 ここから、意図と呼ばれる人間の意志の思考について、それは他の者により行為または働きから判断されます。
 天使は、人間の行為または働きだけから、行なう者の意志と思考のすべてを、第三の天界の天使は意志から目的を、第二の天界の天使は目的を行なう原因を、知覚し、見ることが私によくわかるようになりました。
 みことばの中の「働き」と「行為」がしばしば命じられており、そして人間はそれら〔働きと行為〕から知られる、と言われているのはここからです。

神の愛と知恵

215◀︎目次▶︎217

216 天使の知恵によれば、意志と理解力、すなわち、情愛と思考、なおまた仁愛と信仰は、可能である時に、それ自体に働きあるいは行為を与えるか、それを伴わないなら、過ぎ去る空気のようなもの、または空気の中の映像のようなものにすぎず、それらは失われてしまいます。それらは人間がそれらを働き、行なう時、始めて人間のもとにとどまり、彼のいのちに属するのものとなります。
 その理由は、最終的なものは前のものの合成物、容器、基礎であるからです。
 このような空気や映像は善の働きから分離した信仰であって、実践することのない信仰と仁愛はこのようなものです。その違いはただ、信仰と仁愛を心に置く者は、善を行なうことを知り、欲することができるけれども、仁愛から分離した信仰の中にいる者にはできないということだけです。

神の愛と知恵

216◀︎目次▶︎218

高さの段階は、その最終的な段階の中で完全なもの、力あるものとなっている

217 これまでの章の中で、最終的なものの段階は前のものの段階の合成物や容器であることが示されました。
 ここから、前のものの段階はその最終的なものの中に満ちていることがいえます。というのは、その結果の中にあり、すべての結果には原因が満ちているからです。

神の愛と知恵

217◀︎目次▶︎219

218 上昇し、下降するそれらの段階は、前の段階や後の段階、なおまた高さの段階や分離した段階とも呼ばれ、その最終的な段階の中にその活力があることは、前に確証することに利用された感覚で捉えられるものと知覚できるもののすべてのものから証明されることができます。しかし、私は、ただ死んだ主体と生きた主体の中のコナトゥス(努力)・力・運動によって、それらを証明します。
 コナトゥスが、それ自体からは何もなし遂げず、それに対応する力によって、また力によって運動をひき起すことはよく知られています。ここから、コナトゥスが力の中のすべてのもの、力によって運動の中のすべてのものです——運動がコナトゥスの最終的な段階であり、それらによってその力を遂行するからです。
 コナトゥス・力・運動は高さの段階にしたがってしか結合されず、その結合は連続によるのではなく、分離しているので、対応によっています。なぜなら、コナトゥスは力ではなく、力も運動ではないからです。しかし、力はコナトゥスから生み出されます、というのは、力は刺激されたコナトゥスであり、運動は力によって生み出されるから——それゆえ、何らかの活力はコナトゥスだけの中にも、力だけの中にもなく、それらの生み出す運動の中にあります。
 このようであることは、自然の中の感覚で捉えられるものと知覚できるものへ適用することよって説明されていないので、今なお疑わしいように見えますが、それでも、活力の中のそれらの進行はこのようなものです。

神の愛と知恵

218◀︎目次▶︎220

219 しかし、生きたコナトゥス(努力)・生きた力・生きた運動へ、それらを適用してみます。
 生きた主体である人間の中のコナトゥスは、理解力に結合した彼の意志です。人間の中の生きた力は内的にその身体を構成し、そのすべてのものの中にいろいろな方法でつながった運動繊維があります。そして人間の中の生きた運動は活動であり、それは理解力に結合した意志により、それらの力を通して生み出されます。というのは、意志と理解力に属する内的なものは、最初の段階をつくり、身体に属する内的なものは、第二の段階を、そしてそれらの合成物である全身は、第三の段階をつくるからです。
 心に属する内的なものは、身体の中の力を通してでないなら何も活力がないこと、力は身体の活動そのものを通してでないなら活力の中にもないことは、よく知られています。これらの三つのものは連続によってではなく、分離によって働き、分離によって働くことは対応によって働くことです。
 心に属する内的なものは、身体の内的なものに対応します。身体の内的なものは、その外的なものに対応し、それを通して活動が存在するようになります——それゆえ、二つの前のものは身体の外的なものを通して活力の中にあります。
 人間の中のコナトゥスと力は、睡眠中やまた休息状態のときのように、活動の中になくても、何らかの活力の中にあるように見られることができますが、それでも、その時、努力と力の方向は、心臓と肺である身体の運動の全般的なものの中にあります。しかし、これらの活動がやむとき、力も、力とともにコナトゥスもやみます。

神の愛と知恵

219◀︎目次▶︎221

220 全体、すなわち身体は、その活力を最終のものに、特に腕と手の中へ向けたので、それゆえ、みことばの中の「腕」と「手」によって活力が、そして「右手」によってすぐれた活力が意味されます。
 活力へと向かう段階の進展と発揮はこのようであるので、それゆえ、手によって行なわれる活動だけから、また彼のすべての対応物から、人間のもとにいる天使は、理解力と意志に関して、なおまた仁愛と信仰に関して、したがって彼の心のものである内なるいのちに関して、そこから身体の中にある外なる生活に関して、彼がどんな人間であるかを知ります。
 手による身体の活動だけから、天使にはこのように認知する力があることに、私はしばしば驚きましたが、それでも、ときどき生きた経験によって示され、聖職への叙階が手を置くことによってなされることはここからであり、手を触れることによって伝達が意味されること、また他にも同様のことが言われました。
 これらから、仁愛と信仰のすべては、働きの中にあること、また働きのない仁愛と信仰は太陽のまわりの虹のようであり、それは消え、雲により追い散らされる、という結論が導かれます。
 それゆえ、みことばの中では「働き」と「行なうこと」が言われ、人間の救いはそれらによることが、しばしば言われています。さらにまた、行なう者は賢い者と呼ばれ、行わない者は愚かな者と呼ばれています。
 しかし、「働き」によって実際に行なわれる役立ちが意味されることを知らなければなりません。というのは、それらの中に、それらにしたがって、仁愛と信仰のすべてのものがあり——役立ちはその働きと対応し、その対応は霊的です——主体である実体と物質によって行われるからです。

神の愛と知恵

220◀︎目次▶︎222

221 ここに、前述のことによって理解力される二つのアルカナ(秘義)を示すことができます。
「第一のアルカナ」は、みことばは文字通りの意味の中にその完全性とその力があることです。というのは、みことばの中に、三つの段階にしたがって天的な意味、霊的な意味、自然的な意味の三つの意味があるからです。
みことばの中にこれらの意味が、高さの三つの段階にしたがって、また対応によってそれらの結合が存在するので、それゆえ、自然的であり、また文字通りの意味と呼ばれる最終の意味は、単に対応する内的な意味の合成物、容器、基礎であるだけでなく、また完全性と力のある、みことばです。このようであることは、『新しいエルサレムの教え聖書について』(27-35, 36-49, 50-61, 62-69番)の中に、多くのことが示され、説明されています。
「第二のアルカナ」は、主は、地獄を征服する力をもち、天界と同様に地上でもすべてのものの秩序を回復するために、ご自身を派遣され、世に来られ、人間性をとられたことです。
この人間性をご自分の以前の人間性にまとわれました。世でまとわれた人間性は、世の人間の人間性のようでしたが、それでも両方とも神的であり、それゆえ、天使と人間の有限の人間性を無限に越えています。また、自然的な人間性をその最終のものまでも完全に栄化されたので、それゆえ、どの人間とも異なって全身をもってよみがえられました。
この人間性をまとうことを通して、地獄を征服するだけでなく、天界に秩序を回復し、地獄を永遠に支配し、人間を救うための神的な全能をおびられました。この力は、神の力と強さの右に座ることによって意味されています。
主は自然的な人間性をまとうことを通して、ご自分を最終のものの中での神的な真理とされたので、それゆえ、みことばと呼ばれ、そして「みことばは肉となった」と言われています。そして、最終のものの中での神的な真理は、文字通りの意味に関する、みことばです。
このことを「モーセの律法」と「預言書」の中で、ご自分について語られたすべてを成就されることによって、ご自分になされました。というのは、それぞれの人間は自分自身の善と自分自身の真理であって、それ以外の源から人間ではありません——けれども、主は自然的な人間性をまとうことを通して、最初のものの中と同様に最後のものの中で、神的な善と神的な真理そのものであられる、すなわち同じことですが、神的な愛と神的な真理そのものであられるからです。
ここから、天使の天界の中で主は、世に来られた後は世に来られる前よりも、さらに強い光線の、さらに強く輝く太陽として見られます。
このことは、段階の教えによって理解することのできるアルカナです。
世へ来られる前のその方の全能については、続きの中で言います。

神の愛と知恵

221◀︎目次▶︎223

創造された最大と最小のすべてのものの中に両方の種類の段階が存在する

222 最大また最小のすべてのものが分離した段階と連続した段階、すなわち、高さと幅の段階から、構成されることは、最小のものは目の前に現われず、また現われる最大のものは段階の中に区別されて見えないので、目に見えるものからの例によって説明されることはできません。
 それゆえ、この事柄は全般的なものによってでしか論証されることが許されません。
 また、天使は全般的なものからの知恵の中に、そしてここから個々のものについての知識の中にいるので、これらについて彼らの言うことを示すことが許されています。

神の愛と知恵

222◀︎目次▶︎224

223 これらの事柄について天使は次のことを言っています——
この二種類の段階が存在しないような最小のものは存在しない。例えば、何らかの動物の最小のもの、何らかの植物の最小のもの、何らかの鉱物の最小のもの、エーテルや空気の最小のものの中にもない。エーテルと空気は熱と光の容器であるので、熱と光の最小のものにも、霊的な熱と霊的な光は愛と知恵の容器であるので、これらの最小のものにも、それらの中に二種類の段階が存在しないことはない。
さらにまた天使は言っています。
情愛の最小のもの、そして思考の最小のもの、それどころか思考の観念の最小のものも、両方の種類の段階から構成され、これらから構成されない最小のものは何もない。というのは、形を持たず、したがって性質はなく、何らかの状態もなく、変えられ、多様なものになれないで、そのことによって存在するようになることもないからである。
天使はこのことを次の真理によって確認しています。
永遠からの主である創造者なる神の中の無限のものは区別された一つのものであり、その方の無限のものの中に無限のものがある。無限に無限のものの中に、二種類の段階があり、それもまたその方の中で区別して一つのものである。それらがその方の中にあるので、その方からすべてのものが創造され、創造されたものは、その方の中にあるものをある種の像の中に映し出し、このことから、最小の有限なものの中にこのような段階がないものは存在しないことがいえる。それらの段階が等しく最小のものと最大のものの中に存在することは、神性が最大のものと最小のものの中で同じであるからである。
神人間の中で無限のものが区別された一つのものであることは、前に見られます(17-22番)。神性は最大のものと最小のものの中で同じです(77-82番)。それらはさらに説明されています(155, 169, 171番)。

神の愛と知恵

223◀︎目次▶︎225

224 愛と知恵は、同様に情愛と思考は(前の40―43番に示されたように)実体と形であるので、その中に二種類の段階が存在しない愛と情愛の最小のものは、情愛と思考の最小のものも、思考の観念の最小のものも存在しません。
前に言われたように、その中にそれらの段階が存在しない形は存在しないので、それらに同様の段階が存在することがいえます。というのは、愛と知恵を、さらに情愛と思考を、形の中の実体から分離することは、その主体の外に存在しないので、それらを無とすることであり、それらの状態は、変化の中で、目に見える形となって人間により知覚されるからです。

神の愛と知恵

224◀︎目次▶︎226

225 二種類の段階が存在する最大のものは、全統一体としての全世界です。統一体としての自然界があり、統一体としての霊界があり、統一体としてのそれぞれの帝国、それぞれの国があり、それらの統一体としての市民的な、道徳的な、霊的なすべてものがあり、統一体としての全動物界、全植物界、全鉱物界のどんなものでもあり、ひとまとめにして両方の世界のすべての大気、さらにそれらの熱と光があります。同じく普遍性を減じたもの、例えば、統一体としての人間、統一体としてのすべての動物、統一体としてのすべての木や潅木、さらに統一体としてのすべての石や金属があります。これらの形は、二種類の段階から構成されることに関して同様のものです——その理由は、神性から創造された最大のものの中と最小のものの中で(前の77―82番に論証されているように)神性自体は同じであるからです。これらのすべての個々のものと最も個々のものは、普遍的なものと最も普遍的なものにおいて、二種類の段階の形です。

神の愛と知恵

225◀︎目次▶︎227

226 最大のものと最小のものは二種類の段階の形であることから、それらの間の連結が最初から最後にまであります、というのは、類似性がそれらを結合しているから。しかしそれでも、他のものと同じである何らかの最小のものは存在しません。このことによって、すべての個々のものと最も個々のものに区別があります。何らかの最小のものは、同じものである何らかの形の中に、または何らかの形の間に、存在することはありません、最大のものの中に同様の段階があり、最大のものは最小のものから構成されるからです——このような段階が最大のものの中にあるとき、それらにしたがって最高のものから最低のものまで、中心から周辺まで、永続する相違があり、ここから同様の段階にあるような何らかの小さいものや最小のものは、それらは同じものであって、存在しないことがいえます。

神の愛と知恵

226◀︎目次▶︎228

227 創造された全世界の完全性は、全般的なものと個別的なものが、すなわち、最大のものと最小のものが、それらの段階に関して似ていることもまた、天使の知恵からです——というのは、その時、一方はもう一方をそれ自体と類似のものとして眺め、そのものとすべての役立ちのために結合されることができ、そしてすべての目的を結果の中に置くことができるからです。

神の愛と知恵

227◀︎目次▶︎229

228 しかし、これらは目に見えるものに適用によって示されないので、背理のように見えます。しかしそれでも、抽象的なものは普遍的なので、適用よりもいっそうよく理解されることはよくあることです、というのは、適用されたものものは絶え間く変化し、変化は不分明にするからです。

神の愛と知恵

228◀︎目次▶︎230

229 ある者たちにより、さらに小さいものからの形ではないような形をした、このように単純な実体が存在すること、またその実体からの累積によって実体化されるかまたは合成体となって、ついに物質と呼ばれる実体が存在するようになる、と述べられています。
 しかしそれでも、このように最も単純な実体は存在しません。というのも、形のない実体とは何なのでしょうか? このようなものは、それについて何も属性づけられることができないものです。それについて何も属性づけられることができない本質からは、その累積によって何らかのものが作り上げられることもできません。
 最初に創造されたすべてのものの実体の中に、それは最小の最も単純なものですが、無数のものがあることは、形について扱われる続きの中で見られます。

神の愛と知恵

229◀︎目次▶︎231

主の中で高さの三つの段階は無限であり、創造されたものではなく、人間の中で三つの段階は有限であり、創造されたものである

230 主の中で高さの三つの段階は無限であり、創造されたものではないことは、前に述べたことの中で論証されたように、主は愛そのもの、知恵そのものであられるからです。主は愛そのもの、知恵そのものであられるので、それゆえ、役立ちそのものでもあられます。なぜなら、愛には目的として役立ちがあり、それを知恵によって生み出すからです。というのは、役立ちのない愛と知恵に限界(最終段階)または目的はありません、すなわち、それ自体の居場所がないからです。それゆえ、その中に役立ちがないなら、存在し、存在するようになると言うことはできません。
 これらの三つのものは、いのちの主体の中で高さの三つの段階を構成します。これらの三つのものは、いわば最初の目的、原因と呼ばれる中間の目的、結果と呼ばれる最後の目的です。
 目的・原因・結果が高さの三つの段階を構成することは、前に示され、多くのことで確証されています。

神の愛と知恵

230◀︎目次▶︎232

231 それらの三つの段階が人間の中にあることは、第二と第三の天界の天使が浴している愛と知恵の段階にまで、人間の心が高揚することから明らかにすることができます。というのは、すべての天使は人間に生まれ、人間はその心のものである内的なものに関して、最小の形の中の天界であるから。そこで、天界があるのと同数の段階が創造から人間のもとにあります。
 さらにまた人間は神の映像であり、似たものです。それゆえ、神人間の中に、すなわち、主の中にいるので、それらの三つの段階が人間に刻み込まれています。
 主の中のそれらの段階は無限であり、創造されたものではないこと、人間の中のそれらの段階は有限であり、創造されたものであることは、「第一部」に論証されている次のことから明らかにすることができます——例えば、主は本質的に愛と知恵であられること、人間は主からの愛と知恵を受け入れるものであること、なおまた、主については無限なものとしか、人間については有限なものとしか言うことができないことです。

神の愛と知恵

231◀︎目次▶︎233

232 天使のもとのこれらの三つの段階は「天的」「霊的」「自然的」と呼ばれます。そして、彼らにとって天的な段階は愛の段階であり、霊的な段階は知恵の段階であり、自然的な段階は役立ちの段階です。
 それらの段階がこのように呼ばれている理由は、天界は二つの王国に分かれていて、一つの王国は天的な王国、もう一つは霊的な王国と名づけられるからです。それらに世の人間がいる第三の王国が加わり、それは自然的な王国です。
 さらにまた、天的な王国を構成する天使は愛の中に、そして霊的な王国を構成する天使は知恵の中にいますが、世の人間は役立ちの中にいます。そしてそれゆえ、それらの王国は結合しています。
 人間が役立ちの中にいることは、どのように理解されなくてはならないかは「次の部」の中で述べます。

神の愛と知恵

232◀︎目次▶︎234

233 天界から私に、「エホバである永遠からの主の中に、世で人間性をまとう前に、天使のもとにもまた存在するような、前の二つの段階が実際に、また第三の段階が可能性の中に存在した。しかし、世で人間性をまとった後、自然的なものと呼ばれる第三の段階もまた重ねてまとわれ、そのことによって世の中の人間と同様の「人間」となられたが、それでも、この段階は、以前のもののように、無限であり創造されたものではなく、天使と人間の中のそれらの段階は有限であり、創造されたものであるという相違があった」と言われました。
というのは、神性は、空間なしにすべての空間を満たし(69―72番)、さらにまた自然の最後のものにまで浸透したから。しかし、人間性をまとう前、自然的な段階の中への神的な流入は天使の天界を通した間接のものでしたが、まとうわれた後は、その方からの直接のものでした。これが、その方の来臨の前、世の中のすべての教会は、霊的なものと天的なものを表象するものでしたが、その方の降臨の後、霊的で天的な自然的なものとなり、表象的な礼拝が廃止されたことの理由です——天使の天界の太陽は、それは前に言われているように、その方の神的な愛と神的な知恵の最初に発出するものであり、人間性をまとわれた後、輝いて、まとわれる前よりも、並外れて輝いたこともまた理由です。
このことも「イザヤ書」の次のものによって意味されています、

 その日、月の光は太陽の光のようになり、太陽の光は、七つの日の光のように七倍になる(30:26)。

これらは世への主の来臨の後の天界と教会の状態について言われています。そして「黙示録」に、

人の子の顔が「太陽のようにその力の中で輝く」(1:16)のが見られました。
また他のところに(例えば、イザヤ60:20、サムエル記Ⅱ23:3, 4、マタイ17:1, 2)。

天使の天界を通して、間接的に人間が照らされることは、それは主の来臨の前でしたが、太陽の間接的な光である月の光にたとえることができます。それは主の来臨の後、直接のものとされたので、「イザヤ書」に、「月の光は太陽のようになる」と言われています。また「ダビデ」には、

その方の日々に正しい者が栄える、月のない時まで多くの平和が(詩篇72:7)。

このこともまた主について言われています。

神の愛と知恵

233◀︎目次▶︎235

234 永遠からの主、すなわち、エホバが世で人間性をまとうことによって、これらの三つの段階を重ねてまとわれたのは、人間の性質と同様の性質によって、このようにご自分の神性による受胎によってでないなら、処女からの出生によってでないなら、それらの中に入ることがおできならないことが、その理由でした。というのは、こうして、本質的には死んだものであり、それでも神性の容器である性質を脱ぎ、そして神性を着ることがおできになられたからです。
 このことが、空にした状態と栄化の状態と呼ばれる世での主の二つの状態によって意味されており、それらについては『新しいエルサレムの教え 主について』の中で扱われています。

神の愛と知恵

234◀︎目次▶︎236

235 これらは高さの段階の三重の上昇について全般的に述べたものであり、それらの段階は、すぐ前の章の中で言われたように、最大のものと最小のものの中に存在するので、それらについて、ここで何らかのものを特に述べることはできません——このような段階が愛のすべてと個々のものの中に、ここからこのような段階が知恵のすべてと個々のものの中に、それらからこのような段階が役立ちのすべてと個々のものの中にあることだけを述べておきます。それでも、主の中のそれらすべてのものは無限ですが、天使と人間の中で有限です。
 しかし、これらの段階が、どのように愛、知恵、役立ちの中にあるかは、一連のものとして扱われないなら、述べられることも説明されることもできません。
高さのこれらの三つの段階は、それぞれの人間の中に出生からあり、

神の愛と知恵

235◀︎目次▶︎237

継続的に開かれることができ、開かれるに応じて、人間は主の中にいる、主は彼の中におられる

236 それぞれの人間に高さの三つの段階があることは、今までよく知られていません——その理由は、それらの段階が知識とされてこなかったからです。それらの段階が隠れているかぎり、連続した段階以外の何らかの段階が知られることができません。この段階だけが知られているとき、人間のもとの愛と知恵は単に連続によって増大するとだけ信じられてしまいます。
しかし、それぞれの人間のもとに出生から高さの段階、すなわち分離した三つの段階が、あるものが他のものの上に、または内部にあること——それぞれの高さの段階、すなわち分離した段階が、幅の段階、すなわち、連続の段階ももっており、それらにしたがって連続して増大することを知らなくてはなりません。なぜなら、二種類の段階は、前に示されたように(222―229番)、すべての最大のものと最小のものの中にあるから——一つの種類の段階はもう一つの種類の段階なしに存在することができないからです。

神の愛と知恵

236◀︎目次▶︎238

237 高さのこれらの三つの段階は、前に述べたように(232番)、自然的、霊的、天的な段階と呼ばれます。
 人間は生まれる時、最初に自然的な段階の中にやって来ます、これは彼のもとで連続的に知識にしたがって、そして獲得された知識を通して理解力にしたがって、理性と呼ばれる理解力の最高点にまで増大します。
 しかしそれでも、そのことによって霊的と呼ばれる第二の段階は開かれません。これは理解力からの役立ちへの愛によって開かれますが、役立ちへの霊的な愛によってであり、その愛は隣人に対する愛です——この段階は同様に、連続の段階によってその最高点にまで増大することができ、真理と善の知識によって、すなわち、霊的な真理によって増大します。
 しかしそれでも、これらによって天的な段階と呼ばれる第三の段階は開かれず、これは役立ちへの天的な愛によって開かれ、その愛は主への愛です。主への愛は、みことばの戒めを生活に適用すること以外の何ものでもありません、要するに、それは悪を、地獄のもの、悪魔のものであるからと避け、善を、天界のもの、神的なものなので行なうことです。これらの三つの段階は人間のもとでこのように継続的に開かれます。

神の愛と知恵

237◀︎目次▶︎239

238 人間は、世の中に生きるかぎり、それらの段階が自分自身のもとで開かれることについて何も知りません。その理由は、最終のものである自然的な段階の中にいる時、その段階から、考え、意志し、話し、行動し、内的なものである霊的な段階は、自然的な段階と連続によってではなく、対応によって伝達し、そして対応による伝達は感じられないからです。
 しかしそれでも、人間が自然的な段階を脱ぐ時、それは死ぬとき行なわれますが、その時、世で彼のもとに開かれていた段階の中に、霊的な段階が開かれていた者は霊的な段階の中へ、天的な段階が開かれていた者は天的な段階の中へやって来ます。
 死後、霊的な段階の中へやって来る者は、もはや自然的に考え、意志し、話し、行動することはありません。天的な段階の中へやって来る者は、その段階にしたがって考え、意志し、話し、行動します。
 また、三つの段階の間の伝達は対応によってだけ存在するので、それゆえ、それらの段階に関して愛、知恵、役立ちの相違は、何らかの連続によってそれらの間に共通のものをもたないようなものです。
 これらから、人間に高さの三つの段階があること、また連続的に開かれることができることが明らかです。

神の愛と知恵

238◀︎目次▶︎240

239 愛と知恵の三つの段階が、ここから役立ちの三つの段階が人間のもとに存在するので、意志と理解力の三つの段階が、ここから終結の段階が、このように役立ちを決定する三つの段階が彼のもとに存在することになります。なぜなら、意志は愛の容器、理解力は知恵の容器であり、そして終結はそれらからの役立ちであるからです。それらから、それぞれの人間のもとに自然的、霊的、天的な意志と理解力があり、出生から可能性の中に、開かれるとき活動の中にあることが明らかです。
 一言でいえば、意志と理解力から構成される人間の心には、創造から、それゆえ出生から三つの段階があり、したがって人間には自然的な心、霊的な心、天的な心があり、人間はそれによって世で生きている時に、天使の知恵の中に上げられ、またそれらを所有することもできますが、それでも、死後でないなら、それらの中にやって来ません、またその時、天使になるなら、言語に絶することを、自然的な人間に理解できないことを話します。
 私は、世で並みの教育を受けた人間を知っています。彼をその死後、天界で見て、語りました。私は、彼が天使のように語り、また語ることは自然的な人間に知覚できないものであったことを明らかに知覚しました。その理由は、みことばの戒めを世での生活に当てはめ、主を礼拝し、このことから主により愛と知恵の第三の段階の中へ上げられたからでした。
 人間の心にこの高揚があることを知ることが重要です、というのは、これから続きの理解はこのことによるからです。

神の愛と知恵

239◀︎目次▶︎241

240 二つの能力が主から人間のもとに存在し、それらによって人間は獣から区別されます。
 一つの能力は、何が真理で、何が善であるか、理解できることです。この能力は推理力と呼ばれ、彼の理解する能力です——もう一つの能力は、善と真理を行なうことができることです。この能力は自由と呼ばれ、彼の意志する能力です——というのは、人間は自分の推理力から何でも好むものを、神とともに同じく神に反して、隣人とともにまた隣人に反して、考えることができ、そしてまた、考えるものを意志し、行なうことができますが、悪を知り、罰を恐れるとき、自由に行なうことを断念することができるからです。
 人間はこれらの二つの能力から人間であり、獣から区別されます。これらの二つの能力は絶えず主から人間にあり、取り去られもしません。なぜなら、取り去られるなら、彼の人間性は失われるからです。
 善い者と同じく悪い者のもとにも、それぞれの人間のもとのこれらの二つの能力の中に主はおられます。それらは人類の中の主の住まいです——ここから、善い者と同じく悪い者も、すべての人間は永遠に生きます。
 しかし、人間がこれらの能力の手段で、さらに上の段階を開くに応じて、主の住まいはさらに近く人間のもとにあります。というのは、その開けることによって愛と知恵のさらに高い段階の中に、このように主のさらに近くへやって来るから。これらから、それらの段階が開かれるに応じて、人間は主の中に、また主は彼の中におられることを明らかにすることができます。

神の愛と知恵

240◀︎目次▶︎242

241 高さの三つの段階は目的・原因・結果のようであり、それらの段階にしたがって愛・知恵・役立ちが続くことを前に述べました。それゆえ、ここに、目的である愛について、原因である知恵について、結果である役立ちについて手短に述べます。
理性が光の中にある時に、自分の理性に相談する者はだれでも、人間のすべてのものの目的は彼の愛であることを知ることができます。なぜなら、愛するものを考え、結論し、行なって、これを必然的に目的としてもつからです。さらにまた人間は自分の理性から知恵が原因であることを知ることができます。なぜなら、人間は、すなわち、目的である彼の愛は、理解力の中に手段を捜し求め、それによって自分の目的へと到着するからです。このように自分の知恵に相談し、そしてその手段が原因となります。
役立ちが結果であることは説明なしに明らかです。しかし、ある者のもとの愛と他の者のもとの愛は同一ではありません。したがって、ある者のもとの知恵と他の者のもとの知恵も同一ではありません。それゆえ、役立ちも同一ではありません。また、三つのそれらのものは(前の189―194番に示されているように)同質であるので、人間のもとの愛がどのようなものであるかによって、彼のもとの知恵も、また役立ちもそのようなものである、といえます。
知恵について述べましたが、それは彼の理解力のものを意味しています。

神の愛と知恵

241◀︎目次▶︎243

霊的な光は三つの段階を通って人間のもとに流入するが、霊的な熱は人間が悪を罪として避けて主に目を向けないかぎり流入しない

242 前に論証されたことから、神的な愛と神的な知恵の最初に発出するものである天界の太陽(このことについて「第二部」で扱いました)から光と熱が、その方の知恵から光が、その方の愛から熱が発出し、光が知恵の容器であり、熱が愛の容器であること、また人間が知恵の中にやって来れば来るほど、それだけその神的な光の中に、愛の中にやって来れば来るほど、それだけその神的な熱の中にやって来ることが明らかです。
 さらにまた前に論証されたことから、光の三つの段階と熱の三つの段階、すなわち知恵の三つの段階と愛の三つの段階があること、これらの段階は、人間が神的な愛と神的な知恵の容器、したがって主の容器であるために、人間のもとに形成されていることが明らかです。
 さて、ここで論証しなければならないことがあります。霊的な光は三つの段階を通って人間のもとに流入しますが、霊的な熱は人間が悪を罪として避けないかぎり、また主に目を向けないなら、流入しないこと、あるいは同じことですが、人間は知恵を第三の段階にまでも受け入れることができますが、悪を罪として避け、また主に目を向けないなら、愛を受け入れることができないこと、あるいはさらに同じことですが、人間の理解力は知恵の中に上げられることができます、けれども、彼の意志は上げられないことです。

神の愛と知恵

242◀︎目次▶︎244

243 理解力は天界の光の中へ、すなわち、天使の知恵の中に上げられることができること、またその意志は、悪を罪として避け、主に目を向けないなら、天界の熱の中へ、すなわち、天使の愛の中へ上げられることができないことが、霊界での経験から私にはっきりと明らかになりました。
 私は単純な霊の多くの者を見て、彼らはただ、神が存在すること、生まれた主が人間であったことを知っただけで、他のことはまず何も知らなかったのに、天使の知恵のアルカナ(秘義)を、ほとんど天使のように十分に理解したことを知覚しました。彼らだけでなく、悪魔の集団からの多くの者もそうでした。しかし、聞いた時は理解しましたが、自分自身で考えた時には理解しませんでした。なぜなら、聞いたとき、上から光が入ったけれども、自分自身で考えた時、彼らの熱に、すなわち、彼らの愛に対応したもの以外の何らかの光が入ることができなかったからです。それゆえ、それらの秘義を聞き、それらを知覚した後でも、耳をそらす時、何も保持しませんでした。それどころか、悪魔の集団からの者は、その時、それらを踏んづけて、まったく否定しました。その理由は、彼らの愛の火とその光はかすかなものであったので、暗やみをひき起し、それによって上から入ってくる天界の光が消されてしまったからです。

神の愛と知恵

243◀︎目次▶︎245

244 世の中で同様に生じています。
 完全には愚かでなく、自己の知性の高慢から自分のもとの虚偽を確信していなかった人間は、高い事柄についての話しを聞く時、またはこのようなものを読む時、知ろうとする何らかの情愛の中にいるなら、その時、それらを理解し、保持もし、その後、それらを確信することもできます。
 悪い者も善い者と同様にできます。悪い者もまた、たとえ心で教会のものである神性を否定していても、それでも神性について理解することができ、そしてまたそれを話し、述べることも、さらに学者らしい文書でそれを確証することもできます。しかし、自分自身で考えるとき、地獄の自分自身の愛からそれに反して考え、それを否定します。
 そのことから、理解力は霊的な光の中にあることができても、それでも意志は霊的な熱の中にないことが明らかです。
 そのことからまた、理解力は意志を導きません、すなわち、知恵は愛を生み出さず、単に道を教え、示すことがいえます。人間はどのように生きるべきかを教え、どの道を行くべきか示すのです。
 そしてまた、意志が理解力を導き、そしてそれ自体と一つとして働くように行動することがいえます。意志のものである愛は、理解力の中の一致するものを知恵と呼びます。
 続きの中で、意志は理解力なしに単独では何も行なわず、行なうすべてのものを理解力と結合の中で行なうこと、そして、意志は、流入によって、それ自体の交わりの中へ理解力を結びつけますが、逆ではないことが見られます。

神の愛と知恵

244◀︎目次▶︎246

245 さて、人間のもとの心のものである、いのちの三つの段階の中への光の流入がどんなものであるか述べます。
 人間のもとの熱と光の容器、すなわち愛と知恵の容器である形は、すでに言われたように、三重の秩序の中で、すなわち、三つの段階の中で、出生から透明であり、水晶のガラスが自然の光を透過させるように、霊的な光を透過させます。
 ここから、人間は知恵に関して第三の段階の中にまでも上げられることできます。しかしそれでも、その形は、霊的な熱がそれ自体を霊的な光に、すなわち、愛が知恵に結合する時でないなら、開かれません。この結合によって、その透明な形は段階にしたがって開かれます。
 このことは地球上の植物に関して世の太陽の光と熱と同様です。
 冬の光は夏の光と等しく白く輝いていますが、種の中のまたは木の中の何ものをも開きません。しかし、春の熱が、それ自体に光を結合する時、開きます——物事は同様です、なぜなら、霊的な光は自然的な光に、霊的な熱は自然的な熱に対応するからです。

神の愛と知恵

245◀︎目次▶︎247

246 その霊的な熱は、悪を罪として避け、そのとき主に目を向けることでしか得られません。
 なぜなら、人間が悪の中にいるかぎり、それらの愛の中にもいるから、というのは、それらへの欲望の中にいるからであり、そして悪の愛と欲望は霊的な愛と情愛の反対の愛の中にあり、その愛または欲望は悪を罪として避けることによらないなら、取り去られることはできず、人間は自分自身によりそれを避けることできず、主によらなければならず、それゆえ、主に目を向けなければならないからです。
 そこで、主により悪を避ける時、悪の愛とその熱は取り去られ、それに代わって善の愛とその熱がもたらされ、それによって上の段階が開かれます。
 というのは、主は上から流入し、それを開かれ、その時、愛を知恵に、すなわち、霊的な熱を霊的な光に結合されるから。その結合から人間は、春の時の木のように、霊的に開花し始めます。

神の愛と知恵

246◀︎目次▶︎248

247 心の三つの段階のすべての中への霊的な光の流入によって、人間は獣から区別されます。そして、人間は、獣にまさって分析的に考えること、自然的な真理だけでなく霊的な真理もまた知ること、それらを知る時、それらを認め、このように改心し、再生することができます。
 霊的な光を受け入れる能力は、それは推理力を意味し、それについては前に述べましたが、それは主からそれぞれの人間にあり、取り去られることはありません。なぜなら、取り去られるなら、改心できないからです。
 この推理力と呼ばれる能力から、獣とは違って人間は考えることができるだけでなく、思考から話すこともできます。その後、自由と呼ばれる他の能力から、それについてもまた前に述べましたが、理解力から考えるものを行なうことができます。
 これらの推理力と自由という人間に固有なものである二つの能力について、前に扱われているので(240番)、それゆえ、ここではそれらについて多くのことは述べないでおきます。

神の愛と知恵

247◀︎目次▶︎249

人間は、彼のもとの霊的であるさらに高い段階が開かれないなら、自然的で感覚的になる

248 自然的、霊的、天的と呼ばれる三つの段階が人間の心にあること、人間のもとでこれらの段階は連続的に開かれることができることは前に示しました——なおまた、最初に自然的な段階が開かれ、そしてその後、悪を罪として避け、主に目を向けるなら、霊的な段階が、その後、天的な段階が開かれることも示しました。
 これらの段階は人間の生活にしたがって連続的に開かれるものであるので、さらに上の二つの段階が開かれることができず、その時、人間は最も外の自然的な段階の中にとどまることもまたいえます。
 さらにまた、自然的な人間と霊的な人間が、すなわち、外なる人間と内なる人間がいることが世で知られていますが、自然的な人間が霊的な人間になるのは、彼のもとに何らかのさらに高い段階が開かれることによること、また開かれるのは霊的な生活によるのであり、それは神的な教えにしたがった生活であること、それらにしたがった生活なしに、人間は自然的なものにとどまることは知られていません。

神の愛と知恵

248◀︎目次▶︎250

249 三種類の自然的な人間がいます——その第一の種類は、神的な教えについて何も知らない者です。その第二のものは、それがあることを知っていますが、それにしたがった生活について何も考えない者です。その第三のものは、それらを軽蔑し、否定する者です。
「第一の種類」は、神的な教えについて何も知らない者についてですが、彼らは自分自身から教えられることができないので、自然的なものにとどまるしかありません——すべての人間は、神的な教えについて、直接の啓示によってではなく、それらを宗教から知っている他の者たちから教えられます。それら事柄については『新しいエルサレムの教え聖書について』(114―118番)に見られます。
「第二の種類」は、神的な教えがあることを知っていますが、それにしたがった生活について何も考えない者であり、彼らもまた自然的なものにとどまり、世と身体に属するもの以外には関心がありません。死後、これらの者は、霊的である者に行なうことのできる役立ちにしたがって、使用人やしもべとなります。なぜなら、自然的な人間は使用人やしもべであり、霊的な人間は雇い主や主人であるからです。
「第三の種類」の者は、神的な教えを軽蔑し、否定し、自然的なものにとどまるだけでなく、軽蔑と否定にしたがって感覚的にもなります。感覚的な者は、最も低く、自然的であり、その者は身体の感覚の外観と欺きを越えて考えることができません。死後、これらの者は地獄にいます。

神の愛と知恵

249◀︎目次▶︎251

250 霊的な人間とは何か、自然的な人間とは何か、世で知られていません、多くの者により、まったく自然的である者が霊的と呼ばれ、またその逆にも呼ばれているので、それゆえ、彼らについて区別して述べなくてはなりません—— 

 (1) 自然的な人間とは何か、霊的な人間とは何か。
 (2) 霊的な段階が開かれている自然的な人間はどんなものであるか。
 (3) 霊的な段階が開かれていないが、それでも閉ざされていない自然的な人間はどんなものであるか。
 (4) 霊的な段階が完全に閉ざされている自然的な人間はどんなものであるか。
 (5) 最後に、まったく自然的な人間のいのちと獣のいのちの間の相違はどんなものであるか。

神の愛と知恵

250◀︎目次▶︎252

251 (1) 自然的な人間とは何か、霊的な人間とは何か
 人間は、顔と身体からではなく、理解力と意志から人間です。それゆえ、自然的な人間と霊的な人間によって、その理解力と意志が自然的あるいは霊的であることが意味されます。
 自然的な人間は、自分自身の理解力と意志に関して、自然界のようであり、そしてまた世または小宇宙と呼ばれることができます。霊的な人間は、自分自身の理解力と意志に関して、霊界のようであり、そしてまた霊界または天界と呼ばれることができます。
 このゆえに、自然的な人間は、ある種の映像の中で自然界であるので、自然界に属するものを愛すること、霊的な人間は、ある種の映像の中で霊界であるので、霊界に属するものを愛することが明らかです。霊的な人間もまた確かに自然界を愛しますが、雇い主がその使用人を、その果たす役立ちによるかのようにしか愛しません——自然的な人間もまた役立ちにしたがって、霊的なものからの役立ちの楽しみを感じるとき、霊的な人間のようになります。この自然的な人間は、霊的自然的な人間と呼ばれることができます。
 霊的な人間は、霊的な真理を愛します。真理を知り、理解することを愛するだけでなく、それらを意志もします。けれども、自然的な人間は、それらの真理を話すこと、そしてまた行なうことを愛します——真理を行なうことは役立ちを行なうことです。
 この従属は霊界と自然界の結合からです。なぜなら、自然界の中で見られ、生じるものは何でも、原因を霊界から得ているからです。
 これらから、霊的な人間は自然的な人間からまったく区別されること、また原因と結果の間のようなもの以外に、その間に何らかの伝達は存在しないことを明らかにすることができます。

神の愛と知恵

251◀︎目次▶︎253

252 (2) 霊的な段階が開かれている自然的な人間はどんなものであるか
 これは前述のことから明らかです。それらに、自然的な人間は霊的な段階が彼のもとに開かれている時に完全な人間であることを付加しなければなりません。というのは、その時、天界の天使と交わると同時に世の人間と交わり、両方の世界に関して主の導きのもとで生き、霊的な人間は、主からみととばを通して命令を吸収し、それを自然的な人間を通してなし遂げるからです。
 霊的な段階が開かれている自然的な人間は、自分自身の霊的な人間から考え、行動していることを知りません。というのは、自分自身からのように見えるから、それでもそのとき自分自身からでなく主から考え、行動しています。
 霊的な段階が開かれている自然的な人間は、自分自身の霊的な人間を通して天界の中にいることも知りません、それでもそのとき彼の霊的な人間は天使の天界の真ん中にいます。ときどき天使からも見られますが、自然的な人間へと引き戻るので、しばらく滞在の後、そこから消えます。
 霊的な段階が開かれている自然的な人間は、主により彼の霊的な心が何千もの知恵のアルカナ(秘義)で、何千もの愛の楽しみで満たされること、死後、天使となるとき、それらの中にやって来ることも知りません。
 自然的な人間がそれを知らない理由は、自然的な人間と霊的な人間の間の伝達は対応によって行なわれるからであり、対応による伝達は、理解力の中で真理が光の中で見られること、意志の中で情愛から役立ちを行なうこと、このことからしか知覚されません。

神の愛と知恵

252◀︎目次▶︎254

253 (3) 霊的な段階が開かれていないが、それでも閉ざされていない自然的な人間はどんなものであるか
 霊的な段階が開かれていないが、それでも閉ざされていない者は、何らかの仁愛の生活を送ったけれども、ほとんど純粋な真理を知らなかった者です。
 その理由は、霊的な段階が愛と知恵の結合、すなわち熱と光の結合によって開かれるからです——霊的な愛または熱だけで、知恵またはただ光だけでも霊的な段階は開かれませんが、両方が結合されて開かれます。それゆえ、知恵、すなわち、光のもとである純粋な真理が知られないなら、愛はその段階を開くことができないで、単に開かれることができるような可能性を保つだけです。閉ざされていないことによって、このことが意味されます。
 このことは、熱だけでは種や木に植物の生長を与えませんが、光と結合した熱がそのことを遂行する植物界と同様に行なわれます。すべての真理は霊的な光に属し、すべての善は霊的な熱に属すること、また善は真理によって霊的な段階を開くことを知らなくてはなりません。なぜなら、善は真理によって役立ちを遂行し、そして役立ちは愛の善であり、その本質を善と真理の結合から得るからです。
 霊的な段階が開かれていないが、それでも閉ざされていない者の運命は、死後、やはり自然的であり、霊的でないので、最も低い天界の中にいて、そこでときどき厳さを被ります。あるいは何らかの高い天界の辺境に、そこのいわば夕方の光の中にいます。なぜなら、前に言われたように、天界やそれぞれの社会の中で、そこの光は中央から辺境へと減少し、中央にいる者は他の者にまさって神的な真理の中に、そしてわずかな真理の中にいる者は辺境にいるからです——そして、わずかな真理の中にいる者は、神が存在し、主が自分たちのために苦しまれたこと、なおまた仁愛と信仰は教会の本質であることを宗教から知る以上には知らず、また信仰とは何か、仁愛とは何か知るために励まなかったからです。そのときそれでも、信仰はその本質では真理であり、真理は多種多様であり、仁愛は人間が主から行なう職務のすべての働きであって、それを悪を罪として避けるとき、主から行なうのです。
 まさに前に言われたように、目的は原因のすべてであり、結果は原因を通して目的のすべてです——目的は仁愛または善であり、原因は信仰または真理であり、そして結果は善の働きまたは役立ちです。
 これらから、仁愛が信仰と呼ばれる真理に結合されているよりも多くの働きをなすことが明らかです。
 仁愛はこれらの真理によって働き、またその働きの性質を得ます。

神の愛と知恵

253◀︎目次▶︎255

254 (4) 霊的な段階が完全に閉ざされている自然的な人間はどんなものであるか
 生活に関して悪の中にいる者は彼のもとで霊的な段階が閉ざされており、悪からの虚偽の中にいる者のもとではさらに閉ざされています。
 このことは、何らかの異質なものがほんの少しでも触れると縮む神経の小繊維と似ています。筋肉のすべての運動繊維も、それどころか筋肉そのものも、そのようにまた全身も同様に、固いものまたは冷たいものに触れると縮みます。このように人間のもとの霊的な段階の実体または形もまた、悪とそこからの虚偽により縮みます、これらが異質であるからです。
 というのは、霊的な段階は、天界の形の中にあるので、それと同質である善と善からのものである真理でないなら入ることを許しません、しかし、悪と悪のものである虚偽はそれと異質であるからです。
 この段階は、特に、世で自己愛からの支配する愛の中にいる者のもとで縮み、また収縮によって閉ざされます。その愛が主への愛に対立するからです。さらにまた、世俗愛から他の者の財産を所有しようとする狂った欲望の中にいる者もとで閉ざされていますが、前の者ほどではありません。これらの愛は霊的な段階を閉ざす理由は、悪の起源であるからです。
 この段階の収縮または閉鎖は渦巻を反対へ曲げ返すことのようです——これが、その段階が閉ざされた後、天界の光を反射することの理由です。ここから、天界の光の代わりに、そこに暗黒があります。それゆえ、天界の光の中にある真理は、吐き気を催させます。この者のもとでは、その段階そのものだけでなく、理性的と呼ばれる自然的な段階の高い領域もまた閉ざされます。感覚的と呼ばれる自然的な段階の最低の領域だけが開かれています。というのは、これは世と身体の外なる感覚に最も近いからであり、それらからその人間はその後、考え、話し、推論します。
 悪とそこからの虚偽によって感覚的となっている自然的な人間は、天界の光の中の霊界で人間のように見えず、怪物のように、さらにまた鼻を引っ込めて見えます——鼻を引っ込めているのは、鼻は真理の知覚に対応するからです。
 彼らはまた天界の光の光線にも耐えられません。自分たちの洞窟の中で、燃えさしまたは炭火からの光のようなもの以外に彼らに光はありません。
 これらから、霊的な段階が閉ざされている者がだれであり、どんなものか、明らかです。

神の愛と知恵

254◀︎目次▶︎256

255 (5) まったく自然的な人間のいのちと獣のいのちの間の相違はどんなものであるか
 この相違については、続きの中で、特に、「いのちに」ついてのところで述べますので、ここでは単に、人間に心の三つの段階が、すなわち、理解力と意志の三つの段階があること、それらの段階は連続的に開かれることができるという相違だけを述べます。それらの段階は透明であるので、人間は理解力に関して天界の光の中に上げられ、そして市民的や道徳的な真理だけでなく、霊的な真理もまた見ることができ、見られる多くのものから真理を秩序の中に定め、このように理解力を永遠に完成させることができます。
 しかし、獣には上の二つの段階はなく、ただ自然的な段階だけがあり、それはさらに高い段階がなくては何らかの市民的、道徳的、霊的な事柄について何も考える能力がありません。
 また獣の自然的な段階は、開かれて、高い光の中に上げられることができないので、連続的な秩序の中で考えることができず、同時的な秩序の中で考えますが、それは考えることではなく、その愛に対応する知識から行動することです。分析的に考えることが、そしてある種の高いものから低い思考を見ることができないので、それゆえ、話すことができず、その愛の知識に合わせて鳴くことだけができます。
 しかしそれでも、最低に自然的である感覚的な人間は、記憶を事実で満たし、それらから考え、話すことができることによらないなら、獣と異なりません。それぞれの人間が固有の能力から得ていることは、欲するなら真理を理解できることであり、この能力によって獣から区別されます。しかしそれでも、多くの者はこの能力の悪用によって、自分自身を獣よりも低いものにしています。

神の愛と知恵

255◀︎目次▶︎257

本質的に眺められた人間の心の自然的な段階は連続しているが、高揚される時、二つの高い段階と対応によって分離しているように見える

256 高さの段階についての知識の中にまだいない者に、このことはほとんど理解されることができないとはいえ、天使の知恵に属するので、やはりそれでも示さなければなりません。その知恵は、天使のようには自然的な人間によって考えられることができないとはいえ、それでも理解力が天使のいる光の段階にまでも高揚される時、理解されることができます。というのは、理解力はそれだけ高揚され、そして高揚にしたがって照らされることができるから。
 しかし、自然的な心が照らされることは、分離した段階を通して上昇するのではなく、連続した段階を通して増大します。その時、増大するほど、内的なものにより高い二つの段階の光から照らされます。
 どのようにこのことが生ずるかは、一つのものが他のものの上にあること、最後のものである自然的な段階が、いわば二つの高い段階の全般的なおおいであること、その高さの段階を知覚することから理解することができます。その時、自然的な段階が高い段階へ上げられるほど、高いものは内的なものにより自然的な外的なものの中に働き、照らします。
 確かに、照らしは高い段階の光から内的なものにより生じます、しかし、受ける照らしは、高い段階を包み、囲む、自然的な段階により、連続によって、このように上昇にしたがっており、さらに明るく、さらに純粋です。すなわち、自然的な段階は内的なものにより高い段階の光から分離して照らされますが、それ自体の中では連続しています。
 これらから、世の中に生き、またそのことによって自然的な段階の中にいるかぎり、天使のもとにあるような同じ知恵の中に高揚されることはできませんが、天使の高い光の中へ高揚され、それらの光により照らしを受け入れるなら、それらは内的なものにより流入し、照らすことができることが明らかです。このことはこれ以上明らかに述べることはできませんが、結果からさらによく理解されることができます。というのは、結果は、これらがいくらか前もって知られている時、原因をもたらし、光の中にそれ自体を置き、こうして説明するからです。

神の愛と知恵

256◀︎目次▶︎258

257 〔次のものが〕結果です——

 (1) 自然的な心は、天使がその中にいる天界の光にまで高揚され、そして天使が霊的に知覚するものを自然的に、したがって、それほど完全にでなく、知覚することができるが、それでも人間の自然的な心は、天使の光そのものの中に高揚されることはできない。
 (2) 人間は、天界の光にまで高揚された自分の自然的な心によって、天使と考えることが、それどころか話すことができるが、その時、天使の思考と言葉が人間の自然的な思考と言葉の中に流入するのであって、その逆ではない。それゆえ、天使は人間と、その人間の母語である自然的な言語で話す。
 (3) このことは自然的なものの中への霊的なものの流入によって生じるのであって、霊的なものの中への何らかの自然的な流入によってではない。
 (4) 人間の知恵は、人間が自然界の中に生きるかぎり自然的であり、決して天使の知恵の中に高揚されることはなく、単にある種のその像の中に高揚されるのである。その理由は、自然的な心の高揚が、陰から光へ、すなわち、粗雑なものから純粋なものへのように、連続によって行われるからである。
 しかしそれでも、霊的な段階が開かれている人間は、死ぬ時、その知恵の中にやって来る、また身体の感覚を眠らせることによって、その時、さらに上のものからその心の霊的なものの中への流入によって、その中へやって来ることもできるのである。
 (5) 人間の自然的な心は、霊的な実体から、また同時に自然的な実体から構成されている——思考はその霊的な実体から生じるが、自然的な実体からではない。自然的な実体は、人間が死ぬとき去る、けれども、霊的な実体は去らない。それゆえ、同じその心は、死後、人間が霊または天使となる時、世の中でいたのと同様の形の中にとどまる。
 (6) いま述べたように、死後に去るその心の自然的な実体は、霊と天使がその中にいる霊的な身体の皮膚としての被膜になる。
 自然界から取られたものであるこのような被膜によって、霊や天使の霊的な身体は存続する、というのは、自然的なものは最も外部の容器であるから——ここから、人間に生まれなかった霊や天使はだれもいない。

 ここに、人間の自然的な心がどんなものであるか知られるためにこれらの天使の知恵のアルカナを提示しましたが、それについてさらに続きの中でもまた扱います。

神の愛と知恵

257◀︎目次▶︎259

258 すべての人間は、第三の天界の天使がその中にいる最内部の段階にまで真理を理解する能力の中に生まれています。というのは、連続によって二つのさらに高い段階のまわりに上がっている人間の理解力は、前に言われたような方法で、それらの段階の知恵の光を受けるからです(256番)。
ここから、人間は高揚にしたがって理性的になることができます。第三の段階に高揚されるなら、第三の段階から理性的になり、第二の段階に高揚されるなら、第二の段階から理性的になり、高揚されないなら、第一の段階の中で理性的です。
それらの段階から理性的になると言われるのは、自然的な段階はそれらの光の共通の容器であるからです。
最高点にまでも理性的になれる人間が、そのようになれないのは、意志のものである愛が、理解力のものである知恵と同様に高揚されることができないからです。
意志のものである愛は、悪を罪として避けることによってだけ、その時、役立ちである仁愛の善によって高揚され、それを人間はその後、主から実行します。
それゆえ、意志のものである愛が同時に高揚されないなら、理解力のものである知恵は、どれほど上っても、その愛にまで戻ってしまいます。ここから、人間は、彼の愛が同時に霊的な段階の中へと高揚されないなら、やはり最も低い段階の中でしか理性的でありません。
これらから、人間の理性的なものは、外観では三つの段階の中にあるように、すなわち、天的、霊的、自然的なものから理性的であるように見えること、さらに、高揚されることのできる能力である推理力は、高揚されても高揚されなくても、それでも人間のもとにあることを明らかにすることができます。

神の愛と知恵

258◀︎目次▶︎260

259 すべての人間は、その能力の中に、すなわち、推理力の中に生まれていることが言われましたが、その人間のもとで外なるものが、何らかの偶発的なものによって、あるいは子宮の中で、あるいは出生後の病気から、あるいは頭に加えられた傷から、あるいは突発して、抑制を解いてしまう狂気の愛から害われていないすべての人間が意味されます——これらの者のもとで理性的なものは高揚されることができません。というのは、意志と理解力のものであるいのちは、これらの者のもとで秩序にしたがって最外部の行動を遂行することができて、その中で終結するような境界を、したがって配列をもたないで、最外部の決めるものにしたがって、それらからではないけれども、行動するからです。
 幼児や子供たちのもとでもまた存在することができないことは、以下に(266番末尾)見られます。

神の愛と知恵

259◀︎目次▶︎261

人間の自然的な心は、人間の高い段階の心のおおいであり、容器であるので、反応するものである。高い段階が開かれないなら、それらに反して働く。しかし、開かれるなら、それらとともに働く

260 前章で、自然的な心は最外部の段階の中にあるので、段階に関してさらに高いものである霊的な心と天的な心を包み、含むことが示されました。
それで、自然的な心は高いまたは内的な心に反して反応することが示すべきものとなります。
反応することの理由は、それらを包み、含み、入れており、またこのことが反応なしにできないからです。なぜなら、反応しないなら、内的なものまたは含まれたものは弛緩し、そして外へ押し出し、このように分解するからです。
あたかも人間の身体のまわりの皮膚が反応しないで、身体の内的なものである内臓が押し出され、こうしてばらばらに壊れるようになるようなものです。また、あたかも筋肉の運動繊維を包む膜が活動中の筋肉の繊維の力に反して反応しないで、単にその活動が終わるだけでなく、すべての内的な繊維が弛緩するようなものです。
高さの段階の最外部の段階のすべてのものも、結果として、高い段階と比べて自然的な心と同様です。なぜなら、前に言われたように、人間の心には、自然的、霊的、天的の三つの段階があり、自然的な心は最外部の段階の中にあるからです。
前に言われたように(257番)、自然的な心が霊界の実体だけからだけでなく、自然界の実体からもまた構成されていますが、そのこともまた自然的な心が霊的な心に反して反応することの理由です。そして自然界の実体は、その性質から霊界の実体に反して反応します。というのは、自然界の実体は本質的に死んでいて、霊界の実体により外から働きかけられ、死んでいる実体は、外により働きかけられ、その性質から抵抗し、このようにその性質から反応するから。
これらから、自然的な人間は霊的な人間に反して反応すること、また闘争があることを明らかにすることができます。
自然的な人間と霊的な人間と言っても、あるいは自然的な心と霊的な心と言っても同じことです。

神の愛と知恵

260◀︎目次▶︎262

261 これらから、霊的な心が閉ざされているなら、自然的な心は霊的な心に絶えず反して働き、そして自分の状態を乱すこと、そこから何らかのもの流入することを恐れることを明らかにすることができます。
 その霊的な心を通して流入するすべてのものは天界からです、なぜなら、霊的な心は形では天界であるからです。また自然的な心の中に流入するすべてのものは世からです、なぜなら、自然的な心は形では世であるからです。そのことから、自然的な心は霊的な心が閉ざされている時、それ自体に世のものであるものを得るために、それらを所有するための手段として役立たないかぎり、天界のすべてのものに反して反応し、それ自体の中に入ることを許しもしないことになります。それら天界のものが、自然的な心にその目的への手段として役立つ時、その手段は、たとえ天界のものに見えても、それでも自然的なものになります。というのは、目的がそれらに性質を与え、内部にいのちのものは何もない自然的な人間の記憶知のようになるからです。
 しかし、天界的なものは自然的なものと一つとして働くように結合されることができないので、それゆえ、分離し、そして単に自然的な人間のもとで、内部にある自然的なものの外の周囲に座ります。
 ここから、単に自然的な人間は天界的なことを話し、述べること、そしてまた行動によってそれらを偽り装うことができますが、それでも内部でそれらに反して考えます。後者のことをひとりでいるときに、けれども、前者を集りの中にいるときに行ないます。
 しかし、これらについて多くのことは続きの中で述べます。

神の愛と知恵

261◀︎目次▶︎263

262 自然的な心または人間は、自分自身の生来の反動から、自分自身と世をすべてにまさって愛するとき、霊的な心または人間のものに反して行動します。その時また、すべての種類の悪に、例えば、姦淫、欺瞞、復讐、冒涜に、その他の類似のものに、楽しさを感じ、そしてまたその時、自然を全世界の創造者として認め、すべてのものを自分自身の理性によって確信します。確信した後では、天界や教会の善と真理をゆがめるか、窒息させるか、あるいは向きを変えさせ、ついには、それらを避けるか、背くか、あるいは憎しみを抱きます。
 このことを自分の霊の中で行ない、自分の霊から行なえば行なうほど、名誉と利益のための名声が奪われる恐れのないとき、大胆にも他の者たちと話して、それだけ身体の中でも行ないます。
 人間がこのようなものである時、霊的な心は連続的に固くさらに固く閉ざされ、特に、虚偽によって悪が確信されるとき閉ざされます。
 ここから、確信された悪と虚偽は死後に根絶されることができず、ただ世の中で悔い改めによって根絶されます。

神の愛と知恵

262◀︎目次▶︎264

263 しかし、自然的な心の状態は、霊的な心が開かれるとき、まったく異なります——その時、自然的な心は、霊的な心に従順に配列され、従属します。というのは、霊的な心は上からまたは内的なものから自然的な心の中に働き、そこで反作用するものを追う払い、それ自体と同じ様に働くものをそれに適合させるから。ここから、優勢となっている反作用は連続的に取り去られます。
 全世界の最大のものと最小のものの中に、生きているものにも死んでいるものにも、作用と反作用があることを知らなくてはなりません。ここからすべてのものの均衡があります——この均衡は作用が反作用よりまさるとき、また逆のとき、取り去られます。
 自然的な心と霊的な心も同様です。
 自然的な心が、本質的に悪と虚偽であるその愛の楽しさから、またその思考の快さから活動する時、自然的な心からの反作用は、霊的な心に属するものを追う払い、そして入らないようにと扉をふさぎ、その反作用と一致するようなものから作用が生じるようにします。
 霊的な心の作用と反作用に対立している自然的な心の作用と反作用はこのように生じます。
 ここから渦巻の巻き返しのように、霊的な心を閉ざすことが生じます。しかし、霊的な心が開かれるなら、その時、自然的な心の作用と反作用は逆転します——というのは、霊的な心は上または内的なものから、また同時に自然的な心の中に下または外的なものから従順に配列されているものによって働き、その中に自然的な心の作用と反作用がある渦巻を巻き返すからです。というのは、この心は出生から霊的な心に属するものに逆らって対立しているから。これは、よく知られているように、両親から遺伝によって得られています。
 状態の変化はこのようであり、それらは改心と再生と呼ばれます。
 改心前の自然的な心の状態は、それ自体を下方にねじるかまたは曲げている渦巻に例えることができます。しかし、改心後は、それ自体を上方にねじるかまたは曲げている渦巻に例えることができます。それゆえ、改心前の人間は、地獄に向かって下方を眺めています、しかし、改心後は、天界に向かって上方を眺めます。

神の愛と知恵

263◀︎目次▶︎265

悪の起源は、人間に固有のものである推理力と自由と呼ばれる能力の悪用からである

264 推理力によって、真理とここからの虚偽を、そして善とここからの悪を理解する能力が意味されます。自由によって、それらを自由に考え、欲し、行なう能力が意味されます。前の箇所から明らかにすることができ、このあとの続きから次のことが明らかとなります。
 これらの二つの能力がそれぞれの人間に、創造から、それゆえ出生から存在し、主から存在し、取り去られず、それらから、人間が自分自身からのように考え、話し、欲し、行なう外観があること。主はそれぞれの人間のもとのそれらの能力の中に住まわれ、人間はその結合から永遠に生きること。人間はそれらによって、改心し、再生することができ、それらなしではできないこと、さらに、それらによって獣から区別されることです。

神の愛と知恵

264◀︎目次▶︎266

265 悪の起源はそれらの能力の悪用からであることを次の順序で述べます——

 (1)善い人間と等しく、悪い人間にも、それらの二つの能力が授けられている。
 (2)悪い人間はそれらを悪と虚偽を確信するために悪用し、善い人間はそれらを善と真理を確信するために用いる。
 (3)人間のもとで確信された悪と虚偽は存続し、彼の愛に属するものになり、またここから生活に属するものとなる。
 (4)愛と生活に属するのものとなったそれらのものは子孫に伝えられる。
 (5) すべての悪は、伝えられたものもさらに加えられたものも、自然的な心の中に住んでいる。

神の愛と知恵

265◀︎目次▶︎267

266 (1) 善い人間と等しく、悪い人間にも、それらの二つの能力が授けられている
自然的な心が、理解力に関して、第三の天界の天使がいる光にまで高揚され、真理を見て、認め、またその後、それらを話すことができることは、前章の中で示されました。
そのことから、自然的な心は、このように高揚されることができるので、悪い人間は善い人間と等しく、推理力と呼ばれる能力を授けられていることが明らかです——自然的な心はそれほどに高揚されることができるので、それらを考え、話すこともできます。
けれども、それらを欲し、行なうことができるのに、それでも欲せず、行なわないことが、理性と経験から証明されます。
理性から——だれが考えるものを欲し、行なうことができませんか? しかし、欲せず、行なわないことは、それらを欲し、行なうことを愛さないことです。欲することと行なうことが自由であることは、主からそれぞれの人間にありますが、できるときに、善を欲せず、行なわないのは、〔それに〕反感を抱く悪の愛からです。それでもその愛に抵抗でき、多くの者も抵抗しています。
経験から——このことは数回、霊界で確認されました。
私は、内部で悪魔であり、世で天界と教会の真理を退けた悪い霊から聞いたことがあります——彼らは、知る情愛にいて、その中にすべての人間は少年期からいますが、それぞれ者の愛が火の輝きのように囲む称賛によってかきたてられた時、彼らは天使の知恵のアルカナ(秘義)を知覚し、内部で天使であった善い霊と等しくほど、それらをよく知覚しました。それどころか、悪魔的な霊であった彼らは、「確かにそれらにしたがって欲し、行なうことができるが、欲しない」と言いました。彼らに、「ただ悪を罪として避けるなら、それらを欲するであろう」と言われたとき、彼らは、「そのこともまた可能であるが、欲しない」と言いました。
そのことから、善い者と等しく悪い者に自由と呼ばれる能力があることが明らかです——だれでも、自分自身を思いめぐらすなら、そのようであることを認めるでしょう。
人間が欲することができるのは、主からその能力があり、主が絶えずできるようにと与えられているからです。なぜなら、前に述べたように、主はそれぞれの人間のもとのそれら二つの能力の中に、このように欲することができることの能力の中に、すなわち、力の中に住まわれるからです。
推理力と呼ばれる理解する能力は、人間の自然的な心がその適当な年齢にやって来るより前に、彼のもとに存在しません。それまでは、未熟な果実の中の種のようであり、それは地の中で開かれ、灌木に生長することができません。
それらの能力は、前に述べた者(259番)のもとにも存在しません。

神の愛と知恵

266◀︎目次▶︎268

267 (2) 悪い人間はそれらを悪と虚偽を確信するために悪用し、善い人間はそれらを善と真理を確信するために用いる
 推理力と呼ばれる理解する能力と自由と呼ばれる意志の能力から、人間は何でも欲するものを確認することができることを得ています。というのは、自然的な人間は、望むところまで高い光の中へ自分の理解力を高揚することができるから。しかし、悪とそこから虚偽の中にいる者は、理解力を自分の自然的な心の高い領域よりも高く、霊的な心の領域にはまれにしか高揚しません。
 その理由は、自分の自然的な愛の快さの中にいて、また理解力を上に高揚させるなら、彼の愛の快さは失われるからです——高く高揚されるなら、自分の生活の快さに、または自分に固有の知性の原理に、正反対の真理を見て、その時、それらの真理を虚偽化するか、あるいは見過ごし、軽蔑からそれらをあとに残すか、あるいは、自分の生活の愛に、あるいは自分に固有の知性の高慢に役立つような手段として、記憶の中に押しとどめます。
 自然的な人間は何でも欲するものを確信することができることは、キリスト教世界の中のこんなにも多くの異端からはっきりと明らかであり、それらの異端はどんなものでもその信奉者により確信されています。すべての種類の悪と虚偽は確信されることができることを、だれが知らないでしょうか? 確信されることができ、さらにまた悪い者により彼ら自身のもとで確信されていることがあります。神は存在しないで、自然がすべてであり、自然がそれ自体を創造したこと、宗教は単純な気質の者たちを拘束の中に保つ単なる手段であること、人間の思慮分別がすべてを行ない、神的な摂理は、秩序の中で創造されたその全世界を秩序の中に保つことを除いて何も行なわないこと、なおまたマキアヴェリと彼の信奉者にしたがって、殺人、姦淫、窃盗、欺き、復讐は許されるものであることなどです。
 これらのことや同様の多くのことを自然的な人間は確信し、それどころか確信によって書物を満たすことができます。確信される時、それらの虚偽はその愚かな光の中に見られ、真理は、夜の幽霊のようにしか見えないような、そのような陰の中に見られます。
 一言でいえば、まったくの虚偽を取り、それを命題とし、また才気ある者に、「証明せよ」と言ってみなさい、彼は真理の光を完全に消滅させるまでにも証明するでしょう。しかし、その証明をわきに置き、命題そのものに戻って、あなたの推理力から眺めてみなさい、あなたはその虚偽をその醜さの中に見るでしょう。
 これらから、人間は、すべての種類の悪と虚偽を確信するために、主により彼らのもとにある二つのこれらの能力を悪用することができることを明らかにすることができます。
 獣は、それらの能力に授けられていないので、このことをできません。それゆえ、獣は、人間とは異なって、その生活のすべての秩序と、その自然的なすべての知識の中に生まれています。

神の愛と知恵

267◀︎目次▶︎269

268 (3) 人間のもとで確信された悪と虚偽は存続し、彼の愛のものと生活のものになる
 悪と虚偽の確信は善と真理を除くこと以外の何ものでもなく、もし増大するなら拒否です。なぜなら、悪は善を、虚偽は真理を遠ざけ追い払うからです——ここから、悪と虚偽の確信は天界を閉ざすことでもあります、なぜなら、すべての善と真理は主から天界を通して流入するからです。天界が閉ざされる時、人間は地獄の中に、同様の悪と虚偽が支配する場所のそこに社会の中にいて、そこからその後、連れ出されることはできません。
 数世紀前の自分の宗教の悪と虚偽を確信した者と話すことが与えられ、私は、彼らが世の中でいたのと似た同じものものの中にどどまっていたのを見ました——人間が自分自身のもとで確信したすべてのものは、彼の愛と生活に属するものになるのがその理由です。意志と理解力のものとなるので、愛に属するものとなり、そして意志と理解力はそれぞれの者の生活をつくります。
 ここから、自分自身に悪と虚偽を確信した人間は、頭からかかとまでこのようなものです。全部がこのようであるとき、何らかの反転または曲げ返しによって彼にとって反対の状態にすること、このように地獄から引き出されることはできません。
 これらからまたこの章から、悪の起源がどこからであるか知ることができます。

神の愛と知恵

268◀︎目次▶︎270

269 (4) 愛とここから生活のものになったそれらのものは、子孫に伝えられる
 人間は悪の中に生まれていること、それを遺伝として両親から得ていることはよく知られています——ある者は、両親からではなく、アダムから両親を通してである、と信じていますが、このことは間違いです。それを父から得ていて、彼の霊魂は父から、そして母のもとで身体を着せられるのです。というのは、父からのものである精子は、いのちの最初の容器ですが、父のもとにあったような容器です、というのは、精子は彼の愛の形の中にあり、それぞれの者の愛は最大のものと最小のものの中でそれ自体に似ており、その中には人間の形への努力があり、さらにまたその中へと連続的に進むからです。ここから、遺伝と呼ばれる悪は、父たちから、このように祖父たちや先祖たちから連続的に子孫の中にあることがいえます。
 このことは経験からもまた教えられます。というのは、情愛に関して氏族とその最初の氏族の間に類似性が、さらに一族に類似性、その上さらに家族に類似性があるから。それどころか、気質からだけでなく、顔からもまた一族が見分けられるような類似性があります。しかし、悪の愛が両親から子孫へ出生によって伝達されることについては、続いて、心すなわち意志や理解力と、身体やその肢体や器官との対応について扱う中で、多くのことを述べます。
 ここにこれらのわずかなことだけを示したのは、悪は両親から連続的に導かれ、一人また一人と積み上げて、人間が出生から悪以外の何ものでもないようにまで増大すること——悪の有害性は霊的な心を閉ざす段階にしたがって増大すること、なぜなら、自然的な心もまた上方で閉ざされるから、このことは、悪を罪として避けることによって主からでないなら子孫の中で回復されないこと、そうでなければこのように霊的な心は開かれず、そのことによって自然的な心は対応する形に戻されること、これらのことが知られるためです。

神の愛と知恵

269◀︎目次▶︎271

270 (5) すべての悪とそこからの虚偽は、伝えられたものもさらに加えられたものも、自然的な心の中に住んでいる
 悪とそこからの虚偽が自然的な心の中に住んでいることは、その心が形または映像で世であるからです。けれども、霊的な心は形または映像で天界であり、天界の中に悪は宿ることができません——それゆえ、霊的な心は出生から開かれていませんが、単に開かれることができるような可能性の中にあります。
 自然的な心はその形を、部分に関してもまた自然界の実体から得ていますが、霊的な心はただ霊界の実体だけから得ています。その心は人間が人間となれることができるように、主によりその完全性の中に守られています。というのは、動物として生まれ、人間となるから。
 自然的な心はそのすべてのものとともに右から左へ旋回して曲げられます、けれども、霊的な心は左から右へ旋回して曲げられます——このようにそれらの心は互いにそれ自体に対し反対の方向にあります。これは悪が自然的な心の中に住んでいること、霊的な心にそれ自体から逆らって行動することのしるしです。そして、右から左への旋回は下方へ、このように地獄に向かう回転です、しかし、左から右への回転は上方へ、このように天界に向かって進みます。
 このようであることは、私に次の経験から明らかとなりました。悪い霊は自分の身体を左から右へ旋回することができず、右から左へ旋回することができること、けれども、善い霊は身体を右から左へ旋回することがほとんどできず、左から右へは容易にできることです。
 回転は、心に属する内的なものの流れに従っています。

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270◀︎目次▶︎272

悪と虚偽は悪魔と地獄のもの、善と真理は神性と天界のものであるので、悪と虚偽は善と真理に対立するすべてのものの中にある

271 だれもが、悪と善が、なおまた悪の虚偽と善の真理が正反対であることを聞く時、認めますが、悪の中にいる者は、悪が善であるとしか感じないし、ここから知覚もしません——なぜなら、悪は彼らの感覚を、特に視覚と聴覚を喜ばせ、またここから思考とこうして知覚もまた喜ばせるから——それゆえ、確かに悪と善は正反対であることを認めますが、悪の中にいるとき、その楽しさから悪は善であることを、またその逆のことを言います。
 例としてあげます——悪を考えるためや行なうために自分の自由を悪用する者は、それを自由と呼び、そしてその正反対のものである本質的に善である善を考えることを隷属と呼びます。そのときそれでも、後者が真に自由であり、前者が隷属です。
 姦淫を愛する者は、姦淫を犯すことを自由と呼び、そして姦淫を犯すことが許されないことを隷属と呼びます。というのは、みだらさの中に快さを、貞節の中に不快を感じるからです。
 自己愛からの支配する愛の中にいる者は、その愛の中にそれぞれの種類の他の楽しさにまさるいのちの楽しさを感じます。ここからその愛に属するすべてのものを善と呼び、その愛に反するすべてのものを悪と言明します。そのときそれでも正反対です。他のすべての悪についても同様です。
 それゆえ、たとえだれもが善と悪は正反対であることを認めるとはいえ、それでも、悪の中にいる者は、その対立するものについて正反対の概念を抱いており、善の中にいる者たち以外に正しい概念を抱いていません。
 だれでも悪の中にいる時、真理を見ることはできませんが、善の中にいる者は、悪を見ることができます。
 悪はほら穴の中にあるように下にあり、善は山にあるように上にあります。

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271◀︎目次▶︎273

272 さて、悪がどんなものか、またまったく善に対立していることが、多くの者に知られておらず、それでも知られることが重要であるので、この事柄が次の順序で熟考されなければなりません——

 (1)悪とそこからの虚偽の中にある自然的な心は、地獄の形と映像である。
 (2)地獄の形と映像である自然的な心は、三つの段階を通って下る。
 (3)地獄の形と映像である自然的な心の三つの段階は、天界の形と映像である霊的な心の三つの段階と対立している。
 (4)地獄である自然的な心は、天界である霊的な心に逆らって対立するすべてのものの中にある。

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273 (1) 悪とそこからの虚偽の中にある自然的な心は、地獄の形と映像である
人間のもとの自然的な心がその実体的な形の中でどんなものであるか、すなわち、脳の中で両方の世界の実体から構成されたその形の中でどんなものであるか、ここで述べることはできません——その形について全般的な概念は、心と身体の対応について扱われる続きの中で与えられます。
ここではただ形について、その状態やその変化に関して何らかのものだけを言い、それらの状態やその変化によって知覚、思考、意図、意志、またそれらに属するものを示します。なぜなら、悪とそこからの虚偽の中にある自然的な心は、それらの状態やその変化に関して、地獄の形と映像であるからです。
この形は主体として実体的な形を前提とします、というのは、主体である実体的な形なしに、ちょうど目のない視覚、耳のない聴覚のように、状態の変化は存在できないからです。
そこで、自然的な心は地獄を映し出す形または映像について、その形と映像は、この心の欲望とともに、その心の全般的な状態である支配愛であって、地獄の中の悪魔であるようであり、その支配する愛から生まれる虚偽の思考が悪魔の仲間のようです。みことばの中でもまた悪魔とその仲間によって他のものは意味されません。
物事は地獄の中でもまた同様です。なぜなら、地獄の中には自己愛から支配する愛である支配愛があるから。その愛はそこで悪魔と呼ばれ、そして虚偽への情愛はその愛から生まれる思考とともにその仲間と呼ばれます——それぞれの地獄の社会の中でも、一つの種類の中での特殊な相違のような相違とともに同様です。
自然的な心もまた同様の形の中にあり、それらは悪の中に、またそこから虚偽の中にあります。それゆえ、このようなものである自然的な人間もまた、死後、自分自身に似た地獄の社会にやって来て、その時、すべてと個々のものの中でその社会と一つとなって働きます。というのは、自分自身の形の中に、すなわち、自分自身の心の状態の中にやって来るからです。
サタンと呼ばれる別の愛があり、それは悪魔と呼ばれる前述の愛に従属しています。それはどんな悪の技巧によってでも他の者の財産を所有しようとする愛です。悪意ある才気と欺くことはその仲間です。この地獄にいる者は一般にサタンと呼ばれ、また前のものにいる者は一般に悪魔と呼ばれ、ひそかに行動しない者はそこでその名前を拒否しません。ここから、地獄は組み合わせて悪魔とサタンと呼ばれます。
すべての天界は二つの愛にしたがって区別されて天的と霊的の二つの王国の中にあるので、二つの地獄は一般にそれらの二つの愛にしたがって区別されています。そして悪魔の地獄は反対の位置にある天的な王国と対応し、そしてサタンの地獄は反対の位置にある霊的な王国と対応します。天界が天的と霊的の二つの王国に区別されることは、著作『天界と地獄』(20―28番)に見られます。
このようなものである自然的な心が地獄の形をしていることは、すべての霊的な形は最大のものと最小のものの中でそれ自体に似ているからです。ここから、それぞれの天使は小さい形の中の天界であり、このこともまた著作『天界と地獄』(51―58番)に示されています。このことからもまた、悪魔かサタンであるそれぞれの人間または霊は小さい形の中の地獄であることになります。

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273◀︎目次▶︎275

274 (2) 地獄の形と映像である自然的な心は、三つの段階を通って下る
すべての最大のものと最少のものの中に高さと幅の段階と呼ばれる二種類の段階があることは、前に見られます(222―229番)。自然的な心にもまた、その最大のものと最少のものの中にこのような段階があります——ここでは高さの段階が意味されます。
自然的な心は、推理力と自由と呼ばれる二つの能力から、三つの段階を通して上り、三つの段階を通して下ること、善と真理により上り、悪と虚偽により下ることができるような状態の中にあります。上る時、地獄へ向かう低い段階は閉ざされ、そして降る時、天界へ向かう高い段階は閉ざされます。
反作用の中にあるのがその理由です。
これらの高いまた低い三つの段階は、生まれて間もない人間には開かれも閉ざされてもいません。というのは、その時、善と真理について、また悪と虚偽について無知の中にいるから。しかし、その前者か後者の中に自分自身を入れるほど、一方か他方が開かれるか閉ざされるかします。
地獄に向かって開かれるとき、意志に属する支配愛は最高または最内部の位置を割り当てられます。その愛からの理解力である虚偽の思考は第二のまたは中間の位置を割り当てられます。そして思考を通して愛の結論は、すなわち、理解力を通して意志の結論は最も低い位置を割り当てられます。
ここにもまた高さの段階と同様のものがあり、それらについては以前に述べましたが、例えば、秩序の中の目的・原因・結果、または最初の目的・中間の目的・最後の目的です。これらの段階の降下は身体に向かっています。ここから、それらの段階は降下の中で、粗悪になり、物質的に、形体的になります。
みことばからの真理がそれらの段階を形作るために第二の段階の中に結び付けられるなら、その時、それらの真理は、悪の愛である最初の段階から虚偽化され、召使いや奴隷になります。そのことから、みことばからの教会の真理が、悪の愛の中にいる者、すなわち、彼らの自然的な心が地獄の形の中にある者のもとで、どんなものになるか明らかにすることができます。手段として悪魔に仕えるので、冒涜されてしまいます。というのは、前に言われたように、自然的な心の中で支配する悪の愛は、地獄であり、悪魔であるからです。

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275 (3) 地獄の形と映像である自然的な心の三つの段階は、天界の形と映像である霊的な心の三つの段階と対立している
 自然的・霊的・天的と呼ばれる心の三つの段階があること、それらの段階から構成される人間の心は天界に目を向け、それへとそれ自体を曲げることは、前に示されました。ここから、自然的な心は、下方を眺める時、またそれ自体を同様に三つの段階から構成される地獄に向けて曲げること、それぞれのその段階が天界である心の段階に対立していることを知ることができます。
 このようであることが霊界の中で見られたことから私にはっきりと明らかとなりました。すなわち、三つの天界があり、それらは高さの三つの段階にしたがって区別されていること、三つの地獄があり、そしてそれらもまた高さまたは深さの三つの段階にしたがって区別されていること、地獄はすべてと個々のものにおいて天界に対立していること——なおまた最低の地獄は最高の天界に対立し、中間の地獄は中間の天界に対立し、最高の地獄は最も低い天界に対立することです。
 地獄の形の自然的な心も同様です。というのは、霊的な形は、最大のものの中と最少のものの中でそれ自体に似ているから。
 天界と地獄がこのように反対の位置にあるのは、それらの愛がこのように対立しているからです。
 天界の中で、主への愛は、またここから隣人に対する愛は最内部の段階をつくります。しかし、地獄の中で、自己愛と世俗愛は最内部の段階をつくります——天界の中で、その愛からの知恵と知性は中間の段階をつくります。しかし、地獄の中で、知恵と知性に見える愚鈍と狂気は、その愛から中間の段階をつくります——けれども、天界の中で、二つのそれらの段階からの終結が最も低い段階をつくり、それらは知識として記憶の中に蓄えられるか、あるいは身体の中で行為の中に確定しています。地獄の中で、二つのそれらの段階からの終結が最外部の段階をつくり、それらは知識となり、あるいは行為となっています。
 天界の善と真理が、地獄の中で、どのように悪と虚偽に、このように正反対のものに変えられるか、次の経験から明らかにすることができます。
 私は、ある神的な真理が天界から地獄の中に流れ下ったことを聞き、それが降下の途中で徐々に虚偽に変わり、そのように最低の地獄へ降下したとき、まったく正反対のものに変わったことを聞きました。このことから、すべての善と真理に関して地獄は段階にしたがって天界に対立していること、反対に向きを変えた形の中への流入によって悪と虚偽になることが明らかです。なぜなら、すべての流入が受け入れる形とそれらの状態にしたがって知覚され、感じられることは、よく知られているからです。
 反対のものへの回転があることは、次の経験からもまた私に明らかとなりました——天界と比べて、その位置にある地獄を見ることが与えられ、そこに頭を下に、足を上にして、逆さである者が見られました。しかし、彼ら自身には、足の上に直立して見えたのであり、このことは対蹠地の住民にたとえられることができる、と言われました。
 これらの経験の証拠から、地獄の形と映像である自然的な心の三つの段階は、天界の形と映像である霊的な心の三つの段階に対立していることを明らかにすることができます。

神の愛と知恵

275◀︎目次▶︎277

276 (4) 地獄である自然的な心は、天界である霊的な心に逆らって対立するすべてのものの中にある
 愛が対立する時、知覚するすべてのものも対立します。というのは、人間のいのちそのものをつくる愛から、流れがその泉から流れ出るように、他のすべてのものが流れ出るからです——ここからでないものは、自然的な心の中で、ここからであるものから分離します。
 彼の支配する愛からのものは中央にあり、他のものは脇に置かれます。その脇へ置かれるものが、みことばからの教会の真理であるなら、中央からさらに遠く、脇へ遠ざけられ、ついに追放され、その時、人間は、すなわち、自然的な心は、悪を善のように知覚し、虚偽を真理のように見ます、そして逆に〔善を悪のように知覚し、真理を虚偽のように見ます〕。
 悪意を知恵、狂気を知性、欺きを思慮分別と、悪の技巧を才気と信じることは、このことからです。その時、教会と礼拝のものである神的なものや天界のものもまた、無価値なものとされ、身体と世に属するが最も重要なものとされます。
 そのように、そのいのちの状態は、頭のものであるものを足の裏のものに、また足の裏のものであるものを頭にするように、逆さまになります。
 このように人間は生きているものから死んだものになります。
 心が天界である者は生きている、そして心が地獄である者は死んでいる、と言われます。

神の愛と知恵

276◀︎目次▶︎278

自然的な心の三つの段階のすべてのものは、身体の行動によってなされる行為に含まれている

277 この「第三部」の中に述べられている段階の知識によって次のアルカナ(秘義)が明かされます。心の、すなわち、人間の意志と理解力のすべてのものは、その活動の中に、すなわち、その行ないの中に、明らかに見られるものや見られないものも、種の中、実の中、または卵の中にかろうじて存在することです。
活動、すなわち、その行ないそのものは、それらが外なるものの中にあるようにしか見えませんが、それでも、内なるものの中に無数のものがあります。というのは、協力する全身の運動神経の力があり、それらの力を引き起こし、決定する心のすべてのものがあるからであり、それらが第三の段階であることは前に示されました。
また、それらの中に心のすべてのものがあるので、人間の意志のすべてのものは、すなわち、情愛のすべてのものは第一の段階を構成しています。理解力のすべてのものが、すなわち、彼の知覚からの思考のすべてのものが存在し、それらは第二の段階をつくります。記憶のすべてのものが、すなわち、思考からの観念のすべてのものが存在し、ここから導き出されたものは話すことに最も近く、それらは第三の段階をもたらします。
これらから、確定した活動の中に働きがあり、視覚の外なる形の中に、その前にあるものは見られませんが、それでもそれらは実際に内在しています。
最外部のものは合成物、容器、基礎であること(209―216番)、高さの段階はその最終的なものの中で完全なものとなっていること(217―221番)は前に見られます。

神の愛と知恵

277◀︎目次▶︎279

278 目で眺められる身体の活動は、外なる形で種、実、卵のように、また殻の中のナッツやアーモンドのように単純なものや単一のものに見え、それでも、すべての最外部のものは囲まれており、それぞれの段階もまたおおいで囲まれ、それによって他から分離しており、このことによって前のものから分離しているので、それ自体の中にそれを存在させている前のものすべてを含んでいます——それゆえ、第一の段階のものであるものは第二の段階から知られず、この段階のものであるものも第三の段階から知られません。
 その例として——心の第一の段階である意志の愛は、心の第二の段階である理解力の知恵の中では、事柄についての何らかの楽しさによらないなら、知られません——いま述べたように、意志の愛である第一の段階は、第三の段階である記憶の知識の中では、知ることや話すことの何らかの快さによらないなら、知られません。
 これらから、身体の活動である行ないは、それらのすべてのものを含みますが、それでも、外なる形の中で、一つのような単純なものに見えることになります。

神の愛と知恵

278◀︎目次▶︎280

279 このことは次のことから確認されます——人間のもとにいる天使は、心から行為の中にあるものを個々に知覚します。霊的な天使は、理解力からそこにあるものを知覚し、天的な天使は意志からそこにあるものを知覚します。このことは背理のように見えますが、それでも真理です。
しかし、心の中に、意図している事柄は、すなわち、現在する事柄は真ん中にあり、他のものはその親近感にしたがって、その周囲にあることを知らなくてはなりません。
天使は、「人間がどんなものであるかはその個々の行ないから、それでも、彼の決定にしたがって情愛の中に、ここから思考の中にあるいろいろな愛に類似したものから知覚する」と言っています。
一言でいえば、霊的な人間のすべての活動は、すなわち、すべての行ないは、天使の前で、余計なものが除かれて食べられるときの、うまくて、役に立つ、美しい果実のようであり、それは味、役立ち、楽しみを与えます。
人間の活動と行ないについて、天使はこのように知覚していることもまた前に見られます(220番)。

神の愛と知恵

279◀︎目次▶︎281

280 人間が話すことも同様です。
 天使は人間の話し方の音声から彼の愛を知り、音声の区切り方から彼の知恵を、またその語の意味から彼の知識を知ります。さらにまた、ことばは結論のようなものであるので、それらの三つのものがそれぞれの語の中に存在する、と言っています。というのは、その中に音声、区切り、意味があるからです。
 私は第三の天界の天使から、「連続しているそれぞれの話しの音声から、その音の全般的な気質の状態を、さらにまた特定的な何らかの状態も知覚している」と言われました。
 みことばの個々の単語に、神的な知恵に属する霊的なものと、神的な愛に属する天的なものがあり、聖なるみことばが人間により読まれるとき、それらが天使により知覚されることは、『新しいエルサレムの教え聖書について』の中で、数多く示されています。

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280◀︎目次▶︎282

281 これらから、自然的な心が三つの段階を通して地獄へ下っている人間の行ないの中に、彼のすべての悪とすべての虚偽が存在すること、自然的な心が天界へ上っている人間の行ないの中に、彼のすべての善とすべての真理が存在すること、またそれらは天使により、人間の話しと行動だけから知覚されることが結論されます。
 ここから、みことばの中で、人間は自分の行ないしたがってさばかれること、自分のことばの勘定書を支払わなければならないことが言われています。

神の愛と知恵

281◀︎目次▶︎283

第四部

エホバであられる永遠からの主は、全世界とそのすべてのものを無からでなく、ご自分から創造された

282 唯一の神が存在し、その方が全世界の創造者であられることは、全地球でよく知られ、また内的な知覚から賢明なすべての者により承認されています。みことばから、全世界の創造者、神は、唯一の「存在」なので、その「存在」〔のことば〕からエホバと呼ばれることが、よく知られています。 永遠からの主がそのエホバであられることは、『新しいエルサレムの教え、主について』の中で、みことばから多くのことが示されています。
エホバは人間を地獄から救うために人間性をまとわれたので、永遠からの主と呼ばれ、またそのとき、ご自分を主と呼ぶよう弟子たちに命じられました——それゆえ、次のことから明らかにすることができるように、エホバは「新約聖書」の中で主と呼ばれています、

 あなたの全心から、あなたの全霊から、あなたの神、エホバを愛さなくてはならない(申命記6:5)。

また「新約聖書」に、

 あなたの全心から、またあなたの全霊から、あなたの神、主を愛さなくてはならない(マタイ22:37)。

福音書に引用された「旧約聖書」からの他の箇所でも同様です。

神の愛と知恵

282◀︎目次▶︎284

283 明るく照らされた理性から考えるすべての者は、何らかのものが無からつくられることができないことを見るので、無から全世界が創造されないことを見ます。なぜなら、無は無であり、無から何らかのものをつくることは矛盾しており、矛盾していることは、神的な知恵からの真理の光に反しているからです。何であれ、神的な知恵からでないものは、神的な全能からのものでもありません。
明るく照らされた理性から考えるすべての者は、創造されたすべてのものは本質的に実体である実体からのものであることもまた見ます。というのは、それは「存在」そのものであり、存在するすべてのものはそこから存在するようになることができるからです——神おひとりが本質的に「実体」であられ、ここから「存在」そのものであられるので、物事の存在は別の源泉からでないことが明らかです。
このことは理性が見ることを与えるので、多くの者に見られます。しかし、創造された全世界が神からなので神であること、あるいは、自然がそれ自体から存在すること、このようにその最内部のものが神と呼ばれるものである、というような思考が起こったとしても、恐れて、あえて確認しません。
ここから、自分の理解力がゴルディオスの結び目にもつれ込み、その後、そこから解放されることないようにと、多くの者が、すべてのものの存在が神から、また「存在」そのものから以外の別の源泉からでないことを見るとはいえ、それでもそのことについて最初の思考からあえて先へ進むことをしません。
理解力が解放されることができない理由は、神について、神からの全世界の創造について、自然に固有のものである時間と空間から考え、自然から神と全世界の創造について知覚することは、だれもできないからですが、理解力が何らかの内的な光の中にあるすべての者は、神からの自然とその創造を知覚することができます。神は時間と空間の中に存在しないからです。
神性は空間の中に存在しないこと(7―10番)、神性は空間なしに全世界のすべての空間を満たすこと(69―72番)、神性は時間なしにすべての時間の中に存在すること(73―76番)は、前に見られます。
神は全世界とそのすべてのものをご自分から創造されたとはいえ、それでも創造された全世界の中に神であるものは少しもないこと、この事柄に光を投げかけるさらに多くのことが続きの中に見られます。

神の愛と知恵

283◀︎目次▶︎285

284 この著作の「第一部」では、神について、神は神的な愛と神的な知恵であり、いのちであり、なおまた唯一の「存在」そのものである「実体」と「形」であることを扱いました。
 「第二部」では、霊的な太陽とその世界について、そして自然的な太陽とその世界について、全世界はそのすべてのものとともに神から両方の太陽によって創造されたことを扱いました。
 「第三部」では、創造されたすべてと個々のものがそれらの中にある段階について扱いました。
 そこで、この「第四部」では、神による全世界の創造について扱います。これらについて扱われる理由は、天使が世の中を眺める時、暗やみ以外に何も見えず、人間のもとに彼らの知恵の支えとなる、神、天界、自然の創造についての知識が何もないことを、主の前で嘆いているからです。

神の愛と知恵

284◀︎目次▶︎286

永遠からの主は、すなわち、エホバは、人間でないなら、全世界とそのすべてのものを創造することはおできならなかった

285 人間としての神について、自然的で物質的な観念をもっている者は、人間としての神がどのように全世界とそのすべてのものを創造することができたか、まったく理解することができません。というのは、自分自身では、人間としての神がどのようにして空間から空間へと巡り、創造することができるのか? あるいは、ご自分の居場所から、どのように、ことばを発し、言うことができ、そのことばが言われたとき、どのように創造されたのか? と考えるからです。
神が人間であることが言われるとき、このようなものが、神人間について世の人間と同じように考える者、神について自然とその固有のものである時間と空間から考える者の観念の中に起こります。
しかしながら、神人間について、世の人間から、自然とその空間と時間から考えない者は、神が人間でないなら、全世界は創造されることができなかった、と考えます。
あなたの思考を、神は人間であるという天使の観念の中に入れ、そしてできるかぎり空間の観念を取り去りなさい、すると、あなたは真理への思考に近づきます。ある学者もまた、霊的なものは空間なしに知覚されるので、霊と天使は空間の中に存在しないことを知覚しています——というのは、思考は人間の中に存在するとはいえ、それでも人間はその思考によって、どんな場所でも、最も離れたところでも、他のところにいるように存在することができ、霊的なものはその思考のようなものであるからです。
霊と天使たちの状態はこのようなものであり、彼らは、その身体に関してもまた人間です。
霊界の中の空間と距離は外観であり、彼らの情愛からの思考と一つのものとして働くので、彼らの思考がある場所に、そこに彼らが見られます。
これらから、霊界のはるかに上に太陽として見られる神について、その方に何らかの空間の外観は存在することができず、空間から考えてはならないこと——その時、神が全世界を無からでなく、ご自分から創造されたことを理解することができ、なおまた、その方の人間としての身体は、すなわち、何らかの背丈は、このこともまた空間のものなので、大きいまたは小さいと考えられることはできないこと、そしてここから、最初のものと最後のものの中で、そして最大のものと最少のものの中で同じであること、そして、これに加えて、人間性は、空間なしに、すべての被造物の中で最内部のものであることを明らかにすることができます。
神性は最大のものと最小のものの中で同じであること(77-82番)、神性は空間なしに全世界のすべての空間を満たすこと(69-72番)は、前に見られます。また、神性は、自然の最内部に存在するように、空間の中にもなく、連続もしていません。

神の愛と知恵

285◀︎目次▶︎287

286 神が人間でないなら全世界とそのすべてを創造することができなかったことは、知的な者が、愛と知恵、慈悲と柔和、なおまた善と真理そのものが、それらはその方から存在するので、神の中に存在することを自分自身のもとで否定することができないことからきわめて明らかに理解することができます。これらを否定することができないので、神が人間であることも否定することができません。というのは、人間から切り離されたとき、それらのどれも存在することはできないからであり、人間はそれらの主体であり、それらをその主体から分離することは、それらが存在しないと言うことであるからです。
知恵について考え、それを人間の外に置いてみなさい、それは何ですか? あなたはそれをエーテルのようなものとして、あるいは炎のようなものとし考えませんか? もしかして、それらの中にないなら、あなたは考えることはできないし、もしそれらの中なら、人間にあるような知恵は形の中になくてはなりません。知恵がその中にあるために、それはすべてにおいてひとつも欠けることができないその形の中になくてはなりません。一言でいえば、知恵の形は人間です。また知恵の形は人間であり、これらは知恵と一つとして働くのでので、愛、慈悲、柔和、善と愛の形でもあります。
愛と知恵が形の中でしか存在することができないことは前に見られます(40―43番)。

神の愛と知恵

286◀︎目次▶︎288

287 愛と知恵が人間であることは、主からの愛とここからの知恵の中にいればいるほど、それだけ人間の美の中にいる天界の天使からもまた明らかにすることができます。
同じことを、みことばの中でアダムについて、愛と知恵の形に創造されたので、神に似ているものと映像に創造されたこと(創世記1:26)から明らかにすることができます。
地球のすべての人間は身体に関して人間の形に生まれています。その理由は、その霊は、それは霊魂ともまた呼ばれますが、人間であり、主からの愛と知恵の受け入れることができるものである人間であるからです。人間の霊または霊魂は、受け入れば受け入れるほど、それだけ取り巻く物質的な身体の死後、人間になり、受け入れなければ受け入れないほど、それだけ怪物になります。その怪物は受け入れる能力から何らかの人間的なものを得ています。

神の愛と知恵

287◀︎目次▶︎289

288 神は人間であるので、それゆえ、統一体として天使の全天界は、一人の人間を表わします。そしてそれは人間の肢体、内臓、器官にしたがって、部位と領域に分かれています。というのは、脳のすべての領域、顔の器官のすべての領域、なおまた身体の内臓のすべての領域をつくる天界の社会があるから。そしてそれらの領域は、人間のもとのそれらのように、互いに完全に区別されます——さらにまた天使は自分たちが「人間」のどの領域にいるか知っています。
 全天界はこの似姿で存在します、神が人間であるからです。そして天界を構成する天使は、主からの愛と知恵を受け入れるものであり、受け入れるものは映像であるので、神は天界です。天界が人間のすべてのものの形をしていることは、『天界の秘義』の多くの章の終わりに示されています。

神の愛と知恵

288◀︎目次▶︎290

289 これらから、神について「人間」とは考えない者、「人間」から分離した神の属性はまったくの想像の所産であるので、神の属性について「人間」としての神の中に存在しないと考える者の観念は空虚なものであることがわかります。
神は「人間そのもの」であられ、すべての人間はその方から愛と知恵を受け入れるのにしたがって人間であることは、前に見られます(11-13番)。
これからの続きのために、ここにまた、神は人間であるので、神による全世界の創造が知覚されるように確認しておきました。

神の愛と知恵

289◀︎目次▶︎291

永遠からの主は、すなわち、エホバは、ご自分から霊界の太陽を生み出され、その太陽から全世界とそのすべてのものを創造された

290 この著作の「第二部」に霊界の太陽について扱われ、そこに次のことが示されています—— 神的な愛と神的な知恵は、霊界の中に太陽として見られる(83-88番)。
その太陽から霊的な熱と霊的な光が発出する(89-92番)。
その太陽は神ではなく、神人間の神的な愛と神的な知恵から発出するものであり、その太陽からの熱と光も同様である(93-98番)。
霊界の太陽は中間の高さにあり、自然界の太陽が人間から遠く離れているように、天使から遠く離れて見える(103-107番)。
霊界の東は、主が太陽として見られるところであり、ここから他の方位がある(119-123, 124-128番)。
天使は自分の顔を常に太陽としての主に向けている(129-134, 135-139番)。
主は、神的な愛と神的な知恵の最初に発出するものである太陽によって、全世界とそのすべてのものを創造された(151-156番)。
自然界の太陽は純粋な火であり、その太陽から起源を導いている自然は、ここから死んだものである。 自然界の太陽は、創造の働きが完成され、終えることができるために、創造された(157-162番)。
一つは生き、もう一つは死んでいる二つの太陽なしに、創造は存在しない(163-166番)。

神の愛と知恵

290◀︎目次▶︎292

291 「第二部」で示されたものにまた、次のこともあります。その太陽は主ではなく、その方の神的な愛と神的な知恵から「発出されるもの」であることです。
 「発出されるもの」と言われるのは、その太陽は神的な愛と神的な知恵からのものであり、それらは本質的に実体と形であり、神性はこれを通して発出するからです。
 しかし、人間の理性は、事柄をその原因から見ないなら、このようにまた、どのようにしてなのか知覚しないなら、満足しないようなものであるので、それゆえ、ここに霊界の太陽がどのようにして生み出されるのか、その太陽は主ではなく、その方から発出されるものですが、このことについて何らかのものを述べます。
 この事柄について私は天使と多くのことを話し、彼らは、「自分たちの霊的な光の中でこのことをはっきりと知覚しているが、そのことを自然的な光の中にいる人間の前で示すことがほとんどできない。二つの光に、またここからの思考に、このような相違があるからである」と言いました。
 それでも彼らは次のように言いました。「このことは、それぞれの天使を取り巻き、それによって近くの者と遠くの者に彼らの居合わせることが示される情愛とここからの思考のスフェアに類似している。その取り巻くスフェアは天使そのものではなく、彼の身体のすべてと個々のものからであり、それから実体が流れのように連続的に流れ出、また流れ出るものが彼を取り囲む——その身体に隣接するこれらの実体は、いのちの運動の二つの泉である心臓と肺によって、連続的に活動して、大気中にその活動をひき起こし、そのことによって他の者のもとに彼が居合わせるような知覚を示す——このように、たとえそのスフェアは発する、続く、と言われても、情愛とそこからの思考と別のスフェアではない、情愛は彼の心の形の単なる状態であるからである」。
 さらに、「このようなスフェアがそれぞれの天使のまわりにあるのは、主のまわりにあるからであり、その主のまわりのスフェアは同様にその方からのものであり、そのスフェアが、彼らの太陽、すなわち、霊界の太陽である」と言いました。

神の愛と知恵

291◀︎目次▶︎293

292 しばしば、このようなスフェアが天使と霊のまわりにあること、そしてまた社会の中の多くの者のまわりに共通のスフェアがあることを知覚することが与えられ、またそれをいろいろな外見で、天界の中では、時々、希薄な炎の外見で、地獄の中では、鈍い火の外見で、また時々、天界の中では、希薄で白く輝く雲の外見で、また地獄の中では、濃くて黒い雲の外見で見ることも与えられ、そしてまた、いろいろな香りと悪臭で、それらのスフェアを知覚することも与えられました。これらから私は、天界の中のだれもが、地獄の中のだれもが、彼らの身体から解かれ、分離した実体から構成されるスフェアで取り巻かれていることを確信しました。

神の愛と知恵

292◀︎目次▶︎294

293 さらにまた、スフェアは天使と霊たちだけからでなく、その世界に見られるすべてと個々のものからもまた出ていることが知覚されました。例えば、そこの木々とそれらの実から、灌木とそれらの花から、草本から、草から、それどころか、土とそれらの個々のものからです——それらから、生きているものと同様に死んだものも、その中の内部にある似たものにより取り囲まれ、これはその似たものから連続的に散されているという普遍的な法則があることが明らかです
 自然界でも同様であることは、多くの学者たちの経験から、よく知られています——例えば、人間から、さらにそれぞれの動物、また木、実、灌木、花から、それどころか、金属や石からも、発散物の波が常に流れ出ていることです。
 自然界はこのことを霊界から、霊界は神性から得ています。

神の愛と知恵

293◀︎目次▶︎295

294 霊界の太陽を構成しているものは、主からのものであり、主ではないので、それゆえ、それ自体では、いのちではありません——天使と人間から流れ出て、彼らのまわりにつくられるスフェアが、天使または人間ではなく、いのちを奪われたものであるように、彼らからのものは、本質的に、いのちを奪われたものです。そのスフェアは調和するのでなければ天使または人間とひとつとなりません。彼らの中で、彼らのいのちの形であった彼らの身体の形から引き出されたものであるからです。
 このことは、天使が自分の霊的な観念によって思考の中で見ること、話して表わすこともまたできます、けれども、人間が自然的な観念によってそうすることのできないアルカナ(秘義)です。千の霊的な観念が一つの自然的な観念をつくり、その一つの自然的な観念は人間により何らかの霊的な観念に、ましてそれだけ多くの数に分解されることができないからです。
 その理由は、高さの段階にしたがって異なっているからであり、そのことについては「第三部」の中で扱われています。

神の愛と知恵

294◀︎目次▶︎296

295 天使と人間の思考の間にこのような相違があることを、私は次の経験によってよく知るようにされました。
 天使に、「何らかの事柄について霊的に考え、その後、何を考えたか私に言うように」と言われました。このことがなされ、私に言おうとしたとき、彼らはできず、それらを映し出すことができないと言いました——彼らの霊的な話し方も、また彼らの霊的な書き方も同様でした。霊的な話し方の言葉に自然的な話し方の言葉に似ているものは何もありませんでした。霊的な書き方も、それぞれの文字が完全な意味を含んでいる、その文字を除いて自然的な書き方と似ていませんでした。
 しかし、驚くべきことですが、天使は、「人間が自然的な状態の中で考え、話し、書くのと同様に、自分たちも霊的な状態の中でそのようにしているように見える、そのときそれでも何も似たものはない」と言ったのです。
 これから、自然的なものと霊的なものは高さの段階にしたがって異なること、また対応によってでないなら互いの間に伝達もないことが明らかとなりました。

神の愛と知恵

295◀︎目次▶︎297

主の中に、主である三つのもの、愛の神的なもの、知恵の神的なもの、役立ちの神的なものがある。それら三つのものは、霊界の太陽の外に、熱によって愛の神的なもの、光によって知恵の神的なもの、容器である大気によって役立ちの神的なものが、これらの外観の中に示されている

296 霊界の太陽から熱と光が発出していること、熱が主の神的な愛から、光がその方の神的な知恵から発出していることは、前に見られます(89-92, 99-102, 146-150番)。
それでここでは、そこの太陽から発出する第三のものが大気であり、それは熱と光の容器であり、それは主の神性から発出し、「役立ち」と呼ばれることを述べます。

神の愛と知恵

296◀︎目次▶︎298

297 何らかの照らしの中で考えるすべての者は、愛が目的として役立ちをもち、それを意図すること、また知恵によって役立ちを生み出すことを見ることができます。というのは、愛はそれ自体から何らかの役立ちを生み出すことはできませんが、知恵によってできるから。それどころか、愛されている何らかのものがないなら、愛とは何ですか? 
 この何らかのものが役立ちです。役立ちは愛されるもの、知恵によって生み出されるものであるので、役立ちは知恵と愛の容器であることがいえます。
 この三つのものである愛・知恵・役立ちは、高さの段階にしたがって秩序の中で続くこと、また最終的な段階は前の段階の合成物、容器、基礎であることは〔前に〕示しました(219―216番、また他の箇所に)。
 これらから、それら三つのものである愛の神的なもの・知恵の神的なもの・役立ちの神的なものは主の中にあること、本質的に主であることを明らかにすることができます。

神の愛と知恵

297◀︎目次▶︎299

298 人間がその外的なものと内的なものに関して、すべての役立ちの形と見なされること、創造された全世界の中のすべての役立ちがその役立ちに対応することは、続きの中で十分に論証されます。ここでは、知らなければならないために、人間としての神は役立ちの形そのものであること、創造された全世界の中のすべての役立ちはその起源をその形から得ていること、このように、創造された全世界は役立ちに関してその方の映像と見なされることだけを話しに出します。
神人間から、すなわち、主から創造により秩序の中に存在するものは役立ちと呼ばれます。しかし、人間のプロプリウム(固有のもの)からのものは役立ちと呼ばれません。というのは、人間のプロプリウムは地獄であり、それからのものは秩序に反するからです。

神の愛と知恵

298◀︎目次▶︎300

299 そこで、これら三つのもの、愛・知恵・役立ちは、主の中にあり、主はどこでも存在されるので主です、というのは、遍在されるから。主はご自分が本質的にどのように存在し、そしてご自分の太陽の中にどのように存在するか、天使と人間にその臨在を示すことがおできならないので、それゆえ、ご自分を受け入れることのできるようなものによって、ご自分を愛に関して熱によって、知恵に関して光によって、役立ちに関して大気によって示されます。
 主がご自分を役立ちに関して大気によって示されるのは、役立ちが愛と知恵の容器であるように、大気は熱と光の容器であるからです。というのは、神的な太陽から発出する熱と光は、無の中に、したがって真空の中に発出することはできないで、主体である容器の中へ、発出するから。私たちはこの容器を大気と呼びます。それは太陽を取り巻き、その太陽を内部に受け入れ、天使のいる天界へ、またここから人間がいる世へ移します。こうして主の臨在がどこでも示されます。

神の愛と知恵

299◀︎目次▶︎301

300 自然界の中のように、霊界の中にも等しく大気があることは、前に示しました(173-178, 179-183番)。霊界の大気は霊的であること、そして自然界の大気は自然的であることも述べました。そこで、霊的な太陽に最も近く取り巻いている霊的な大気の起源から、そのそれぞれのものが本質的に太陽のようであることを明らかにすることができます。
このようであることを、天使は空間なしのものである自分の霊的な観念によって、次のことによって言明しています。「唯一の実体が存在し、そのものからすべてのものが存在し、霊界の太陽はその実体である。神的なものは空間の中に存在せず、また最大のものの中と最少のものの中で同じであるので、このことは神人間から最初の発出するものであり、その太陽でも同様である——またさらに、唯一の実体である太陽は、連続の段階、すなわち、幅の段階にしたがって、また同時に、分離した段階、すなわち、高さの段階にしたがって、発出する大気によって、創造された全世界の中にすべてのものの変化を引き起こしている」ことです。
天使は、「これらは空間が観念から取り除かれないなら、決して理解されることができない。取り除かれないなら、外観が欺きを引き起こさないはずがない——それでも神は「存在」そのものであり、それからすべてのものが存在することが考えられるとき、それらの欺きは引き起こされることができない」と言いました。

神の愛と知恵

300◀︎目次▶︎302

301 さらに、空間なしのものである天使の観念から、創造された全世界の中に、神人間だけしか、すなわち、主だけしか、何も生きていないこと、その方からの力によってしか何も動かされないこと、その方からの太陽によってしか、何も存在しないこと、そのように、私たちは、神の中で生き、動かされ、存在することが真理であることがはっきりと明らかです。

神の愛と知恵

301◀︎目次▶︎303

霊界と自然界の両方の世界の中に三つある大気は、地にあるような実体と物質の中に、その最後のものの中に終わる

302 霊的と自然的な両方の世界の中の三つの大気は、互いに高さの段階にしたがって分離し、またそれらは低いものに向かって進む中で、幅の段階にしたがって減少することは、「第三部」の中で示しました(173-176番)。
低いものに向かって進む大気は減少するので、連続的に圧縮され、不活発になり、ついに最後のものの中ではもはや大気でないように圧縮され、不活発になり、活動を休んだ実体、自然界の中の固定したもの、物質と呼ばれる地にあるようなものになることがいえます。
その実体と物質の起源から、次のことがいえます。

第一、それらの実体と物質もまた三つの段階の中にある。
第二、それらは取り巻く大気によって互いに結びつきの中に保たれる。
第三、それらは形において、すべての役立ちを生み出すのに適している。

神の愛と知恵

302◀︎目次▶︎304

303 最初のものから最後のものまで絶え間なく媒介が存在する、と考える者ならだれでも、地にあるような実体と物質が、太陽によりその大気を通して生み出されたことを、前のものからでないなら、最終的には「最初の者」からでないなら、それ自体で何も存在することができないことを肯定するでしょう。そして最初のものは霊界の太陽であり、その太陽の「最初の者」は、神人間、すなわち、主です。
 さて、大気は前のものであるので、それらの大気によってその太陽はそれ自体を最後のものの中に示し、前のものである大気は絶えず活動と拡張で最後のものにまで減少するので、それらの活動と拡張を最後のものの中で終えるとき、地にあるような実体と物質になることがいえます。大気からの実体と物質は、起源が大気にあるので、それ自体の中に役立ちを生み出す活動とコナトゥス(努力)を保有します。
 全世界とそのすべてのものの創造を「最初のもの」から連続する媒介によらないで確証する者は、その原因からは砕かれ、ばらばらとなった仮説を立てざるをえません。それらの仮説は、物事を内的に見通す心により調べられるとき、家のように見えないで、がれきの積み重ねのように見えます。

神の愛と知恵

303◀︎目次▶︎305

304 創造された全世界の中のすべてのものはこの普遍的な起源をもつので、そこの個々のものも同様のものを得ています。それらは相対的に静かな状態の中で終わり、休むように、最初のものから最後のものへと進むものです。
人間の身体の中で、繊維はその最初の形から腱になるまで、なおまた繊維は小管とともにその最初の形から軟骨と骨になるまで進み、それらのところで活動を終え、休みます。
このように進むことが最初のものから最後のものまで人間の中の繊維と管にあるので、それゆえ、同様にそれらの状態も進みます——それらの状態とは、感覚、思考、情愛の状態です。それらも状態もまたそこの光の中にある最初のものから、そこの陰の中にある最後のものまで、または、そこの熱の中にある最初のものから、そこの熱の中にない最後のものまで、通過します——それらが進むことがこのようであるので、愛とそのすべてのものが、さらに知恵とそのすべてのものが進むのもこのようです。一言でいえば、創造された全世界の中のすべてのものはこのように進みます。
このことは前に示されたこと(222―229番)と同じであり、それは二種類の段階が創造された最大のものと最少のもののすべてのものの中にあることです。
二種類の段階が最少のもののすべてのものの中にもあることは、天使の霊的な観念にしたがえば(300番)、霊的な太陽が唯一の実体であり、それからすべてのものが存在するからです。

神の愛と知恵

304◀︎目次▶︎306

地が存在するもとである実体と物質の中に、神性は本質的に何も存在しないが、それでも、それらは神性から本質的に存在する

305 前章での地の起源から、地の実体と物質それ自体の中に、何も神性は存在せず、本質的にすべての神性を奪われていることを明らかにすることができます。というのは、述べられたように、地は大気の末端、終結であり、それらの熱が冷たさの中に、光が暗黒の中に、活動が無活動の中に終わるからです。
しかしそれでも、地は霊的な太陽の実体から伝達によって、そこに主からであったものを受けました。それは前に言われたように(291-298番)、神人間、すなわち、主を取り巻くスフェアでした——このスフェアから、大気の媒介で太陽からの継続によって実体と物質が生じ、それらから地がつくられます。

神の愛と知恵

305◀︎目次▶︎307

306 大気を媒介にした霊的な太陽による地の起源は、自然的な観念から流れ出る言葉によって述べられることはできませんが、霊的な観念からの言葉によってならできます、それらの言葉は空間の観念のないものであるからです。空間の観念がないものなので、自然的な言語の何らかの言葉の中に落ち込むこともありません。
霊的な考え方、話し方、書き方は、自然的な考え方、話し方、書き方とは、何ら共通なものがないほどに相違すること、また対応によってのみ〔霊的なものが自然的なものに〕伝達することは前に見られます(295番)。それで、地の何らかの起源が自然的に知覚されるだけで十分です。

神の愛と知恵

306◀︎目次▶︎308

創造の目的であるすべての役立ちは、形の中にあり、形を地にあるような実体と物質から得ている

307 太陽、大気、地のようなこれまで言われたすべてのものは、単に目的のための手段です。
創造の目的は、太陽としての主により大気を通して地から生み出されものであって、これらは役立ちと呼ばれます——その範囲には、植物界のすべてのものがあり、動物界のすべてのもの、最後に人類、またそこから天使の天界があります。
これらは愛の神的なものと知恵の神的なものを受け入れるものであるので役立ちと呼ばれます。なおまた、創造者なる神からの役立ちは、その方に目を向け、またそのことによってその方をその偉大な働きと結びつけるので、結びつけることによって、その方から存在するようになったように、存続します。
創造者なる神からの役立ちがその方に目を向け、またその方をその偉大な働きと結びつける、と述べましたが、このことは外観から述べたのであって、創造者なる神が、あたかも役立ちに目を向かせ、役立ち自体がそれ自体から結びつくようにすることが意味されます。どのように目を向けさせ、またそのことによって結合させるか、続きの中で述べます。
それらについては、前の箇所でいくつか扱っています。例えば、神的な愛と神的な知恵は、それ自体から創造された他のものの中に存在し、存在するようになることしかできないこと(47-51番)、創造された全世界のすべてのものは、神人間の神的な愛と神的な知恵を受け入れるものであること(55-60番)、創造されたすべてのものの役立ちは、最後のものから人間へ、また人間を通って、それらはその方からである創造者なる神へ、次第に上昇すること(65-68番)です。

神の愛と知恵

307◀︎目次▶︎309

308 創造者の神からは役立ち以外に何も存在するようになることができないこと、ここから役立ち以外に何も創造されることができないこと、そして役立ちであるためには、他の者のためであること、自分自身のための役立ちもまた他の者のためであること、なぜなら、自分自身のための役立ちは、他の者の役立ちとなるような状態の中にいることであり、これらのことを考えるとき、創造の目的が役立ちであることを、だれがはっきりと見ないでしょうか? 
 このことを考える者は、その役立ちは人間から存在することができないで、人間のもとにその方から、このように主から存在するようになるすべてのものが役立ちであることもまた考えることができます。

神の愛と知恵

308◀︎目次▶︎310

309 しかし、ここに役立ちの形について扱うので、それらについて次の順序で述べます——

 (1) 地に、形の中の役立ちを、すなわち、役立ちの形を生み出すコナトゥス(努力)があること。
 (2) 役立ちのすべての形の中に、全世界の創造のある種の映像があること。 
 (3) 役立ちのすべての形の中に、人間のある種の映像があること。
 (4) 役立ちのすべての形の中に、「無限なる者」と「永遠なる者」のある種の映像があること。

神の愛と知恵

309◀︎目次▶︎311

310 (1) 地の中に、形の中の役立ちを、すなわち、役立ちの形を生み出すコナトゥス(努力)がある
地にそのコナトゥスが存在することは、それらの起源から明らかです——実体と物質は、それらから地が存在しますが、大気の末端と終結であり、それらは霊的な太陽から役立ちとして生み出されることを前に述べました(305, 306番)。地をつくる実体と物質は、その起源からであり、それらの集合は大気の周囲から働く圧力から結びつきの中に保たれるので、ここからそれらに役立ちの形を生み出す絶え間ないコナトゥスが存在することがいえます。生み出すことのできる特質そのものを、その起源から得ています。その特質は、地が大気の最外部であることにあり、それゆえ、大気と調和します。地にこのようなコナトゥスと特質があると言われます、しかし、地が存在することなる実体と物質にあることが意味されます。それらが地の中にある、あるいは地からの発散物として大気の中にあるにしてもです。大気がこのようなもので満ちていることは、よく知られています。
このようなコナトゥスと特質が地の実体と物質にあることは、次のことから明らかです。熱によって最内部までも開かれたすべての種類の種は、最も微細な実体から受精させられ、これは霊的な起源からであるようなものでしかありえず、またそのことによってそれ自体を役立ちに結合する力の中に、そこからそれらの生殖力があること、その時、自然的な起源からの物質との結合を通して、役立ちの形を生み出すこと、またその後、それらを子宮からのように送り出すこと、さらにまた光の中にやって来るように、またこうして発芽し、成長することです。
このコナトゥスはその後、地から根を通して最後のものへ、最後のものからそれらの中に役立ちそのものがある最初のものへ、その起源の中へ続きます。
このように役立ちは形の中へ移ります。形は、霊魂のようである役立ちから、最初のものから最後のものへ、最後のものから最初のものへ進む中で、それらのすべてと個々のものが何らかのものにとって役立ちであることを得ています。役立ちは、その形が身体のようであるので、霊魂のようであると言われます。
動物界のために生育によって役立ちを生み出すコナトゥスであるさらに内的なコナトゥスが存在します、なぜなら、すべての種類の動物はそれらから滋養物を与えられるからです。それらの中にもまた、人類に果たす役立ちのコナトゥスである最内部のコナトゥスがあることになります。
そのことからこれらがいえます——

(1) 最外部のものがあり、最外部のものの中に同時にすべての前のものがその秩序の中に、前にたびたび示されたものにしたがって存在すること。
(2) 前に示されたように(222-229番)、二種類の段階が最大のものと最少のもののすべてのものの中に、同様にそのコナトゥスの中にあること。
(3) すべての役立ちは主により最外部のものから生み出され、それゆえ、最外部のものの中にそれへのコナトゥスがなくてはならないこと。

神の愛と知恵

310◀︎目次▶︎312

311 しかしそれでも、これらのすべてのコナトゥスは生きていません、というのは、コナトゥスは、いのちの最外部の力であるからです。いのちからのものですが、それでも、いのちからの力によって、与えられた手段を通してその起源に戻る努力が内在します。
 最外部の中の大気は、それらから地にあるような実体と物質が存在しますが、このような力となり、形の中へと活動的にさせられ、形の中に保たれます。
 このことを多くのもので示すと、大仕事となるのでその時間はありません。

神の愛と知恵

311◀︎目次▶︎313

312 地がまだ新しく、単純であった時、これらの地から最初に産出されたものは種でした。それらの中の最初のコナトゥスは他のものではありえません。

神の愛と知恵

312◀︎目次▶︎314

313 (2) 役立ちのすべての形の中に全世界の創造のある種の映像がある
三種類の役立ちの形があります——鉱物界の役立ちの形、植物界の役立ちの形、動物界の役立ちの形です。

 鉱物界の役立ちの形は、目に見えないので、述べることができません。
第一の形は、地をつくる実体と物質の最少のものの中にあります。第二の形は、それらからの集合であり、それらには無限の変化があります。第三の形は、塵となった植物から、また死んだ動物から、それらから続く蒸発物や発散物からであり、それらは地に付け加わり、土となります。
これら三つの段階の鉱物界の形は太陽により大気を通って、それらの熱と光を通って形の中に、創造の目的であった役立ちを生み出すことの中に、その映像の中に創造を表わしています。これらの映像は、それらのコナトュスの中に(それらについては前の310番)深く隠されています。

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313◀︎目次▶︎315

314 植物界の役立ちの形の中に、植物界の最初のものからその最後のものへ、最後のものから最初のものへ進むことの中に創造の映像が見えます。
 それらの最初のものは種であり、それらの最後のものは樹皮でおおわれた幹であり、幹の最外部である樹皮によって、種へ向かいます。種は、述べたように、それらの最初のものです。樹皮の層でおおわれた幹は、創造とすべての役立ちの形が存在する地でおおわれた地球を表わします。樹皮、内側の樹皮、外衣によって植物は、幹と枝の周りにまで連続する根の被膜によって苦労して進みながら、実の最初の段階の中へ、同様に実によって種の中へと生長することは、多くの者によく知られています。
 創造の映像は、役立ちの形の中に、最初のものから最後のものへ、最後のものから最初のものへと形成される進行の中に現われ、なおまた、すべての進行の中に実と種を生み出す目的があることに現われます。その目的が役立ちです。
 前述のことから、全世界の創造の進行は、その「最初の者」である太陽に囲まれた主から、地である最後のものへであり、これらから役立ちを通してその「最初の者」、すなわち、主へであり、なおまた全創造の目的は役立ちであったことが明らかです。

神の愛と知恵

314◀︎目次▶︎316

315 創造のこの映像に対して、自然界の熱、光、大気はまったく何も成し遂げることはなく、霊界の太陽の熱、光、大気だけが成し遂げ、これらがそれら自体にその映像をもたらして、それを植物界の役立ちの形に着せることを知らなくてはなりません。
 自然界の熱、光、大気は、単に種を開き、それらの生み出すものを拡げることの中に保ち、またそれらにそれらを固定させる物質を着せるだけですが、このことは本質的に見て無であるその太陽からの力によってではなく、霊的な太陽からの力によって、絶えずそのことへ駆り立てられるのです。それでも、それらに創造の映像を与えるためには、まったく何も寄与しません。というのは、創造の映像は霊的であるから——しかし、自然界の中で見られ、役立ちを果たすように、そして固定し、持続するように、それは物質からつくられたもの、すなわち、世の物質を詰め込んでつくられたものでなければなりません。

神の愛と知恵

315◀︎目次▶︎317

316 動物界の役立ちの形の中に同様に創造の映像があります。例えば、子宮または卵の中に送られた精子から最後のものである身体が形作られ、それは成熟するとき、新しい精子を生み出すことです。 この進行は植物界の役立ちの形の進行と同様です。精子は始まりであり、子宮または卵は地のようです。出産前の状態は、地の中の種の状態のようであり、その時、根を伸ばします。生殖までの出産後の状態は、結実の状態までの木の生育のようです。
この相似性から、植物の形の中に創造に類似したものがあるのように、動物の形の中にもあること、すなわち、最初のものから最後のものまで、また最後のものから最初のものまでへの進行があることが明らかです。
同じような創造の映像が、人間の中の個々のものの中にも存在します。なぜなら、同様に、愛は知恵によって役立ちの中へ進み、ここから同様に、意志は理解力によって行動の中に、また同様に、仁愛は信仰によって働きの中に進むからです。
意志と理解力は、なおまた仁愛と信仰は、始まる最初のものです。行動と働きは最後のものです。これらから、役立ちの楽しさよりその最初のものへ、述べられたように、意志と理解力または仁愛と信仰であるものへ戻ることがなされます。
戻ることが役立ちの楽しさからなされることは、それぞれの愛のものである行動と働きの楽しさの知覚からはっきりと明らかです。それは、愛のもとの最初のものへ逆流し、そのことによって結合があるためです。行動と働きの快さは、役立ちと呼ばれるものの快さです。
最初のものから最後のものへ、最後のものから最初のものへの進行と同様のものは、人間のもとの情愛と思考の器官の最も純粋な形の中に現われます。人間の脳の中に星のような形があり、それらは灰質と呼ばれます。それらから繊維が髄質により首を通って身体の中へ出て、最後のものまでに達し、最後のものからその最初のものへ戻ります。繊維がその最初のものへ戻ることは血管を通して行なわれます。
情愛と思考のすべての進行も同様であり、それらは形と実体の変化とその多様な状態です。というのは、それらの形または実体から出る繊維は、比べれば霊的な太陽からの熱と光の容器である大気のようであり、身体からの活動は、地から生み出された大気によるそれらの活動のようであり、それらの役立ちの楽しさはもとの起源へ戻るからです。
しかし、これらにこのような進行があること、またその進行に創造の映像が内在することは、理解力で十分に把握することはほとんどできません、その理由は、行動の中に働く数千や数万の力が一つのように見えるからであり、思考の中で、役立ちの楽しさがその思いを示さないで、明確に知覚させることなく〔感情に〕働きかけるだけであるからです。
これらについては、前に述べ、示されたものを見てください。例えば、創造されたすべてのものの役立ちは、高さの段階によって人間へ上昇し、人間を通ってもとの創造者である神へ上昇すること(65-68番)。創造の目的は最後のものの中に存在するようになり、それは、すべてのものは創造者に戻り、そして結合があるために存在することです(167-172番)。
しかし、これらは心臓と肺との意志と理解力の対応について扱われる次の部の中で、さらに明るい光の中で見られます。

神の愛と知恵

316◀︎目次▶︎318

317 (3) 役立ちのすべての形の中に人間のある種の映像がある
このことは前に示しました(61-64番)。
すべての役立ちは、最初のものから最後のものまで、最後のものから最初のものまで、人間のすべてのものに関があり、それらと対応します。ここから人間は、全世界のある種の映像であること、逆に、役立ちから見られた全世界は、人間の映像の中にあることが続く章の中に見られます。

神の愛と知恵

317◀︎目次▶︎319

318 (4) 役立ちのすべての形の中に「無限なる者」と「永遠なる者」のある種の映像がある
これらの形の中の無限なる者の映像は、全地球を、また多くの地球を無限に満たすコナトゥスと力から明らかです。というのは、一つの種から、木、灌木、草が生み出され、それらはその空間を満たし、それぞれの木、灌木、草から、種が、あるものからは数千もの種が生み出され、それらが芽を出し、生長して、その空間を満たすから。それぞれの種から多くの新しい産物が再びまた再びと生まれるなら、数年の内に全地球が満たされ、さらに産出が続けられたなら、多くの地球が満たされ、このことが無限に続けられたでしょう。
一つの種から千の種が生じると計算してみなさい、そして千を一万に、二万に、十万に引き上げてみなさい、するとあなたにわかるでしょう。
「永遠なる者」の映像もまた同様にこれらの中にあります。年々、種は繁殖し、その繁殖は決して終わりません。世の創造から今まで終わらず、また永遠に終わりません。
これらの二つは、全世界のすべてのものが「無限なる者」と「永遠なる者」である神により創造されたことの明らかな証拠であり、証しするしるしです。
「無限なる者」と「永遠なる者」のこれらの映像のほかに、さらに「無限なる者」と「永遠なる者」の映像が多様性の中にあります。創造された全世界の中に、他と同じ実体、状態、物は、大気の中にも、地にも、それらから生ずる形の中にも存在することができません。このように全世界を満たすものの中に何もなく、同じものは永遠に生み出されることができません。
このことは、人間の顔の相違の中に見られます。ある顔とそれと同じ他の顔は全地球の中に存在しません、ある顔と他のそれと同じ顔は永遠に存在することもできません。結果として、同じ気質(アニムス)の者はいません、顔がその気質を象徴しています。

神の愛と知恵

318◀︎目次▶︎320

役立ちから見られた創造された全世界のすべてのものは、人間の映像の中に映し出されており、そのことは神が人間であることを証ししている

319 人間は全統一体としての全世界である大宇宙を映し出していることから、古代人により小宇宙と呼ばれました——今日では、どうして人間が古代人によりそのように呼ばれたのか知られていません。というのは、人間の中に全世界から、すなわち、大宇宙からのものには、その動物界や植物界から食物を与えられて身体に関して生き、またその熱から生き、その光によって見、その大気によって聞き、呼吸する状態の中に保たれること以上に多くのことが見られないからです——しかし、これらのものは、全世界がそのすべてのものとともに大宇宙であるようには、人間が小宇宙であるようにはしません。
 それでも、古代人が人間を小全世界、すなわち、小世界と呼んだのは、天界の天使と伝達していた最古代人にあった対応の知識からでした。というのは、天界の天使は、自分たちのまわりに見ることのできるものから、役立ちに関して見られた全世界のすべてのものが人間の映像の中に映し出されていることを知っているからです。

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319◀︎目次▶︎321

320 けれども、役立ちに関して見られた創造された全世界が人間の映像の中にあることから、人間が小宇宙、すなわち、小世界であることは霊界の中で見られる全世界についての観念ですが、その観念が、だれかの思考の中にやって来ること、ここから知識となることはできません。
 それゆえ、このことは、霊界の中にいる天使からでないなら、あるいは、その世界いること、そしてそこにあるものを見ることが与えられた者からでないなら、確認されることができません。
 このことが私に与えられたので、私はそこで見たことから、このアルカナ(秘義)を啓示することができます。

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320◀︎目次▶︎322

321 外なる見かけでは、霊界は自然界とまったく同様であることを知らなくてはなりません。
 そこには、自然界の中のように土地、山、丘、谷、平野、野原、湖、川、泉が、このように鉱物界のすべてのものが見えます。さらにまた、楽園、庭園、木立ち、森が、それらのすべての種類の樹木や灌木、果実や種とともに、なおまた花、草本、草が、このように植物界のすべてのものが見えます。すべての種類の獣、飛ぶ動物、魚が、このように動物界のすべてのものが見えます。そこの人間は天使や霊です。
 このことがあらかじめ言われるのは、霊界のすべてのものは、そこに自然的なものは何もなく、すべてが霊的なものなので、そこにあるものは自然界の中のもののように固定した、不変なものでないことだけが相違して、自然界のすべてのものとまったく同様であることを知らなくてはならないためです。

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321◀︎目次▶︎323

322 その世界のすべてのものが映像の中に人間を映し出していることは、今(321番)言及されたそれらすべてのものが、天使のまわりに、天使の社会の周囲に、彼らから生み出され、創造されたかのように生き生きと見られ、存在するようになり、彼らのまわりにとどまり、去らないことから、はっきりと明らかにすることができます。
 彼らから生み出されるか、創造されたようなものであることは、天使が立ち去るとき、または社会が他に移るとき、もはや見られないことから明らかです。なおまた他の天使が彼らの場所にやって来る時、彼らのまわりのすべてのものの外観は変わります。楽園は樹木と果実が変わり、花壇はバラと種が、なおまた平原は草本と草が、獣と飛ぶ動物の種類もまた変わります。
 このようなものが存在するようになることと、このように変わることは、それらのすべてのものは天使の情愛とそこからの思考にしたがって存在するようになるからです。というのは、それらは対応であるから。それら対応するものは、対応するものと一つとなっているので、それゆえ、それらは表象する映像です。
 その映像そのものは、それらすべてのものがその形の中で眺められる時には見えませんが、それらが役立ちの中で眺められる時に見られます。
 天使は、自分たちの目が主により開かれている時、またそれらを役立ちの対応から見る時、自分たち自身がそれら〔対応物〕の中いることを認め、それらを見ます。このことを見て、知ることが私に与えられました。

神の愛と知恵

322◀︎目次▶︎324

323 それで、天使のまわりのものは彼らの情愛と思考にしたがって存在するようになり、その土地、植物、動物の中にある種の世界が、映し出され、これらが天使の表象する映像をつくるので、古代人がどこから人間を小宇宙と呼んだか明らかです。

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323◀︎目次▶︎325

324 このようであることは、『天界の秘義』の中に、そしてまた著作『天界と地獄』の中に、さらにまた、これまで対応について扱われている中に、多くの機会に論証されています。
 そこにもまた、創造された全世界の中に、人間の何らかのものと対応しないものは、人間の情愛とそこからの思考とだけでなく、その身体の器官や内臓と対応しないものは、何も存在しないこと、実体としてそれらと対応するのでなく、役立ちとしてそれらと対応することが示されています。
 ここから、みことばの中に教会とその教会の人間について扱われているとき、しばしば、オリーブの木、ブドウの木、ヒマラヤスギのような木の名前が挙げられ、なおまた庭園、木立ちと森、地の獣、空の飛ぶ動物、そして海の魚が述べられているのです。対応するのでそこに名前が挙げられ、述べてきたように、対応によって一つとなっています。
 それゆえ、天使もまた、このようなものが人間により、みことばの中で読まれるとき、それらを知覚しないで、それらの代わりに教会を、すなわち、教会の人間を状態に関して知覚します。

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324◀︎目次▶︎326

325 全世界のすべてのものは映像として人間を映し出しているので、アダムは知恵と知性に関して「エデンの園」によって述べられています。その園の中のすべての種類の木、そしてまた、川、宝石や金、なおまた彼の名付けた動物、それらすべてによって、彼のもとにあり、人間と呼ばれるものを形成したようなものが意味されます。
ほとんど同様のことが「エゼキエル書」のアッシリヤについて言われており(31:3-9)、それによって知性に関する教会が意味されます。ツロ(エゼキエル28:12, 13)については、それによって善と真理の知識に関する教会が意味されます。

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325◀︎目次▶︎327

326 それで、これらから、役立ちから見られた全世界のすべてのものは、映像として人間を映し出されていること、そのことは神が人間であることを証しすることを明らかにすることができます——なぜなら、前に言及されたこのようなものは、人間天使のまわりに、天使からでなく、天使を通して神から存在するようになるからであり、それらは受け入れるものである天使の中へ、主の神的な愛と神的な知恵が流入することから存在するようになり、その目の前で全世界の創造のように生み出されるからです。そのことからそこに、神は人間であること、役立ちに関して見られた創造された全世界はその方の映像であることが知られています。

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326◀︎目次▶︎328

主により創造されたすべてのものは役立ちである。その秩序、段階、関連の中に役立ちがあり、その役立ちにより人間に関係し、人間を通してそれらが存在するもとであられる主に関係する

327 前に次のことについて言われました。

創造者の神からは役立ち以外に何も存在するようになることはできない(308番)。
創造されたすべてのものの役立ちは、最後のものから人間へ、また人間を通って、それらのもとである創造者なる神へと次第に上昇する(65-68番)。
創造の目的は最後のものの中に存在するようになることであり、それはすべてのものは創造者に戻り、 そして結合があるためである(167-172番)。
創造者へ目を向けるかぎり、役立ちとなる(307番)。
神性は、それ自体から創造されたもの以外のものの中に存在し、存在するようになるしかありえない(47番)。
全世界のすべてのものは役立ちにしたがった容器であり、これは段階にしたがっている(58番)。
役立ちから見られた全世界は神の映像である(59番)。その他、多くのもの。

それらから次の真理が明らかです。主により創造されたすべてのものは役立ちであること、それらは人間に関係し、人間を通してもととなる主に関係する中で、秩序、段階、相互関係において役立ちであることです。
ここでは残る部分で、役立ちについて何らかのものを詳細に述べます。

神の愛と知恵

327◀︎目次▶︎329

328 役立ちが関係する人間によって、単に人間だけでなく、人間の集団、大小の社会、例えば、共和国、王国や帝国、また最大の社会である世界の全部もまた意味されます。なぜなら、それらは「人間」であるからです。
天界も同様です——天使の全天界は、同じく、天界のそれぞれの社会は主の前で一人の「人間」のようです。ここから、それぞれの天使は人間です。
そのようであることは、著作『天界と地獄』の中に見られます(68-103番)。
これらから、続きの中で人間によって何が意味されるか明らかです。

神の愛と知恵

328◀︎目次▶︎330

329 全世界の創造の目的から、役立ちとは何か明らかにすることができます。全世界の創造の目的は、天使の天界が存在するようになるためです。天使の天界が目的であり、天界は人間から存在するので、人間、すなわち、人類もまた目的です。
 ここから、創造されたすべてのものは、中間の目的であること、これらは人間に関係し、人間を通して主に関係し、秩序、段階、相互関係の中で役立ちであることがいえます。

神の愛と知恵

329◀︎目次▶︎331

330 創造の目的は人類からの天使の天界であり、このように人類であるので、それゆえ、創造された他ののすべてのものは中間の目的です。人間に関係するので、その身体、理性、霊的なもの、これら三つのものは、主との結合を目指しています。というのは、人間は霊的なものがないなら主と結合されることができず、理性がないなら霊的なものも存在することができず、身体が健全な状態の中にないなら、理性も存在することができないからです。
 これらは家のようです——身体は土台、理性は家の上部構造、霊的なものはそれら家の中にあるもののようであり、主との結合はそこに住むことのようです。
 ここから、役立ちは、創造の中間の目的である秩序、段階、相互関係において、人間に関係すること、すなわち、その身体を維持するためのもの、その理性を完成するためのもの、主から霊的なものを受け入れるためのものであることが明らかです。

神の愛と知恵

330◀︎目次▶︎332

331 身体を維持するための役立ち
 これは、人間の食物、衣服、住むこと、元気回復や享楽、保護、状態の維持に関係します。
 身体の食物のために創造された役立ちは、食べ物と飲み物である植物界のすべてのものです。例えば、果実、ブドウ、種、野菜や草です——なおまた食べられ動物界のすべてのもの、例えば、牛、子牛、鹿、子ヤギ、ヤギ、子羊、またこれらからの乳、なおまた多くの種類の鳥や魚です。
 身体に着ることのために創造された役立ちも、これらの二つの界からの多くのものです——住むことのための、元気回復、享楽、保護、また状態の維持のための役立ちも同様です。それらはよく知られているので、列挙するまでもありません、それらを列挙するだけでページを満たすでしょう。
 確かに、人間の役立ちとならない多くのものが存在します。けれども、余分なものは役立ちを妨げないし、役立ちをやり遂げるようにしています。
 役立ちの濫用もまた存在しますが、濫用によって、真理が虚偽化されても真理は取り除かれないように、ただそれを行なう者もとだけを除いて、役立ちは取り除かれません。

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331◀︎目次▶︎333

332 理性を完成するための役立ち
 これは、これまで述べたことを教えるすべてのものであり、知識と勉学と呼ばれ、それらは、自然、経済、市民生活、道徳に関係します。それらは、両親や教師から、本から、他の者との交際から、あるいはそれらについての熟考を通して、自分自身から、学ばれます。
 これらのものは、高い段階の中の役立ちであればあるほど、それだけ理性を完成させ、生活に適用されればされるほど、それだけ存続します。これらの役立ちを列挙する暇はありません、数が多いことと普遍的な善との関連で多様であるためです。

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332◀︎目次▶︎334

333 主から霊的なものを受け入れるための役立ち
 これは、宗教のものとそこからの礼拝のすべてのものです。したがって、それらから神の承認と知識、善と真理の知識と承認を、またこのように永遠のいのちを教えられます。それらは学問と同様に、両親、教師、説教や本から、特にそれらにしたがった生活の追求を通して——キリスト教世界では、みことばからの教えと説教を通して、主からのみことばを通して——学ばれます。
 これらの役立ちの範囲は、身体の役立ちと同様のものによって、食物、衣服、住むこと、元気回復や享楽、状態の保護のように述べられることができます。ただ〔身体の役立ちを〕霊魂へ、〔すなわち〕食物を愛の善へ、衣服を知恵の真理へ、住むことを天界へ、元気回復や享楽を生活の幸福へや天界の楽しさへ、保護を攻撃する悪へ、状態の維持を永遠のいのちへ適用すればよいのです。
 これらのすべてのものは、身体のものもすべて、主からのものです、また人間は自分の主人の財産の管理人を命じられた単なる召し使いや仕える者のようなものである、と承認することにしたがって、主から与えられます。

神の愛と知恵

333◀︎目次▶︎335

334 このようなものが人間に役立つために与えられていること、恵みの賜物であることは、地上の人間と同様に身体、理性、霊的なものをもつ天界の天使の状態からはっきりと明らかです。彼らは日々、自分たちに食物が与えられるので、ただで食べ、衣服が与えられるので、ただで着て、家が与えられるので、ただで住み、それらすべてのものを何も心配しません。理性的で、霊的であればあるほど、それだけ彼らに享楽、保護、状態の維持があります。
 天使は、これらのものが彼らの愛と知恵の状態にしたがって創造される(前章の322番に示されています)ので、主からであることを知っていますが、人間は、〔天からの恵みとは言われても〕毎年、繰り返され、また彼らの愛と知恵の状態にしたがっていないで、彼らの苦労にしたがって生じるので、そのことを知らない、という相違があります。

神の愛と知恵

334◀︎目次▶︎336

335 人間を通して主に関係するので役立ちであると言われても、それでも役立ちは人間による主のためのものであると言われることはできず、すべての役立ちは主の中で無限に一つであり、また主からでないなら人間の中に何もないので、というのは、役立ちと呼ばれるものは善であり、主からでないなら人間は自分自身から善を行なうことができないからであり、主による人間のためのものです。
霊的な愛の本質は他の者に善を、自分自身のためでなく、他の者のために行なうことであり、神的な愛の本質はこのことがをさらに無限に行ないます。このことは子供に対して、自分自身のためでなく、彼らのために、善を行なう両親の愛と似ており、幼児に対する母の愛の中にはっきりと見られます。
主は崇拝し、礼拝し、賛美すべきであるので、主は、崇拝、礼拝、賛美をご自分のために愛する、と信じられています。しかし、主はそれらを、人間がそうすることによって、主が流入し、受け入れられることができるような状態にやって来るので、人間のために愛します。なぜなら、そのことによって人間は〔主の〕流入と受容を妨げるプロプリウムを遠ざけるからです——というのは、プロプリウムは心を固くし、閉ざす自己愛であるから。これは、自分自身からは悪しか行なわず、善は主からでしか行なわれないことを承認することによって遠ざけられます。ここから、心の軟化と卑下があり、そこから崇拝と礼拝が生じます。
これらから、主がご自分に人間を通して実行される役立ちは、その人間が愛から善を行なうためであることがいえます。そのことが主の愛であるので、受け入れることは主の愛を楽しむことです。
そこで、だれも、主は単にご自分を崇拝する者のもとにおられると信じてはなりません、主の命令を、このように役立ちを行なう者のもとにおられ、後者のもとに住まわれますが、前者のもとには住まわれません。(これらについては前の47-49番にもまた述べられていることが見られます)

神の愛と知恵

335◀︎目次▶︎337

悪い役立ちは、主により創造されなかったが、地獄と一緒に生じた

336 活動して存在するようになるすべての善は役立ちと呼ばれ、活動して存在するようになるすべての悪もまた役立ちと呼ばれますが、後者は悪の役立ちと呼ばれ、前者は善の役立ちと呼ばれます。
 それで、すべての善は主からであり、すべての悪は地獄からであるので、善以外の役立ちは主により創造されなかったこと、また悪の役立ちは地獄から生じたことがいえます。
 役立ちによって、そのことについてこの章の中で特に扱いますが、地上に見られるすべての種類の動物、すべての種類の植物のようなすべてのものもまた意味されます——人間に役立ちを果たすそれらのものは、主からであり、また人間に害を引き起こすそれらのものは地獄からです。
 同様に主からの役立ちによって、人間の理性を完成させ、人間が主からの霊的なものを受け入れるようにするすべてのものが意味されます。しかし、悪の役立ちによって、理性を破壊し、人間が霊的になれないようにするすべてのものが意味されます。
 人間に害を引き起こすものが役立ちと呼ばれるのは、悪い者には悪いことをするために役立ちであり、有害性を吸収することへ、このようにまた治療へも導くからです——愛のように、例えば、善い愛と悪い愛のように、役立ちが両方の意味で言われます。愛は、愛により行なわれるものをすべて役立ちと呼びます。

神の愛と知恵

336◀︎目次▶︎338

337 善の役立ちは主からであり、悪の役立ちは地獄からであることを次の順序で示します——

 (1) 地上の悪の役立ちによって何が意味されるか。
 (2) 悪の役立ちであるすべてのものは地獄の中にあり、善の役立ちであるすべてのものは天界の中にある。
 (3) 霊界から自然界の中へ絶え間のない流入がある。
 (4) 地獄からの流入が悪の役立ちに働きかけ、その場所にはそれらに対応するものがある。
 (5) 高い霊的ものから分離された最も低い霊的なものが、そのことを働きかける。
 (6) 二つの形、植物の形と動物の形があり、それらの中への流入によって働きが生じる。
 (7) 両方の形はそれ自体の種と属を繁殖させる能力と繁殖の手段を受ける。

神の愛と知恵

337◀︎目次▶︎339

338 (1) 地上の悪の役立ちによって何が意味されるか
地球の上の悪の役立ちによって動物界と植物界の両方の中のすべての有害なものが、そしてまた鉱物界の有害なものも意味されます。
これらすべての有害なものを列挙するには時間がありません、なぜなら、それは名前だけを集めることになってしまうからです。そしてそれぞれの種と属が生み出す有害性を指摘することなしに名前を集めることは、この著作が目的としている役立ちとなりません。
ここでは知識として、いくつか列挙すれば十分です。
そのようなものとして動物界に、有毒なヘビ、サソリ、ワニ、ヘビ、ミミズク、モリフクロウ、ネズミ、イナゴ、カエル、クモ、なおまたハエ、雄バチ、イガ、シラミ、ダニがあります。一言でいえば、それらは草、葉、果実、種、食べ物と飲み物を食い尽し、獣と人間に害をもたらします。
植物界に、有害な、毒性の、また有毒なすべての草本、また同じく、青物や灌木があります。
鉱物界に、すべての有毒な地があります。
これらわずかなものから、地上の悪の役立ちによって何が意味されるか知ることができます——というのは、悪の役立ちは善の役立ちに対立するすべてのものであるから。それらについてはすぐ前の章に述べました〔(336番)〕。

神の愛と知恵

338◀︎目次▶︎340

339 (2) 悪の役立ちであるすべてのものは地獄の中にあり、善の役立ちであるすべてのものは天界の中にある
地上に存在するようになるすべての悪の役立ちは、主からでなく、地獄からであることが知られる前に、あらかじめ天界と地獄についていくつか述べておかなければなりません——そのことが知られないなら、悪の役立ちは善の役立ちと等しく主に帰せられ、創造から一諸であり、あるいは自然に、それらの起源がその自然の太陽に帰せられてしまうでしょう。
霊界から原因とそこからの起源を得ないものは自然界の中に決して何も存在するようにならないこと、善は主からであり、悪は悪魔から、すなわち、地獄からであることが知られないなら、人間はそれら二つの間違いから引き出されることができません。
霊界によって天界と地獄が意味されます。天界に善の役立ちであるものがすべて見られ、それらについては前章に述べました(336番)。けれども、地獄に悪の役立ちであるものがすべて見られ、それらについてはすぐ前に列挙されています(338番)。それらはすべての種類の野獣、ヘビ、サソリ、ヘビ、ワニ、トラ、オオカミ、キツネ、ブタ、ミミズク、フクロウ、モリフクロウ、コウモリ、大小のネズミ、カエル、イナゴ、クモであり、多くの種類の有害な昆虫です——さらにまたすべての種類の毒ニンジン、トリカブト、なおまた草本の中と同じく地の中の毒物です——一言でいえば、害を引き起こし、また人間を死なすものすべてです——このようなものが地獄に、まったく地上と地中のように、生き生きと見られます。
そこに見られると言われますが、それでも、地のようにそこにあるのではありません、というのは、それらは彼らの悪の愛からわき出る欲望に対応するものに他ならず、それ自体をこのような形の中で他の者の前に見せるからです。
このようなものが地獄にあるので、それゆえ、それらは屍、糞、尿、腐敗したもの、そのような忌まわしい悪臭で満ちており、毒が内在するそれらのものを喜ぶ動物のように、悪魔的な霊はそれらを喜ぶのです。
これらから、自然界の中のこれと同じようなのものはその起源を主から得ていないこと、始めから創造されたのではないこと、起源はその太陽からでもなく、地獄からであることを明らかにすることができます。その太陽を通して自然からでないことは、霊的なものが自然的なものの中に流入し、その逆ではないことからはっきりと明らかです——主からでもないことは、地獄が、またそこの彼らに対応する地獄の中の何らかのものも主からではないからです。

神の愛と知恵

339◀︎目次▶︎341

340 (3) 霊界から自然界の中へ絶え間のない流入がある
霊界があり、それは自然界とは前のものと後のもののように、すなわち、原因と結果のように別ものであることを知らない者は、この流入について知ることができません——それで、植物と動物の起源について記述した者が、それを自然から導くこと、神から導くとするなら、神は始めから自然にこのような生み出す力を与えた、としかできなかったのです——このように、自然に何も力は与えられていないことを知りません。というのは、職人の使う道具が、いつまでもその動きをするためのものであるように、自然は本質的には死んだものであり、生み出すためにさらなる寄与はしていないからです。
霊的なものが、主がいる太陽から起源を導き、自然の最後のものにまで進み、植物と動物の形を生み出し、その両方の中に存在する驚くべきものを見せ、その形が固定し、不変であるように、それらを地からの物質で満たします。
さて、霊界が存在すること、霊的なものは主がいる太陽から、その太陽も主からであること、霊的なものは、生きているものが死んだものを動かすように、自然を働くように動かし、なおまた自然界にあるものと同様のものがその世界に存在することがよく知られたので、植物と動物は主からその世界を通してしか存在するようにならないこと、その世界を通して永続して存在するようになること、このように霊界から自然界の中への絶え間のない流入があることを知ることができます。
このようであることを続きの章の中で多くのものにより説明します。
有害なものが地獄からの流入によって地球の上に生み出されることは、同じ許しの法則からであり、その法則によって、悪そのものがここから人間のもとに流入します——その法則については、『神の摂理(について天使の知恵)』の中で述べられます。

神の愛と知恵

340◀︎目次▶︎342

341 (4) 地獄からの流入が悪の役立ちに働きかけ、その場所にそれらに対応するものがある
悪い役立ちに、すなわち、有毒な草本と有害な動物に対応するものは屍、腐敗したもの、糞と尿、腐ったもの、尿でいっぱいのものです。それゆえ、その場所に前に言及されたような草本、またそのような小さい動物が、また熱帯では同様に、ヘビ、バジリスク、ワニ、サソリ、ネズミ、その他、そのようなさらに大きいものが存在するようになります。だれもが、沼、池、糞、悪臭のする土地が、このようなものでいっぱいであること、なおまた有害な飛ぶ動物が雲のように大気を、有害な虫が群れとなって地を満たし、草本を根までも食い尽すことを知っています。
かつて、私は自分の庭園で、50平方センチメートルの場所のほとんどすべてのちりがごく小さな飛ぶ動物に変わることに気づきました、なぜなら、杖で揺さぶると雲のように舞い上がったからです。
屍そして腐ったものはこれらの小さい動物の有害さと無用さとに調和し、同質であることは、〔その〕経験だけからでも明らかであり、この理由から、地獄の中には同じような腐臭と悪臭があり、そこにはこのような小さい動物も見られることをはっきりと知ることができました。それゆえ、ここから地獄が名づけられ、あるものは屍地獄、あるものは糞地獄、あるものは尿地獄などと呼ばれますが、それらすべての地獄は、そこから気体が発散しないようにおおわれています。なぜなら、少しでも開かれる時、そのことは新入りの悪魔が入る時に生じますが、吐き気を催し、頭に重苦しさをもたらし、毒のあるものは、気絶を引き起こすからです——そこのちりそのものもまたこのようなものであり、それゆえ、それらは「断罪された(忌まわしい)ちり」と呼ばれます。ここから、このような腐敗したものがあるところに、対応するので、このように有害なものもあることが明らかです。

神の愛と知恵

341◀︎目次▶︎343

342 このようなものがそこに空気によって、あるいは雨によって、あるいは水路によって移動してきた卵から存在するようになるのか、あるいは湿気と腐臭そのものによってそこに存在するようになるのか、ここで、疑問となるでしょう。
前に言及されたこのような有害な小さい動物と昆虫が、そこに運ばれた卵から、あるいは創造から地の中のどこにでも深く隠されたやはり卵から孵化した、とすることは、虫は穀物、種、木材、石、それどころか葉の中に、さらに草本の上とそれらの中に、それらに調和するシラミや地虫が存在するようになり、なおまた家の中や夏の野原や森のハエは、卵形の物質が何もないのに、同様にこれほどに多く出現するので、そのすべての経験から支持されません。それらには草地と芝生をかじるものがあり、温かい場所では空気中に広がり、悩まします。その他に、悪臭を放つ水、腐敗したぶどう酒、有害な空気の中で、目に見えないで泳ぐ、また飛ぶものがあります。
これらの経験によって、草本、地、また池から発散する臭い、悪臭、気体の発散物そのものが、このような初期のものもまた与えると主張する者が支持されます。
存在するようになった後で、卵、あるいは産み出すことによって繁殖することは、それらが直接に出現することを排除しません。すべての動物は自分の小さい内臓とともに、生殖器官と繁殖の手段もまた受けているからであり、それらの事柄については、後で扱います(347番)。
同様のものが地獄の中にもまたあることは、経験と一致しますが、これは以前に知られていないことです。

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342◀︎目次▶︎344

343 前述の地獄は伝達手段があるだけでなく、地のそれらのものと結合していることが、地獄が人間から遠く離れていないで彼らのまわりにあること、それどころか、悪である者の中にあり、このように地と隣接するものであることから結論することができます。
 というのは、人間は、自分の情愛と欲望に、ここから思考に、またそれらから、善または悪の役立ちである自分の行動に関して、天界の天使の間に、あるいは地獄の霊の間にいるからです。そのようなものは、地上に、天界と地獄にもまたあるので、釣り合いが影響を受けるとき、そこからの流入が直接にこのようなものを生み出すことになります。
 霊界に、天界と地獄も同様に、そこに見られるすべてのものは、対応するものであるからです、なぜなら、情愛と欲望にしたがってそこに存在するようになるからです。
 それゆえ、本質的に霊的なものである情愛と欲望が、地の同質なもの、すなわち、対応するものに会うとき、霊魂となる霊的なものと、身体となる物質が現存するようになります——さらにまた、すべての霊的なものにはそれ自体に身体を着せようとするコナトゥスが内在します。
 地獄が人間のまわりにあり、またここから地に隣接するのは、霊界は空間の中になく、そこに対応する情愛があるからです。

神の愛と知恵

343◀︎目次▶︎345

344 霊界で、私は、イギリスの王立協会の二人の会長スローン卿とフォークス氏が、二人の間で、種と卵が存在するようになること、それらから産出されることについて話しているのを聞きました。
 前者は、それらを自然に帰し、「それらは創造から能力と力を与えられ、太陽の熱によって、このようなものを生み出す」と言い、後者は、「その永続する力は創造者である神から自然の中にある」と言いました。
 その論争を決着するために、スローン卿に美しい鳥が見せられ、地上の同じような鳥と最小の部分でも異なっているかどうか調べるように言われました——彼はそれを手に取り、調べ、「違いはない」と言いました。それは、その鳥はある天使の情愛が彼の外で鳥のような表象されたもの以外の何ものでもなく、彼の情愛とともに消えるか、または存在しなくなることを知ったからであり、そのことも行なわれました。
 スローン卿はこの経験から、自然は植物と動物を産出することに対してまったく何も寄与しないで、それはただ霊界から自然界への流入によることを確信しました。彼は、「もしその鳥の最小の部分が地からの対応する物質で満たされ、またこうして固定されるなら、地上の鳥のように持続する鳥となる、また地獄からのものも同様である」と言いました。「今、霊界について知ったことを知っていたなら、神からの霊的なものに仕えること以上に多くのものを自然に帰すことはしなかった」と言い、「それらは自然の中で固定するために絶え間なく自然の中へ流入するのである」と付け加えました。

神の愛と知恵

344◀︎目次▶︎346

345 (5) 高い霊的ものから分離された最も低い霊的なものが、そのことを働きかける
 「第三部」の中で、霊的なものはその太陽から自然の最も低いものにまで三つの段階を通って流れ下ること、それら三つの段階は、天的な、霊的な、また自然的な段階と言われること、人間の中に創造から、ここから出生から、三つのそれらの段階が内在し、その生活にしたがって開かれること、最高の、最内部のものである天的な段階が開かれるなら、人間は天的になり、中間の霊的な段階が開かれるなら、人間は霊的になり、最も低い、また最外部のものである単に自然的な段階が開かれるなら、人間は自然的になること——単に自然的になるなら、身体と世のものだけを愛し、それらを愛するほど、それだけ天的なものと霊的なものを愛さず、神に目を向けず、またそれだけ悪となることが示されました。
 これらから、最も低い霊的なものは、霊的自然的なものと呼ばれ、さらに高いものから分離されることができること、このことは地獄に行く人間のもとで分離されることが明らかです。
 高いものから分離された最も低い霊的なものは、ただ人間のもとででなければ、それ自体によっても、獣のもとでも、地上にあるものによっても分離されることはできず、また地獄に向かって目を向けることもできません。これらから、高いものから分離された最も低い霊的なものは、地獄の中にいる者にとって、前に述べたように、地上で働きかける彼らの悪の役立ちのようなものとなります。
 地上の有害なものの起源は、人間から、このように地獄から導かれることは、みことばの中のカナンの地の状態から確認することができます。イスラエル民族が戒めにしたがって生活したとき、地はその産物を与え、同じく羊や牛の群れも増えました。戒めに反して生活したとき、地は不毛となり、地は呪われ、収穫の代わりにイバラとアザミが与えられ、羊や牛の群れは流産し、野獣が侵入した、と言われています。エジプトのイナゴ、カエル、またシラミからも同じことを導くことができます。

神の愛と知恵

345◀︎目次▶︎347

346 (6) 二つの形、植物の形と動物の形があり、流入によってそれらの中への働きが生ずる
 動物界と植物界と呼ばれる自然界の二つのものから、二つの普遍的な形しか地から生み出されないことは、また一方の界のすべてのものは多くの共通のものをもつことも、よく知られています。例えば、動物界では、その主体の中に感覚器官と運動器官があり、なおまた脳、心臓と肺から活動する四肢や内臓があります。そして植物界では、その主体は根を地の中に伸ばし、茎(幹)、枝、葉、花、果実、種を生み出します。
 動物と植物の両方の界は、その形を産み出すことに関して、そこに主がおられる天界の太陽からの霊的な流入と働きからその起源を得ており、自然の太陽からは、前に言われたように、それらを固定することだけであって、その自然的な流入と働きからではありません。
 大小のすべての動物は、自然的なものと呼ばれる最も低い段階の中の霊的なものから起源を得ています。人間だけが、天的・霊的・自然的と呼ばれる三つあるすべての段階から起源を得ています。
 高さまたは分離したそれぞれの段階は、その完全なものからその不完全なものへ、光から陰へのように連続によって、低下するので、動物もまたこのようなものであり、それゆえ、そのことから、完全なもの、完全さの劣るもの、不完全なものが存在します。
 完全な動物は、ゾウ、ラクダ、馬、ラバ、牛、羊、ヤギ、大きい群れあるいは小さい群れのその他のものです——完全さの劣るものは飛ぶ動物です。不完全なものは、魚、貝であり、それらは段階の最も低いものであるので、前のものが光の中にあるとき、陰の中にあるかのようです。しかしそれでも、自然的なものと呼ばれる霊的な段階の最も低いものだけから生きるので、地に向けて、そこの食物に向けて、繁殖のために仲間に向けて目を向けるだけで、他のところへ目を向けることができません。それらすべての〔動物の〕魂は自然的な情愛と欲望です。
 植物界の主体も同様であり、完全なもの、完全さの劣るもの、不完全なものがあります——完全なものは果樹であり、完全さの劣るものはブドウの木と灌木であり、そして不完全なものは草です。しかし、述べられたように、植物はもととなる霊的なものから役立ちであることを、動物はもととなる霊的なものから情愛と欲望を得ています。

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346◀︎目次▶︎348

347 (7) 両方の形は、存在するようになる時、繁殖の手段を受ける
 前に言われたように、植物界かあるいは動物界に属する地から産出されたすべてのものの中には、創造の何らかの映像が、なおまた人間の何らかの映像が、そしてまた「無限なる者」と「永遠なる者」の何らかの映像があり、このことは前に示されました(313―318番)。「無限なる者」と「永遠なる者」の映像であることは、無限にまた永遠に繁殖することができることから明らかになります。
 ここから、動物界の主体は、卵あるいは子宮の中の精子を通して、あるいは産み出すことを通して、植物界の主体は地の中の種から、繁殖のすべての手段を受けます。
 これらから、さらに不完全な、有害な動物と植物は、地獄からの直接の流入を通して発生するとはいえ、それでもその発生の後は、間接的に、種(精子)、卵または接ぎ木によって繁殖することを明らかにすることができます——それゆえ、〔直接の〕流入の立場から、〔間接的な〕繁殖は排除されません。

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347◀︎目次▶︎349

348 善と悪のすべての役立ちが、霊的な起源から、このように主がいる太陽からであることは、次の経験によって明らかにできます。
 私は、善と真理が主から天界を通って地獄へ降ろされ、段階を通して受け入れられた同じそれらのものが深淵まで降ろされ、そこでは、降ろされた善と真理の反対のものである悪と虚偽に変えられることを聞きました。このようなことが行なわれる原因は、受け入れる主体がこのようなものに流入するすべてのものを、それらに調和する形に変えるからです。太陽の白く輝く光が、対象の中の内的な実体が光をふさぎ、消すような形をしているとき、その中で、汚れた色にまた黒色に変えられ、池、糞、屍が太陽の熱を腐臭に変えますが、まったくそのように行なわれます。
 これらから、悪の役立ちもまた霊的な太陽からですが、善の役立ちは地獄の中で悪の役立ちに変えられることを明らかにすることができます。
 ここから明らかとなることは、主は善の役立ちしか創造しないし、創造しませんでしたが、地獄が悪の役立ちを生み出すことです。

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348◀︎目次▶︎350

創造された全世界の中に見られるものは、自然が何も生み出さなかったし、何も生み出さないことを、しかし、神性がそれ自体から、霊界を通して、すべてのものを生み出すことを証ししている

349 世の中の大部分の者は外観から、太陽は熱と光から野原、畑、庭園、森の中に見られるものを生み出し、なおまた太陽はその熱によって卵から虫を孵化し、地の獣と空の鳥を繁殖させ、それどころか、人間にもまた生命を与えている、と話します。単に外観からこのように話す者は、このように話すことができますが、それでもそれらを自然に帰しません——というのは、太陽について、「昇る、沈む、そして日と年を引き起し、今、そこに、またはその高さにある」と話す者のように、そのことについて考えないからです。彼らはこのように話す者と同様に外観から話し、それでもそれらを太陽に帰しません、というのは、太陽の位置と地球の回転について考えないから。
 しかし、太陽が熱と光によって地上に見られるもの生み出す、と確信する者は、最後にはすべてのものを、全世界の創造をも自然に帰し、自然主義者に、ついには無神論者になります。これらの者は、確かに後から、「神が自然を創造し、また自然にこれらのものを生み出す力を与えた」と言うかもしれませんが、名声を失う恐れから、このように言うのです。しかしそれでも、創造者なる神によって自然を、ある者はその最内部のもの理解しており、その時、教会の教える神性を無意味なものとしています。

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349◀︎目次▶︎351

350 確かに、ある者に、目に見えるものを自然に帰すことが、二つの理由から許されています——
第一の理由は、主がいる天界の太陽について、そしてそこからの流入について、霊界とその状態について何らかのものも、それどころか、人間のもとに霊界が現在することについても知らず、ここから霊的なものは純粋な自然的なものであるとしか、このように天使はエーテルの中かあるいは星の中にいる、さらに悪魔については、人間の悪であるか、あるいは実際にいるとしても、空中に、あるいは深淵の中にいるとしか考えることができないことです。なおまた人間の霊魂は、死後、地の最内部の中にあるか、あるいは「どこか」に、すなわち「プー」に、審判の日までいるとしか知らなかったことです。霊界とその太陽についての無知から、空想により他の同様のものも引き起こされます。
許されることの第二の理由は、主がどのように、地上に見られる善いものも悪いものも、それらすべてのものを生み出すか、知ることができず、悪いものもまた神に帰し、神について物質的な観念を抱いて、神と自然を一諸にし、こうして混同することを自分自身のともに確信してしまわないようにすることです。
これら二つの理由で、自然は創造により植え付けられたものから目に見えるものを生み出す、と信じる者が許されています。
しかしそれでも、確信して自然を選んで自分自身を無神論者とした者は、神性を選んで確信することもできたので、許されません——無知なら確かに許されますが、確信された虚偽は取り除かれません、なぜなら、この虚偽は悪と、このように地獄と結びつくからです——それゆえ、神性を分離するまでも自然を確信した者は、何も罪と見なしません、すべての罪は神に反するものであるということを分離し、このように〔神を〕退けたからです。心の中で罪を何ら意に介しなかった者は、死後、霊となる時、地獄に結び付けられ、その抑制がゆるめられて、欲望にしたがって邪悪なことに突進します。

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350◀︎目次▶︎352

351 自然の個々のものの中に神的な働きを信じる者は、自然の中に見る非常に多くのものから、自然を確信する者と等しく、それどころか、彼ら以上に神性を確信します。神性を確信する者は、植物と同じく動物の産出の中に見られる驚くべきものに心を向けるからです。
「植物の産出」の中では——地の中に投げられた小さな種から根が出て、根によって茎(幹)、そして連続的に枝、葉、花、果実、新しい種まで、完全に種がこの連続する順序を、またはそれ自体が新しくされる過程を知っているかのようです。
理性的な者のだれが、純粋な火である太陽は、自分の熱と光で、このようなことを引き起こし、なおまたそれら〔植物〕の中に驚くべきものを形作り、そして役立ちを目指すことを〔植物に〕与えることができることを知っている、と考えることができるでしょうか?
理性が高揚されている人間なら、それらのものを見、熟考するとき、無限の知恵がある方から、このように神からとしか考えることができません。
神性を認める者は、そのこともまた知り、〔そのように〕考えています。しかし、神性を認めない者は、欲しないので、そのことを知らないし、〔そのように〕考えず、このように自分の理性を感覚による認識力の中へ降ろし、自分のすべての観念を身体の感覚が属する弱々しい光から得て、「あなたは太陽がその熱とその光によってこれらの働きを生み出しているのを見ませんか? あなたが見ないものとは何ですか? 何らかのものなのですか?」と言って、自分たちの誤りを確信します。
神性を確信する者は、「動物の産出」の中に見られる驚くべきものに心を向けます——このことについて卵にだけ言及しておきます。卵の中にひなが、孵化まで種または始まりの中に、すべての必要なものとともに、また孵化後は、鳥または飛ぶ動物が親の形になるようにまで発達するすべてものとともに隠れています。形に心を向け、深く考えるなら、驚いてしまうにちがいありません。その動物の形の中には、最大のものの中のように最小のものの中にも、それどころか、見えるものの中のように、目に見えないものの中にも、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚である感覚器官があり、さらに筋肉である運動器官あり、というのは飛び、歩くからであり、脳により活動する心臓と肺のまわりの内臓があるからです。
下等な昆虫もまたこのようなものを授けられていることは、ある者により、特に、スワンメルダムにより、彼の『自然の聖書』で記述された解剖によって、よく知られています。
すべてのものを自然に帰する者は、確かにこのようなものを見ますが、存在していることを考えるだけで、自然が生み出す、と言い、このことを、神性について考えることから心をそらせたので、そう言うのです。神性について考えることから心をそらせた者は、自然の中の驚くべきことを見る時、理性的に、まして霊的に考えることができないで、感覚的に、物質的に考えます。その時、地獄の中にいる者がするのと同じように、自然から自然の中で、自然を越えないで考えます。獣との相違は、推理力を授けられていて、すなわち、理解でき、したがって欲するなら異なって考えることができるだけのことです。
〔ここは『結婚愛』416番、『真のキリスト教』12番1, 2, 3で引用されています〕

神の愛と知恵

351◀︎目次▶︎353

352 自然の中の驚くべきものを見るとき、神性について考えることから自分をそらせ、そのことによって感覚的になった者は、多くの小さい昆虫を一つの不明確なものと見るようにも、目の視覚が粗野であることを思いません。それでも、それら虫のそれぞれは感じ、動くために有機的にまとめられていて、このように繊維と器官を、小さな心臓、肺の気管、小さな内臓、脳も備えており、これらのものは自然の中の最も純粋なものから構成され、それらの組織はいのちの何らかのものに対応しており、それらからその組織の最小のものは別々に働きかけられるのです。
 目の視覚がこのように粗野であり、このように多くのそれぞれのもの中に無数のものがあり、それが目に小さい不明確なもののように見え、それでも感覚的である者は、その視覚から考え、判断するとき、彼らの心がどれほど鈍いかまたここからその心が霊的なものについて暗黒の中にいるか、明らかです。
 〔ここは『結婚愛』416番、『真のキリスト教』12番4で引用されています〕

神の愛と知恵

352◀︎目次▶︎354

353 だれでも、自然の中に見ることのできるものから、欲するなら、神性を確信することができ、そしてまた神について生活に基づいて考える者も確信します。例えば、空を飛ぶ動物を見る時です。それらの種類のどんなものでも、自分の食べ物を、またどこにあるかを知っています、音と視覚から仲間を、さらに他の種類でだれが自分たちの友で、だれが敵であるか知り、つがいとなること、交尾を知っています、巧みに巣を作り、そこに卵を置き、それらを孵化し、孵化の時を知っていて、そのことで正確にひなを孵化し、それらを最も優しく愛し、翼の下で育み、食物を与え、また食べさせ、このことをひなが自分自身で行なうまで、家族を生み、自分の種属が永続するためにまた同様のことを行なうことができるまで、するのです。
 霊界を通って自然界の中への神的な流入について考えようと欲する者はすべて、これらの中にそのことを見ることができます。さらにまた、欲するなら、「それら〔鳥〕のこのような知識は、太陽からその光線を通して流入することはできない。というのは、自然がそれ自体の起源と本質を得る太陽は純粋な火であり、ここからその光線はまったく死んだものであるから」、と自分の心に言うこと、このように、「このようなものは自然の最も低いものの中へ神的な知恵が流入するからである」と結論することができます。
 〔ここは『結婚愛』417番、『真のキリスト教』12番5で引用されています〕

神の愛と知恵

353◀︎目次▶︎355

354 だれでも、自然の中に見ることのできるものから神性を確信することができます。虫を見れば、虫はある種の欲望の快さから自分の地的な状態を天界に類似したある種の状態に変えようと求め、そうしたがっています。さらに、再び生まれるために自分を子宮の中へ送るかのように場所の中へ這い、そこでクリサリス(さなぎ)、アウレリア(さなぎ)、エルカ(毛虫)、ニンファ(若虫)、ついに蝶になります。またこの変態を終えた時、種類にしたがって美しい羽を着て、自分の天界のような空中へ飛び出し、そこでうれしそうに遊び、つがいとなり、卵を産み、自分の子孫を備え、その間、花から快い、甘い食べ物を自分の滋養物とします。
 自然の中に見ることのできるものから神性を確信することができる者なら、虫の中に人間の地の何らかの状態の映像を、蝶の中に天界の状態の映像を、だれが見ないでしょうか。
 しかし、自然を確信する者は、それらを見ても、心で人間の天界の状態を退けたので、それらを単なる自然の本能と呼びます。
 〔ここは『結婚愛』418番、『真のキリスト教』12番6で引用されています〕

神の愛と知恵

354◀︎目次▶︎356

355 だれでも、自然の中に見ることのできるものから神性を確信することができます。ミツバチについてよく知られていることに心を向ければ、ミツバチは草本や花から蝋を集め、蜂蜜を吸い、そして巣室を小さい家のように建て、それらを出入りする街路とともに町の形に配列すること、遠方から花と草本をかぎ出し、それらから家のために蝋を、食物として蜂蜜を集め、それらをいっぱい詰め込んで、自分の巣へ方位にしたがって飛んで帰ることを知っています。このように、これからやって来る冬のために、それを先見し、知っているかのように、自分自身に食物と住居を備えます。さらにまた自分たちの上に女王のような女主人を置き、彼女から子孫を繁殖させます。彼女のために、まわりの護衛とともに、いわば宮殿を自分たちの上に建て、彼女は出産の時が迫ると、巣室から巣室へ、護衛により従者たちの中を行き、卵を産み、それを続く集団が空気から害されないように封じます。ここから彼らに新しい子孫があります。その後、これらの子孫が同じことができるような年齢に進んだとき、家から追い出されます。そして、追い出された群れは、最初に集まり、仲間が散らされることのないように集団となり、自分たちに居場所を探すために飛び出します。さらにまた秋の頃、役に立たない雄バチは、連れ出され、戻って、自分たちの食物を、それらに雄バチ何の働きもささげなかったが、食い尽さないように羽を奪われます——その他、多くのことがあります。
これらから、人類に果たす役立ちのためにミツバチに、霊界からの流入から、地上の人間のもとに、それどころか、天界の中の天使のもとにあるような統治の形があることを明らかにすることができます。 理性が損なわれていない者なら、ミツバチのこれらのものが自然界から存在しないことを、だれがわからないでしょうか? 自然のもとである太陽は、統治を模倣するものを、また天界の統治の類似物と共通なものを、何かもつでしょうか?
これらから、また獣のもとにある他の似たものから、神の信者や崇拝者は同じものから神を確信するとき、自然の信者や崇拝者は自然を確信します。なぜなら、霊的な人間はそれらの中に霊的なものを見、自然的な人間はそれらの中に自然的なものを見、このように、だれでも〔自分がどんなものであるかにしたがって〕そのように見るからです。私にとって、このようなものは自然的なものの中への霊的な流入、あるいは自然界の中への霊界の流入、したがって主の神的な知恵からの流入の証拠です。
さらに熟考してみてください、何らかの統治の形、または何らかの市民の法について、または何らかの道徳上の美徳について、または何らかの霊的な真理について、神性がその知恵から霊界を通って流入しないのなら、あなたは分析的に考えることができるかどうかです。
私にとっては、できなかったし、また今もできません——というのは、私はその流入を今や19年間、連続して、知覚でき、感覚で捉えることができるようにして認めたからであり、それゆえ、このことを私の経験から話しています。
〔ここは『結婚愛』419番、『真のキリスト教』12番7, 8で引用されています〕

神の愛と知恵

355◀︎目次▶︎357

356 何らかの自然的なものが、目的として役立ちをもち、そして役立ちを順序の中に、形の中に配列することできるでしょうか? 
 このことは賢明でないならできません。そして全世界をこのように秩序づけ、形作ることは、無限の知恵であられる神でないなら、できません。
 他のだれが、または他の何が、人間に食物や衣服のすべてのものを先見し、備えることができるのでしょうか、それらは、地の果実や動物からの食物、そして同じものからの衣服です。カイコと呼ばれる卑しい虫が、王や女王から召使いや女召使いまで、絹を着せ、男女をみごとに飾り、まツバチのような卑しい昆虫が、蝋を光として与え、それらから神殿や宮殿は輝くのは驚くべきことです。
 これらやその他多くのものは、主がご自身から霊界を通して自然の中に存在するようになるすべてのものに働かれることの明らかな証拠です。
 〔ここは『結婚愛』420番、『真のキリスト教』12番9で引用されています〕

神の愛と知恵

356◀︎目次▶︎358

357 これらに、見える世界から自然を無神論者になるほどにまで確信した者が、霊界で私に見られたことを付け加えます。霊的な光の中で、彼らの理解力は下方が開いていて、上方が閉じて見えます。その理由は思考が地へ、下方へ向いていて、天界へ、上方へ向いていないからです。
 理解力の最低のものである感覚的なものの上に、おおいのようなものが見えました。それは、ある者のもとでは地獄の火からきらめき、ある者のもとではすすのように黒く、ある者のもとでは屍のように鉛色でした。
 そこで、自然を確信することを警戒しなさい。神性を確信しなさい。そのためのものは不足していません。
 〔ここは『結婚愛』420番、『真のキリスト教』12番10で引用されています〕

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357◀︎目次▶︎359

第五部

主により、意志と理解力と呼ばれるその方の二つの容器と住まいが、その方の神的な愛のために意志が、その方の神的な知恵のために理解力が、人間のもとに創造され、形作られている

358 永遠からの主、創造者であられる神の神的な愛と神的な知恵について、世界の創造について扱いました。それで、人間の創造について何らかのものを述べます。
人間は神に似たものにしたがってその方の映像に創造された、と書かれています(「創世記」1:26)。 そこの「神の映像」によって神的な知恵が、また「神に似たもの」によって神的な愛が意味されます。なぜなら、知恵は愛の映像以外の何ものでもないからです。愛は見られるために、知られるためにそれ自体を知恵の中に示し、そこに見られ、知られるので、知恵はその映像です。
さらにまた、愛はいのちのエッセ(本質)であり、知恵はそれからのいのちのエキシステレ(実在)です。
神に似たものと映像は、天使のもとにはっきりと見られます。というのは、愛が内的なものから彼らの顔の中に、知恵が美の中に輝き出るからであり、美は彼らの愛の形です——私は見、知りました。

神の愛と知恵

358◀︎目次▶︎360

359 人間は、神が彼の中にいないなら、自分のいのちが最内部からでないなら、神に似たものにしたがって、その方の映像であることはできません。神が人間の中にいて、最内部から彼のいのちであることは、神おひとりがいのちであり、人間と天使たちはその方からのいのちを受け入れるものであることからいえます、このことは前に示しました(4-6番)。
みことばからもまた、神が人間の中にいること、彼らのもとに住まいをつくることはよく知られています。みことばからよく知られているので、説教者により、自分たちが神を受け入れるための備えとなり、その中に入ってくださるように、自分たちの心の中におられるように、その方の住まいとなれるように、と語られることが習わしです—–同様に、信心深い者は祈りの中で語り、ある者は聖霊について、聖なる熱意の中にいる時、また熱意から考え、語り、説教する時、「聖霊が自分の中にいることを信じている」と公然と語ります。
聖霊は主であり、それ自体によって位格である他の神でないことは、『新しいエルサレムの教え主について』(51-53番)の中に示されています。というのは、主は言われているからです、

 その日に、…あなたがたは、あなたがたがわたしの中に、またわたしがあなたがたの中にいることを知ります(「ヨハネ」14:20, 同じく15:4, 5, 17:23)。

神の愛と知恵

359◀︎目次▶︎361

360 さて、主は神的な愛と神的な知恵であり、これら二つのものは本質的に主であるので、人間の中に住み、人間にいのちを与えるために、人間の中に一つは愛のために、もう一つは知恵のために、ご自分の容器と住まいを創造し、形作ることが必要でした。人間のもとのこれらの容器と住まいは意志と理解力と呼ばれます。愛の容器と住まいが意志、そして知恵の容器と住まいが理解力です。
 これらの二つのものが人間のもとの主のものであること、それら二つのものから人間にすべてのいのちがあることは続きの中で見られます。

神の愛と知恵

360◀︎目次▶︎362

361 それぞれの人間に、それら二つのもの、意志と理解力があり、互いの間に愛と知恵のような区別があることは、世の中で知られ、また知られていません。普遍的な知覚からは知られますが、思考からは知られません、まして記述されたものからは知られていません。というのは、だれが、普遍的な知覚から意志と理解力が人間のもとの区別された二つのものであることを知らないでしょうか? だれでも、「この者はよく意志するが、よく理解しない。しかし、この者はよく理解するが、よく意志しない。私は、よく理解し、よく意志する者を愛するが、よく理解し、悪く意志する者を愛さない」と言うこと聞き、また他の者に言うこともできる時、それを知覚しているからです——しかし、意志と理解力について考えるとき、それらを二つのものとし、区別しないで、混同します。その理由は、思考が身体の視覚と共有するからです。まして書くとき、意志と理解力が区別された二つのものであることは理解されていません。その理由は、その書く時、思考が人間のプロプリウム(固有のもの)である感覚的なものを共有するからです。ここから、ある者はよく考え、話すことができます、しかしそれでも、よく書くことができません。これは女性に普通のことです。他の多くの事柄でも同様です。
 だれが普遍的な知覚から、よく生きる者は救われ、悪く生きる者は罪ありとされることを知りませんか?なおまた、よく生きる者は天使の間にやって来て、そこで人間のように見、聞き、話すことを知りませんか?そのように、公正から公正を、そして正義から正義を行なう者に良心があること知りませんか?
 しかし、普遍的な知覚からそれるなら、それらを思考に従属させるなら、その時、良心とは何か知らず、霊魂は人間のように見、聞き、話すことができることも知らず、生活の善は貧しい者に与えることであるとしか知りません。そして、あなたがそれらについて思考から書くなら、あなたはそれらを外観と欺きによって、そして音声だけで、実際の事柄を何も含まない言葉によって論証します。
 ここから、多くのことを考えた多くの学者は、書いた者はさらに、自分自身のもとの普遍的な知覚を損ない、曇らせ、それどころか破壊すらしました。単純な者は、善と真理とは何か、他の者にまさって自分自身が賢明であると信じている者よりも、はっきりと知ります。その普遍的な知覚は天界からの流入であり、思考の中へ視覚までも落ち込みますが、普遍的な知覚から分離した思考は、視覚と〔人間の〕プロプリウムから空想の中に落ち込みます。
 このようであることを、あなたは経験から学ぶはずです。普遍的な知覚の中にいる者に、何らかの真理を言ってみなさい、彼は知るでしょう。神から、また神の中で私たちは存在し、生き、動かされる、と言ってみなさい、彼は知るでしょう。神は人間のもとの愛と知恵の中に住む、と言ってみなさい、彼は知るでしょう。さらに、意志は愛の容器であり、また理解力は知恵の容器である、と言い、少し説明してみなさい、彼は知るでしょう。神は愛そのものと知恵そのものである、と言ってみなさい、彼は知るでしょう。良心とは何か質問してみなさい、彼は言うでしょう——しかし、同じことを、普遍的な知覚から考えず、世からの視覚を通して得た原理からあるいは観念から考えた学者に言ってみなさい、彼は知らないでしょう。その後、だれがさらに賢明か熟考してみなさい。

神の愛と知恵

361◀︎目次▶︎363

愛と知恵の容器である意志と理解力は、脳の中に、その全体とそれぞれの部分の中にあり、ここから身体の中に、その全体とそれぞれの部分の中にある

362 これらを次の順序で示します——

 (1) 愛と知恵は、ここから意志と理解力は、人間のいのちそのものをつくる。 
 (2) 人間のいのちは、その源では脳の中にあり、派生したものの中では身体の中にある。
 (3) いのちが源でどのようなものであるかによって、全体の中でも、それぞれの部分の中でも、そのようなものである。 
 (4) いのちは、その源を通して、それぞれの部分から全体の中に、全体からそれぞれの部分の中にある。
 (5) 愛がどのようなものであるかによって、知恵もそのようなものであり、ここから人間はそのようなものである。

神の愛と知恵

362◀︎目次▶︎364

363 (1) 愛と知恵は、ここから意志と理解力は、人間のいのちそのものをつくる
 いのちとは何か、ほとんど知らない者がいます。それについて考えるとき、ある種の飛び去るもののように思え、その観念は与えられません。このように思えるのは、神おひとりがいのちであり、その方のいのちが神的な愛と神的な知恵であることが知られていないからです。ここから、人間のもとのいのちは愛と知恵に他ならないこと、それらを受ける段階の中で彼のもとのいのちであることが明らかです。
 太陽から熱と光が発出し、全世界のすべてのものはそれらを受け入れるものであり、受け入れる段階の中で、温かくなり、輝くことは、よく知られています——このようにまた、「第二部」の中で示されたように、そこに主のいる太陽から発出する熱が愛であり、発出する光が知恵です。そこで、太陽としての主から発出するこれら二つのものから、いのちが存在します。
 主からの愛と知恵がいのちであることは、人間から愛が去るほど、その人間は不活発になり、また知恵が去るほど、無感覚になり、まったく去ってしまうなら、そのいのちは消えてしまうことからもまた明らかにすることができます。
 愛に属する多くのものがあり、それらは派生物であるので、情愛、切望、欲望、それらの快楽や楽しみのような名前を割り当てられています——また、知覚、考慮、想起、思考、物事への意図のように、知恵に属する多くのものがあります——愛と知恵の両方に属する多くのものがあります、例えば、同意、推理、また行動への決定、その他です——確かに、これらすべてのものは両方に属するのものですが、より勢いがあるか、より近いことから名前が付けられています。
 これら二つの最外部のものから、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の諸感覚が、それらの楽しさと快さとともに導かれます。目が見ることは外観からであって、理解力が目を通して見るのであり、それゆえ、見ることは理解力について言われます。耳が聞くことは外観であって、理解力が耳を通して聞くのであり、それゆえ、聞くことは注意と傾聴について言われ、それは理解力に属するものです。鼻がかぐこと、舌が味わうことは外観であって、理解力がその知覚からかぎ、味わうのであり、それゆえ、知覚について、かぐことと味わうことが言われます、等々。
 それらのすべてのものの源泉は愛と知恵です——このことから、これら二つのものが人間のいのちをつくることが明らかです。

神の愛と知恵

363◀︎目次▶︎365

364 理解力が知恵の容器であることは、だれもが知っています。しかし、意志が愛の容器であることは、わずかな者しか知りません。
 その理由は、意志はそれ自体から働かないで、理解力を通して働き、なおまた、意志の愛は理解力の知恵の中へ移るとき、最初、情愛に変わり、このように移って、情愛は、考え、話し、行なっている何らかの快さを通してでないなら知覚されず、それへ心も向けられないからです——それでも、意志からであることは、だれもが愛するものを意志し、愛さないものを意志しないことから明らかです。

神の愛と知恵

364◀︎目次▶︎366

365 (2) 人間のいのちは、その源では脳の中にあり、派生したものの中では身体の中にある
「源で」とはその最初のものの中で、「派生したものの中で」とは最初のものから生み出されたものや形作られたものの中で、ということであり、源の中のいのちによって意志と理解力が意味されます。
これらの二つのものが、その源である脳の中に、その派生した身体の中にあります。
いのちの源または最初のものが脳の中にあることは、次のことから明らかです——

(1) 感覚そのものから、人間は心に向かって考える時、脳の中で考えることを知覚します。目を閉ざし、まゆをひそめ、内部に熟考があることを、額の内側で最大に、また何らかのものがその上にあることを認めること。
(2) 子宮の中での人間の形成から。脳または頭が最初のものであること、それはその後の長い間、身体よりも大きいこと。
(3) 頭は上に、また身体は下にあること。上のものが下のものの中に働き、その逆でないことは秩序にしたがっています。
(4) 子宮の中、傷、あるいは病気により脳の損傷で、あるいは過度の集中から、思考が滅ぼされ、時には気が狂うこと。
(5) 身体の外のすべての感覚である視覚、聴覚、嗅覚、味覚は、普遍的な感覚である触覚とともに、さらにまた話すこととともに、顔と呼ばれる頭の前の部分の中で一つとなっており、直接に繊維を通して脳と連絡していて、その感覚的な、活動的ないのちをここから得ていること。
(6) ここから、愛のものである情愛が、ある像の中に、顔の中に見られ、知恵のものである思考が、ある光の中に、目の中に見られること。
(7) 解剖からもまた知られます——すべての繊維は脳から首を通って身体の中に下り、身体から首を通って脳の中に上るものはありません。繊維がその源または最初のものの中にある場所に、そこに源または最初のものの中のいのちがあります。繊維の起源がある場所に、いのちの起源がない、とだれが否定し続けるのでしょうか?
(8) 普遍的な知覚の中にいる者に、「思考はどこにあるのか、またあなたはどこで考えるのか?」と言ってみなさい、すると、「頭の中」と答えるでしょう——しかし、その後、霊魂の座を、ある腺の中に、あるいは心臓の中に、あるいは他の場所にあるとした者に、「情愛とそこからの思考は、その最初に、どこにあるのか? 脳の中ではないのか?」と言ってみなさい、すると、「そうではない」あるいは「知らない」と答えるでしょう。この無知の原因は、前に見られます(361番)。

神の愛と知恵

365◀︎目次▶︎367

366 (3) いのちが源でどのようなものであるかによって、全体の中でも、それぞれの部分の中でも、そのようなものである
 このことが知覚されるために、その源が脳の中にどこにあるか、どのように派生するか述べます。その源が脳の中のどこにあるかは、解剖から明らかです——解剖からは、二つの脳があり、それらが頭から背中の脊柱に続いていること、それらは二つの皮質と髄質と呼ばれる物質から構成されること、皮質は無数の腺のようなものから、髄質は無数の繊維のようなものから構成されることがよく知られています。
 そこで、それらの腺は小繊維の頭であるので、それらの源でもあります。というのは、それらから繊維が始まり、続いて発出し、引き続いて神経の中に束ねられ、そして束ねられたもの、すなわち、神経は顔の中の感覚器官の中に、身体の中の運動器官の中に下り、それらを形作るからです。解剖学の知識に習熟しただれかに助言を求めてみなさい、あなたは確信するでしょう。
 その皮質あるいは腺の物質は脳の表面を、なおまた延髄のもとである線条体の表面をつくり、小脳の中心を、脊髄の中心もつくります。けれども、髄質のあるいは小繊維の物質はどこでもここから始まり、発出し、これから神経があり、それらから身体のすべてのものがあります——解剖からは、このようであることがわかっています。
 解剖学の知識から、あるいはそれらの知識をもつ者たちからの確証から、これらのことを知っている者は、いのちの源が繊維の始まりがあるところ以外にないこと、繊維はそれ自体から始まることはできず、源から与えられることを知ることができます。
 腺のように見えるそれらの源、すなわち始まりは、ほとんど無数です。それらがおびただしいことは、宇宙の中の小さな星のおびただしさにたとえることができます。それらからの小繊維がおびただしいことは小さな星から出てきて、地に熱と光をもたらす光線のおびただしさにたとえることができます。それらの腺がおびただしいことも、私に言われたように、〔腺と〕同様の秩序の中にある天界の中の天使の社会のおびただしさにたとえることができます。それらの腺から出てくる小繊維のおびだたしいことは霊的な真理と善にたとえることができます、それらは同様に光線のようにそこから流れ下ります。
 ここから、前にしばしば言われ、示されたように、人間は最小の形の宇宙のようであり、天界のようです。
 これらから、いのちが源の中でどのようなものであるかによって、派生したものの中でそのようであること、すなわち、いのちがどのようなものであるかによって、その最初のもの中で、脳の中で、起源の中で、それらから、身体の中でそのようであることを明らかにすることができます。

神の愛と知恵

366◀︎目次▶︎368

367 (4) いのちは、その源を通して、それぞれの部分から全体の中に、全体からそれぞれの部分の中にある
このことは、脳とともに身体である全体が、起源的に脳の中の源から生み出される繊維からでないなら構成されなかったからです。直前(366番)に示されたことから明らかなように、別の出所からの起源は存在しません——ここから、それぞれ別々の部分から全体があります。いのちもまたその源を通して全体からそれぞれ別々の部分の中にあり、全体はそれぞれ別々の部分にそれ自体の定まったものと必要なものを与えるので、そのことによって部分が全体の中にあるようにします。
一言でいえば、全体は部分から存在するようになり、部分は全体から存在し続けます。
このような相互の交わりがあり、それによって結合があることは、身体の中の多くのものから明らかです。というのは、都市、共和国、また王国のように、公共のものは部分である人間から存在するようになり、部分、すなわち、人間は公共のものから存在し続け、そこに同様のものがあるからです。
何らかの形をもつすべてのものに同様であり、人間では最もそのようになっています。

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367◀︎目次▶︎369

368 (5) 愛がどのようなものであるかによって、知恵もそのようなものであり、ここから人間はそのようなものである
 なぜなら、愛と知恵がどんなものであるかによって、意志と理解力もそのようなものであるから、というのも、前に示されたように、意志は愛の容器であり、理解力は知恵の容器であり、これら二つのものが人間を、その性質をつくるからです。
 愛は多種多様であり、その変化に限りないほどにも多種多様であって、このことは地上と天界の人間から明らかにすることができます——違いが何もないほどに他の者と似ている人間や天使は一人もいません。区別するものは愛です、というのは、だれもが自分自身の愛であるからです。
 知恵が区別すると思われていますが、知恵は愛からのものであり、その形です。なぜなら、愛はいのちの本質(エッセ)であり、また知恵はその本質(エッセ)からの実在(エキシステレ)であるからです。
 世の中で、理解力が人間をつくると信じられています。このことが信じられているのは、前に示されたように、理解力は天界の光の中に高揚されることができ、このように人間が賢明であるように見えることができるからです。しかしそれでも、愛を越えた、すなわち、愛に属さない理解力は人間のものであるように、人間がそのようなものであるように見えますが、これは外観です——というのは、愛を越えた理解力も、確かに愛と知恵に属しますが、同時に、知り、賢明になるものを生活に適用しようとする愛に属さないからです。それゆえ、それは世の中で、時が経過とともに減り、あるいは記憶の事柄の外の辺境の中に1時的なものとして残されます。そのために、死後、分離され、その霊に固有な愛に一致するものを除いて残りません。
 愛は人間のいのち(生活)を、またこうして人間そのものをつくるので、それゆえ、天界のすべての社会は、また社会の中のすべての天使は、愛のものである情愛にしたがって配列されています。愛から分離した何らかの理解力にしたがって配列された社会はなく、また社会の中の天使はいません。
 地獄の中も、またそれらの社会も同様ですが、天界の愛に対立する愛にしたがって配列されています。
 これらから、愛がどのようなものであるかによって、知恵もそのようなものであり、ここから人間もそのようなものであることを明らかにすることができます。

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368◀︎目次▶︎370

369 人間の支配愛がどのようなものであるかによって、その人間はそのようなものですが、ただ心と気質に関してであり、身体に関して、このように全体に関してはそのようなものではありません、このことは確かに認められています。
 しかし、霊界での多くの経験から私は、「人間は頭からかかとまで、すなわち、頭の中の最初のものから身体の中の最後のものまで、その愛がどのようであるかによって、彼はそのようなものである」と知らされることになりました。
 というのは、霊界の中のすべての者は自分自身の愛の形であって、天使は天界の愛の形、悪魔は地獄の愛の形であり、後者の顔と身体は醜いけれども、前者の顔と身体は美しいからです。彼らの愛が攻撃されるなら、彼らの顔は変えられ、もし大いに攻撃されるなら、全体的に見えなくなります。
 これは霊界に特有のことであり、このようなことが起こるのは、彼らの身体は彼らの心と一つであるからです。
 その理由は、身体のすべてのものは最初の源から派生したもの、すなわち、源からの繊維による複合体であること、そしてそれらが愛と知恵の容器である、と前述したことから明らかです。源がこのようであるとき、派生したものは他のものであることはできません。それゆえ、派生したものは源が出て行くところへと続き、分離されることができません。
 ここから、自分の心を主へ高揚させる者は、その全体が主へ高揚され、心を地獄へ投げ込む者は、その全体が投げ込まれます。それゆえ、人間全体が、彼のいのち(生活)の愛にしたがって、天界へ、あるいは地獄へ、やって来ます。
 神は人間であられるので人間の心が人間であり、感じ、活動する身体は心の外なるものであり、このように〔心と身体は〕一つであって、二つではないことは、天使の知恵からのものです。

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369◀︎目次▶︎371

370 人間の肢体、器官、内臓の形そのものは、構造そのものに関して脳の中のその源から起こる繊維からのものですが、地の中に、また地から空気やエーテルの中にあるような実体や物質によって固定されることに気づくべきです。そのことは血によって行なわれます。それゆえ、身体のすべてのものがその形成物の中に残り、このようにその機能の中にとどまるために、人間は物質である食物で養われ、常に更新されなければなりません。

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370◀︎目次▶︎372

心臓と意志の対応があり、肺と理解力の対応がある

371 このことを次の系列の中で論証します——

 (1) 心のすべてのものは意志と理解力に、身体のすべてのものは心臓と肺に関係する。
 (2) 意志と理解力は心臓と肺に対応し、ここから心のすべてのものは身体のすべてのものと対応する。
 (3) 意志は心臓と対応する。 
 (4) 理解力は肺と対応する。
 (5) その対応によって、意志と理解力について、したがって愛と知恵についても、多くのアルカナを明らかにすることができる。
 (6) 人間の心は霊であり、霊は人間である。身体は、それによって心が、すなわち、霊が、その世界の中で感じ、活動する外なるものである。
 (7) 人間の霊が身体と結合するのは、意志と理解力が心臓と肺に対応することに、分離するのは対応がないことによっている。

神の愛と知恵

371◀︎目次▶︎373

372 (1) 心のすべてのものは意志と理解力に、身体のすべてのものは心臓と肺に関係する
 心によって意志と理解力以外の何ものも意味されず、それらは統一体として、人間に働きかけ、人間が考えるすべてのものです——したがって、人間の意志と思考に属するすべてのものです——人間に働きかけるものは彼の意志に属し、人間が考えるものは彼の理解力に属します。
 人間は理解力から考えるので、人間の思考のすべてのものは理解力に属することが知られています。しかし、人間の情愛のすべてのものが意志に属することは、このようには知られていません。
 このように知られていないことの理由は、人間は考えるとき、情愛へ注意を向けず、考えることだけに注意を向けるからです。話しを聞くとき、音声へ注意を向けず、話しそのものへ注意を向けるのと同じであり、そのときそれでも情愛は思考の中で、音声が話しの中で振る舞うのと同様に振る舞います。それゆえ、話しの音声から彼の情愛が知られ、話しから彼の思考が知られます。前に示されたように、すべての情愛は愛に属し、愛の容器は意志であるので、情愛は意志に属します。
 情愛が意志に属することを知らない者は、情愛と理解力を混同します。情愛は思考と一つのものであると言うからです、しかしそれでも、一つのものではなく、一つのもののように働きます。
 混同されていることは、「私はこれを行なおうと考える」、すなわち、私はこれを行ないたい(意志する)、という普段の会話から明らかです。けれども、二つのものであることもまた、「私はこの事柄について考えたい(考えることを意志する)」という普段の会話から明らかです。考えごとをするとき、音声が話しに内在すると述べたように、意志の情愛が理解力の思考に内在しています。
 身体のすべてのものが心臓と肺に関係することは、よく知られていますが、意志と理解力が心臓と肺に対応することは知られていません。それゆえ、このことについて続きの中で扱います。

神の愛と知恵

372◀︎目次▶︎374

373 意志と理解力は愛と知恵の容器であるので、それゆえ、それら二つは有機体の形、すなわち、有機的にまとめられた最も純粋な実体からの形です。というのは、容器であるためには、このようなものでなければならないからです。
それらの組織が目の前に明らかでないことは妨げとなりません、顕微鏡によって高められた視覚の内になら入ってきます。視覚の内にある最小の昆虫の中にもまた感覚器官と運動器官があります。感じ、そして歩き、飛ぶからです——それらに脳、心臓、肺の気管、内臓もまたあることが、鋭い洞察力をもつ者により、顕微鏡を通して彼らの解剖から示されています。
小さい昆虫そのものが、ましてそれらの内臓が視覚の前に明らかでなくても、それらが個々のものまで有機的にまとめられていることが否定されないとき、どうして、意志と理解力と呼ばれる愛と知恵の二つの容器が有機体の形をしていない、と言うことができますか? 主からのいのちである愛と知恵は、主体でないものの中へ、または実体的に存在するようになっていない何らかのものの中に、どのように働きかけることできますか? そうでなければ、思考はどのように定着することができ、だれが定着していない思考から話すことができますか? 思考が存在するようになる脳は、完全であって、そこにはそれぞれのものが有機的にまとめられていませんか? そこには有機的な形そのものが肉眼にも、皮質の中に、源の中に意志と理解力の容器が、はっきりと小さい腺のように見られます。それらの事柄については前に見られます(366番)。
どうか、これらについてあなたは真空の観念から考えないようにしてください。真空は無であり、無の中で何も行なわず、また無から何も存在するようになりません。(真空の観念については前の82番に見られます)

神の愛と知恵

373◀︎目次▶︎375

374 (2) 意志と理解力は心臓と肺に対応し、ここから心のすべてのものは身体のすべてのものと対応する
 これは新しいことです。今までよく知られていなかったからであり、その理由は霊的なものとは何か、またその霊的なものと自然的なものとの相違がよく知られておらず、ここから対応とは何か、よく知られていないからです。というのは、霊的なものと自然的なものに対応があり、その対応によってそれらの結合があるからです。
 霊的なもの、そしてその霊的なものと自然的なものとの対応とは何か、したがって対応とは何か、今までよく知られていなかったと言われますが、それでも、その二つとも知ることができます。
 だれが、情愛と思考は霊的なものであること、ここから情愛と思考のすべてのものは霊的であることを知りませんか? だれが、行動と話すことが自然的なものであること、ここから行動と話すことのすべてのものは自然的であることを知りませんか? だれが、人間は霊的である情愛と思考によって、行動し、話すようになることを知りませんか? ここからだれが、霊的なものと自然的なものの対応とは何か、知ることができませんか? 舌は思考によって話すようになり、身体は思考と一つとなった情愛によって動くのではありませんか?
 二つの別なものがあります。私は考え、しかも話さないことができます、また私は意志し、しかも行動しないことができます——身体は考えず、意志しません、しかし、思考が話すことの中に、意志が行動の中に落ち込むことが知られています。さらにまた、情愛は顔から輝き出て、そこにその象徴するものを見せませんか? だれもがこのことを知っています。本質的に眺めたとき、情愛は霊的なものであり、容貌とも呼ばれる顔の変化は自然的なものではありませんか? ここからだれが、対応が存在すること、したがって、心のすべてのものと身体のすべてのものに対応があることを結論できませんか? 心のすべてのものは情愛と思考に、すなわち同じことですが、意志と理解力に関係し、身体のすべてのものは心臓と肺に関係するので、意志と心臓に、そして理解力と肺に対応がありませんか?
 このようなものが知られず、それでも知られることができることの理由は、人間が自然的なもの以外に何も認めることを欲しないような外なるものになったからです。この自然的なものが彼の愛にとって快く、ここから彼の理解力にとって快かったのです。それゆえ、思考を自然的なものの上へ、自然的なものから分離したある霊的なものへ高揚させることは、彼に不愉快なものでした——それゆえ、自然的なものに対する自分の愛とその快さから、霊的なものは純粋な自然的なものであること、そして対応は連続による何らかの流入であるとしか考えることができなかったのです。それどころか、単に自然的な人間は自然的なものから分離したものを何も考えることができず、それは彼にとって無意味です。
 今までこれらのことが見られ、知られなかった理由は、霊的なものと呼ばれる宗教のすべてのものもまた全キリスト教界の中で教義によって人間の視野から遠ざけられたこと、教会会議やある指導者たちが霊的なものである結論した神学が盲目的に信じられなければならなかったことです。なぜなら、「理解力を超えている」とそこに言われているからです。ここから、ある者は霊的なものを、空気の上の、そこまで目の視覚がとどかないエーテルの中を飛ぶ鳥のようなもの、そのときそれでも、その鳥は、目の近くを飛び、その美しい翼は彼の瞳をこらし、見られること欲する極楽鳥のようなものであると考えました——目の視覚によって理解力の視覚が意味されます。

神の愛と知恵

374◀︎目次▶︎376

375 意志と理解力の心臓と肺との対応は、そのままで、すなわち、理性的なものだけによって証明されることはできず、結果によってできます。このことは物事の原因と同様です。確かに原因は理性によって知ることができますが、結果によらないなら、はっきりとしません。というのは、原因は結果の中にあり、原因それ自体を結果によって見られるようにするからです——心もまた原因について前もって確信しません。
対応の結果について続くものの中で述べられます。しかし、この対応について、霊魂について受け入れられた仮説からの考えの中へ、だれかが落ち込まないように、これまでの章の中で示されたものを読んでおかなくてはなりません。それらは例えば、
愛と知恵は、ここから意志と理解力は、人間のいのちそのものをつくること(363, 364番)、
人間のいのちは、その源では脳の中にあり、派生したものの中では身体の中にあること(365番)、
いのちが源でどのようなものであるかによって、全体の中でも、それぞれの部分の中でも、そのようなものであること(366番)、
いのちは、その源を通して、それぞれの部分から全体の中に、全体からそれぞれの部分の中にあること(367番)、
愛がどのようなものであるかによって、知恵もそのようなものであり、ここから人間はそのようなものであること(368番)です。

神の愛と知恵

375◀︎目次▶︎377

376 ここに、確信のために、天界の中の天使のもとで見られた心臓と肺との意志と理解力の対応の表象を提示することが許されています。
 天使は、心臓や肺に似た驚くべきまた言葉では何も表現できない旋回の流れを、それらの内側のすべての組織とともに、またその時、天界の流れに一致させて形作りました。なぜなら、天界は主からの愛と知恵の流入からそのような形へと努力しているからです。またこのように、心臓と肺の結合を、また同時に、意志の愛と理解力の知恵との対応を表象しました。 彼らはこの対応と結合を「全身も、そしてその四肢、器官、内臓の中の個々のものも、そこの心臓と肺に属するものは同様である。そして、心臓と肺またはそのそれぞれが交替で活動しないところには、意志の源からの何らかの生命の運動は、また理解力の源からの何らかの生命の感覚は存在することができない」と言って、天界の結婚と呼びました。

神の愛と知恵

376◀︎目次▶︎378

377 さて、続きの中で、意志と理解力との心臓と肺の対応が扱われ、そのことに全部の四肢、感覚器官、身体の内臓と呼ばれる身体のすべてのものの対応が基づくので、また自然的なものと霊的なものとの対応は今まで知られていなかったけれども、一つは『天界と地獄』、またもう一つは「創世記」と「出エジプト記」の中の、みことばの霊的な意味について扱った『天界の秘義』と呼ばれる、それらの二つの著作の中に、大いに示されているので、それらの二つの著作の中で対応について書かれ、示されているものをここに示します。

著作『天界の地獄について』の中に——
天界のすべてのものと人間のすべてのものとの対応について(87-102番)。
天界のすべてのものと地球のすべてのものとの対応について(103-115番)。

『天界の秘義』と呼ばれる「創世記」と「出エジプト記」の中のみことばの霊的な意味についての著作の中に——
顔やその容貌と心の情愛との対応について(1568, 2988, 2989, 3631, 4796, 4797, 4800, 5165, 5168, 5695, 9306番)。
身体の振る舞いと動作に関して、身体と理解力と意志のものとの対応について(2988, 3632, 4215番)。
一般に、感覚の対応について(4318-4330番)。
目、その視覚の対応について(4403-4420番)。
鼻、嗅覚の対応について(4624-4634番)。
耳、聴覚の対応について(4652-4659番)。
舌、味覚の対応について(4791-4805番)。
手、腕、肩、足の対応について(4931-4953番)。
腰、生殖器の対応について(5050-5062番)。
身体の内側の内臓の対応について、特に、胃、胸腺、乳糜槽、乳糜管、腸間膜の対応について(5171-5181番)。
脾臓の対応について(9698番)。
腹膜、腎臓と膀胱の対応について(5377-5385番)。
肝臓の対応、なおまた肝臓、膀胱、膵臓の導管の対応について(5183-5185番)。
腸の対応について(5392-5395, 5379番)。
骨の対応について(5560-5564番)。
皮膚の対応について(5552-5559番)。
天界と人間との対応について(911, 1900, 1928, 2996-2998, 3624-3649, 3741-3745, 3884, 4051, 4279, 4403, 4524, 4525, 6013, 6057, 9279, 9632番)。
自然界の中に、その三つの界の中にあるすべてのものは、霊界の中に見られるすべてのものと対応すること(1632, 1831, 2758, 2990-2993, 2997-3003, 3213-3227, 3483, 3624-3649, 4044, 4053, 4116, 4366, 4939, 5116, 5377, 5428, 5477, 8211, 9280番)。
天界の中に見られるすべてのものは、対応するものであること(1521, 1532, 1619-1625, 1807, 1808, 1971, 1974, 1977, 1980, 1981, 2299, 2601, 3213-3226, 3348, 3350, 3475- 3485, 3748, 9481, 9570, 9576, 9577番)。

みことばの文字通りの意味とその霊的な意味の対応について、『天界の秘義』のどこにでも扱われており、それらについては『新しいエルサレムの教え 聖書について』の中にもまた見られます(5-26, 27-65番)。

神の愛と知恵

377◀︎目次▶︎379

378 (3) 意志は心臓と対応する
このことは、前に述べ(375番)、意志が結果から熟考されたようには、個々に、はっきりと明らかにすることはできません。
愛のものであるすべての情愛は、心臓と同時に動く動脈の鼓動から明らかであるように、心臓の動くことに関して変化を引き起こすことから、個々に明らかにすることができます。その変化と動くことは愛の情愛にしたがって無数です。指で感じられるものは、単に、遅くか速く、高くかは低く、穏やかにか荒々しく、規則正しくか不規則に打つことなどであり、このように喜びの中に、そうでなければ悲しみの中に、心の平静の中に、そうでなければ怒りの状態の中に、大胆さの中に、そうでなければ恐れの中に、熱病の中に、そうでなければ冷たさの中にあるだけです。
収縮や拡張と呼ばれる心臓の運動は、それぞれの者の愛の情愛にしたがってこのように変化し、多様なものなので、それゆえ、古代人の多くの者は、また現代人のある者たちは、情愛を心蔵に割り当て、また情愛の居場所をそこに定めました。
そのことから普通の談話の中で、心の寛大さと臆病さ、心の喜ばしさと悲しさ、心の柔らかいさと固さ、心の大きいさと狭さ、完全な心と壊れた心、肉のような心と石の心、豊かな、柔らかい、おとなしい心、行なうことへ心を定め、一つの心を与えること、新しい心を与えること、心を残すこと、心で受け入れること、心に上らないこと、心を固くすること、心の友と言われることが起こっています。ここから、一致〔心が一諸〕、不一致〔心の分離〕、狂乱〔心がないこと〕、また同様の多くのことが言われ、それらは愛と情愛のものです。
同様に、みことばの中で語られており、その理由は、みことばが対応によって書かれているからです。 あなたが愛あるいは意志と言っても同じことです、前に述べた愛の容器が意志であるからです。

神の愛と知恵

378◀︎目次▶︎380

379 人間の中に、また動物の中に、生命の熱があることは、よく知られていますが、その起源がどこからかは、よく知られていません——だれもがそのことについて推測から話しています。それゆえ、霊的なものと自然的なものが対応することについて何らかのものを知らない者は、その起源を太陽の熱に帰し、ある者は各部分の活動に、ある者は生命そのものに帰しました。生命とは何か知らなかったので、その代わりに、ただそのように言ったのです。
けれども、愛とその情愛が心臓とその派生物と対応すること知っている者は、愛が生命の熱の起源であることを知ることができます。というのは、愛はそこに主のいる霊界の太陽から熱として発出し、天使によって熱として感じられるからです。この霊的な熱は、その本質では愛であって、対応によって心臓とその血の中に流入し、それに熱を注ぎ、同時に生命を与えるものです。
人間が自分自身の愛とその段階にしたがって熱くなり、いわば火がつくこと、またその減少にしたがって不活発になり、冷たくなることは、よく知られています。なぜなら、感じられ、また見られるからです。全身の熱から感じられ、顔の赤色から見られます。そして逆に、その消滅は、身体の冷たさから感じられ、青白い顔のこと見られます。
愛は人間のいのちであるので、それゆえ、心臓は彼のいのちの最初のものと最後のものです。
また、愛は人間のいのちであり、霊魂はそのいのちを身体の中で血によって働かせるので、それゆえ、血は、みことばの中で「霊魂(いのち)」と呼ばれています(創世記9:4, レビ記17:14)。
「霊魂」によって、いろいろな意味で何が意味されるかは、続きの中で述べます。

神の愛と知恵

379◀︎目次▶︎381

380 血が赤いこともまた、愛とその情愛とに心臓と血の対応があるからです——というのは、霊界の中にすべての種類の色があるから。それらの色の基本的なものは赤と白であり、その他の色はそれらやそれらと反対のもの、うす暗い火の色と黒からです。赤い色はそこの愛に対応し、白い色は知恵に対応します。
 赤い色は、起源をそこの太陽の火から導くので、愛に対応し、白い色は、そこの太陽の光から起源を導くので、知恵に対応します。愛は心臓と対応するので、ここから血は赤でないなら、その起源をはっきり示すことができません。
 ここから、主への愛が支配する天界の中で、光は炎のようであり、そこの天使の衣服は紫色であり、知恵が支配する天界の中で、光は白く輝き、そこの天使の衣類は白い亜麻布です。

神の愛と知恵

380◀︎目次▶︎382

381 天界は、一つは天的、もう一つは霊的と呼ばれる二つの王国に分かれています。天的な王国の中では主への愛が支配し、霊的な王国の中ではその愛からの知恵が支配します。
 愛が支配する王国は天界の心臓と呼ばれ、知恵が支配する天界の王国は肺と呼ばれます。
 全天界が一つの統一体として一人の人間を表わすこと、主の前に一人の人間のように見えることを知らなくてはなりません。それゆえ、その心臓は一つの王国をつくり、その肺はもう一つの王国をつくります——というのは、心臓と肺の運動が全般的に全天界にあり、ここから個別的にそれぞれの天使にあるから。主おひとりから愛と知恵があるので、その方だけから心臓と肺の共通の運動があります——というのは、その二つの運動が、主がおられ、主からのものである太陽の中にあり、ここから天使の天界と全世界の中にあるからです。空間から離れて、遍在を考えてみなさい、するとあなたはこのようであることを確信するでしょう。
 著作『天界と地獄』の中に、天界が天的なものと霊的なものの二つの王国に分かれていること(26―28番)、また天使の全天界が一つの統一体として一人の人間を表わすこと(59―87番)が見られます。

神の愛と知恵

381◀︎目次▶︎383

382 (4) 理解力は肺と対応する
 このことは、心臓との意志の対応について言われたことからいえます。というのは、霊的な人間の中で、すなわち、心の中で支配する二つのもの、意志と理解力があり、自然的な人間の中で、すなわち、身体の中で支配する二つのもの心臓と肺があり、また前に言われたように、身体のすべてのものと心のすべてのものが対応するからです——ここから、意志が心臓に対応するとき、理解力は肺に対応するといえます。
 さらにまた、理解力が肺に対応することを、考えることと同じく話すことからだれもが自分自身のもとに認めることができます。
 考えることから——肺の呼吸が1諸に行動し、一致しないなら、だれも考えることができません。それゆえ、静かに考えるとき、静かに呼吸し、深く考えるなら、深く呼吸します。考えることにしたがって、このように愛からの情愛の流入にしたがって、遅く、速く、しきりに、穏やかに、そっと、肺を引きしめ、ゆるめ、収縮させ、拡張させます。それどころか、完全に息を押し止めるなら、自分の霊の中で、その〔霊の自体の〕呼吸からでないなら、そのことは明らかには認められませんが、考えることはできません。
 話すことから——というのは、口からは、肺の働きの助けなしに、少しの言葉も言うことはなく、言葉の中で音節に分けられるすべての音声は、肺から気管と喉頭蓋を通って存在するようになるからです。それゆえ、話すことはそのふいごが吹き込むことに、またその通路が開くことにしたがって、叫びにまでも上げられ、収縮にしたがって小さくなり、通路がふさがれるなら、話すことは考えることとともにやんでしまいます。

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382◀︎目次▶︎384

383 理解力は肺に、またここから思考は肺の呼吸に対応するので、それゆえ、みことばの中の「霊魂」と「霊(息)」によって理解力が意味されます——例えば、

 あなたはあなたの神である主を、あなたの全心から、全霊から愛さなければならない(マタイ22・37)。
 神は新しい心と新しい霊を与えられる(エゼキエル34・26、詩篇51・10)。

 「心」が意志の愛を意味することは、前に示されています。ここから「霊魂」と「霊」によって理解力の知恵が意味されます。
 「聖霊」ともまた呼ばれる「神の霊」によって、神的な知恵、またここから神的な真理が意味され、それによって人間に照らしが生じることは、『新しいエルサレムの教え 主について』(50、51番)に見られます。ここから、主は弟子たち息を吹き入れられ、「 聖霊を受けよ」(ヨハネ20・22)と言われました。
 ここからさらにまた、 神であるエホバはアダムの鼻の中にいのちの息を吹き込まれました。すると生きているいのちになった(創世記2・7)ことが言われています。
 また預言者に、「 霊の上に預言せよ。…また息へ言え。…四つの方向から息が来い、また殺害された者たちの中に吹き込め、生きるように」(エゼキエル37・9)と言われました。他の箇所も同様です。
 ここから、主が「鼻の息」、また「いのちの息(呼吸)」ともまた言われています。
 呼吸は鼻を通って通り過ぎるので、それゆえ、それによって知覚が意味され、知的な者は鼻が鋭い、知的でない者は鼻が鈍い、と言われます。さらにまたそのことから、へブル語で、また他のある言語で「霊」と「息」は一つの言葉です——というのは、「霊」という言葉はその起源を「息」から得ているからであり、それゆえ、人間が死ぬときもまた、息(霊魂)を吐き出す、と言われます。
 さらまたそのことから、人間は、「霊は肺から吐き出される息のような風かまたは何か空気のようなものであり、霊魂も同様である」と信じるのです。
 これらから、「神を全心で、全霊で」愛することによって、すべての愛とすべての理解力で愛することが意味されること、「新しい心と新しい霊」を与えることによって、新しい意志と新しい理解力を与えることが意味されることを明らかにすることができます。
 「霊」は理解力を意味するので、それゆえ、ベツァルエルについて、「 知恵、理解力、知識の霊に満たされている」(出エジプト記31・3)、またヨシュアについて、「 知恵の霊に満たされている」(申命記34・9)と言われ、ネブカデネザルはダニエルについて、「 知識、理解力、知恵のすぐれた霊が、彼の中にあった」と言いました(ダニエル5・11、12、14)。「イザヤ書」には、「 霊で迷う者たちは理解力を知る」とあります(イザヤ29・24)。
 多くの他の箇所も同様です。

神の愛と知恵

383◀︎目次▶︎385

384 心のすべてのものは意志と理解力に、そして身体のすべてのものは心臓と肺に関係するので、それゆえ、頭の中に二つの脳があります、それらは、意志と理解力が互い区別されているように、互いに分かれています。小脳は特に意志のためのもの、大脳は特に理解力のためのものです。
 同様に、身体の中の心臓と肺はそこの他のものから区別されています——横隔膜によって分離され、胸膜と呼ばれるそれ自体のおおいで包まれ、身体の胸と呼ばれるものをつくっています。
 四肢、器官、内臓と呼ばれる身体の他のものの中には、二つのものの結合があり、それゆえ、対のものもまた存在します。例えば、腕と手、腰と足、目、鼻、身体の中の腎臓、尿管、睾丸です。対ではない内臓は右と左に分かれています——例えば、脳自体は二つの半球に、心臓自体は二つの心室に、肺自体は二つの葉に分かれています—–それらの右は真理の善に、左は善の真理に関係します。または同じことですが、右は知恵の真理のもととなる愛の善に、左は愛の善からの知恵の真理に関係します。
 善と真の結合は相互のものであり、その結合によって一つのもののようになるので、それゆえまた、人間の中のその対は一つのものとして、機能、運動、感覚の中で結合して働きます。

神の愛と知恵

384◀︎目次▶︎386

385 (5) その対応によって、意志と理解力について、したがって愛と知恵についても、多くのアルカナを明らかにすることができる
 世の中では、人間は自分自身から理解し、考えることができるようには、自分自身から愛することが、愛から欲することができないので、意志とは何か、愛とは何か、ほとんど知られていません。それは、自分自身から肺を呼吸するように動かすことができるように、心臓が動くように駆り立てることができないことと同じです。
 さて、世の中では、意志と愛とは何か、ほとんど知られていませんが、それでも心臓と肺とは何か知られているので、(というのは、それらの二つのものは目の前に示され、観察されることができ、解剖学者たちからもまた観察され、記述されていますが、意志と理解力は目の前に示されず、観察されることもできないからです)、それゆえ、それらが対応し、対応によって一つとして働くことが知られるとき、意志と理解力について多くのアルカナ(秘義)が明かされることができ、それらは他の方法で明かされることはできません。例えば、理解力との意志の結合、意志との理解力の相互作用、すなわち、知恵との愛の結合、愛との知恵の相互作用、なおまた愛の派生物が情愛の中へ流入すること、情愛の交わり、情愛が知覚と思考の中へ流入し、最後に対応にしたがって行動と身体の感覚の中へ流入することです。
 これら、また他の多くのアルカナは、心臓と肺の結合から、心臓から肺の中への血の流入、肺から心臓の中への相互作用、ここから動脈を通って身体のすべての四肢、器官、内臓の中への流入から明かされ、示されることができます。

神の愛と知恵

385◀︎目次▶︎387

386 (6) 人間の心は霊であり、霊は人間である。身体は、それによって心が、すなわち、霊が、その世界の中で感じ、活動する外なるものである
 人間の心は霊であり、霊は人間であることは、「霊は息であり、霊魂は肺から吐き出される息のようなエーテルのようなものである」と考えた者には、信じて受け入れられることがほとんどできません。というのは、「霊であるとき、どのように霊は人間であることができるのか? 霊魂であるとき、どのように霊魂は人間であることができるのか?」と言うからです。神も、霊と呼ばれるので、同様です。
 霊と霊魂についてのこの観念は、ある言語の中で霊と息は一つの言葉であること、なおまた、人間が死ぬとき、「霊または霊魂を吐き出す」、息が止った者や気絶した者の肺に霊または霊魂が戻るとき、「生命が戻った〔息を吹き返した〕」と言われ——またその時、息と空気以外に認めないので、「人間の霊と霊魂は、死後、人間ではない」と身体の目と感覚から判断することから得られたものです。
 霊と霊魂についてのこの物質的な判断から、いろいろな仮説が起こり、それらの仮説から、『続 最後の審判』(32―38番)の中で言われているように、「人間は最後の審判の日まで人間とならない。どこかで死んでいるその間は、〔魂と肉体の〕再結合を待ち望んでいる」という信仰が浮かび出ました。
 人間の心は彼の霊であるので、それゆえ、天使もまた霊であって、「心」と呼ばれます。

神の愛と知恵

386◀︎目次▶︎388

387 人間の心は霊であり、また霊は人間であることは、心によって人間の意志と理解力のすべてのものが意味されるからであり、これらのものは源の中では脳の中に、派生物の中では身体の中にあります。このように形に関して人間のすべてのものです——このようであるので、それゆえ、心は、すなわち、意志と理解力は、身体とそのすべてのものを意のままに動かします。
 身体は、心が考え、意志するどんなものでも行ないませんか? 心は耳を聞くことへ、目を見ることへ向けませんか? 心は舌と唇を話すように、手と指を好むどんなことでも行なうことように動かし、足を欲するところへと歩かせませんか? 
 このように身体はその心に従順なものでないなら何なのでしょうか? 
 心がその派生物の中に、身体の中にないなら、身体はこのようであることができますか? 
 心がこのように欲するので身体は服従から行なう、と考えることは理性と調和しませんか? このように二つのものがあったなら、一つは上に、もう一つは下にあり、一つは命令し、もう一つは聞きます。
 このことは何らかの理性と調和しないので、前に言われたことにしたがって、人間のいのちは、その源では脳の中にあり、派生したものの中では身体の中にあること(365番)、なおまた、いのちが源でどのようなものであるかによって、全体の中でも、それぞれの部分の中でも、そのようなものであること(366番)、いのちは、その源を通して、それぞれの部分から全体の中に、全体からそれぞれの部分の中にあること(367番)がいえます。
 心のすべてのものは意志と理解力に関係すること、意志と理解力は主からの愛と知恵の容器であること、これら二つのものが人間のいのちをつくることは、これまでの箇所に示されています。

神の愛と知恵

387◀︎目次▶︎389

388 いま述べたことからも、人間の心は人間そのものであることを知ることができます。というのは、前に示したことですが、それらによれば、人間の形の最初の組織は、すなわち、そのすべてと個々のものとともに人間の形そのものは、脳から神経を通って連続する源からのものであるからです。
 人間は死後、この形の中へやって来ます、その時、霊や天使と呼ばれ、すべてに完全な人間ですが、霊的な人間です——世の中で付加され、着せられた物質的な形は、それ自体からではなく、その霊的な形からです。付加され、着せられたのは、人間が自然界の中で役立ちを果たし、世の純粋な物質から霊的なものに何らかの固定した容器として役立つものを得て、このようにいのちを続け、永続させることができるためです。
 神は人間であられるので、人間の心が、全般的にだけでなく、個々のすべてのものの中で、絶え間なく人間の形であろうとする努力の中にあることは、天使の知恵からのものです。

神の愛と知恵

388◀︎目次▶︎390

389 人間が人間であるために、頭の中でも、身体の中でも、完全な人間の中に存在するようになっているどの部分でも欠けていることはできません。なぜなら、そこには、その形の中に入り、またそれをつくらないものは何もないからです。というのは、愛と知恵の形であり、本質的に眺められるとき神的なものであるからです。
 愛と知恵の限定されたすべてのものがその形の中に存在し、それらは神人間の中で無限ですが、人間、天使、霊であるその方の映像の中で有限です。人間の中に存在するようになっている何らかの部分が欠けるなら、それに対応する愛と知恵からの何らかの限定されたものが欠けます。その限定されたものを通して主は最初のものから最後のものまで人間のもとに存在し、ご自分の神的な愛からご自分の神的な知恵を通して創造された世界の中の役立ちを備えることがおできになるのですが、それが欠けてしまいます。

神の愛と知恵

389◀︎目次▶︎391

390 (7) 人間の霊が身体と結合するのは、意志と理解力が心臓と肺に対応することに、分離するのは対応がないことによっている
 今まで、意志と理解力を意味する人間の心が霊であり、霊が人間であることに無知であり、身体にあるように人間の霊に等しく鼓動と呼吸があることに無知であったので、霊の鼓動と呼吸が人間の中にあって、身体の鼓動と呼吸の中に流入し、それらを生み出すことは知られることができませんでした。 そこで、人間の霊に身体と等しく鼓動と呼吸が授けられているとき、人間の霊の鼓動と呼吸とその身体の鼓動と呼吸にも、同様の対応があることがいえます。というのは、述べてきたように、心は彼の霊であるから。それゆえ、それらの二つの運動の対応が終わるとき、分離が起こり、それは死です。
 身体が何かの病気または偶然の出来事から、その霊と一つとして働くことができないような状態にやって来る時、分離が、すなわち、死が起こります。というのは、このように対応が失われ、対応とともに結合が失われるから。呼吸だけが終わるときではなく、心臓の鼓動が終わるときです——なぜなら、気絶、息詰まり、なおまた子宮の中の胎児のいのちの状態から明らかであるように、心臓が動くかぎり、その間、愛はいのちの熱とともに残り、いのちは生存を保つからです。
 一言でいえば、人間の身体のいのちは、彼の鼓動と呼吸と彼の霊の鼓動と呼吸との対応によります。その対応が終わるとき、身体のいのちは終わり、彼の霊は去り、そのいのちを霊界の中で続けます。その生活は、死んだことがわからないほど、自然界の中の自分の生活と似ています。大部分の者は、身体から出て2日後に霊界に入ります。私はある者たちと2日後に話したからです。

神の愛と知恵

390◀︎目次▶︎392

391 霊が身体の中にいる世の人間と等しく鼓動と呼吸を授けられていることは、霊や天使と話すの機会が与えられたときに、彼らからでしか確信することができません。
 その機会が私に与えられました。それゆえ、このことについて尋ねられた彼らは、「世の中の人間のように等しく人間であり、身体を、しかし霊的な身体を等しく授けられていて、胸の中の心臓の鼓動を、また手首の動脈の脈拍を、自然界の中の人間のように等しく感じている」と言いました——私はそのことについて多くの者に尋ねましたが、同様のことを言いました。
 私に特有な経験から、人間の霊はその身体の中で呼吸していることを知ることが与えられました。
 かつて天使に私の呼吸を導き、それを好みのままに減らし、ついに私に霊の呼吸だけが残るまでに抑える機会が与えられました。その時、私はそのことを感覚で認めました。
 死の状態を知ることが与えられた時、私に同様のことがなされたことは、著作『天界と地獄』の中で見られます(449番)。
 さらにまた数回、私は霊の呼吸だけの中に入れられ、その時、それが天界の普遍的な呼吸に一致しているのを、感覚で認めました——さらにまた多くの機会に、天使と同様の状態にいて、天界の中のそれら状態へも上げられ、その時、身体の外の霊の中にいて、世と同様に呼吸とともに彼らと話しました。
 これらやまた他の生き生きとした実例から、人間の霊は身体の中にいるだけでなく、身体を去った後も呼吸すること、霊の呼吸は人間によって知覚されないほどに静かなものであり、身体の明らかな呼吸の中に流入するのは、原因が結果の中に、思考が肺の中へ、そして肺によって話しの中へ流入するのとほとんど異ならないことが私に明らかになりました。
 これらからもまた、人間のもとの霊と身体の結合は心臓の運動と肺の運動の両方の対応からであることが明らかです。

神の愛と知恵

391◀︎目次▶︎393

392 心臓と肺のこれら二つの運動が存在するようになり、存続するのは、天使の全天界が全般的にも、個別的にもそれらの二つの運動の中にあるからです。天使の全天界がそれらの運動の中にあるのは、太陽を通して主がおられるからです。その太陽にその方がおられ、その太陽はその方からのものであり、それらに注ぐのです。なぜなら、その太陽はそれらの二つの運動を主から動かすからです——天界と世のすべての者は、主からの太陽を通って、最初のものから最後のものまで鎖で結ばれた製品のように、形からこのような結びつきの中にあるからであり、愛と知恵のいのちはその方からであり、全世界のすべての力はいのちからであるので、起源は別のところからでないことが明らかです。
 それらの運動の多様性は愛と知恵の受容にしたがっていることがいえます。

神の愛と知恵

392◀︎目次▶︎394

393 それらの運動の対応について、続きの中で多くのことを述べます。例えば、天界と調和して呼吸する者の対応はどんなものであるか、地獄と調和して呼吸する者の対応はどんなものであるか。なおまた、天界と調和して話す者、また地獄と調和して考える者、このように偽善者、おべっか使い、偽る者、またその他の者のもとでどんなものであるかです。

神の愛と知恵

393◀︎目次▶︎395

意志と心臓の対応から、肺と理解力の対応から、意志と理解力について、したがって人間の霊魂について知ることのできるすべてのことを知ることができる

394 学界では、多くの者が霊魂について調べて精いっぱいの努力をしましたが、霊界について、また死後の人間の状態について何も知らなかったので、霊魂がどんなものであるかについてではなく、身体の中でのその働きについて仮説を立てることしかできませんでした——霊魂がどんなものであるかについては、エーテルの中の何か最も純粋なもの、その容器についてはエーテルのような考えしかもつことができませんでした。
 それでも、霊魂は霊的なものであることを知っていて、霊魂に自然的な何らかのものを引き寄せないように、そのことについては、少しだけ公けにする以上には大胆になれませんでした。
 さて、霊魂についてこのような考えを抱き、それでも彼らに霊魂が身体の中で活動し、また感覚と運動に関係するすべてを生み出すことがよく知られていたので、いま述べたように、身体の中で霊魂が働くことについて調べることに精いっぱいの努力をし、ある者は流入によって、ある者は調和によって行なわれる、と言いました。
 しかし、霊魂がどのようなものであるか知ろうとする者の心を満足させることができるものは、このように何も明らかにされないので、それゆえ、天使と話し、また彼らによってそれらの事柄について照らされることが私に与えられました。それらは次のことです——
 死後に生きる人間の霊魂は彼の霊である。それは完全な人間の形をしている。この霊魂は意志と理解力である。これらの霊魂は主からの愛と知恵である。人間の霊魂をつくるものはこれら二つのものであり、それらは主だけからのものである。主は、人間によりご自分が受け入れらるために、いのちが人間のものであるように見えるようにされる。
 しかし、人間がいのちを、自分ものとして自分自身に付加し、このように自分自身をその方を受け入れることから退けないように、主は、善と呼ばれる愛のすべてのものは、真理と呼ばれる知恵のすべてのものは、ご自分からであり、それらの何も人間からでないこと、それら二つものはいのちであるので、いのちのものであり、いのちのすべてのものはご自分からであることも教えられました。

神の愛と知恵

394◀︎目次▶︎396

395 霊魂は、そのエッセそのものに関して愛と知恵であり、これら二つのものは主から人間のもとにあるので、それゆえ、人間のもとに一つは愛のため、またもう一つは知恵のための二つの容器が創造され、それらはまた人間のもとの主の住まいです——愛のためのものは意志と呼ばれ、またもう一つの知恵のためのものは理解力と呼ばれます。
さて、(前の17―22番に見られるように)主の中の愛と知恵は区別された一つのものであり、神的な愛はその方の神的な知恵のもの、また神的な知恵はその方の神的な愛のものであり(34―39番)、それらは同様に神人間から、すなわち、主から発出しているので、それゆえ、人間の中の意志と理解力と呼ばれるそれら二つの容器と住まいは、主により、区別された二つのものであるように創造されましたが、それでも、すべての働きとすべての感覚の中で一つとなるように創造されました、というのは、それらの中で意志と理解力は分離されることができないからです。
それでも、人間が容器と住まいになれることができるようにとの目的の必要から、人間の理解力が彼の愛のプロプリウムの中にいないで、その愛の上方へ、知恵のある種の光の中へ上げられ、そのことによって、どのように生きるべきであるか知り、教えられることができ、その愛の中にもやって来るように、こうして永遠に幸福の状態にあるようにされました。
さて、人間は理解力を自分のプロプリウムの愛の上に高揚する能力を悪用したので、それゆえ、主の容器と住まい、すなわち、主からの愛と知恵の容器と住まいにでき、意志を自己と世への愛の住まいとして理解力をそれらの愛の確信の住まいにできることを自分のもとで破壊しました。
これが、それらの二つの住まいである意志と理解力が、地獄の愛の住まいとなり、その愛を確信することで、地獄の思考の住まいとなった起源です。その思考を地獄の中では知恵としてみなしています。

神の愛と知恵

395◀︎目次▶︎397

396 自己愛と世俗愛は地獄の愛であり、人間がそれらの中に入り、このように自分のもとの意志と理解力を破壊することができた理由は、自己愛と世俗愛は創造から天界的なものであるからです。というのは、家のために土台が仕えるように、それらの愛は霊的な愛に仕える自然的な人間の愛であるから——なぜなら、人間は自己と世への愛から、自分の身体によいようにと、食物を与えられ、着せられ、住むことを欲し、自分の家族を世話すること、役立ちのために職を求め、それどころか、執行する事柄の地位にしたがって尊敬されること、従順のために、また世の楽しみを享受し、元気づけられることを欲しますが、これらすべてのものを役立ちであるべき目的のために欲するからです——というのは、それらによって主に仕え、隣人に仕えることの状態の中にいるからです。しかし、主に仕え、隣人に仕えなくてはならない愛が何もなく、自分自身に仕える世からの愛だけであるとき、その愛は天界的なものから地獄的なものになります。なぜなら、その愛により、人間は自分の心と自分の愛を自分のプロプリウム(自己固有のもの)に沈めるようにするからです、そのプロプリウムは本質的にすべての悪です。

神の愛と知恵

396◀︎目次▶︎398

397 さて、理解力によって天界の中に、意志によって地獄の中にいることが可能ではあっても、そうしたことがないように、このように分割された心を持たないように、それゆえ、死後、その理解力の固有の愛を越えるすべての理解力は取り去られます。
 そこから、すべての者の意志と理解力は、ついに一つとして働くことになります。天界の中にいる者の意志は善を愛し、理解力は真理を考えます。けれども、地獄の中にいる者の意志は悪を愛し、理解力は虚偽を考えます。
 世の中の人間も、自分自身の霊から考えている時、それはひとりでいるときが起こりますが、同様に行なっています。それでも多くの者は、身体の中にいるとき、それはひとりでいないとき起こりますが、異なっています。その時、異なっているのは、自分の理解力を自分の意志にプロプリウムの上に、すなわち、自分の霊の愛の上に高揚させるからです。
 これらを述べたのは、意志と理解力は二つの区別されたものですが、それでも一つとして働くように創造されていること、一つとして働くために、死の前でないなら、死後に強いられることが知られるためです。

神の愛と知恵

397◀︎目次▶︎399

398 さて、愛と知恵は、ここから意志と理解力は、霊魂と呼ばれるものであり、どのように霊魂が身体の中で働くか、またそのすべてのものを生み出すか、続きの中で述べなければなりません。このことが意志と心臓の対応、理解力と肺の対応から知ることができるので、それゆえ、それらの対応によって次のものが明らかにされます——

 (1)愛または意志は、人間のいのちそのものである。
 (2)愛または意志は、人間の形の中へ、また人間の形であるすべてのものの中へ絶えず向かっている。
 (3)愛または意志は、知恵または理解力との結婚がなくては、その人間の形によって何もすることができない。
 (4)愛または意志は、知恵または理解力である来るべき配偶者のために家または部屋を準備する。
 (5)愛または意志もまた、知恵または理解力と結合して働くことができるために、すべてのものをその人間的な形の中に準備する。
 (6)結婚が行なわれたとき、知ろうとする情愛を通して最初の結合があり、そこから真理の情愛がある。
 (7)理解しようとする情愛を通して第二の結合があり、そこから真理の知覚がある。
 (8)真理を見ようとする情愛を通して第三の結合があり、そこから思考がある。
 (9)愛または意志は、これらの三つの結合を通して、その感覚的ないのち中に、その活動的ないのちの中にある。
 (10)愛または意志は、知恵または理解力を自分の家のすべてのものの中へ導き入れる。
 (11)愛または意志は、知恵または理解力との結合の中にないなら、何も行なわない。
 (12)愛または意志は、それ自体を知恵または理解力に結合させ、そして知恵または理解力が相互に結合されるようにする。
 (13)知恵または理解力は、それ自体に与えられた能力から愛または意志により高揚され、そして天界からの光に属するものを受け、そしてそれらを知覚することができる。
 (14)愛または意志も、その配偶者をその段階の中で愛するなら、同様に高揚され、そして天界からの熱のものを知覚することができる。
 (15)そうでなければ、愛または意志は、それ自体と一つとして働くように、知恵または理解力をその高揚から引き戻す。
 (16)愛または意志は、1諸に高揚されるなら、理解力の中で知恵により清められる。
 (17)愛または意志は、1諸に高揚されるないなら、理解力の中で、また理解力から汚される。
 (18)理解力の中で知恵により清められた愛は、霊的に、また天的になる。
 (19)理解力の中で、また理解力により汚された愛は、自然的に、また感覚的になる。
 (20)それでも、理性と呼ばれる理解する能力と自由と呼ばれる行動する能力は残る。
 (21)霊的な愛と天的な愛は、隣人に対する愛と主への愛である。自然的な愛と感覚的な愛は、世俗愛と自己愛である。
 (22)仁愛と信仰は、またそれらの結合は、意志と理解力と、またこれらの結合と同様である。

神の愛と知恵

398◀︎目次▶︎400

399 (1) 愛または意志は、人間のいのちそのものである
このことは、意志と心臓の対応からいえます(そのことについて前の378―381番)、なぜなら、心臓が身体の中で働くように意志は心の中で働き、身体のすべてのものが、存在と運動に関して、心臓によるように、心のすべてのものは、存在といのちに関して、意志によるからです。
「意志による」と言われますが、意志は愛の容器であり、愛はいのちそのものであるので(前の1―3番に見られる)、「愛による」ことが意味され、いのちそのものである愛は、主おひとりからのものです。
心臓から、また心臓が動脈と静脈を通って身体の中へ拡張することから、愛または意志は人間のいのちであることを知ることができます。互いに対応するものは、一つは自然的であり、もう一つは霊的であるという相違とともに、それらは同様に働くからです。
心臓が身体の中でどのように働くかは解剖学から明らかです。例えば、生きているかまたはいのちに従っているすべてのものは、そこに血管を通って送り出された心臓が働き、生きないすべてのものは、そこに心臓がその血管を通って働いていないことです。さらに、心臓は身体の中で働く最初のものと最後のものです——最初のものであることは胎児から明らかであり、最後のものであることは死につつある者から明らかです。肺の協力なしに働くことは、窒息から、また気絶から明らかです——ここから、身体の従属的ないのちは心臓だけによるのと同様に、心のいのちは意志だけによること、胎児、死につつある者、窒息や気絶からも明らかであるように、心臓は呼吸が止まっても働くのと同様に、意志は思考が止まっても生きていることを知ることができます。
これらから、愛または意志は人間のいのちそのものであることがいえます。

神の愛と知恵

399◀︎目次▶︎401

400 (2) 愛または意志は、人間の形の中へ、また人間の形であるすべてのものの中へ絶えず向かっている
 このことは、意志との心臓の対応から明らかです。なぜなら、身体のすべてのものが子宮の中で形成されること、脳からの繊維によって、心臓からの血管によって形成されること、器官と内臓のすべての組織はこれらの二つのものから生じることはよく知られているからです——このことから、人間のすべてのものは愛である意志のいのちからであること、その源により脳から繊維を通って、身体のすべてのものは心臓から動脈と静脈を通って存在するようになることが明らかです。
 これらから、愛とそこからの意志であるいのちは、人間の形の中へ絶えず向かっていることがきわめて明らかです。人間の形は、人間の中に存在するものすべてのものから構成されるので、愛または意志はそれらすべてを形成する絶え間ないコナトゥスと活動にあることがいえます——人間の形の中へのコナトゥスと活動があることは、神が人間であり、神的な的な愛と神的な知恵がいのちそのものであり、それらから、いのちのすべてのものがあるからです。
 人間そのものであるいのちが人間の中で働かないなら、それは本質的にいのちではなく、人間の中に存在する何らかのものは、その中に無数のものがあって、それらは一つとして働き、人間がその方の容器と住まいになることができるように一致して、いのちの像へと調和して協力します、このようなものに形作られることはできないことをだれもが見ることができます。
 これらから、愛が、愛から意志が、意志から心臓が、人間の形の中へ絶えず向かっていることを見ることができます。

神の愛と知恵

400◀︎目次▶︎402

401 (3) 愛または意志は、知恵または理解力との結婚がなくては、その人間の形によって何もすることができない
 このこともまた意志と心臓の対応から明らかです。
 胎児である人間は肺でなく、心臓で生きます。なぜなら、その時、血は心臓から肺の中へ流入して、それに呼吸する能力を与えずに、開口部を通って左心室の中へ流入するからです。それゆえ、胎児は身体の何らかのものを動かすことができません、というのは、結びつけられて横たわるからであり、何らかのものを感じることもできず、感覚器官は閉ざされているからです。 
 愛または意志も、心臓からそれでも生きている胎児と同様ですが、やみの中に、すなわち、感覚と活動なしに生きています。けれども、肺が開かれるとすぐに、それは出産の後に起こりますが、その時、感じることと活動すること、同じく意志することと考えることが始まります。
 これらから、愛または意志は知恵または理解力との結婚なしに、その人間の形によって何もすることができないことを明らかにすることができます。

神の愛と知恵

401◀︎目次▶︎403

402 (4) 愛または意志は、知恵または理解力である来たるべき配偶者のために家または部屋を準備する
 創造された全世界の中とその個々のものの中に善と真理の結婚があり、このことは、善は愛に、知恵は真理に属し、これら二つものもは主の中にあり、その方からすべてのものが創造されたからです。
 この結婚がどのように人間の中にあるかは、鏡の中に見るように、肺との心臓の結合の中に見ることができます。なぜなら、(前の378―381、382―384番のように)心臓は愛または善に、そして肺は知恵または真理に対応するからです。その結合から、どのようにして愛または意志がそれ自体に知恵または理解力を婚約させるか、その後、それを導くか、すなわち、それらとのいわば結婚に入るか、見ることができます。知恵ために家または部屋を準備することによって、彼女〔知恵〕と自分自身〔愛〕を婚約させます。情愛によって彼女を自分自身に結合させることによって、彼女と結婚し、その後、知恵〔彼女〕をそれ〔情愛〕とともにその家の中へ導きます。
 このようであることは、愛と知恵が、ここから意志と理解力が霊的であるので、霊的な言語でなければ十分に述べられることができません。確かにそれらは自然的な言語で伝えることができますが、愛とは何か、知恵とは何か、なおまた善の情愛とは何か、真理への情愛である知恵の情愛とは何か、無知であるために、不明確なものしか知覚されませんが、それでも、婚約がどんなものか、また愛と知恵との結婚が、または意志と理解力との結婚がどんなものかは、それらが心臓と肺に対応するという比較によって、見ることができます——というのは、心蔵と肺の関係は、愛と知恵または意志と理解力の関係と同様であるから。一つは霊的、もう一つは自然的であること以外にまったく何も相違がないほどに同様です。
 そこで、心臓が最初に肺を形成し、その後、心臓に肺を結合させるその心臓と肺から明らかです。胎児の中で肺を形成し、出産後に肺を心臓自体に結合させるのです。このことを心臓は胸と呼ばれる自分の家の中で行ない、そこには、横隔膜と呼ばれる隔壁によって、胸膜と呼ばれる被膜によって身体の他のものから分離された、共同生活する者たちの集会(共同天幕)があります。
 愛と知恵も、すなわち、意志と理解力も同様です。

神の愛と知恵

402◀︎目次▶︎404

403 (5) 愛または意志は、知恵または理解力と結合して働くことができるために、すべてのものをその人間的な形の中に準備する
意志と理解力と言われますが、意志は人間全体であることをよく知るべきです。というのは、前に示されたように(365―367番)、意志は理解力とともに脳の中の源の中に、そして派生物、身体、ここから全部の中に、どんな部分の中にもあるからです——ここから、意志は形そのものに関して、全般的な形と同様にすべての個別の形で全人間であること、肺が心臓の仲間であるように理解力は意志の仲間であることを明らかにすることができます。
人間の形から分離した何らかの意志の観念を心に抱かないようにだれもが警戒しなさい、というのは、〔意志と人間は〕同じものであるから。
このことから、意志は理解力のためにどのように部屋を準備するかだけでなく、全身であるその家の中のすべてのものを、理解力との結合が行なわれることができるよう、どのように準備するか知ることができます。このことを、身体の中のすべてと個々のものが意志と結合しているように、理解力と結合するように準備するのです。すなわち、身体のすべてのものと個々のものが役に立つために意志の下にあるように、役に立つために理解力の下にもあるようにすることです。
身体のすべてのものと個々のものが意志との結合のように、理解力との結合のために、どのように準備されるかは、身体の中のものについて解剖学の知識によって、鏡の中または類似物の中のように知ることができます。その知識によって、身体の中のすべてのものが、肺が呼吸する時、全身の中のすべてと個々のものは肺の呼吸により、その時、心臓の鼓動からもまた動かされますが、そのことから、どのように接合されているかわかります。
解剖学から、心臓は心耳によって肺と結合し、この心耳は肺の内側に伸びていること、なおまた全身の全部の内臓は靭帯によって、肺が呼吸する時、すべてのものと個々のものは全般的にまた部分的に、呼吸運動からの何らかのものを受けるように胸の腔に結合されていることは、よく知られています——というのは、肺がふくれあがる時、肋骨は胸郭を広げ、胸膜は広げられ、横隔膜も広げられ、そのとき靭帯によってそれらに接合されている身体の下部のすべてのものは、肺の運動によって何らかの運動を受けているからです——私は、解剖学の知識のない者たちが、それらの知識の専門語についての無知から、この事柄について不分明とならないよう、多くのことに言及しません。ただ解剖学の習熟者や賢明な者に助言を求めてください。肺から最も下のものまで、全身の中のすべてのものは、肺が呼吸によってふくらむとき、すべてと個々のものは、肺と同時の活動を起こすよう、このように結びつけられていませんか?
これらから今や、人間の形のすべてと個々のものとの理解力の結合は、意志からどんなものが準備されているか、明らかです——単に結びつきを探求し、それらを解剖学の目で調べなさい、またその後、結びつきにしたがって肺が呼吸するとき、心臓と協力を考慮しなさい、最後に、肺の代わりに理解力を、また心臓の代わりに意志を考えなさい、するとあなたにわかります。

神の愛と知恵

403◀︎目次▶︎405

404 (6) 結婚が行なわれたとき、知ろうとする情愛を通して最初の結合があり、そこから真理の情愛がある
 結婚によって、無知の状態から理解力をもつ状態まで、ここから知恵の状態へいたる出産後の人間の状態が意味されます。
 無知だけの状態である最初の状態は結婚によって意味されません。その時、理解力からの思考は何もなく、不明瞭な情愛だけがあるからです。情愛は愛に、すなわち、意志に属します。この状態は結婚への初期段階です。
 第二の段階である人間に少年期に、知ろうとする情愛があることはよく知られています。この情愛によって、少年、幼児は話すことを学び、読むことを学びます、その後、引き続いて理解力に属するようなものを学びます。意志に属する愛が働きかけることは、疑いを呼ぶはずがありえません。なぜなら、愛が、すなわち、意志がそれを行なわないなら、生じないからです。
 知ろうとする情愛がそれぞれの人間に出生後にあり、その情愛によってこのようなものを学び、それらから理解力が徐々に形成され、成長し、完成されることは、だれもが、経験に思い巡らす時、理性から認めます。真理への情愛はここからであることもまた明らかです。なぜなら、人間が知ろうとする情愛から知的になったとき、このように知ろうとすることへの情愛へは導かれず、彼の愛に属するもの、例えば、経済、あるいは社会問題、あるいは道徳を考えようとする情愛へ、このようなものを推論しようとする情愛へ導かれるからです。
 この情愛が霊的なものにまで高揚されるとき、それは霊的な真理への情愛になります。その最初のもの、すなわち、初期段階が知ろうとする情愛であったことは、真理への情愛が知ろうとする情愛の高揚されたものであることから知ることができます。なぜなら、真理に感動させられることは、情愛から真理を知ることを欲し、またそれを見つけたとき、情愛の快さからそれを吸収することであるからです。
 (7) 理解しようとする情愛を通して第二の結合があり、そこから真理の知覚がある
 このことは理性的な熟慮から調べることを欲する者のだれにも明らかです。
 理性的な熟慮から、真理への情愛と真理の知覚は理解力の二つの能力であることが明らかであり、それらはある者のもとで一つとなっており、ある者のもとでは一つとなっていません——一つとなっている者は理解力で真理を知覚することを欲し、一つとなっていない者は単に真理を知ることを欲します。
 さらにまた、だれもが、どれだけ理解しようとする情愛の中にいるかによって、それだけ真理の知覚の中にいることが明らかです——というのは、真理を知ろうとする情愛を取り去ってみなさい、すると真理の知覚は何もなくなるからです。しかし、真理を知ろうとする情愛を与えなさい、するとその情愛の段階にしたがってその知覚があります。なぜなら、健全な理性をもつ人間に、真理を知ろうとする情愛があるかぎり、決して真理の知覚は欠けていないからです。
 それぞれの人間に推理力と呼ばれる真理を理解する能力があることは、前に示されています。                   
 (8) 真理を見ようとする情愛を通して第三の結合があり、そこから思考がある
 知ろうとする情愛、理解しようとする情愛、真理を見ようとする情愛は別のものであること——すなわち、真理の情愛、真理の知覚、思考が別のものであること——これは、心の働きを区別して知覚することができない者のもとでは、あいまいにしか明らかとなりませんが、区別して知覚することができる者のもとでは、はっきりと明らかです。
 心の働きを区別して知覚することができない者のもとで、このことがあいまいにしか明らかとならないことは、真理への情愛の中と真理の知覚の中にいる者のもとでは、心の働きが思考の中に同時にあり、同時にあるとき区別されることができないからです。
 人間は、身体の中の彼の霊が考えるとき、これは特に他の者と交わっている時に生じますが、明らかな思考の中にいます。しかし、理解しようとする情愛の中にいるとき、これを通して真理の知覚の中にやって来る時、熟考である自分自身の霊の思考の中におり、それは確かに身体の思考の中に落ち込みますが、沈黙の思考の中へです。というのは、霊の思考は上にあって、記憶からの思考である身体の思考を、自分の下にあるかのように熟視していて、それらから結論へと導くか、あるいは確信させるからです。
 しかし、真理の情愛そのものは、何らかの快さからの意志の努力のようなものとしか認められず、それはそのいのちのように瞑想の中に内部にあって、それへはほとんど注意が向けられません。
 そこでこれらから、真理への情愛、真理の知覚、思考の三つのものは、愛から秩序をもって続き、理解力の中にしか存在するようにならないことを明らかにすることができます。というのは、愛が理解力の中に入るとき、それは結合が行なわれるとき生じますが、その時、最初に真理の情愛を生み出し、その後、知ったものを理解しようとする情愛を生み出し、最後に、理解したものを身体の思考の中で見ようとする情愛を生み出します、思考は内なる視覚以外の何ものでもないからです。
 確かに、思考が、自然的な心のものであるので、最初に存在するようになります、しかし、真理への情愛からのものである真理の知覚からの思考が、最後に存在するようになり、この後の思考は知恵の思考ですが、前の思考は自然的な心の視覚による記憶からの思考です。
 理解力の外で、愛すなわち意志のすべての働きは、真理の情愛に関係しないで、善の情愛に関係します。

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404◀︎目次▶︎406

405 意志のものである愛からのこれら三つのものが理解力の中で秩序をもって続くことは、確かに理性的な人間から理解されることができますが、それでも、はっきりと見られ、またこうして信念にまで確信されることはできません。
それで、前に示されたように、意志のものである愛は対応によって心臓と一つとして働き、理解力のものである知恵肺と一つとして働くので、それゆえ、すぐ前(404番)に言われた真理への情愛、真理の知覚、思考について、それらを肺とその構造以外の他のところからでは、はっきりと見て、確信することができません。それゆえ、これらを簡潔に述べなくてはなりません。
出生後、心臓は血を右心室から肺の中に送ります。〔肺を〕通過した後、血を左心室の中に送り、このように肺を開きます。このことを心臓は肺の動脈と静脈によって行ないます。
肺に気管支があり、それらが枝に分かれ、ついに肺胞に分かれ、その中に空気を入れ、このように呼吸します。気管支とその分枝の周囲にもまた動脈と静脈があり、それらは気管支の動脈と静脈と呼ばれ、奇静脈または大静脈と大動脈から起こっています。これらの動脈と静脈は肺の動脈と静脈からは区別されます。これらから、血は二つの管を通って肺の中に流入し、二つの管を通って出てくることが明らかです。ここから、肺は心臓と同期的にではなく呼吸できます。心臓の交替する変化と肺の交替する変化が一つとなって働かないことはよく知られています。
さて、すでに示されたように、心臓と肺が意志と理解力に対応し、対応によって、一方が活動するように、そのように他方も活動するような結合があり、心臓から肺の中への血の流入から、すぐ前(404番)に言われた真理への情愛と知覚、また思考について、どのように意志が理解力の中に流入するか、それを行なうか、見ることができます。このことが、それらについて今なお多くのことが、対応によって私に明らかとなりましたが、それらは手短に記述できません。
愛すなわち意志が心臓に対応し、知恵すなわち理解力が肺に対応するので、肺の中の心臓の血は真理の情愛に対応すること、肺の気管支の分枝はそれらの情愛からの知覚と思考に対応することがいえます。
肺の構造を起源から探究する者は、愛を意志と知恵を理解力と比較する者は、前(404番)に言われたことを映像の中に見るように見て、このように信念にまで確信されることができます。しかし、心臓と肺についての解剖学の知識に親しんでいる者はわずかであり、未知のもので何らかのものを確認することは不明瞭を引き起こします。それゆえ、私は多くの比較によって説明することを割愛します。

神の愛と知恵

405◀︎目次▶︎407

406 (9) 愛または意志は、これらの三つの結合を通して、その感覚的ないのちの中に、またその活動的ないのちの中にある
理解力のない愛は、すなわち、理解力に属する思考のない愛に属する情愛は、身体の中で感じることも活動することもできません、理解力のない愛は盲目のようであり、すなわち、思考のない情愛は暗黒の中にあるようであるからです。というのは、理解力は光であり、愛は光から見るから——理解力の知恵もまた太陽としての主から発出する光からです。
そこで、意志の愛が理解力の光なしに何も見ず、また盲目であるとき、理解力の光のない身体の感覚もまた、視覚と聴覚だけでなく他の感覚もまた盲目と愚鈍の中にあることがいえます。他の感覚もそうであるのは、前に示されたように、真理のすべての知覚は理解力の中の愛に属し、身体のすべての感覚はそのすべての知覚をその心の知覚から得るからです。
身体のすべての活動も同様です。なぜなら、理解力のない愛からの活動は、夜間の人間の活動のようであるからです。というのは、その時、人間は何をしているのか知らないから。ここから、活動の中に知性と知恵が何もなく、その活動は活きている活動と呼ぶことはできません。というのは、活動はそのエッセ(存在)を愛から、その性質を知性から得るから。
さらに、善のすべての力は真理によって存在します。それゆえ、善は真理の中で、このように真理によって働き、そして善は愛のもの、真理は理解力のものです。
これらから、愛は、すなわち、意志は、それらの三つの結合を通して(それらについては前の404番)、その感覚的ないのちの中に、またその活動的ないのちの中に存在することを明らかにすることができます。

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406◀︎目次▶︎408

407 このようであることは、肺との心臓の結合から生き生きと確認することができます。そこには、意志と心臓の間に、また理解力と肺の間に、愛が理解力に対して霊的に行なうように、心臓が肺に対して自然的に行なうような対応があるからです。ここから、前述のことは目に示される映像のように見ることができます。
 心臓と肺が同時に働かない時、人間は何らかの感覚的ないのちの中にも、何らかの活動的ないのちの中にもないことは、胎児、すなわち、子宮の中の幼児の状態から、また出生後のその状態から明らかです。
 人間は、胎児であるかぎり、すなわち、子宮の中にいるかぎり、肺が閉ざされています。ここから、人間に何の感覚も、何の活動もなく、感覚器官は閉ざされ、手は結ばれ、同様に足も結ばれています。しかし、出生後、肺は開かれ、開かれるしたがって人間は感じ、行動します。肺は心臓から送り込まれた血によって開かれます。
 心臓と肺の1諸の働きがなくては、人間に何ら感覚的ないのちがなく、何ら活動的ないのちもないことは、気絶からもまた明らかです。気絶中は、心臓だけが働き、その時、呼吸は取り去られているので肺は働きません——気絶中に、何も感覚はなく、活動もないことはよく知られています。水または何らかのものによって咽頭をふさがれ、肺の呼吸のための通路を閉ざされ、窒息する者も同様です。その時、その者は、何も感じず、何も行動しないので死んでいるように見えますが、それでも心臓が動いていて生きていることは、よく知られています。というのは、肺の閉塞が取り除かれるとすぐに、感覚的ないのちと活動的ないのちの両方のいのちが戻るから。確かに、その間に血は肺を通って循環していますが、肺の動脈と静脈を通してであり、人間に呼吸する能力を与える気管支の動脈と静脈を通してではありません。理解力の中への愛の流入も同様です。

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407◀︎目次▶︎409

408 (10)愛または意志は、知恵または理解力を自分の家のすべてのものの中へ導き入れる
愛または意志の家によって、心のものであるすべてのものに関する人間全体が意味されます。(前に示されたように)それらは身体のすべてのものに対応するので、家によって、四肢、器官、内臓と呼ばれる身体のものであるすべてのものに関する人間全体もまた意味されます。
理解力が心のすべてのものの中に導き入れられているのと同様に、肺がそれらすべてのものの中に導き入れられていることは、前に示されたことから明らかにすることができます——例えば、愛または意志は、来るべき配偶者のために家または部屋を準備し、その配偶者は知恵または理解力であること(402番)、また、愛または意志は、知恵または理解力と結合して働くことができるために、その人間的な形の中に、すなわちその家の中に、すべてのものを準備することです(403番)。
そこに言われていることから、身体全体の中のすべてと個々のものは、肋骨、椎骨、胸骨、横隔膜、とそれらからつり下がっている腹膜から送り出された靭帯は、このように連結されています、肺の呼吸と同時に交替の活動の中に引き寄せられ、導かれるもたらされることが明らかです。呼吸の交替運動が内臓そのものの中に、その最内部の奥底にまでも入ることは、解剖学から明らかにすることができます。なぜなら、すぐ前に言及した靭帯は、内臓の被覆に密着し、その被覆は突起によって、動脈と静脈もまた分枝によって行なうように、その最内部にまで入るからです。ここから、肺の呼吸は、心臓とすべておいて結合して、身体のすべてと個々のものの中にあることを明らかにすることができます——その結合がすべての点で働くために、心臓そのものもまた肺の運動の中にあります。というのは、肺のふところの中にあり、心耳によって密着し、横隔膜の上に横になり、動脈もまた横隔膜を通して肺の運動に参加するからです。
さらに胃も、気管との食道の密着性によって、同様に結合しています。
愛または意志が知恵または理解力との結合がどんなものであるか、そして、両方ともが心のすべてのものとの交わりの中にあることが見られるようにとの目的のために、これらのことが解剖学から付け加えて言いました。なぜなら、〔心の中のものは身体の中のものと〕同様であるからです。

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408◀︎目次▶︎410

409 (11) 愛または意志は、知恵または理解力との結合の中にないなら、何も行なわない
というのは、理解力のない愛に、何も感覚的ないのちも活動的ないのちもなく、愛が理解力を心のすべてのものの中に導き入れるとき(前の407, 408番に、示されているように)愛または意志は理解力との結合の中でないなら何も行なわない、といえるからです——理解力のない愛から行動することとは何ですか? これは理性のないものとしか呼ぶことができません。というのは、理解力は何を行なうべきか、どのように行なうべきかを教えるからです。理解力のない愛はこのことを知りません——それゆえ、二つのものであるとはいえ、それでも一つとして働くように、そのために、愛と理解力の間に、このような結婚があります。同様の結婚が善と真理の間にあります、なぜなら、善は愛に属し、また真理は理解力に属するからです。
このような結婚が、主から創造された全世界の個々のものの中にあります。それらの役立ちは善に関係し、役立ちの形は真理に関係します。身体のすべてのものと個々のものの中に右と左があるのはこの結婚からであり、右は真理のもととなる善に関係し、左は善からの真理に、したがって結合に関係します。人間の中に対があるのはこのことからです。二つの脳があり、脳の二つの半球があり、心臓の二つの心室があり、肺の二つの葉があり、二つの目、耳、鼻、腕、手、腰、足、腎臓、睾丸、また他のものがあります。また対がないところには右と左があります。
これらが存在するのは、善は存在するようになるために真理に目を向け、真理は存在するために善に目を向けるからです。天使の天界の中でも、それらの個々の社会の中でも同様です。これらについて多くのことが前に見られ、そこには(401番)、愛または意志は、知恵または理解力との結婚がなくては、その人間の形によって何もすることができないことが示されています。善と真理の結合に対立している悪と虚偽の結合については他のところで述べます。

神の愛と知恵

409◀︎目次▶︎411

410 (12) 愛または意志は、自分を知恵または理解力に結合させ、そして知恵または理解力が相互に結合されるようにする
 愛または意志がそれ自体を知恵または理解力に結合させることは心臓と肺との対応から明らかです。
 解剖学では観察から、肺がもはや運動していない時でも、心臓はその生命の運動の中にあることがわかっています。このことは、気絶した者、窒息させられた者を観察することから、なおまた子宮の中の胎児から、卵の中のひよこからもわかります。さらにまた解剖学での観察から、心臓は、それだけで働く時に肺を形成し、そこで呼吸することができるようにそれを適合させること、さらにまた他の内臓や器官を、それらの中でいろいろな役立ちができるように形成すること、顔の器官を感じることができるように、運動の器官を働くことができるように、身体の中の他のものを愛の情愛に対応する役立ちをもたらすことができるように形成することがわかっています。これらから初めて、心臓が、身体の中で果たそうとするいろいろな機能のためのこのようなものを生み出すように、このように愛は意志と呼ばれる自分の容器の中に、いろいろな情愛のために、同様のもののその形をつくることが明らかです。それが人間の形であることは前に示されています。
 さて、愛の情愛の最初のものと最も近いものは、知ろうとする情愛、理解しようとする情愛、知って理解しているものを見ようとする情愛であるので、愛はこれらのために理解力を形成し、感じ、活動し始める時、また考え始める時、それらの中に実際にやって来ることがいえます。理解力がこのことに何も寄与しないことは、心臓と肺の比較から明らかです、そのことについては前に述べました。
 これらから、愛または意志が知恵または理解力に結合するのであって、知恵または理解力が愛または意志に結合するのではないことを知ることができます。ここからもまた、愛は知識を知ろうとする情愛から獲得すること、そして理解しようとする情愛から真理の知覚を、知って理解しているものを見ようとする情愛から思考を獲得し、このことが理解力に属さず、愛に属することが明らかです。
 確かに霊界から思考、知覚、またここから知識が流入しますが、それでも理解力により受け入れられるのではなく、愛によりその情愛にしたがって理解力の中に受け入れられるのです。
 愛または意志ではなく、理解力がそれらを受け入れるように見えますが、これは欺きです。さらにまた理解力が愛または意志に結合するように見えますが、このこともまた欺きです。愛または意志が理解力に結合し、相互に結合されるようにします。相互に結合されるのは、知恵と愛の結合からです。ここから愛のいのちとそこからの力から相互のもののような結合があります。
 善と真理の結婚も同様です、なぜなら、善は愛に属し、真理は理解力に属するからです——善がすべてのものを行ない、真理を自分の家に受け入れ、一致しているかぎり、それと結合します。善は、一致していない真理もまた入ることを許すことができますが、このことを、善のものを知ろうとする情愛から、理解しようとする情愛から、考えようとする情愛から行なうのであって、その時、善と呼ばれるそれの目的である役立ちはまだ決定していません。相互の結合といっても、真理から善との結合はまったく何もありません。善のいのち(生活)から相互に結合されるのです。
 ここから、すべての人間は、すべての霊と天使は、主から彼の愛または善にしたがって見られ、愛または善から分離した理解力または意志からは見られません——というのは、前に示されているように、人間のいのちは彼の愛であり、そのいのちは彼が真理によって高めた自分の情愛のようなものであるから、すなわち、知恵から完成させた情愛のようなものであるからです。なぜなら、愛の情愛は真理によって、したがって知恵によって高められ、完成させられるからです。またその時、愛は知恵と結合して、知恵からのように活動しますが、知恵を通してそれ自体から、まったく理解力からは何も導かないで、すべてを情愛と呼ばれる何らかの愛が定めたものから導いたそれ自体の形によるかのように活動します。

神の愛と知恵

410◀︎目次▶︎412

411 愛は自分に好意をもつすべてのものを自分の善と呼び、手段として善へ導くすべてのものを真理と呼びます。それらの真理は手段なので、愛され、彼の情愛のものになり、こうして形の中の情愛になります。それゆえ、真理は愛のものである情愛の形以外のものではありません。
 人間の形は愛からのすべての情愛の形以外のものではありません。美は自分の知性であり、外なるまた内なる視覚あるいは聴覚で受ける真理によってそれを自分自身に得ます。これらの真理は愛が自分の情愛の形に整えるものであり、それらの形はきわめて多様ですが、すべてのものは人間性である自分の全般的な形から似ているものを得ています——彼にそれらの形のすべては美しく、愛らしいですが、他のものは美しくないし、愛らしくもありません。
 これらからもまた、愛は自分自身を理解力に結合させ、その逆ではないこと、相互の結合もまた愛からであることが明らかです。このことが、愛または意志が知恵または理解力を相互に結合されるようにすることによって意味されます。

神の愛と知恵

411◀︎目次▶︎413

412 これまで言われたことは、愛との心臓の対応から、理解力との肺の対応から(それらについては前に述べました)、ある種の映像の中に見られ、こうして確信することができます。なぜなら、心臓が愛と対応するとき、その確定されたものである動脈と静脈は情愛に対応し、肺の中では真理の情愛に対応するからです——肺の中には気管と呼ばれる他の管もあり、それによって呼吸が行なわれ、それゆえ、これらの管は知覚に対応します。
 肺の中の動脈と静脈は情愛ではなく、呼吸は知覚と思考ではなく、対応するものであることは正しく知っておかなければなりません。というのは対応して、すなわち、同期的に働くからです——同様に心臓と肺は愛と理解力ではなく、対応するものであり、対応するものなので、一つが他のものの中に見られることができます。
 解剖学から肺のすべての構造を知った者は、それらを理解力と比較するなら、理解力がそれ自体から何も働かず、それ自体から知覚も、考えもせず、すべては愛のものである情愛からであることをはっきりと見ることができます。理解力の中あるものとは、知ろうとし、理解しようとし、理解したことを見ようとする情愛です(それらについては前に扱いました)。というのは、肺のすべての状態は心臓からの血に、また大静脈と大動脈に依存し、そして気管支の枝の中で行なわれる呼吸はそれらの状態にしたがって存在するようになるからです。なぜなら、血の流入が止まるとき、呼吸は止まるからです。理解力と比較された肺の構造から、それに対応するさらに多くのことを示すことができますが、解剖学の知識はわずかな者にしか知られておらず、また何らかのものを未知のものによって説明し、確認することは、物事を不明瞭とするので、それゆえ、これらについてこれ以上多くのことを言うことは許されません。
 肺の構造について私に知られたことから、私は、愛が自分の情愛によってそれ自体を理解力に結合させること、理解力がそれ自体を何らかの愛の情愛に結合させないで、感覚的ないのちと活動的ないのちが愛のものであるようにとの目的のために愛により相互に結合されることを十分に確信しています。
 しかし、人間に二つの呼吸が、一つは霊の、もう一つは身体の呼吸があること、霊の呼吸は脳からの繊維に依存し、身体の呼吸は心臓からの血管に、大静脈と大動脈に依存することは、しっかりと知っておかなければなりません。
 さらに、思考が呼吸を生み出すことは明らかであり、愛のものである情愛が思考を生み出すこともまた明らかです。なぜなら、情愛のない思考はまったく心臓のない呼吸のようなものであり、それはありえないからです。ここから、前に言われたように、愛のものである情愛は、それ自体を理解力のものである思考に結合させることが明らかであり、これは肺の中の心臓と同様です。

神の愛と知恵

412◀︎目次▶︎414

413 (13) 知恵または理解力は、それ自体に与えられた能力から愛により高揚され、そして天界からの光のものを受け、そしてそれらを知覚することができる
 人間が知恵のアルカナを聞く時、それらを知覚することができることは前にしばしば示しました。
 人間のこの能力は推理力と呼ばれ、これは創造からそれぞれの人間にあります。
 物事を内的に理解しようとするこの能力によって、公正と公平について、そして善と真理について結論することができ、人間は獣から区別されます。そこで、このことが、理解力が高揚され、天界からの光に属するものを受け、それらを知覚することができることによって意味されることです。
 このようであることは、肺は理解力に対応するので、肺の中のある種の像の中にもまた見ることができます。肺の中に、気管支から呼吸中に空気の受け容れるものである最小の小胞にまでに続き、構成されています、その小房の物質から見ることができます。思考が対応によって一つとして働くものはこれらです。それらの小胞の物質は二重の状態の中で広げられ、縮められることができるようなものです。一つの状態では心臓ととともに、もう一つの状態では心臓からほとんど分離して——心臓と1諸の状態では、心臓だけからのものである肺動脈と肺静脈によって、心臓からほとんど分離した状態では、大静脈と大動脈からのものである気管支の動脈と静脈によって〔膨らみ、縮みます〕——これらの血管は心臓の外にあります。
 理解力が、心臓に対応するものであるプロプリウム(自己固有のもの)の愛の上に、高揚され、天界からの光を受けることができるので、このことは肺の中で起こることです——理解力がプロプリウムの愛の上に高揚される時でも、その愛から去ることはなく、その愛から世の中の何らかの名誉、称賛、利益のために、知ろうとし、そして理解しようとする情愛と呼ばれるものを引き寄せます——この何らかのものが表面のようにそれぞれの愛に付着していて、そのことから愛はその表面から輝きます。しかし、賢明な者のもとでは〔表面を通り抜け〕内部から光り輝いています。
 肺についてこれらのことを示したのは、理解力が高揚され、天界の光に属するものを受け、知覚することができることが確信されるためです。肺は完全に理解力と対応するからです。対応から見ることは、肺を理解力から、理解力を肺から見ることであり、このように両方から同時に確信することです。

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413◀︎目次▶︎415

414 (14) 愛または意志は、その配偶者をその段階の中で愛するなら、同様に高揚され、そして天界からの熱のものを知覚することができる
 理解力が天界の光の中に高揚され、その光から知恵を吸収することができることは、これまでの章の中に、前にしばしば示しました——けれども、愛または意志も天界の光に属するものを、すなわち、知恵に属するものを愛するなら、等しく高揚されることができることもまたしばしば示しました——しかし、愛または意志は、名誉、称賛、または利益の何らかのものを目的としてでなく、役立ちへの愛によって、したがって自分自身のためでなく、隣人のために高揚されることができます。この愛は主により天界からしか存在せず、人間が悪を罪として避けるとき主から存在するので、それゆえ、このことによって愛または意志もまた高揚されることができ、このことよってでなければできません。
 しかし、愛または意志は天界の熱の中に高揚されます、けれども、理解力は天界の光の中に高揚されます。両者が高揚されるなら、天界の愛と知恵に属するものなので、そこに天界の結婚と呼ばれる彼らの結婚が生じます——それゆえ、愛もまた、自分の配偶者である知恵をその段階の中で愛するなら、高揚されることが言えます。
 隣人に対する主からの愛は、知恵への愛、すなわち、人間の理解力への純粋な愛です。
 このことは世の中の光と熱と同様です。熱のない光が存在し、熱のある光が存在します。熱のない光は冬の時に存在し、熱のある光は夏の時に存在します。熱と光がとともにある時、すべてのものが花咲きます。人間のもとで、冬の光に対応する光は、愛のないの知恵であり、人間のもとで夏の光に対応するの光は、愛と1諸となっている知恵です。

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414◀︎目次▶︎416

415 知恵と愛のこの結合と分離は、心臓との肺の結合の中に、あたかも映し出されたもののように見ることができます——というのは、心臓はそれ自体から送られる血から気管支の房状の小囊に結合されることができ、それ自体からでなく大静脈と大動脈からの血から結合されることができるから。このことによって身体の呼吸は霊の呼吸から分離されることができます。しかし、心臓だけからの血が働く時、呼吸は分離されることができません。
 さて、思考は対応によって呼吸と一つとして働くので、呼吸に関する肺の二重の状態からもまた、人間は他の者との交わりの中で考え、考えから話し、行動することができることと、交わりの中にいないとき、すなわち、名声を失う恐れがないときに、考え、考えから話し、行動することは異なっていることが明らかです。というのは、その時、神、隣人、教会の霊的なものに反して、道徳と市民の事柄に反して考え、話すことができ、そしてまた、盗み、復讐し、冒涜し、姦淫して、それらに反して行動することもできるから——しかし、名声を失う恐れのある交わりの中では、まったく霊的な人間のように話し、語り、行動することができます。
 これらから、愛または意志は、そして理解力は、その段階の中で知恵を愛するかぎり、同様に高揚され、天界の熱に属するもの、すなわち、愛に属するものを知覚することができ、それらを愛さないなら、分離されるようにできることを明らかにすることができます。

神の愛と知恵

415◀︎目次▶︎417

416 (15) そうでなければ、愛または意志は、それ自体と一つとして働くように、知恵または理解力をその高揚から引き戻す
自然的な愛があり、霊的な愛があります。霊的な愛と同時に霊的な愛の中にいる者は理性的な人間です。しかし、まったく霊的な人間のように理性的に考えることができても、自然的な愛だけの中にいる者は理性的な人間ではありません。というのは、自分の理解力を天界の光にまでしたがって知恵にまで高揚させても、それでも、知恵に属するもの、すなわち、天界の光に属するものは、彼の愛に属するものではないから。確かに彼の愛がこのことを行ないますが、名誉、称賛、利益への情愛からです。けれども、その高揚からこのようなものを受けないことを知覚するとき、それは自分の自然的な愛から自分自身について考える時に生じますが、その時、それら天界の光に属するもの、すなわち、知恵に属するものを愛しません。それゆえ、その時、愛と一つとして働くように、理解力をその高所から引き戻します。
例として、理解力が高揚から知恵の中にある時、愛は、何が公正か、何が誠実か、何が貞潔か、それどころか、何が純粋な愛かを見ます。自然的な愛はこのことを、天界の光の中で、理解しようとし、熟考しようとする自分の能力によって見ることができ、それどころか、それらを道徳的で同時に霊的な美徳として、話し、語り、述べることができます。
しかし、理解力が高揚の中にない時、愛が単に自然的なものであるなら、その愛はそれらの美徳を見ないで、公正に代わって不正を、誠実に代わって欺瞞を、貞潔に代わって好色を、そうしたものなどを見ます。その時、自分の理解力が高揚の中にあったときに話したそれらのことについて考えるなら、それらを嘲笑し、それらは自分には人々の心を捕えるために役に立つだけのものである、と考えます。
これらから、愛は配偶者である知恵をその段階の中で愛さないなら、愛と一つとして働くように、その高揚から引き戻すことを、どのように理解しなくてはならないか明らかにすることができます。
愛が、知恵を愛するなら、その段階の中で高揚されることができることは前に見られます(414番)。

神の愛と知恵

416◀︎目次▶︎418

417 さて、愛は心臓に、そして理解力は肺に対応するので、前述のことが、したがって、どのようにして理解力はプロプリウムの愛の上に、知恵の中に高揚されることができるか、なおまた、どのようにして理解力は、愛が単に自然的であるなら、その愛から高揚から引き戻されるか、それらの対応から確認されることができます。
 人間に二重の呼吸があり、一つは身体の、もう一つは霊の呼吸です。これらの二つの呼吸は分離されることも結合されることもできます。単に自然的な人間のもとで、特に偽善者のもとでは分離されます。しかし、霊的な人間や誠実な人間のもとで分離されることはまれです——それゆえ、理解力が高揚され、ここから知恵に属する多くのものが記憶の中にとどまっている単に自然的な人間と偽善者は、集まりの中で、記憶からの思考から賢明に話すことができます。しかし、集まりの中にいないとき、記憶からでなく自分の霊から、このように自分の愛から考えます。
 さらにまた、思考と呼吸は対応して働くので同様に呼吸します。
 肺の構造は、心臓からの血から、また心臓外の血から呼吸することができるようなものであることは前に示しました。

神の愛と知恵

417◀︎目次▶︎419

418 知恵が人間をつくる、とは一般の見解です。それゆえ、ある者が賢明に話し、教える、と聞くとき、彼をそのようなものである、と信じます。それどころか、その時、その者自身が自分をそのように信じています。集まりの中で話し、教えるとき、記憶から、またその者が単に自然的であるなら、名誉、称賛、また利益への情愛である自分の愛の表面から考えるからです。けれども、同じ者がただひとりでいるとき、自分の霊の内的な愛から考え、その時、賢明に考ず、時々は狂って考えます。
 これらから、だれも賢明に話すことからでなく、彼の生活から、すなわち、生活から分離した賢明な話し方からでなく、生活に結びついた知恵のある話しから判断されることを明らかにすることができます。生活によって愛が意味されます。愛がいのち(生活)であることは、前に示しました。

神の愛と知恵

418◀︎目次▶︎420

419 (16) 愛または意志は、1諸に高揚されるなら、理解力の中で清められる
 人間は出生から自分と世以外に愛しません。なぜなら、彼の目の前に他のものは見られず、またここから彼の心の中に他のものは存在しないからです。またこの愛は身体的な自然的なものであり、物質的なものと呼ばれることができます。さらに、その愛は両親のもとの愛により天界の愛から分離されることによって不純なものにされます。
 この愛は、人間に理解力を天界の光の中へ高揚させる能力があり、その愛が理解力と1諸に知恵の中に高揚されることができ、そしてどのように生きるべきか知ることができないなら、自分の不純から分離されることはできません。
 理解力によって、愛は、すなわち、人間は、愛を不潔にし、汚す悪が何であるかを見ます。その愛を罪として避け、退けるなら、その悪に反するものである天界的なものすべてを愛することもまた見ます——なおまた、その悪を罪として避け、退けることができる手段も見ます。このことを愛は、すなわち、人間は、自分の理解力を知恵のもととなる天界の光の中へ高揚させる能力の使用によって見ます。
 愛が天界を第一の位置に置き、世を第二の位置に置き、同時に主を第一の位置に置き、自分自身を第二の位置に置く時、それだけ愛は自分の不潔なものから浄化され、清められます。すなわち、それだけ天界の熱の中に高揚され、理解力が含まれる天界の光に結合され、善と真理の結婚が、すなわち、愛と知恵の結婚と呼ばれる結婚が行なわれます。
 だれかが盗みと欺瞞を避け、退ければ退けるほど、それだけ誠実、正直、公正を愛し、さらにだれかが復讐と憎しみを避け、退ければ退けるほど、それだけ隣人を愛し、例えばまた、だれかが姦淫を避け、退ければ退けるほど、それだけ貞潔を愛すること、またその他のことを、だれもが理解力で知り、理性的に見ることができます。それどころか、誠実、正直、個性、隣人に対する愛、貞潔の中に、また天界の愛への他の情愛の中に、天界のものである何かが、主のものである何かがあることを、それらの反するものを追い払うよりも前には、ほとんど何も知りません。
 反するものを追い払う時、それらの情愛の中にいて、それらから知り、それらことを見ます。その間、割り込むおおいのようなものがあり、それは天界の光を愛にまで通過させますが、配偶者である知恵をその段階の中で愛さないので、その光を受けません、それどころか、おそらく、その知恵が高揚から戻る時、非難し、叱責します。それでも、自分の理解力の知恵は、名誉、称賛、または利益に手段として役立つことができる、と誘惑されています。しかし、その時、自分自身と世を第一の位置に、主と天界を第二の位置に置いています。第二の位置に置かれるものは、どれだけ仕えるかによって、それだけ愛され、仕えないなら、放棄され、追い払われます。もし死の前でないなら、死後にそうなります。
 そこでこれらから、愛または意志は、1諸に高揚されるなら、理解力の中で清められる、という真理が明らかです。

神の愛と知恵

419◀︎目次▶︎421

420 類似のものが肺の中に映し出されており、前に言われたように、その動脈と静脈は愛のものである情愛に対応し、その呼吸は理解力のものである知覚と思考に対応しています。
 心臓の血は肺の中で不消化物からそれ自体清めること、吸い込んだ空気からもまたそれ自体に適切なもので養うことは、多くの観察から明らかです。
 「血は肺の中で不消化物からそれ自体を清めること」は、食物とぶどう酒から集められた乳糜に満たされ静脈から流れ入る血液だけでなく、他の者から鼻のにおいで知覚される湿った蒸発気からも、そのようにまた左心室に流れ戻る量の減った血からも明らかです。
 「血は吸い込んだ空気からそれ自体に適切なもので養うこと」は、草地、花園、木々から絶えず流れ出る莫大な量のにおいや発散物から、また地、川、池からの水に溶けた莫大な量の塩分から、また空気を満たしている人間や動物から莫大な量の息や発散物から明らかです。
 これらのものが肺の中に吸い込まれた空気ととともに流れ入ることは、否定されることができません、このことが否定されることができないので、血がここから彼に役立つようなものを引きつけないはずもありません。役立つようなものは、彼の愛の情愛に対応しています。ここから、小囊、すなわち肺の最内部には、小さい開口部をもった多くの豊富な小静脈があり、それらはこれらのものを取り入れ、さらに、左心室に流れ戻る血が動脈に変わり、鮮やかになります。これらのことから、血は異質のものからそれ自体を清め、同質のものによりそれ自体を養うことが確信されます。
 肺の中の血が心の情愛に対応してそれ自体を清め、養うことは、まだよく知られていませんが、霊界の中できわめてよく知られています——というのは、天界にいる天使は、もっぱら彼らの知恵の愛に対応するにおいを楽しみますが、地獄の霊は、もっぱら知恵に反する愛に対応するにおいを楽しむから。後者のにおいは悪臭です、しかし、前者のにおいは芳香です。
 世の人間は彼らの愛の情愛との対応にしたがった類似のもので自分の血を満たしていることが、ここからいえます。というのは、人間の霊が愛するものを、血は対応にしたがってほしがり、そして呼吸で収得するからです。
 この対応から、人間は、もし知恵を愛するなら自分の愛に関して清められ、もしそれを愛さないなら汚されることになります。人間のすべてのものもまた知恵のものである真理によって浄化が生じ、知恵の真理に反した虚偽によって人間のすべてのものの汚れが生じます。

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420◀︎目次▶︎422

421 (17) 愛または意志は、一諸に高揚されないなら、理解力の中で、また理解力から汚される
愛が高揚されないなら(前の419, 420番に言われたように)、その時、不潔の中にとどまり、不潔の中にとどまるとき、復讐、憎しみ、欺瞞、冒涜、姦淫のような不潔なものを愛するからです。というのは、その時、これらのものは欲望と呼ばれる彼の情愛であり、仁愛、公正、誠実、真実、貞潔に属するものを退けるからです。
愛は理解力の中で汚される、理解力により汚される、と言われます。「理解力の中で汚される」のは、愛が特にこれらにより影響される時です。「理解力により汚される」のは、愛が知恵に属するもの自分のしもべとするような時であり、さらにまた、知恵に属するものを歪曲し、虚偽化し、不純化する時です。
これらものに対応した心臓のまたは肺の中その血の状態については、前に言われたこと(420番)以上に多くのことを言う必要はありません——血の浄化の代わりにその汚すことが行なわれ、天界の中で行なわれるとまったく同じように地獄の中で、芳香からの血の滋養物に代わって悪臭からの滋養物が取り入れられるだけのことです。

神の愛と知恵

421◀︎目次▶︎423

422 (18) 理解力の中で知恵により清められた愛は、霊的に、また天的になる
 人間は自然的に生まれていますが、天界の光の中へ理解力が高揚し、愛を1諸に天界の光の中へ高揚させるのにしたがって、霊的に、また天的になります。そのとき、春の光の中と同時に春の熱の中にあるエデンの園のようになります。
 理解力が、霊的に、また天的になるのではなく、愛がなります。愛がなる時、自分の配偶者である理解力もまた霊的に、また天的にするのです。愛は、理解力が教え、示す知恵の真理にしたがった生活から霊的に、また天的になります——愛は自分自身にそれを理解力によって学ぶのであり、自分自身からではありません。なぜなら、愛は、真理を知らないなら、自分自身を高揚させることができず、この真理は高揚されて、照らされた理解力によらないなら知ることができないからです。またその時、その真理を行なうことによって真理を愛すれば愛するほど、それだけ高揚されます——なぜなら、理解することと意志することは、すなわち、話すことと行なうことは別ものであるからです。
 知恵の真理を理解し、話しますが、しかしそれでも、それを欲せず、行なわない者がいます——このように、理解し、話す光の真理は、愛がそれを行なう時、高揚されるのです。このようであることを、人間は理性だけから見ることができます。知恵の真理を理解し、話す時に、それに反して生活する、すなわち、その時、それに反して欲し、行なう人間とは何なのでしょうか? 
 知恵により浄化された愛は霊的に、また天的になることは、人間に自然的、霊的、天的と呼ばれるいのち(生活)の三つの段階があり、人間は一つの段階から他の段階へと高揚されることができるからです。それらについて本書の「第三部」にあります——しかし、知恵だけによるのではなく、それにしたがった生活によって高揚されます、人間の生活(いのち)は彼の愛であるからです。それゆえ、知恵にしたがって生活すればするほど、それだけその知恵を愛します。それゆえ、自分自身を罪である汚れから清めれば清めるほど、このことを行なえば行なうほど、それだけ知恵にしたがって生活し、それだけ知恵を愛します。

神の愛と知恵

422◀︎目次▶︎424

423 理解力の中の知恵により清められたは霊的に、また天的になることは、心臓と肺との対応によっては見られることはできません、だれも肺を呼吸の状態の中に保つ血がどんなものか見ることができないからです。血は不潔なもので満ちることができ、それでもこれはきれいな血と区別されません。単に自然的な人間の呼吸もまた霊的な人間の呼吸と同じように見られます——それでも、天界の中で十分に区別されます、というのは、そこのだれもが愛と知恵の結婚にしたがって呼吸するから。それゆえ、天使は彼らの結婚から知られるように、呼吸からもまた知られます——それが、その結婚の中にいない者が、天界の中にやって来る時、胸の苦悶が起こり、その呼吸は死の苦悶の中にいる者のようになる理由です。それゆえ、そこから、真っ逆さまに自分自身を投げ落とし、同じような呼吸の中にいる者のもとに来るまでその苦悶はおさまりません。というのは、その時、対応によって同じような情愛の中に、またここから同じような思考の中にいるからです。
 これらから、霊的である者は、ある者により霊魂精気と呼ばれる、さらに純粋な血が清められるものであること、人間が愛と知恵の結婚の中にいればいるほど、それだけ清められることを明らかにすることができます。その結婚に最も近く対応するものは、そのさらに純粋な血です。この純粋な血が身体の血の中に流入するので、身体の血がそれによって清められることがいえます。
 愛が理解力の中で汚されている者のもとではこれと逆です。
 しかし、いま述べたように、だれも血を観察することによってこのことを見つけ出すことはできませんが、情愛は血に対応するので、愛の情愛を観察することによってできます。

神の愛と知恵

423◀︎目次▶︎425

424 (19) 理解力の中で、また理解力により汚された愛は、自然的に、また感覚的になる
 霊的な愛から分離した自然的な愛は、霊的な愛と正反対です——その理由は、自然的な愛は自己愛と世俗愛であり、霊的な愛は主への愛と隣人愛であるからです。自己と世への愛は下方と外側へ向かって眺め、主への愛は上方と内側へ向かって眺めます。それゆえ、自然的な愛が霊的な愛から分離される時、人間のプロプリウムから高揚されることができず、それに浸されて、それを愛するかぎり、それにくっついてとどまります。その時、理解力が上昇して、天界の光から知恵に属するようなものを見ても、その知恵を引き戻し、それをプロプリウムの中で自分自身に結合させ、そこにあるいはその知恵に属するものを投げ返し、あるいはそれらを虚偽化し、あるいは名声のためにそれを話すために理解力の周囲に置きます。 
 自然的な愛が段階によって上昇し、霊的に、また天的になることができるように、そのようにまた段階によって下降し、感覚的に、物質的になることができます。役立ちの愛からでは決してなく、ただ自己愛から支配を愛すれば愛するほど、それだけ下降し、この愛が悪魔と呼ばれるものです。
 その愛の中にいる者は、霊的な愛の中にいる者と同じように話し、行動することができますが、その時、記憶からか、あるいは天界の光の中へ高揚させた理解力からそうできるのです。
 しかし、それでも、それらの話し、行なうものは、比べれば、表面は美しく見えるが内部はすっかり腐っている果実のようなものです。または、殻は損なわれていないように見えますが、内部はすっかり虫に食われたアーモンドのようです。
 これらのものは霊界の中で幻想と呼ばれ、そこではセイレーンと呼ばれる妖婦は、その幻想によって、自分自身に美をまとわせ、美しい衣服で飾りますが、それでも、幻想が取り除かれると亡霊のように見られ、自分自身を光の天使とする悪魔のようでもあります。なぜなら、その物質的な愛が高揚から自分の理解力を引き戻すとき、そのことはひとりでいるときに生じ、またその時、自分の愛から考え、その時、自然を選んで神に反して、世を選んで天界に反して、また地獄の虚偽と悪を選んで教会の真理と善に反して、このように知恵に反して考えるからです。
 これらから物質的な人間と呼ばれる者がどんなものであるか明らかにすることができます。というのは、理解力に関して物質的ではなく、愛に関して物質的である、すなわち、集まりの中で話している時、理解力に関して物質的ではありませんが、霊の中で自分自身と話すとき物質的であるからです。霊の中でこのようなものであるので、それゆえ、死後、愛と同じく理解力の両者に関して、物質的と呼ばれる霊になります。その時、世の中で自己愛から極度に支配する愛の中にいて、同時に理解力を他の者よりも高揚させた者は、身体に関してエジプトのミイラのように、心に関して粗雑で愚かに見えます。今日、世の中で、この愛が本質的にこのようなものであることだれが知っているでしょうか? 
 しかしそれでも、自分自身のための役立ちの愛からでなく、公共の善のための役立ちへの愛からの支配愛が存在します。しかし、人間はそれとこれとをほとんど区別することができませんが、それでも、それらの間に天界と地獄の間のような相違があります。これらの二つの支配愛の間の相違は、著作『天界と地獄』(551―565番)に見られます。

神の愛と知恵

424◀︎目次▶︎426

425 (20) それでも、理性と呼ばれる理解する能力と自由と呼ばれる行動する能力は残る
 人間にあるこれらの二つの能力については、前に扱いました(264―267番)。
 それら二つの能力は、自然的なものから霊的なものになることができるように、再生できるように、人間にあります。なぜなら、前に言われたように、霊的になるもの、再生するものは人間の愛であり、何が悪で何が善か、ここから何が真理で何が虚偽か理解力によって知ることがないなら、霊的になること、すなわち、再生されることはできないからです——これらを知るとき、一方またはもう一方を選ぶことができます。善を選ぶなら、その理解力によって手段について教えられ、その手段よって善にやって来ることができます。
 人間は善にやって来ることのできるすべての手段を備えられています。
 「推理力から」それらの手段を知り、理解します。「自由から」それらを意志し、行ないます。さらにまた、自由は、それらを知り、理解し、考えることを意志することです。
 「霊的なものまたは神学は理解力を超えている、それゆえ、理解しようとしないで信じなければならない」という教会の教えから信じる者は、推理力と自由と呼ばれるこれらの能力について何も知りません。これらの者は推理力と呼ばれる能力を否定することしかできません。そして、教会の教えから、だれも自分自身から善を行なうことはできません、それゆえ、「救いのための何らかの望みから善を行なってはならない」と信じる者は、この宗教の原理から、人間にある両方の能力を否定することしかできません。それゆえ、自分自身にそれらを確信した者は、死後、自分の信念にしたがって両方のものを剥奪され、天界の自由の中にいることができたであろうことに代わって地獄の自由の中に、推理力から天使の知恵の中にいることができたであろうことに代わって地獄の狂気の中にいます。
 また、驚くべきことですが、悪を行なう自由は隷属であり、虚偽を考える理性は理性ではないことを知らないで、両方のこれら能力が、悪を行なうことの中に、そして虚偽を考えることの中に存在すること認めています。
 しかし、自由と推理力という二つの能力は、人間にあるのではなく、人間のもとの主のものであること、人間のもののように所有物とされることができないこと、なおまた、彼のもののように存在することができないで、常に彼のもとの主のものであること、それでも、決して人間から取り去られないことは、よく知っておかなければなりません——その理由は、人間はそれらがなくて救われることができないから、なぜなら、前に言われたように、それらなしに再生されることができないからです。それゆえ、教会から、自分自身から真理を考えることができず、善も自分自身から行なうことができないことが教えられます。
 しかし、人間は、自分自身から真理を考え、自分自身から善を行なう、としか知覚しないので、自分自身からかのように真理を考え、自分自身からかのように善を行なう、と信じなければならないことはきわめて明らかです——なぜなら、このことを信じないなら、その時、真理を考えず、善も行なわず、こうして彼に宗教は何もないか、あるいは自分自身から真理を考え、善を行なうと思い、その時、神性を自分自身に帰してしまうからです。
 人間が真理を考えることと善を行なうことを自分自身からかのようにしなくてはならないことは、『新しいエルサレムのための教え 生活について』の最初から最後までに見られます。

神の愛と知恵

425◀︎目次▶︎427

426 (21) 霊的な愛と天的な愛は、隣人に対する愛と主への愛である。自然的な愛と感覚的な愛は、世俗愛と自己愛である
 前に示されたように、隣人に対する愛によって役立ちへの愛が意味され、主への愛によって役立ちを行なう愛が意味されます。
 この愛が霊的、また天的である理由は、役立ちへの愛であるからであり、それらの愛から役立ちを行なうことは人間のプロプリウムの愛から分離しているからです。なぜなら、霊的に役立ちを愛する者は、自分自身ではなく、自分自身の外の他の者に目を向け、その善に動かされるからです。
 この愛に自己と世への愛は反しています、なぜなら、これらの愛は他の者のための役立ちでなく、自分自身のための役立ちに目を向けるからです。このことを行なう者は、神的な秩序をひっくり変えし、そして、主のところに自分自身を、天界のところに世を置きます。ここから、主を後ろにして、天界を後ろにして目を向けます。それらを後ろにして目を向けることは、地獄に目を向けることです——これらの愛について多くのものが前に見られます(424番)。
 しかし、人間は自分自身のために役立ちを行なう愛のようには、役立ちのために役立ちを行なう愛を感じないし、知覚しません。ここから、役立ちを行なう時、それらを役立ちのためにまたは自分自身のために行なうのかどうかもまた知りません。
 しかし、悪を避ければ避けるほど、それだけ役立ちのための役立ちを行なうことを知らなければなりません。なぜなら、悪を避けるほど、それだけ自分自身から役立ちを行なわずに、主から行なうからです——というのは、悪と善は正反対のものであり、それゆえ、人間が悪の中にいなければいないほど、それだけ善の中にいるから。だれも二人の主人に同時に仕えることはできないので、だれも同時に悪と善の中にいることはできません。
 これらのことが言われたのは、行なう役立ちが、役立ちのためのものであるか、または自分自身のためのものであるかどうか、すなわち、役立ちが霊的なものであるか、あるいは単なる自然的なものであるかどうか、人間は感覚とともに知覚しないとはいえ、それでも、悪が罪であるかあるいは罪でないと考えるかによって、そのことを知ることができるということが知られるためです——罪と考え、またさらにそれを行なわないなら、その時、行なう役立ちは霊的です。この者が嫌悪から罪を避ける時もまた、役立ちのための役立ちの愛を感覚とともに知覚し始めます、そしてこのことはその役立ちの中の霊的な楽しさからです。

神の愛と知恵

426◀︎目次▶︎428

427 (22) 仁愛と信仰は、またそれらの結合は、意志と理解力と、またこれらの結合と同様である
 天的な愛と霊的な愛の二つの愛があり、それらにしたがって天界は区別されます——天的な愛は主への愛であり、霊的な愛は隣人に対する愛です。
 これらの愛は、天的な愛は善への愛であること、霊的な愛は真理への愛であることによって区別されます。というのは、天的な愛の中にいる者は善への愛から役立ちを行ない、霊的な愛の中にいる者は真理への愛から役立ちを行なうからです。
 天的な愛は知恵と結婚し、霊的な愛は理解力と結婚します。というのは、善から善を行なうことは知恵のものであり、真理から善を行なうことは理解力のものであるから。それゆえ、天的な愛は善を行ない、霊的な愛は真理を行ないます。
 これら二つの間の相違は、次のことよってでしか記述されることができません。天的な愛の中にいる者は、記憶でなく、自分のいのち(生活)に刻み込まれた知恵をもっています。それが、神的な真理について話さないで、それらを行なうことの理由です。しかし、霊的な愛の中にいる者は、自分の記憶に刻み込まれた知恵をもっています。それゆえ、神的な真理について記憶の中の原理から話し、そして、それらを行ないます。天的な愛の中にいる者は、自分のいのち(生活)に刻み込まれた知恵をもっているので、それゆえ、どんなことでも聞くと、直ちに、真理であるか、あるいはないか知覚します。真理かどうか質問されるとき、ただ、「そうである」、あるいは「そうではない」と答えます。
 これらの者が、次の主のことばによって意味される者です、

あなたがたのことばは、そうです、そうです、いいえ、いいえ、でありなさい(マタイ5・37)。

 またこのようであるので、「信仰とは何か? 知恵ではないのか? 仁愛とは何か? 行なうことではないのか?」と言って、信仰について何らかのものを聞こうとしません。また彼らは、自分たちに、信仰とは理解されないことを信じることである、と言われるとき、「この者は気が狂っている」と言って、身を背けます。
 これらの者は第三の天界の中にいて、すべてに最も知恵があります。彼らは世で、神的なものを聞くと直ちに生活に当てはめ、悪を地獄のもののように追い払い、主だけを崇拝して、このようなものを獲得したのです。これらの者は無垢の中にいるので、他の者には幼児のように見えます。知恵の真理については何も話さず、彼らの談話の中に高慢からものは何も内在しないので、単純な者にも見えます。しかし、それでもだれかの話を聞く時、音声から彼の愛のすべてのものを、話し方から彼の知性のすべてのものを知覚します。
 これらの者は主から愛と知恵の結婚の中にいます。彼らは天界の心臓に対応していますが、そのことについては前に述べました。

神の愛と知恵

427◀︎目次▶︎429

428 けれども、隣人に対する愛である霊的な愛の中にいる者は、自分のいのちの(生活)に刻み込まれた知恵はもたないで、刻み込まれた知性をもっています。なぜなら、知恵は善への情愛から善を行なうことですが、知性は真理への情愛から善を行なうことであるからです。
 これらの者は信仰とは何かも知りません——信仰のことが言われるなら、真理と理解し、仁愛のことが言われるとき、真理を行なうことと理解します——信じられなければならない、と言われるとき、これはむだな話し方であると言い、「だれが真理を信じないのか?」と言います。彼らは真理を天界の自分の光の中で見ているので、このことを言うのです。それゆえ、見ないものを信じることを、単純あるいは愚かと呼びます。これらの者が、天界の肺を構成します、そのことについてもまた前に述べました。

神の愛と知恵

428◀︎目次▶︎430

429 けれども、霊的な自然的な愛の中にいる者は、自分のいのちの(生活)に刻み込まれた知恵も知性ももっていないで、みことばからの信仰の何らかのものを、これが仁愛に結合しているかぎり、もっています。これらの者は、仁愛とは何か、信仰が真理であるどうかも知らないので、知恵と知性の中にいる天界の中にいる者の間にいることはできず、単なる知識の中にいる者の間にいます。
 しかし、悪を罪として避けた者は、最も低い天界の中に、そこの夜の月の光に似た光の中にいます。
 けれども、知らない者の信仰〔盲目の信仰〕を確信しないで、同時に何らかの真理への情愛の中にいた者は、天使から教えられて、真理の受け入れにしたがって、そしてその真理にしたがった生活を送って、霊的な愛の中に、ここから知性の中にいる者の社会の中に高揚されます——これらの者は霊的になり、残りの者は霊的な自然的なままにとどまります。
 けれども、仁愛から分離した信仰の中に生きた者は、荒野に追放されて、遠ざけられます。天界の中のすべての者がいる何らかの善の中に、ここから善と真理の何らかの結婚の中にいないからです。

神の愛と知恵

429◀︎目次▶︎431

430 この「第五部」の中で愛と知恵について言われたすべてのことは、仁愛の代わりに霊的な愛が意味され、信仰の代わりに真理が意味されるなら、仁愛と信仰についても言われることができ、その真理から知性があります。
 意志は愛の容器であり、そして理解力は知性の容器であるので、意志と理解力と言うのも、あるいは愛と知性と言うのも同じです。

神の愛と知恵

430◀︎目次▶︎432

431 ここに私は次の注目すべき出来事(メモラビリア)を付け加えます。
 役立ちへの情愛から役立ちを行なう天界の中のすべての者は、その交りから、他の者たちよりも賢明であり、幸福であるものを引き寄せています。そしてそこでは、彼らにとって役立ちを行なうことは、自分の職務の働きの中で、誠実に、正しく、公正に、忠実に行なうことです。
 彼らは、このことを仁愛と呼び、そして礼拝のものである崇拝を仁愛のしるしと呼び、また他のものを義務と善行と呼んでいます——だれもが誠実に、正しく、公正に、忠実に、自分の職務の働きの中で行なう時、公共のものは善の中にとどまり、存続し、このことが主の中にいることである、と言っています。主から流入するものはすべて役立ちであり、部分から共通のものの中に、共通のものから部分に流入するからです。
 部分とはそこの天使であり、共通のものとは彼らの社会です。

神の愛と知恵

431◀︎目次▶︎おわり

妊娠による人間の最初の段階はどんなものであるか

432 妊娠後の子宮の中での人間の最初の段階または発端はどんなものか、見ることができないので、だれも知ることはできません。そしてまた、自然的な光によって視覚の中に落ち込まない霊的な実体からです。
 さて、世の中のある者は、父からの精子による妊娠の中に、人間の最初の段階に心を向け、探求するような者です。また多くの者は、人間は始まりであるその最初からその完全さの中にあり、その後、大きくなって完成する、という誤りの中に落ち込んでいるので、始まりまたは最初に、その形の中でそれがどんなであるか、私に示されました。
 このことが私に天使により示されましたが、それは彼らに主により啓示されたものです——彼らはそれを自分たちの知恵のものとし、そして知っていることを他の者に伝達することは彼らの知恵の楽しさであるので、それゆえ、許しが与えられて、類型の中に、人間の最初の形を私の目の前に天界の光の中で示したのです。それは次のようなものでした——

 脳の最小の映像のようなものが見られ、そこには前方に何らかの顔が付属物なしにはっきりと描かれていた。この最初の段階のものは、突出した上の部分の中は、接触する小球または小球体からの合成された構造であり、それぞれの小球体はさらに微小なものからの合成された構造であった。そのそれぞれは同様に最も微小なものから合成された構造であり、このように三段階であった。前部のくぼんだ部分に顔を描いたものが見られた。突出した部分は透明なごく薄い膜または脳膜でおおわれていた。突出した部分は、最小の形の脳の類型であって、最大の形の脳が二つの半球に分かれているように、あたかも隆起するかのように、さらにまた二つに分かれていた。私は、隆起は愛の容器であり、左の隆起は知恵の容器である、と言われた。驚くべき接合によって配偶者や同居仲間のようであった。
 他にも天界の光で照らされて、この小さい(小)脳の構造の内部は位置と流動に関して天界の秩序と形の中にあり、その構造の外部はその秩序と形に関して正反対であったことを示された。
 これらが見られ、示された後に、天使は言った。天界の秩序と形の中にあった二つの内的な段階は主からの愛と知恵の容器である。天界の秩序と形に関して正反対であった外的な段階は地獄の愛と狂気の容器である。人間は遺伝の欠陥から、すべての種類の悪の中に生まれているのがその理由である。その悪はそこの最外部の中に住んでいる。この欠陥は、〔これまで〕述べたように、主からの愛と知恵の容器である上の段階が開かれないなら、取り去られない。
 また、愛と知恵は人間そのものであり、というのは、愛と知恵はその本質では主であるから、また人間のこの最初の段階は容器であるので、ここからその最初の段階の中に絶え間ない人間の形の中への努力が、さらにまたその形を引き続いてまとおうとする努力のあることがいえる。

                                         終わり