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神の愛と知恵 361

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361 それぞれの人間に、それら二つのもの、意志と理解力があり、互いの間に愛と知恵のような区別があることは、世の中で知られ、また知られていません。普遍的な知覚からは知られますが、思考からは知られません、まして記述されたものからは知られていません。というのは、だれが、普遍的な知覚から意志と理解力が人間のもとの区別された二つのものであることを知らないでしょうか? だれでも、「この者はよく意志するが、よく理解しない。しかし、この者はよく理解するが、よく意志しない。私は、よく理解し、よく意志する者を愛するが、よく理解し、悪く意志する者を愛さない」と言うこと聞き、また他の者に言うこともできる時、それを知覚しているからです——しかし、意志と理解力について考えるとき、それらを二つのものとし、区別しないで、混同します。その理由は、思考が身体の視覚と共有するからです。まして書くとき、意志と理解力が区別された二つのものであることは理解されていません。その理由は、その書く時、思考が人間のプロプリウム(固有のもの)である感覚的なものを共有するからです。ここから、ある者はよく考え、話すことができます、しかしそれでも、よく書くことができません。これは女性に普通のことです。他の多くの事柄でも同様です。
 だれが普遍的な知覚から、よく生きる者は救われ、悪く生きる者は罪ありとされることを知りませんか?なおまた、よく生きる者は天使の間にやって来て、そこで人間のように見、聞き、話すことを知りませんか?そのように、公正から公正を、そして正義から正義を行なう者に良心があること知りませんか?
 しかし、普遍的な知覚からそれるなら、それらを思考に従属させるなら、その時、良心とは何か知らず、霊魂は人間のように見、聞き、話すことができることも知らず、生活の善は貧しい者に与えることであるとしか知りません。そして、あなたがそれらについて思考から書くなら、あなたはそれらを外観と欺きによって、そして音声だけで、実際の事柄を何も含まない言葉によって論証します。
 ここから、多くのことを考えた多くの学者は、書いた者はさらに、自分自身のもとの普遍的な知覚を損ない、曇らせ、それどころか破壊すらしました。単純な者は、善と真理とは何か、他の者にまさって自分自身が賢明であると信じている者よりも、はっきりと知ります。その普遍的な知覚は天界からの流入であり、思考の中へ視覚までも落ち込みますが、普遍的な知覚から分離した思考は、視覚と〔人間の〕プロプリウムから空想の中に落ち込みます。
 このようであることを、あなたは経験から学ぶはずです。普遍的な知覚の中にいる者に、何らかの真理を言ってみなさい、彼は知るでしょう。神から、また神の中で私たちは存在し、生き、動かされる、と言ってみなさい、彼は知るでしょう。神は人間のもとの愛と知恵の中に住む、と言ってみなさい、彼は知るでしょう。さらに、意志は愛の容器であり、また理解力は知恵の容器である、と言い、少し説明してみなさい、彼は知るでしょう。神は愛そのものと知恵そのものである、と言ってみなさい、彼は知るでしょう。良心とは何か質問してみなさい、彼は言うでしょう——しかし、同じことを、普遍的な知覚から考えず、世からの視覚を通して得た原理からあるいは観念から考えた学者に言ってみなさい、彼は知らないでしょう。その後、だれがさらに賢明か熟考してみなさい。